薩摩街道は福岡県の山家で長崎街道から分岐して久留米、山鹿、熊本、八代、水俣、出水を経て串木野から薩摩半島を横断して鹿児島に至る。地形的には筑紫平野から熊本平野、八代平野を抜けて八代海に出たあと九州山地、国見山地、出水山地東端の山間を通る。距離は約395km。久留米では坊津に通ずる道から坊津街道、熊本では熊本城を基点として薩摩へ通ずる道を薩摩街道、江戸方向の豊前(小倉)までの道を豊前街道と呼んでいる。時代と地域によって呼び方はいろいろあったようで広辞苑にも薩摩街道は載っていない。
 江戸時代の薩摩藩(島津)、八代藩(松井)、人吉藩(相良)、肥後藩(細川)、柳川藩(立花)、久留米藩(有馬)各藩の参勤交代の道として利用され、天正15年(1587)豊臣秀吉が九州平定に向けて薩摩(島津征伐)に軍を進めた道であり、明治10年(1877)の西南戦争時に薩摩軍が北上した道でもある。

 旧くは古代律令制国家によって都と諸国を結ぶ7つの官道が制定され、この一つ西海道は大宰府がおかれた筑前国(福岡県西部)と筑後国(福岡県南部)、豊前国(福岡県北東部と大分県北西部)、豊後(大分県)、肥前国(佐賀・長崎県)、肥後国(熊本県)、日向国(宮崎県)、大隈国(大隈半島、薩南諸島)、薩摩国(鹿児島県)、壱岐、対馬を結ぶ道で西海道諸国を統括していた。7つの官道とは東海道、東山道(中部、奥州)、北陸道、山陰道、山陽道、南海道(紀伊、四国)、西海道をいう。

西国街道
みちの旅
平成214月27日 雨のち曇り
山家から松崎へ(13km
 昨年、長崎街道から北国街道を歩いていたとき、NHKの大河ドラマ「篤姫」をみて次ぎは薩摩街道を歩こうと道筋を調べ始めた。ところが北国街道のように歴史の道調査報告書(県教育委員会発行)が揃ってなく、しかも福岡県区間は小郡、久留米、筑後、みやま、大牟田と五つの市にまたがっているので調べ終えるのに苦労し時間もかかった。結局、今年の初めに北陸道を歩き終えてから薩摩街道を歩くことになった。
 このあとゴールデンウィークにかけて好天がつづく。ジパング倶楽部の割引が効かない期間だが、「行けるときにゆく」を優先し出かけることにした。今年すでに北陸道(2泊3日)を歩いているので、薩摩街道の初回として山家から熊本まで約123kmを4泊5日で歩くことにした。

 拝島7時4分発の電車に乗り八王子、新横浜、博多へ、そして博多から鹿児島本線→吉塚、篠栗線→桂川、筑豊本線と乗り継いで筑前山家に着いたのが午後2時48分。東京は晴れ、博多は曇り、筑豊本線の冷水峠にさしかかると雨に変わり、筑前山家駅に着いたときも雨だった。強い雨ではないのでポンチョでリックを被い、傘を差して筑前山家駅を出た。


 長崎街道は筑前山家駅の手前で国道200号から分かれ旧山家宿に入る。この旧山家宿の旧道に途中から入って中茶屋跡、お茶屋(本陣)跡、旧宿駅構口の説明板をすぎ、山家宿番所跡の標示杭が立つところで長崎街道と分かれた。長崎街道は右折するが、薩摩街道はここを左折し国道200号と筑豊本線を横断し南に向かう。地形的には筑紫山地を抜けて筑紫平野の北東部を南下してゆく。

 旧山家宿をあとに黄色く実った麦畑を抜けて石櫃集落にくると追分石が立っていた。「右 肥後薩摩道」「左 豊後 秋月 日田 甘木道」と印されているという。江戸時代初頭の道標らしいが概略読むことができた。薩摩街道はこの道で良いのだ!と確認できるものとしてうれしかった。
 ここを右折し、このあと小さな集落を縫うように麦畑が一面に広がる田園地帯を抜けてゆく。馬市集落をすぎると国境石「従是北筑前国」と「従是南筑後国」が2本並んで立っていた。そして干潟集落をすぎると道脇に一里塚(碑)がひっそりと立っていて、「・・・昭和の中頃まで大きな榎の名残も見られたが、云々」と説明が添えてあった。大分自動車道のガードをくぐるとまもなく旧宿場「松崎」の町に入る。
 県道から左の小道に入って道なりに国道を横断すると松崎宿北構口跡がある。宿場の出入口に高さ約2m、縦横4mの堅固な石塁の上に物見櫓を備えた構口(かまえぐち)を設け、番士が宿場への出入監視と警備にあたっていたという。その石塁が残っている。松崎景観御触書の立て札がある家で枡形に曲がり、県道にでたところで今日はここまでとした。午後5時半だった。

 そして甘木鉄道の松崎駅から甘木駅(終点)にでて今日の宿「ホテルグランスパ アベニュー」に着いたのは午後6時すぎだった。筑紫平野の北東端に位置する甘木市中心街で甘木鉄道が基山~甘木間を走っている。背後に筑紫山地が迫っている。
                                         

    山家宿番所跡

   筑前/筑後国境石

      北構口跡

    立て札がある家
平成214月28日 晴れ
松崎から羽犬塚へ(31km
 前日少し早めに朝食をお願いできますか?と頼んでおいたので7時前に朝食をとることができた。7時半にホテルをでて、駅のコンビニで昼のおにぎりを買ってから電車に乗った。電車は一面麦畑の田園地帯を突っ切ってゆく。8時半少し前、昨日の街道筋にもどってつづきを歩く。
 すぐに旧松崎旅籠油屋の見学者用駐車場の案内が目に付いたので、対面を見ると昔風の松崎宿旅籠油屋」の建物があった。
 江戸時代後期に建てられた旅籠建築で、大きく「主屋」と「角座敷」から成り、「主屋」は一般の旅人客を、「角座敷」は武士などの身分の高い賓客を泊めていたと考えられている。松崎宿に唯一完存する建物で西郷隆盛も宿泊したらしい。


 さらに藩主が休泊に使用したという御茶屋跡、旅籠建築の雰囲気を残すという旅籠鶴小屋とつづく。御茶屋跡は土蔵造りの大きな屋敷で裏に松崎宿本陣(お茶屋)の説明板が立っていた。そして石塁を残す松崎宿南構口を見て松崎をあとにした。

 ふたたび旧道らしい道を小さな集落を縫うように田園地帯を抜けてゆく。下岩田の一里塚跡(碑)、日本赤十字精神の祖といわれる高松凌雲生誕の地(碑)をすぎ、御井/御原の郡境石をすぎたところで麦畑にぶつかり道が途切れてしまった。近くに住む人に尋ねると、「昔はこの先に道が通じていた。歩いている人からよく聞かれる」とのことだった。
 この辺は筑後川と宝満川に挟まれた田園地帯で黄色付いた麦畑が一面に広がっている。5月末にかけて麦を刈り、肥料を入れて6月には米の田植えを済ませるという。二毛作地帯で1ヵ月も畑を休めないらしい。ビール麦も作っていて近くの麒麟ビールに納入しているとのことだった。小麦粉の値段が上がっており、豊かな農家が多いのではと思われた。

 このあと一旦国道322号に合流、光行区に入ると大刀洗川の土手道を歩く。そして古賀茶屋駅近くで西鉄甘木線を横断し大刀洗川をわたると北野天満宮(下宮)があったので日陰を求めて一服した。ふたたび田園地帯を抜けるが県道の両側にビニールハウスが延々と並ぶ。そして筑後川にぶつかり神代橋(くましろばし)をわたると、橋の袂に「神代浮橋之跡」の碑が立っていた。
 神代浮橋は文永11年(1274)、元・高麗の連合軍の襲来に当り、鎌倉幕府の執権北条時宗は薩摩、大隈、日向、肥後など南九州の御家人などに出兵を命じた。当地の神代良忠は、これら軍勢の北上に際し、工夫をこらして九州第一の難所といわれた筑後川神代浮橋(舟橋)の通行の便を計らい、諸軍を速やかに博多に赴かせたという。室町末期、江戸時代には「神代船渡し」が見られるようなので、このときだけ浮橋を造ったと思われる。

 このあと九州自動車道のガードをくぐり御井町にくると左に大鳥居があった。高良大社の一の鳥居で、高さ6.8m、承応4年(1655)に建立されたものという。ここは久留米市中心街から4~5km東側に離れたところ。かっての旧宿場「府中」になるが、その面影を全く見ることなく通り過ぎた。
 この外れにくると田中久重鋳砲所址の碑が立っていて、ここに久留米藩鋳造所跡の説明が添えてあった。

 田中久重は水からくりなどの新しい仕掛けを次々と考案し、「からくり犠右衛門」として親しまれた。天文学や蘭学などの西洋の文化技術を学び、嘉永4年(1851)には当時の最高傑作「万年自鳴鐘」を完成。嘉永6年、佐賀藩精錬方に招かれ蒸気船・銃砲の製作などを行い、その後、久留米藩に帰り、藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、石碑が立つ裏山に藩鋳造所を設けアームストロング砲を鋳造したという。

