最後の番長

 

1990年代後半、情報通信手段の急速な発達により、社会における人間関係は濃密なものから次第に

広汎・浅薄なものへと変化を遂げていった。それに従い、学校生活においても極端に濃密かつ厳格な

人間関係は忌避されるようになった。

そのような社会情勢の中で、だれにも気付かれぬまま静かに終焉を迎えようとしている制度があった。

「番長制」である。

 ここ渋谷区立女々川高校においても、状況は同様であった。生徒たちは遊びや部活に精を出し、

悪いやつらは外で悪さをする。校内で何かやらかしても、それは「番を張る」という意味を持った行為

ではない。

 そのような中、一人の男が入学してきた。

男の名は漢川雄喜(おとこがわ おすのぶ)。初代番長・漢川雄昭の第7子である。彼は番長制再興の

大望に燃えていた。

雄喜は次々と校内の実力者に近付き、人脈を広げていった。そして2年生の春、校内の片隅で細々と

命脈を保っていた第14代番長で親戚の雄茂との一騎打ちに勝利し、念願の第15代番長の座についた。

 雄喜は支持母体である応援団・剣道部の協力のもと、校内でおのおの好き放題をやっていた不良

どもを一掃し、新たに「学ラン着用令」「リーゼント令」などさまざまな政策を打ち出していった。これらの

政策は番長の威権により一応の成果を納めた。

 しかし、このような番権強化の動きに反発する勢力が現れはじめた。その中心は、早くから反番的な

動きを見せていたテニス部であった。

 対立は次第に深まり、ついに校門で両者が衝突する騒動となった(校門の変)。この戦いは、校内

最大の部で随一の精強を誇る野球部の協力により、番長側の勝利となった。勢いに乗った番長は、

部室にまで攻め寄せた(第一次テニス部征伐)。

 しかし変化が起こった。「おまえらもリーゼントにするんじゃ」と介入してくる雄喜に反発し、野球部が

テニス部と連合を結んだのである(野テニ連合)。彼らは「尊会倒番」のスローガンを掲げて忘れられた

存在であった生徒会を持ち上げ、iモードを駆使した圧倒的な情報力のもと、次々と一般生徒を味方に

組み入れていった。

 このような状勢に窮した雄喜は、佐番的な態度を保っていた陸上部前部長の建言を容れ、生徒会に

校内支配の実権を返す旨を申し入れた(番政奉還)。しかし倒番派の勢いは止まらず、ついに雄喜は

番長の称号と校内800坪に及ぶ縄張りをも返還させられた(辞番納地)。ここに女々川高校の番長制は

事実上その幕を閉じた。

 佐番派の中心であった応援団は雄喜辞番の後も果敢に抵抗したが、野テニの「ボール乱れ打ち攻撃」

を受けて降伏し、部室を明け渡した。また雄喜の子分の一部は校内北端の用務員室をたまり場にしよう

としたが、これも失敗に終わった。

 雄喜はその後地元の学校に転校した。現在は卒業して某有名企業のサラリーマンをしているそうで

ある。        完

 

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