 そして高良川にきたとき12時半近くになっていたので土手に腰を下ろし昼食休憩をとった。このあと久留米市郊外を右回りに南西方向に進む。久留米自衛隊駐屯地にぶつかってこれを迂回、さらに浦山公園の脇を通って、こんどは小高い丘にある自衛隊演習場の中を抜け、午後2時半前に国道209号に合流した。
 一旦国道から分かれるところもあるが、これという史跡のない単調な国道を1時間半ほど歩くと、国道沿い反対側に羽犬塚六地蔵尊の幟が見えたので立寄った。
 門柱に「宗岳寺」と「犬の塚」とあり、境内に六地蔵尊と犬の塚の石造物2体が並んでいて、六地蔵尊に豊臣秀吉公寄贈と添書きされていた。この先の羽犬塚小学校前に羽犬塚の伝説が書いてあった。
 羽犬塚の地名の由来について、天正15年(1587)4月おりから天下統一をめざす豊臣秀吉は、数万の大軍を率いて九州に遠征し、この羽犬塚にさしかかったとき、連れていた敏しょうで羽根が生えたようによく跳ぶ愛犬が敵の矢にあたり死んでしまった。秀吉はこの愛犬をとむらうため塚をつくり、この地を羽根の生えた犬の塚という意味で「羽犬塚」と呼ぶようにしたという。この石碑は羽犬塚小学校北側の宗岳寺という寺の境内に現在も残っており、この説明プレートの上に羽犬の像があった
 
 同じ一角に「御茶屋跡」の説明と「薩摩街道(坊津街道)、薩摩←羽犬塚宿→江戸」の標示がでていた。羽犬塚は筑後市中心街で、この辺が旧羽犬塚宿なのだろう。
 このあと裏道に入って午後4時すぎ、国道209号の山ノ井交差点にでたところで今日はここまでとした。そして少しもどるように羽犬塚駅近くの「ホテルアベニュー筑後」に向かった。


      旅籠油屋

  松崎宿本陣(お茶屋)

  田園地帯を抜けてゆく

     土手道を歩く

   ビニールハウスが

   六地蔵尊と犬の塚

     羽犬の像
3.平成21年4月29日 晴れ
羽犬塚から南関へ(27km

今日は羽犬塚から南に下って瀬高をすぎると鉄道路線を離れ、筑紫平野の南東部から筑肥山地の西端を通って熊本県「南関」まで約27kmを歩く。瀬高はみやま市中心街、ここで昼弁当を買うつもりでホテルを7時半すぎにでた。
 昨日のつづき、山ノ井交差点で交差する昔ながらの旧道をしばらく歩き、一旦国道に合流すると尾島公民館前に一之塚源平古戦場跡(石柱)と薩摩街道(標柱)が立っていた。
 そして尾島交差点の先で右折し旧道に入って、江戸の力士となった秋津島浪右衛門の塔と墓、短歌碑、旧坊津街道(薩摩街道)の標柱をすぎ鹿児島本線を横断した。筑後川と矢部川に挟まれた田園地帯で一面に広がる麦畑に負けないほどビニールハウス群が点在する。左に筑後広域公園を見ながら蛇行する矢部川に沿ってしばらく歩き、国道443号を横切ったところで左折し、旧瀬高宿を通る昔ながらの道に入った。
 海鼠壁の土塀、土蔵造りの家が所々見受けられ、この一軒に菊美人醸造元が、そして国道にでて矢部川(瀬高橋)をわたって旧道にもどると友瓢醸造元と造り酒屋がつづくが、このあと見るものなく通りすぎた。ただ、途中に「伊能忠敬測量基点之地」の石柱が立っていて、横に「伊能忠敬は寛政10年(1800)より17年の歳月を費やして全日本地図を完成した人で当地方を測量して廻った砌りこの地点測量基点にと定めた」と書いてあった。国道209号をわたり鹿児島本線を横断するところで国道443号に合流。10時半を回るところで、近くにコンビニがあったので昼のおにぎりを買った。

 そして国道443号をひたすら歩くこと1時間、矢部川水系の大根川をわたってすぐに左の旧道に入った。昔ながらの旧道らしい道で、緩やかなカーブを描きながら小さな集落をぬけ竹林の丘を越えて国道に合流した。この先の民家の塀脇に「三里」と刻まれた道標が立っていて、柳河城下札の辻を基点に距離を現す一里塚を設けたもの、といった説明が添えてあった。
 このあと緩やかな上り坂がつづき筑肥山地の西端を横切ってゆく。街道脇には住居やお店が途切れることなくつづき、山川町の中心街にくるとタケノコの大きなモニュメントが建っていて、脇に「山川みかんの里」と書いてあった。山川町の特産物なのだろう。そして旧宿場「原町」にくると「筑後原町」のバス停近くの観音さんに「原町の観音さん」の説明板があって、原町は薩摩街道の宿場町として栄え、今の原町郵便局あたりにお茶の接待をした「お茶屋」があった、云々とあった。
 10分くらい歩くと街道沿いに要川公園があった。12時半近くになっていたので昼食をとろうと中に入ると古戦場要川(伝承)源平最後の決戦場の碑文があった。要旨は、
 壇ノ浦で滅び生き残った平家ゆかりの者達は九州へと落ち延びてきたが、源氏の追討の手は緩まず大宰府、筑後尾島で敗れ、ついに松風の関を背にした要川の要衝で最後の決戦を試みんと陣を敷いた。ここ要川一帯は草も木も川面も朱に染まり、屍は累々として目を覆うばかりであったという。このため要川を血波川とも呼ばれ、この決戦で果てた平家を弔う遺跡として地元の人々によって築かれたという平家塚、要川の上流に平家七人の女官が身を投げて果てたという七霊の滝と女官たちを祭る七霊宮があり、訪れる人の涙を誘う、というものだった。

 公園を通る旧道が残っていて国道にもどると「物見塚」バス停があった。物見塚は平家軍の物見の指揮所跡といわれている。道脇の「かさ地蔵」を見てから九州自動車道をくぐり、「北関」バス停をすぎると右に下りる小道があった。正しい道なのか不安ではあったが、車の轍がしっかり残っていたのでそのまま突き進み、竹林の中に入るとお地蔵さんの先に「松風の関」の標柱が立っていた。この道でよかった!とホットした。そのうち雑草が生い茂って車の轍が消えてしまったが、道なりに進むと九州自動車道をくぐるところがあった。ここをくぐって車道に合流すると2本の境界石が道の両脇に立っていた。
 筑後柳川領と肥後熊本領の国境を示す各々の境界石で、手前に大牟田市の「湯谷柳川領境界石」説明板があった。いつの間にかみやま市から大牟田市に入っていたが、この境界石を越えると、今度は熊本県南関町の「歴史の道 豊前街道-参勤交代の道」の大きな説明板と「豊前街道」の標柱が立っていた。
 このあと所々にでていた豊前街道の案内を頼りに畑や林の台地を突き進み、十里木跡(標柱)に辿りついたあと竹林や草原を抜けてから豊前街道の案内を見失ったが、車の轍がわずかに残る道をたどって九州自動車道の南関ICのところにでることができた。
 そして国道から旧南関宿に向かう道に入り、「南関御番所跡」の標柱が立つところで右の道に入ると南関御茶屋跡がある。
 南関御茶屋は嘉永5年(1852)に完成したもので、主要な建物一棟と心字をかたどった池を配した庭園が残っている。特に九曜紋の鬼瓦や釘隠しが細川家とのゆかりをものがたっている。参勤交代の折は、大名行列がこの町を通り、藩主はこの御茶屋で宿泊や昼食をとっていた。また細川家だけでなく相良家や島津家もこの御茶屋を利用したと記録にみられる。平成15年に国の史跡に指定され、翌年に保存修理工事が完成し往時の姿を取り戻したという。

 御茶屋跡の裏山の方に鷹ノ原城跡と城ノ原官軍墓地があったがパスし、町役場と公民館がある南関手永会所跡の前通って街道筋にもどった。そして南ノ関宿構口跡の石柱をみて関川(南関橋)をわたると、右に入る小道に旧豊前街道の標柱が立っていた。これを確かめたところで今日はここまでとした。

 午後3時直前だったので急ぎ南関交差点バス停に向かい、午後3時発のバスに乗った。大牟田駅に着いたのが午後4時少し前。翌朝のバス時刻を確かめて今日の宿「グランドホテル清風荘」に向かった。着いたのは午後4時を回ったところだった。


   ビニールハウス群が

    昔ながらの旧道

   タケノコの大きな・・・

      要川公園

   右に下りる小道が

   筑後/肥後国境

    南関御茶屋跡
4.平成21年4月30日 晴れ
南関から山鹿へ(23km

 今日は南関から筑肥山地西南部の山沿いを南東方向に山鹿までの約23km。距離は短いが、ほとんどが鉄道路線から遠く離れ、国道443号からも離れた古道のような山道を歩く。
 ホテルを7時半にでた。途中、食料・飲料を買うような店がないので、大牟田駅で昼食と飲物を仕入れ南関行き8時12分発のバスに乗った。
 今回は南関交差点でなく、終点「うから館」で下りた。うから館は南関の総合文化福祉センターで日帰り温泉のレジャー施設になっている。


 そして9時少し前、旧豊前街道の標柱が立つ旧道らしい道に入った。緩やかな坂を上って林を抜けると畑が広がる台地にでた。道脇に立つ姫塚(標柱)をすぎた先の分かれ道に古い道標が立っていた。追分の道しるべで「右 たかせ 左やまか」と刻まれているようだった。
 ここで左の林を抜ける小道を進み、十里木跡(標柱)をすぎると視界が開けてきて、高速道路の下をくぐって一旦国道443号にでた。すぐに旧道にもどるが、この入口に「歴史の道 豊前街道」の説明板が立っていて、熊本県に入ってからの豊前街道の道筋が描かれていた。これをみると地形図に載っていない古道が旧山鹿宿まで通じているようだった。
 小高い丘を上って行くと左下に国道が走っていた。ゆるやかなアップダウンを繰り返す小道を20分近く歩いて国道に合流し、5分ちょっとでふたたび旧道にもどった。いずれも豊前街道の案内表示がでているので迷わずに歩ける。
 一字一石笠塔婆(標柱)、八幡宮をすぎると官軍墓地があった。西南戦争で戦死した政府軍の軍人、軍夫、警察官を埋葬した墓地とある。そして民家が現れ肥猪町にくると南関御茶屋跡の標柱が立っていた。ここ肥猪町(こえい)は南関宿と山鹿宿の中間に位置する半宿(間の宿)だったという。そして九里木跡(標柱)の立つところで林に向かう小道に入った。
 きれいに整備された木立の中を抜けてゆく。竹林に入ると道脇のタケノコが大きく伸びていた。関東では考えられない!そのうち栗畑?が現れ、送電線の鉄塔近くをすぎると丘陵地の頂上のように視界が開けてきた。道脇の傾いた野中ファームの立て札をすぎると前方にビニールハウスが見えた。
 そして下り道にさしかかると六本松の説明板が立っていて、「ここに6本の松の大木がそびえ遠くから街道を旅する人の目印となり、坂を登りつめた人は、ここで汗を拭いて休息した。」と書いてあった。このあと一気に坂を下って田園が見えてくると「白坂」の説明板が立っていた。
 この辺は丘陵地に囲まれたところで、和仁川をわたるとふたたび小高い森に入る。地形図に無い道だが豊前街道の標柱、案内表示にしたがって小山を越えると「豊前街道と八里木跡」の説明板が立っていた。ここも前と同じように川が流れていて、川の周りに田畑が広がり、丘陵地に囲まれているといった地形だった。12時を回ろうとしていたので、岩村川の土手で昼食休憩をとった。レンゲの花が畑一面に咲き誇っていてとてもきれいだった。
 このあと光行寺の前を通ってふたたび木々に覆われた森の中に入ってゆく。この光行寺の石段に「豊前街道岩村 細川家御休憩の光行寺」の標柱が立っていたので立寄ってみた。
 光行寺は室町末期創建のお寺で、江戸時代は豊前街道の要所として、参勤交代の藩主の「お茶所」となる、長い道中の休憩所として腹切坂を上下する一行が一時かごを止めて労を癒したり、ご機嫌伺いの庄屋等から民情を聞いた所で、門の軒瓦には細川公の「九曜の紋」が入っている、とのことだった。

 わずかな民家をすぎて森の入口に立つ豊前街道の標柱と説明板をみて、10分ほど坂を上って林を抜けると腹切坂の説明板が立っていた。
 腹切坂は山鹿市から延びる永ノ原台地から寺の本へと下る急坂をいい、参勤交代の道中でも屈指の難所であったといわれている。腹切坂の由来については「人を殺して諸国を逃げ回った西国の武士が、かたきをねらう若い武士から逃げられないと悟って、坂の途中で切腹した。」「壇ノ浦で敗れた平氏の落人が、この地で切腹した。」など、様々な言い伝えがあるが、「広い台地(原)の端(切り)にあたる」ことから名付けられたともいわれている。

 この坂を上りきって開けた台地にでると栗畑や野菜畑が広がっていた。畑土が赤茶っぽく見えるのは土の成分が軽石混じりの凝灰岩のためかもしれない。台地に畑が広がる長閑な道を歩いていると、「西南の役 薩軍の墓」の標柱が立っていて、この先に西南の役古戦場跡の説明がでていた。
 西南の役は明治10年(1877)の西郷隆盛を盟主にして起こった明治維新政府に対する不平士族の最大かつ最後の反乱で、隆盛が征韓論に敗れて官職を辞し、鹿児島に設立した私学校の生徒が中心となって挙兵、熊本城を攻略できないうちに政府軍の反撃にあって敗退、隆盛は自刃している。
 明治10年2月14日、薩摩軍の先発隊は満を持して鹿児島を出陣し、翌日から本隊および後続部隊の約一万三千の大軍がこれに続いた。これに対し薩摩軍鎮圧のため政府軍は山鹿から約5km北の津留正円寺に本陣を構え、山鹿に進み本陣を構えた薩摩軍を攻撃したが大敗して鎌田に、さらに平野まで後退。戦いは薩摩軍有利に進んだが、兵力強化した官軍は進撃を開始。一進一退を繰り返したが官軍の勢いが増し、最後、敗れた薩摩軍は山鹿より後退していったという。

 この「西南の役古戦場跡」の説明がでている場所が、官軍が砲台を築いて薩摩軍本隊を迎え撃ったところのようで、私が説明板を読んでいると、地元の人が「街道沿いの畑には穴を掘って待ち伏せした跡が今も残っている」と話してくれた。
 横にハゼ並木の説明もでていた。ロウの需要が増大し、ハゼの実生産の必要性を感じた細川藩が本格的にハゼ栽培に乗り出した18世紀半ば頃に植えられたもので樹齢約250年になる。腹切坂からこの先の車坂まで平坦な道が1.5kmほどつづく、この道沿いにハゼの古木が点在するという。

 玉名・山鹿郡境碑をすぎると栗畑から広々とした野菜畑に変わり、ニンジン、サツマイモ、お茶、等が植えられているのを見て車坂を下った。この坂の途中に「西南の役 政府軍の台場跡」の標柱が立っていて、坂の斜面を利用して襲いかかる薩摩軍を猛射したとある。坂を下って国道443号にでると「西南の役鍋田戦跡」の標柱が立っていた。近くに「梅迫バス停」があった。この国道を横断し、ふたたび小高い森を抜けて鍋田地区の七里木跡(標柱)をすぎると左に萱葺き屋根が見えた。
 立寄ってみると江戸時代の民家で、天保11年(1840)山鹿郡山鹿手永鍋田村に建てられたものを移築したとある。なぜこんなところに?と思って中に入ると一帯が史跡コーナーになっていてこの奥に山鹿市立博物館があった。ここに山鹿出身の国学者「帆足長秋、娘京の像」、吉田川に架かっていた眼鏡橋、板碑、室町時代後期の五輪塔、西南の役の戦闘絵画&戦歿者慰霊碑、追分石(山鹿市日吉町と松坂町の角にあったもの)などがあった。また「肥後古代の森」の一つ山鹿地区が隣にあった。
 史跡コーナーをあとに台地から下りるように坂を下って国道443号に合流すると鍋田橋(岩野川)のたもとに鍋田横穴(国史跡)がある。
 鍋田横穴は古墳時代後期(今から約1400年前)に作られた群集墓で、鍋田には阿蘇大噴火でできた溶岩(阿蘇凝結溶解岩)が露頭している場所があり、古墳時代の人々はここに横方向の穴を掘って墓にした。豪族達の墓といわれ、外壁に色々なモチーフの装飾が施され、被葬者の生前の様子を語りかけてくるようなレリーフを持つお墓もあるらしい。現在61基が確認されているという。

 しばらく国道を歩き、吉田川をわたると豊前街道の案内がでていた。ここから昔ながらの旧道らしい道に入り、山鹿官軍墓地をすぎると山鹿市中心街の山鹿温泉街に入る。
 かっての旧山鹿宿で昔風の土蔵造りや白壁の家がつづき、旧宿場の雰囲気が漂ってくる。天聴の酒造跡、土蔵造りの梶川家住宅をすぎると、街道筋から少し離れたところに明治43年に建設された八千代座がある。
 八千代座 は江戸時代の芝居小屋の姿を残した全国でも数少ない貴重な文化遺産で国指定・重要文化財になっている。ます席、桟敷などの客席構成や人力でまわす廻り舞台、花道、すっぽんと呼ばれるセリなどの舞台機構は日本の伝統的な様式を伝えているという。

 街道筋にもどって「豊前街道山鹿宿/人馬継所 九日町」の標柱をすぎると、金剛乗寺参道に文化元年(1804)製作の石門がある。めがね橋構築技術を生かした石門だという。それから大正14年に建てられた旧安田銀行山鹿支店跡が山鹿灯籠民芸館(国有形文化財)になっていて、中に8月15,16日の“山鹿灯籠まつり”のパネルがあった。きれいなお祭りのようだ。
 午後3時すぎ、山鹿温泉街にさしかかると入口に「あし湯」があった。泉温35.9℃とあったが浸かってみるともっとぬるく感じた。
 山鹿温泉は、山鹿千軒たらいなし・・・・、と唄われるほど豊富な湯量をたたえる温泉で、今から800年ほど昔、手負いの鹿が沼で傷を癒しているのをみて温泉の存在が知られたといわれている。しかし実際の歴史はもっと古く、平安時代に書かれた和名妙の中にも肥後の国山鹿郡の温泉郷としてでており、千年以上の歴史があるという。
 江戸時代、湯屋は身分によって、藩公が入浴する「御前の湯」、武士階級が入浴する「御次湯」、一般の人が入浴する男女混浴の「外湯」に区分されていたという。現在は旅館、ホテルは約20軒で、「外湯」が共同湯「さくら湯」として生まれ変わっている。

 火除け地蔵尊、江戸時代山鹿宿を支えたという江上家の説明板をすぎると、本田邸(山鹿有数の商家であり米問屋、造り酒屋と変革)、木屋、「千代の園」の醸造元と昔風の建物がつづく。そして菊池川にぶつかると、「菊池川流域に広がる肥沃な平野は、昔から米ところとして知られており、ここで生産された米は菊池川から大坂まで運ばれ、天下の米相場をも左右したという。菊池川を利用した水運は物流の大動脈として山鹿は米等の物産の集散拠点としても栄え、河畔には米を船積みするための俵転しも造られた」という説明板が立っていた。
 午後3時半を回ったところで少し早いが今日はここまで。今日は菊池川沿い少し上流の「山鹿温泉 山鹿の宿 つかさ」に泊まった。

 今日はほとんどが山道だったが、地形図に載ってない道も豊前街道の案内がしっかりでていて、しかも舗装・整備されていたので不安を抱くことなく迷わずに歩くことができた。予定より早く着いたので、下着を洗い温泉にゆっくり浸かって疲れを癒した。


      古い道標

   小高い丘を上って


      官軍墓地


    肥猪町の町並み


       光行寺

    腹切坂を上ると

   西南の役古戦場跡


   江戸時代の民家


      鍋田横穴

      八千代座



   金剛乗寺の石門


       あし湯


   共同湯「さくら湯」
5.平成21年5月1日 晴れ
山鹿から熊本へ(29km+α)

 昨夜は眠れないほど咳き込んでしまい、目覚めると寝汗をびっしょり掻いていたので朝風呂に入ってから朝食をとった。今日も途中にコンビニが無さそうなので、昨夜のうちに昼のおにぎりを宿の女将さんに頼んでおいた。
 8時にホテルをでた。今日は山鹿から台地を幾つか越え、途中から国道3号に沿って所々で合流しながら上熊本駅まで歩き、14:31発の電車で帰路につく予定。
 昨夜は咳き込んでよく眠れなかったが体調的には問題なかった。千代の園の酒造工場の横を通って昨日歩いた街道筋から菊池川にでた。そして旧山鹿宿をあとに国道3号に架かる山鹿大橋をわたってふたたび旧道にもどった。
 六里木跡(標柱)をすぎるとレンゲの花が畑一面に咲き誇っていてとてもきれいだった。岩原川をわたると前方にこんもりと繁った森が見えてくる。豊前街道の標示杭を見て森に通じる坂を上りきると、ビニールハウスが並ぶ広々とした台地にでた。中を覗くと大きいスイカが見える。
 比丘尼坂、五里の里数木跡をすぎ、なおも建ち並ぶビニールハウスを眺めながら歩いていると、スイカを積んだトラックが「JA鹿本すいか選果場」に入っていくのが見えた。この辺はスイカの産地なのだろう。銘柄は「夢大地かもと」だったかな?


 このあと台地を下りて千田川をわたるところで道を間違え迷ってしまった。とにかく川をわたってふたたび台地に上って、遠回りになったがなんとか街道筋にもどることができた。左右にビニールハウスが延々とつづく中を歩き、九州自動車道の上を越えて県道<3>にぶつかったところで左折(熊本方向)。そして内空閑城跡(説明板)をすぎて自転車専用道を横切ったあと、県道から左の旧道らしい道に入った。光勝寺の先で一旦国道3号に合流すると豊前街道の標柱が立っていた。そして「豊前街道 三里木跡」の標柱が立つ先で国道から分かれた。

 12時を回っていたので腰掛ける場所を見つけて昼食休憩をとった。宿の女将さんにおにぎりを頼んだとき「梅干を握っただけのものでいいですね?」と念を押されたが、本当に梅干を白いご飯で握っただけのシンプルなものだった。ご飯粒が手にくっついて食べにくかったが、途中にコンビニが無かったので有難かった!
 植木天満宮の境内に「官薩両軍緒戦之地」の標柱が立っていた。そして国道3号に合流したが、国道脇にひっそりと立つ緒方小四郎屋敷跡(標柱)をすぎるとふたたび国道から分かれ、熊本城に向かう県道<303>に入った。

 徳王町にくると「豊前街道一里木跡」の標柱が立っていた。熊本城下「札の辻」まであと4km!午後2時を回っているので上熊本駅14:31発の電車に乗れるか微妙だ・・・・・! 
 2枚の板碑が祀られた山伏塚をすぎ、京町本丁にくると右・上熊本駅の標示がでていた。時計は午後2時29分、駅まで5分はかかるので予定した電車に間に合わない・・・!止む無く、もう少し先まで行って一本後の電車に乗ることにした。


 上熊本駅に向かわず、先に進むと清正のまちと街路づくりの説明がでていた。「清正は肥後の領主に着任後、茶臼山に熊本城を築き始めたが、これと並行して城下町としての町づくりにも力を入れた。京町とは都の意味で清正が茶臼山にあった町家を移したものであり、南北に走る街道に沿って京町1~2丁目、2丁目筋の西に今京町、そのもう一筋西に金峰山町の町人形が形成された。・・・・云々」とあった。
 正面に森が見えてきた。熊本城だ!そして新堀橋(陸橋)をわたると、熊本城北側の守りとして築かれた石垣がつづく。高さが約5間、長さが101間に及ぶので百間石垣と呼ばれている。この石垣の対面に旧細川刑部邸の土塀がつづく。旧細川刑部邸前をすぎて「札の辻」を探して歩いたが見つからないまま城外にでてしまった。

 午後3時をすぎていたのでタクシーで上熊本駅にもどって、15:31分発のリレーつばめ号に乗った。博多駅でのぞみ号に乗り換え、家に着いたのは午前0時少し前だった。


 初日の27日は寒気が下りた全国的に寒い日だった。松崎駅のホームで電車を待っていたとき風が冷たくて寒かったが、リュックからウインドブレーカーを取り出すのが面倒なのでそのまま電車を待っていた。このあと喉がいがらっぽく感じ軽い咳がでるようになった。こじらせないようにと持ち合わせの風邪薬を飲んだが、4日目(山鹿温泉)の夜は眠れないほど咳き込んでしまい、目覚めると寝汗をびっしょり掻いていた。
 帰宅後、5月連休の合間を縫って医者に診てもらったが、咳き込んで眠れない日がしばらくつづき、少しよくなったと思ったら今度は帯状疱疹に悩まされた。症状が軽くてよかったが・・・・、このため5月の予定がすっかり狂ってしまった。
 楽しみの一つとして家庭菜園もやっているが、3月~4月は夏野菜の準備作業と重なり少し無理をしたようだ。この疲れがでたのだろう。無理できない歳になったと痛感!


      繁った森が


    広々とした台地


  ビニールハウスが延々


      山伏塚


    熊本城・百間石垣

 

     旧細川刑部邸
平成211125日 晴れ
熊本から宇土(宿)へ(20km

 半年以上の間隔が空いてしまった。11月になって気温も下がり、やっと天候が安定したので出かけることにした。今回は飛行機を利用し9日間かけて一気に熊本から鹿児島まで歩き、最後の一日は鹿児島~桜島を散策する予定。

 6時半すぎに家をでて羽田9:35発の飛行機(SNA13便)に乗った。熊本空港からリムジンバスに乗り、12時半に熊本城の最寄バス停「熊本交通センター」で下り、加藤清正像が建つ行幸橋から熊本城の中を通って前回の街道筋にでた。

 熊本城は肥後半国の領主として隈本に本拠を置いた加藤清正によって慶長6年(1601)から7年の歳月をかけて築城されたといわれている。54万石の城下町・熊本のシンボルであり、日本三名城の一つ謳われる熊本城は、城郭の周囲約9Km、大天守3層6階地下1階と小天守2層4階地下1階からなる複合天守閣をはじめ、長さ約240mの長塀、櫓49、櫓門18、城門29を数える堂々たる威容を誇っている。青い空を背景にそびえる美しい姿もさるものながら、西南戦争の折には「難攻不落の城」としても名を馳せ、また随所に戦いに備えた英知の限りが尽くされていて、とくに「武者返し」と呼ばれる独特の曲線を描く石垣は有名。自然の地形を巧みに生かした攻めにくく守りやすい城郭の構造にも加藤清正の創意工夫を感じられるという。
 加藤家の改易後約240年間にわたって細川家の居城となったが、明治10年(1877)の西南戦争で天守閣などが焼失している。しかし薩軍の包囲に対して52日間の籠城に耐え、落城することなく薩軍は撤退を余儀なくされている。熊本城を甘くみていた西郷軍は誰一人として城内に侵入することができなかったといわれている。
 昭和30年に熊本城跡が国の特別史跡に指定。昭和35年に大小天守閣が鉄筋コンクリートで外観復元以降、築城400年にあたる平成19年に向けて復元工事が行われている。(平成20年から一般公開、隈本は当時の地名)


 事前に調べておいた「札の辻」の場所にくると里程元標跡の石碑が立っていた。そして「熊本城内と城下を結ぶ接点であった新一丁目御門の前には、肥後藩の種々の政令を掲示する「札の辻」と呼ばれる広場がありました。この「札の辻」が里程元標にあたり、ここを起点として豊前・豊後・薩摩・日向街道の里数が計られました。その際に一里、二里、三里と進むごとに街道の両脇に榎を植えて、これを里数木と称していました。現在でもバス停や駅の名称に「一里木」、「二里木」、「三里木」などといった当時の呼称がそのまま使われているところがあります。云々」と書いてあった。

 市電が走る大通りから所々に昔風の格子造りの家が残る街並みを通り抜け午後2時少し前、白川(長六橋)をわたって熊本市中心街をあとにした。

 薩摩街道はこのあと昔ながらの旧街道らしい道がつづき、近くを走る鹿児島本線、国道3号に沿って南に向かう。とくに見るものなく1時間半近く歩いて旧宿場「川尻」の町にくると、川尻界隈マップが立っていて「川尻は昔から水運を利用した河港として栄え、旧藩時代は年貢米の集積・積出港、そして軍港としても活用されていた」とある。そして本陣跡(標柱)、薩軍本営跡(建物)とつづく。
 薩軍本営跡は西南戦争の際、陸路熊本を北上した薩軍は熊本鎮台攻略の拠点として川尻に本営を構えたところで、川尻の町は西郷隆盛以下1万5千人余りの兵で埋めつくされたといわれている。この建物は本営として使われていた当時の姿を今もとどめており、玄関の蔀戸(しとみど)が江戸時代の豪商の名残りという。

 それとなく宿場の面影をとどめていた川尻をあとに、江の島弁財天の分霊を勧請し祀ったという正中島弁財天をすぎて緑川、浜戸川の二つの川をわたった。なおも昔ながらの旧街道らしい道がつづく。
 熊本の日没は午後5時すぎ、だが冬の太陽は低く午後4時半をすぎると日暮れを思わせる。人影のない寂しい田園や山道だと不安になってきて、早く宿に着きたいという焦りの気持ちを覚えてくる。
 午後5時少し前、旧宿場「宇土」の市街地に着いた。そして本町通りに入ると円応寺境内に芭蕉塚があった。この芭蕉塚は「諸国翁噴記」という本の中で肥後六基の一つに挙げられているらしい。このあと船場川をわたるが、となりの船場橋はめがね橋で市の文化財になっていた。
 ちょうど午後5時に街道筋にある今日の宿「ビジネス旅館こめや」に着いた。
熊本城をあとにしたのが午後2時頃だったので、このあと6Km/1時間のペースで歩いたことになる。今日はよく歩いたという疲労感を覚えた一日だった。


     加藤清正像

       熊本城

     里程元標跡

    格子造りの街並


     薩軍本営跡


      めがね橋
平成211126日 晴れ
宇土から八代(宿)へ(37km+α)

 この時期の熊本地方の日の出は7:00、日の入り17:10と東京地方と30分以上違う。朝食を食べる6時半頃はまだ暗く、宿を発つ7時半にやっと陽が射してきて明るくなる。
 今日は朝から良い天気。昨日のつづき、宿の前から20分ほど歩いたところで左折するが、このコーナーに高札場の説明板が立っていた。ここ宇土市は宿場町だったがその面影をほとんど見ることなく鹿児島本線のガードをくぐった。
 旧宇土宿をあとに県道<14>を南下し、松橋駅前にきたところで左折。しばらく歩いて国道3号に合流した。時計を見ると歩き始めて2時間、9時半を回ったところだった。振り返ると色づき始めた街路樹「銀杏」がとてもきれい
 このあと旧薩摩街道は国道3号と所々で交差・合流しながら旧小川宿を通って旧宿場「八代市中心街」に向かう。

 稲刈りが終わった田園地帯を抜けて三軒屋にくると番所・関所跡(標柱)、大榎とつづき、小川駅近くで昔ながらの旧道らしい道に入った。すぐに「七里木跡」の石柱が立っていたが、旧宿場「小川」の町中にきても旧宿場の面影を見ることなく砂川(刈萱橋)をわたると、朽ちかけた茅葺屋根や土蔵造りの家々を目にし痛々しかった。

 「←乱橋古戦場跡」の案内をすぎると右手遠くに八代海が見えてくる。12時少し前、国道にもどる手前に氷川ウォーキングセンターがあったのでここで昼食休憩をとった。

 再び旧道をたどると民家の庭先にみかん畑が、大きいのはザボン、橙色は温しゅうみかんだろう。少しゆくと「薩摩街道八里木跡」の石柱、法導寺薬師堂の大楠とつづく。
 氷川をわたって宮原町にくると旧井芹家住宅(国の有形文化財)、旧井芹銀行本店の建物があり、近くに大小二体の地蔵(親地蔵・子地蔵)が並んでいた。また、この宮原は「火の国」発祥の地らしく、「宮原町を流れる氷川は古来「火の川」と呼ばれ火打石が多く、宮原一帯を「火の村」と呼んでいた。その後「火の村」の名は火の国、肥の国、肥後の国と発展した」とあった。
 少しゆくと「是従原標九里」と刻まれた道標が立っていて、文化財の案内板には上平原、室山、千春、一口坂、行西、等々古墳をはじめ五輪塔群や板碑など文化財が数多くあるようだった。この一つ、弥勒川板碑が平尾六地蔵の先にあった。
 弥勒川板碑の建立年代は15世紀後半から16世紀前半と推定され、ここに刻まれた絵が「秦江王」と「奪衣婆(だつえば)」だという。仏教では死後七日毎に行われる王の裁定を受けて来世が決まるとされ、この王の中の一人が「秦江王」で、そのとき渡る川「三途の川」のほとりにいて、亡者の着物を奪い取る鬼婆が「奪衣婆」らしい。

 こうして昔ながらの旧道らしい道をしばらく歩き、「薩摩街道 九里木跡」の標柱をすぎた先から古麓川沿いの道をしばらく歩いた。そして国道にもどり九州自動車道のガードをくぐって八代市中心街に向かうところで道がわからなくなった。
 最新の道路が地形図に反映されてないためで、とくに新幹線、高速道路や国道の立体交差点でよくあること。とにかく九州自動車道のガードをくぐって西に向かう道に入ったが、自分が地図上のどこにいるのか分からないので旧街道にもどれない。幸いバイク郵便配達の人が通りかかったので教えてもらい旧街道にもどることができたが・・・・。
 日本製紙八代工場の中を通り、午後4時すぎに迷いながらも旧宿場「八代」の中心街になんとかたどり着いた。そして八代城跡に立ち寄ってから今日の宿
ホテルルートイン八代」に向かった。

 八代城元和5年(1619)の大地震で麦島城が崩壊したため、熊本藩主加藤忠広が元和8年に完成。築城時は4層5階の大天守と2層2階の小天守があり、石垣に石灰岩が用いられたので、その色から白鷺城とも呼ばれたという。
 肥後国は薩摩島津氏への押さえのためか一国一城令でも例外的に熊本城以外に麦島城の存続が認められていたようだ。寛永9年(1632)加藤忠広が改易され細川忠興が入城。その後、松井興長が入城し明治3年(1870)の廃城まで代々城主を務めている。
 現在、水堀に囲まれた本丸石垣だけが残っていて塁上を歩いて回れるが一歩間違えば堀に落ちてしまう。自由に入れる公園で中に官幣中社八代宮がある。

 ホテルルートイン八代」に着いたのは午後4時半すぎ。今日は37kmと距離が長く、しかも2回も道に迷うといったように昨日につづいて厳しい一日だった。このホテルは八代城跡に近くてしかも街道筋にある。


   色づき始めた街路樹



      街道風景



     旧井芹家住宅



      弥勒川板碑



       八代城跡
平成211127日 晴れ 
八代から佐敷(宿)へ(39km+α)

 薩摩街道の難所は「三太郎峠」といわれる三つの峠越え。今日のコースはこの二つ赤松太郎峠と佐敷太郎峠が含まれていて、しかも距離39kmのロングコース。佐敷太郎峠を明るいうちに越えたいので朝食を早めに食べて7時半前にホテルを出た。
 今日も良い天気だ。まだ陽が射しがないひっそりした街中を抜けて前川(球磨川水系)の川渕にでると、延命地蔵尊、徳渕ノ津跡(標柱)とつづいてあった。この辺りは徳淵の津と呼ばれた良港で、多くの船が出入りし、中世には海外との貿易も行われていた。また仁徳天皇の時代に九千匹の河童が中国より泳いで渡ってきた上陸地点と伝えられている。ここに「河童渡来之碑」がある。 この前川をわたり、球磨川をわたって八代市中心街をあとに国道にもどった。

 八代平野を抜けて肥後高田駅をすぎると、南西に向かって九州山地、国見山地の麓を走る国道をひたすら歩く。並行して肥薩オレンジ鉄道が走っている。
 歩き始めて約2時間半、日奈久温泉にきたところで国道から分かれ温泉街に入った。旧道らしい狭い道がそのまま残っている旧宿場「日奈久」、入口に薩摩街道と書かれた置灯籠があった。中心地に日奈久温泉センター「ばんぺい湯」に足湯があったのでゆっくり休憩した。今から6百年前、刀創を負った父の平癒を祈願した濱田六郎左衛門が市杵島姫命のお告げにより干潟から湯を堀当てたという伝説が残っている。(「温泉発見の由来」より)

 国道にもどるとザボンとみかんを山積みした果物屋があった。この辺はザボンの産地のようだ。そして南九州西回り自動車道を横断すると右手下方にザボンと思しき畑が見えてきた。
 白鳥地区に立つ「薩摩街道 14里木跡」の標柱、そして肥後二見駅をすぎると、このあと二見川に沿って海岸から離れた峠越えの道に入る。少しゆくと日奈久ちくわ製造工場があった。日奈久の特産のようで出来立ての暖かいちくわを買って食べながら歩く。
 なおも国道を歩き、君ヶ渕にくると「薩摩街道と眼鏡橋」の案内図がでていた。二見川に沿って所々古道が残っているようだが地形図に載っていないので辿るのは難しい。この一つに嘉永6年(1853)頃のものという新免眼鏡橋があった。
 そして国道から分かれて赤松太郎峠138m)越えの道に入る。旧国道なのだろう、地形図に鹿児島街道として描いてあるのですぐ分かると思った。これが甘かった。
 最初に入った道は人に尋ねると違うようなので途中でもどり、二本目の道は小川に架かる石橋に「この石橋は文化財です・・・」とあったのでこの道だとホッとして先に進んだ。しかし20分近く山道を上ると三方(右に曲がる、真っ直ぐ上る、左に入る)に分かれる道があった。迷いに迷い、最後に左に入る道を辿ると「薩摩街道 大平眼鏡橋」、「薩摩街道 小藪眼鏡橋」とつづいたので安心したのも束の間だった。旧薩摩街道は所々で生活道路、農道が交わっていて、このあと道に迷ってしまい結局、途中から国道3号に出て赤松トンネルを通る破目になった。

 トンネルを抜け、山の斜面に広がる色づいたみかん畑を眺めながら、田浦町の近く道の駅「たのうら」にきたところでゆっくり昼食休憩をとった。時計をみると午後1時半近くだった。
 田浦はみかんの産地。甘夏みかん、デコポン、温州みかんがお店に一杯並んでいたので、みかん1袋(10個/200円)買ってビタミンC補給と水がわりに食べた。

 このあと旧街道の鹿児島街道にもどり、田浦の町中にくると薩摩街道の案内がでていた。田浦港をすぎ、肥後田浦駅に着いたのは午後2時だった。
 3時近くに着くようだったら今日はここまでとし電車で佐敷に行くつもりだったが、そのまま佐敷に向かった。途中に「農業の活性化で産地づくり日本一をめざそう、田浦」のモニュメントが建っていたが、こういうのを見ると農家の人達の頑張っている姿が見えてくる。


 志水バス停の近くにくると薩摩街道の案内がでていたので国道から分かれ左の小道に。デコポン畑の横を抜けて一旦国道にもどったが、すぐに左の佐敷太郎峠に向かう道に入った。そして肥後田浦駅から40分くらい歩いて滝の上橋にくると車道から分かれ佐敷太郎峠324m)越えの道に入る。この入口に「薩摩往還石畳」の説明板が立っていて、西南の役では西郷隆盛の隊士の、この石畳を踏破したであろうと書いてあった。
 こんな道を島津藩主や篤姫の一行が通ったの?と思うほど、けっこう厳しい山道を上ってゆく。石畳道が崩れて歩き難いところには黄色のロープが張ってあり、所々に薩摩街道の案内も立っているので迷わずに歩けた。明後日は地域の「薩摩街道歴史ふれあいウォーク」が予定されていて、この道案内表示もでていた。この山道を20分ちょっと上ると舗装道路にでて、なおも舗装道路の緩やかな坂を上ってゆく。途中で明日の「薩摩街道歴史ふれあいウォーク」の見回り車に出合った。そして所々に広がるみかん畑をすぎると上り坂から下り坂にさしいかかった。午後3時半少し前で、山道に入って30分以上歩いているので佐敷太郎峠だろうと思った。峠の標識がなかったが・・・・。

 この佐敷太郎峠越えの道は峠から先通行止めになっていて、途中から旧国道の鹿児島街道を歩かねばならない。29日の「薩摩街道歴史ふれあいウォーク」だけ通行許可がでているとのことを事前に聞いていた。だから少し行くと「薩摩街道歴史ふれあいウォーク」の道案内がでていたが、薮道のようだったので入るのを止めて舗装道路をそのまま歩いた。
 九十九折れの緩やかな下り道が延々とつづく。人も車も通らない、道案内や道路標識がまったくない寂しい山道を歩いていると、この道で良かったのだろうかと不安になってくる。40分近く歩くと下方に集落が見えてきた。左に急坂の下りる道があったので早く着くだろうとこの道を下りてゆくと・・・、なんと佐敷ではなく海浦の集落だった。
 地形図で調べると佐敷の一つ手前の駅。どうしてこんなところに来てしまったのだろうか?きつねにつままれたようだった。午後4時10分、日没まで1時間ある。電車に乗るのも癪だったので、国道3号にでて佐敷トンネルを通って佐敷に向かうことにした。佐敷トンネルは1570mと長く、しかも歩道のない恐怖のトンネルだった。
 午後5時に薩摩街道の案内が立つ旧道になんとかもどり、街道筋にある今日の宿「野坂屋旅館」に午後5時すぎに着いた。今日もハードな一日だった。

 この旅館は割烹旅館で魚料理がとても美味しく、ゆっくり休むことができた。計画時どこで泊まるか迷ったが、ここに決めてよかった。


     前川の川渕

    日奈久の町並み

      新免眼鏡橋

   小川に架かる石橋

   斜面にみかん畑


   石畳道が崩れた道


    薩摩街道の案内


    舗装道路にでて
平成211128日 曇りのち晴れ 
佐敷から水俣(宿)へ(24km

昨日は旧宿場「佐敷」まで歩いたので今日は距離的に24kmと余裕あるスケジュールになった。朝食をゆっくり食べて8時に宿をでた。天気予報は「晴れ」だったが外は濃い霧がかかっている。旅館敷地に薩摩街道の道標と道案内が立っていた。旧佐敷宿にある唯一の旅館で、かっては旅籠だったのかも・・・・・。

 宿をでると右に佐敷川が流れていて、堤防にきれいな花が咲くプランタがあった。木枠に納められていて「城下町を彩る花いっぱい運動を進めましょう。薩摩街道佐敷宿」の札が付いていた。
 少し行くと土蔵造り風の家がつづき、この一つに薩摩屋の屋号を掲げる家があった。由緒ありげだったのでお店に入って伺うと、
 参勤交代途上の定宿として指定を受け薩摩屋の屋号を名乗り、先々代まで宿屋を家業としていたとのこと。母屋に飾ってあった「薩摩宰相休」の札を見せてもらったが、同一筆体のものが山陽道の矢掛本陣(石井家)に所蔵されているとのことだった。このように藩主が泊まる各地の宿は指定されていてこういった札を掲げていたようだ。


 そして相逢橋(佐敷川)をわたると佐敷の商店街がまっすぐに延びる。ここに薩摩街道沿いの古い町並みの一つ、佐敷宿の「のこぎり家並み」が残っている
 のこぎり家並みとは通りに対して家々が斜めに建てられていて、敵の侵入時には建物の陰から様子をうかがうことがでるもので、九州内に数ヶ所残っているという。薩摩街道沿いに残る古い町並みの一つになっている。
 まっすぐに延びる商店街を歩いてゆくと、左側の店がこちら向きに建てられ、右側の店は逆に進行方向に向いて建っているのが分かる。佐敷の町は古くから「薩摩街道」の要衝の地として栄えた城下町で、現在でも歴史的な町割りや小路、九州では残り少なくなった「のこぎり家並み」などが残っている。佐敷城の城下町や宿場町の風情を後世に残そうと、景観形成住民協定を結び、町並み保存活動及び交流館「枡屋」を活動拠点とした、まちづくり活動を行っているという。
 きれいな白壁塗りの土蔵造り風の家がつづく「のこぎり家並み」を通り、「豊臣秀吉宿泊の地」の標柱、佐敷宿交流館、佐敷本陣「枡屋」(標石)をすぎると佐敷城跡への道案内がでていたが高台にあるのでパスした。

 佐敷をあとに小さな丘陵地を越えて湯浦に向かう。40分ほどで越えるが、途中に文明13年(1480)建立の湯治坂板碑があった。10時少し前、湯浦の町に着くと濃い霧も上がり青空が見えてきた。
 このあと津奈木太郎峠越えの道に入るが、赤松太郎峠、佐敷太郎峠越えの二の舞を踏まないよう、村の人に確かめたかった。しかしはっきりした答えを得られないまま峠越えの山道にさしかかると、入口に「歴史の道 薩摩街道山川石畳」の標柱が立っていて、「薩摩街道歴史ふれあいウォーク ⇒」の道案内もでていたのでホッとした。
 厳しい山道だったが石畳が残っているところもあり、道案内がしっかりでていて、分かりにくいところには誘導テープも張ってあったので迷うことなく40分ほどで津奈木太郎峠278m)の頂上に着いた。芦北町/津奈木町の町境でここに津奈木太郎峠の立て札が立っていて「安政2年御山番所を建てた。祖他茶店があり、薩摩の殿様が休憩し、駕篤を据えた場所があった」と書いてあった。
 下り道に入ると所々舗装道でさえぎられたが、道案内がしっかりでていて迷うことなく40分ほどで千代塚に下りた。そして国道をくぐった先で12時をまわったので、デコポンの木の横で昼食休憩をとった。

 このあと一旦国道3号にでたあと旧道にもどり、津奈木の町にくると聳え立つ大きな岩山が見えてくる。この上で日の丸がたなびいている。何だろうと不思議に思いながら津奈木川をわたった。この橋は北側にそびえる岩山「重盤岩」にちなんで津奈木重盤岩眼鏡橋と名づけられている。
 重盤岩について、「熊本百景の一つ重盤岩は、津奈木町の中心に聳えていて、その昔溶岩が固まってできた岩で、火砕流の堆積物とも考えられている。頂上付近は津奈木城があった場所を公園化しており、ふもとからの高さ80mの頂上で風にたなびく国旗は、現在の天皇陛下の誕生を祝して立てられた。云々、 平成19年」とある。

 このあと地形図に載ってないが、所々で国道3号と交差・合流しながら水俣に向かう古道が残っているようだった。この「薩摩街道歴史ふれあいウォーク」の道案内がでていて左の坂道を上ってゆくと、久子のコミカン原木の碑が立っていて、
 「現在ミカンといえば温州ミカンをさすが、温州ミカンは明治時代に鹿児島で発見された品種で、それ以前はミカンといえばコミカンがその代表だった。八代は紀州・駿府などとならび江戸時代からコミカンの産地として有名で、この木は所有者の祖先が八代から津奈木に移住した時、苗を持参したものといわれている」と説明が添えてあった。


 さらに歌坂の大日如来線刻(碑)を通る古道を歩いて町原バス停の手前で国道にもどった。20分くらい古道を歩いたと思う。なおも幾つか「薩摩街道<江戸 薩摩>」の道案内が立っていたが道があるとは思えなかったので、そのまま国道を歩き、新幹線・新水俣駅前を通って水俣市中心街に向かった。
 そして午後3時半、水俣市中心街から少し離れた湯出川(江南橋)をわたったところで今日はここまでとした。ここから水俣市中心街へでて午後3時半すぎに今日の宿「スーパーホテルCity水俣」に着いた。


     佐敷の家並み

  左側の店がこちら向きに


     峠越えの道へ

   津奈木太郎峠入口

     津奈木太郎峠

     岩山「重盤岩」


   津奈木重盤岩眼鏡橋

    歌坂を通る古道 
10平成211129日 晴れ 
水俣から出水(宿)へ(27km

7時半にホテルをでた。今日はほとんどが旧道。それに所々地形図にない古道が残っているようなので、道案内「薩摩街道<江戸 薩摩>」を見落とさないよう歩くつもりだ。
 昨日の街道筋にもどり、丘陵地越えの道に入るとすぐに、「薩摩街道<江戸 薩摩>」の標柱と「薩摩街道歴史ふれあいウォーク」の道案内がでていた。このウォークは今日なのでどこかで遇うかもしれないと、安心して落ち葉が散りばめた古道に入った。
 10分ちょっとでもどったが、途中に「幸徳之碑」が立っていて高山彦九郎にまつわる碑の由来が添えてあった。

 丘陵地を下ってゆくと侍街道「はぜのき館」が一軒ポツンとあった。櫨(ハゼ)を原料とする物産を展示・販売する物産館でろうそく作りも体験できるという。侍は地名で、豊臣秀吉の島津征伐の折、肥前佐賀の軍勢が陣を布いた場所といわれている。
 櫨の木は九州や四国の山地に自生するウルシ科の木で実から白ロウが取れる。別名「ロウノキ」で、水俣市はこの櫨の木の生産量が全国の約30~40%と日本一、特にこの侍集落は水俣でも最も多く櫨が残っているという。

 所々、ミカンの木が黄色く実っているのを見ながら丘陵地を下ってゆくと海が見えてきた。たぶん袋湾だろう。途中、道脇の畑で緑っぽいミカンを収穫していた。品種を尋ねると「スイートスプリング」で、温州ミカンとハッサクを掛け合わせたものという。「甘くて美味しいよ、持ってゆきな」とカゴから5~6個もってきてくれたが、一つが大きく重いので三つだけもらった。
 下におりると玉ネギ畑が多いのに驚く。また、玉ネギの苗を植えている人をあちこちで見かける。ここ芦北地区は玉ネギの産地で3月頃に収穫するという。東京より2~3ヶ月早い!
 一旦国道に合流したが、袋バス停をすぎた先で「薩摩街道<江戸 薩摩>」の道案内を見つけた。民家の路地裏を通る道で、なんとか読める古い道案内が所々に立っていたので辿ってゆくと草道に変わり、そのうち道が途切れてしまった。なおも古い道案内がたっていたので木々の小枝を掻き分け先に進むと、明るいところが見えてきた。国道からの入口でここにも古い道案内が立っていた。袋駅前バス停の少し手前だった。
 国道を横断する肥薩オレンジ鉄道の陸橋が見えてくると、「薩摩街道歴史ふれあいウォーク」の係りの人達が現れてきた。陸橋の手前で左折すると、ウォークの先頭の人達がやってきた。「県境を越えて ふれあいウォーク」の人達だ。
 そして境川にかかる「境橋」をわたり熊本県から鹿児島県に入る。藩境であるため防衛の必要から橋はなかったが、肥薩交流の接点として明治16年(1883)に今の石造りの太鼓橋が建造されたという。
 この古道は途中で途切れたが、「薩摩街道出水筋<江戸 薩摩>」の道案内が立っていたので再び古道らしい道に入った。しかし途中からミカン畑にまぎれこんでしまったので、作業していた人に道を教えてもらい、ミカンまでもらって国道にもどった。

 海岸沿いにでたあと国道から旧道に入ると、黄色く実ったミカンが目につきだす。そして櫓木から針原地区にくると、ミカンの産地を思わせるミカン畑がつづく。「ミカンの里/針原」の看板の下に大きな石があったので腰を下ろし、昼食休憩をとった。水俣でもらったスイートスプリングを食べてみた。皮が硬くてむき難いが、ハッサクのように大きく温州ミカンのように甘くて美味しかった。この道は歴史ふれあいウォークのコースだったのだろう。道脇に「ウォーキングの方食べて下さい」とミカン箱が三つ置いてあった。

 このあと桜田門外の変に加わった有村雄助首実検の地(碑)をすぎると野間の関跡がある。
 野間の関は「関が原戦前後に薩摩藩と肥後藩の国境の要地であったこの地(野間の原)に設けられた。関の規則は時代によって異なるが、他領への旅行者や物資の出荷を検査し、無証文の者は絶対入れなかった。江戸時代の後期の尊王思想家・高山彦九郎や歴史学者の頼山陽等が入国に苦労した記録が残っている。云々」とあった。ここに東郷平八郎元帥が書いたという野間之関跡の石碑が立っている。

 米ノ津をすぎ、肥薩オレンジ鉄道を横切って米ノ津川沿いに広がる田園地帯を抜けると民家が現れ、新幹線出水駅前で右折、米ノ津川をわたって旧出水宿の出水市中心街に入った。
 案内がでていたのでまず武家屋敷群に向かった。民族資料館で資料をもらってから武家屋敷群にくると、石垣塀に囲われた屋敷が現れてくる。この一つに宮路邸があった。大河ドラマ「篤姫」のロケ地となった屋敷で、同じく「篤姫」のロケ地の竹添邸、武宮邸が一般公開されていた。この他、上級郷士屋敷の典型といわれる税所屋敷、それに藩主が参勤交代の旅の際の宿泊所となった御假屋の武家門(御假屋門)が出水小学校の校門に残っている。
 出水麓武家屋敷群について、「江戸時代、薩摩藩は鶴丸城を本城とし、領内各地に外城(とじょう)と呼ばれる行政区画を設け統治にあたっていた。また、外城における統治の中心地を麓と呼んだ。当時の出水外城に麓は「向江」と「高屋敷」の武家地、および間に挟まれた町人地からなっていた。この「高屋敷」の武家地は「西南の役」や「太平洋戦争」の戦災からも免れ、麓造成時の街路や屋敷地割が良好に旧態を留めていて、出水麓武家屋敷群として国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている」という。約500m四方の住宅地にあって、一部の旧武家屋敷が一般公開されている。

 この旧武家屋敷を見て歩いたあと鬼坂(おんざか)を通って街道筋にもどり、街道沿いの「ホテルキング」に泊まった。チェックインしたのは午後3時半だった。


    落ち葉の古道

    玉ネギ畑が多い

    古い道案内が

       境橋

      野間の関

       宮路邸

    高屋敷の街並み 
11平成211130日 曇り 
出水から西方駅へ(39km

 7時半すぎにホテルをでた。街道筋を少しもどって、日本一のお地蔵さまを拝んでから出水をあとにした。このお地蔵さまは高さ4m、巨岩から切り出された一枚岩のお地蔵さまで、無病息災のご利益があるといわれている。
 このあと県道<369>を西に向かうと道脇に三百塚があった。ここに、
 「文禄2年(1593)、朝鮮出兵から島津7代忠辰の遺骨を守って帰郷した出水の将士たちは、戦争時の不首尾で秀吉の怒りをかった出水の地には帰る場所がなかった。天領となった出水5万石を目のあたりにし、主君忠辰の遺骨を丁重に葬り、主君の後を追って切腹、多数の殉死者があったという」と添えてあった。

 高尾野駅前から一旦国道504号に合流したが、野田郷駅前で国道から南に折れ野田郷歴史街道に入った。薩摩藩の外城制度の名残の武家門通りが1km余りつづき、昔ながらの武家門や玉石垣が見事につづく。出水麓のように一般公開されてない。菅原神社まできて武家門通りをあとにした。

 このあと丘陵地を越えて八代海から東シナ海の阿久根市に向かう。最初少し道に迷ったが、バス停「大丸」で折口川をわたり、さらに小川内橋をわたる。そして産業廃棄物中間処理場で右折し、コンビニ「街道の店・とみよし」の先で赤剝橋をわたって右の小道へ。道案内通りに桑原城跡をすぎてT路地を左折し、4本目の川をわたった。
 雨が降りそうになってきたので急ぎ足で歩き、高台を上って左に「とりたて市場」、鶴翔高校、そして右の運動公園をすぎると、右前方に海が見えてきて、12時半少し前に国道3号にでた。

 途中、4本の川が流れていてアップダウンを伴う小高い丘陵地越えの道だった。また、ややこしい道だったが、事前にGoogleマップで調べていたのでなんとかついてゆけた。

 正面に見える阿久根市民病院に向かって歩き、阿久根漁港にでると屋根付きベンチがあったので昼食休憩をとった。雨は降らなかったが寒くなってきたので、体が冷えないうちに出発。このあと阿久根駅前の国道にでて、駅前商店街を通って高松川をわたった。ここ阿久根は旧宿場だが、この面影をまったく見ることなくあとにした。

 このあと国道3号をひたすら歩くこと1時間半、途中、大きなミカン「ぼんたん」の直売店、高之口港、牛ノ浜駅をすぎ、長迫入口交差点で国道から分かれた。

 そして山裾の高台を通って薩摩大川駅に下りたのが午後3時すぎ、まだ早いので次の駅「西方」まで歩くことにした。
 再び山裾の高台を上って海沿いの道に下りると、鈴木段という海岸沿いの古道らしい道に入り黒牛の牛舎、墓地をすぎて急坂を下って西方橋をわたると西方御仮屋跡があった。少しもどって西方駅に着いたのは午後4時すぎ。16:26発の川内行きの電車に乗って、今日の宿「スーパーホテル薩摩川内」に着いたのは午後5時だった。


 今日は途中から今にも雨が降りそうで、しかも寒くなってきたので歩調が速くなり、結果的に40km近いロングウォーキングになった。薩摩大川駅に着くのが午後4時を回っていたら、ここまでとし電車に乗るつもりだった。


   日本一のお地蔵さま


    玉石垣が見事



      桑原城跡


   鈴木段という海岸
12平成21121日 晴れ 
西方駅から木場茶屋駅へ(32km+α)

昨日とうって変わって朝から良い天気。7時半少し前にホテルでてコンビニでおにぎりを買い、7:58発の電車に乗って西方駅に8:18に着いた。
 昨日のつづきを歩くと薩摩街道(出水筋)の説明がでていた。薩摩藩では街道のことを筋と呼び、参勤交代路には陸路と海路があったという。そして国道から左に山間部を抜ける県道<339>に入った。
 小さな峠を越えて湯田小学校、高城石塔群、菅原神社跡をすぎ、高城西中学校前で左折すると、「湯田町 峠路」の標柱が立っていた。15分ほどゆくと道が分かれ、まっすぐ進む旧道らしい細い道を上り切ると<薩摩街道>の案内がでていて、先ほどの道と合流する。ところがこの先「工事中に付き通行止」の看板が立っていて、それも今日(12/1)から。現場まで行くしかないと先に進むと、古道が残っていて<薩摩街道>の案内がでていた。蜘蛛の巣もなく気持ちよく歩ける道で10分ほどで元の車道にもどると「さつま街道跡」の説明板が立っていた。そして一條神社の前を通って一條殿橋をわたり県道<340>にでた

 県道を南に向かってしばらく歩く。途中、薩摩街道の標柱にしたがって左の脇道入り、バス停「並松」のところでもどったが、昔は松並木が見事だったという。ここ陽成町は西南戦争で一戦を交えられた場所で官軍や薩軍の無縁墓が多数残っているという。1時間ほど歩いてバス停「鞘脇」の手前で左の脇道に入った。

 「さつま街道とイボ神様案内」が立っていて、すぐにイボ神様を彫った石像があった。石像横に「秋禅覚尼」、元禄5年(1692)と書かれ、この通りがさつま街道跡で唯一原型を留めている場所、云々とある。薩摩街道の古道でこの先、竹林を抜け、道路工事中の道を横断し、西郷どんの腰掛石耳切坂をすぎて舗装道路にでた。こうして40分近く里山の森林を抜ける古道を歩いたが、危険な場所にはロープが張ってあり、所々に薩摩街道の案内や標注が立っていたので迷わずに歩けた。

 このあと高城町に向かって下りてゆき、12時少し前に県道<341>にでた。途中に梶蔵跡と西郷どんの手水鉢があった。
 梶蔵跡について、江戸時代、薩摩藩は紙の原料となる楮(こうぞ)を畑の土手に植えることを奨励し、税の代わりに楮の皮を納めさせた。乾燥した楮の皮を入れる蔵がこのあたりにあり、楮のことを方言で梶ということから梶蔵と呼ばれていたという。
 西郷どんの手水鉢は、弘化3年(1846)、岩永三五郎の設計で石造りの美しい眼鏡橋の妹背橋が架けられた。この工事に座書役として従事したのが18歳の西郷隆盛で、竣工までの3年間、朝夕この手水鉢を使ったといわれている。

 そして高城川に架かる妹背橋をわたった。今は鉄筋コンクリート橋だが、初代妹背橋は薩摩街道上に架橋された木造桁橋で、二代目妹背橋は石造眼鏡橋だったという。
 橋をわたると案内通り、県道<341>から左の小道に入った。古道らしいと思ったらすぐに道が広くなり、右に大きな工場が現れ、この鹿児島オキシトン(株)川内工場横を通って交差点にさしかかった。この手前に薩摩街道の標柱が立っていたので直進と勘違いし、まっすぐに坂を上っていくと京セラ(株)鹿児島川内の第2工場が現れてきたのでおや?・・と思った。12時半に近くだったので、腰を下ろせる場所を見つけて昼食休憩をとった。
 人が通りかかったので道を尋ねると、やはり間違えていた。
この道でも行けそうなので、そのまま歩くと15分ほどで元の道にもどり、上川内駅近くの肥後オレンジ鉄道線路をわたった。御陵下町にくると「旧薩摩街道」と刻まれたプレートが民家のブロック塀に埋め込まれていた。鹿児島県立川内高校にぶつかったのでこれを迂回した。

 川内市はかっての国府で、近くに薩摩国分寺跡がある。旧街道はこのあとも国道の東側裏道を通って、川内川に突き当ると渡し場「渡瀬口」の説明板が立っていた。昔は対面の「渡唐口(ととんくち)」まで渡し舟でわたっている。

 川内川(太平橋)をわたり、銀杏木川をわたると福昌寺仁王石像が二体一対で立っていた。薩摩街道の案内も立っていたが、区画整理された広い道を歩いて向田町を通りすぎた。川内市はかっての旧向田宿で、この中心地と思われたがその面影は残っていなかった。
 宮崎町で旧道らしい道にもどり、薩摩街道の標柱をみて百次川をわたった。このあと道を間違えたが、それでも国道3号にでたのが午後3時すぎ。そのまま国道を歩いて午後3時半すぎに木場茶屋駅に着いた。
 今日はここまで、午後4時すぎの電車で川内にもどって、昨日と同じ「スーパーホテル薩摩川内」に泊まった。ホテルに着いたのは午後4時半。今日のコースは地形図にない古道が多く残っていて、歩き応えある充実した一日だった。

 川内駅前に銅像が二つ建っている。一つは万葉集を編纂した36歌仙の1人、薩摩守大伴家持の銅像で、大宝2年(702)川内の地に薩摩国府が置かれ、天平宝字8年(764)に薩摩国府の長官に任命されている。もう一つは能「鳥追舟」を舞う二人の銅像で、川内が舞台となった室町時代の金剛弥五郎の作といわれている。 


   古道が残っていて


   県道に(振り返って)


    イボ神様の古道


   西郷どんの腰掛石


       耳切坂


    福昌寺仁王石像
13平成21122日 晴れ 
木場茶屋駅から伊集院(宿)へ(30km

 今日の天気予報は九州全域晴れマーク、降水確率ゼロ、温度19℃(鹿児島)だった。7時すぎにホテルをでると霧がかかっていて、昼のおにぎりを買って7時半すぎの電車にのった。山間の木場茶屋駅に着くと、霧が濃くてカメラのレンズに水滴が付くほどだった。

 ここから串木野まで国道3号を歩くが、旧街道は国道3号と鹿児島本線によって複雑に分断されているとのこと。所々に地形図に載ってない旧道(or古道)が残っていて、芹ヶ野公民館前~、旭小学校前~、中馬砕石場~、と旧道をたどった。濃い霧も途中から晴れてきた。
 バス停「薩摩山下」の手前で国道から分かれ、五反田橋をわたっていちき串木野市中心街の東側外れを通る。串木野は旧宿場町だがこの面影を見ることなく麓~串木野駅の東側~袴田地区を通りすぎた。そして家庭菜園場の中を通り抜け、鹿児島本線を横切って国道3号に合流した。八房川をわたると旧宿場「市来」旧道をたどって海側に入ると市来えびす市場があった。鹿児島名産の串木野さつま揚げを買って食べながら国道にもどった。そして宿場の面影を見ること無く市来をあとに大里川をわたった。

 ここで国道3号から270号にかわり、戸崎漁港との交差点近くで国道から分かれた。そして薩摩半島を横断して鹿児島市に向かう。入口に出水筋(薩摩街道)の説明板が立っていた。「ここは崎山の思案橋です。橋はありませんが・・・」とある。ところが「中原の治水溝」をすぎた先で道を間違え、どこを歩いているのか分からなくなった。とにかく西に向かって歩き、結局、東市来駅近くの国道3号にでるべきところを湯之元駅近くの国道にでてしまった。

 国道を歩いて東市来駅に着いたのが午後1時半近く。昼食を食べるタイミングを失っていたので、遅くなったがここで一休みし昼食のおにぎりを食べた。このあと国道から県道<24>に入って、薩摩焼の郷「美山」を通る。
 薩摩焼について、第17代薩摩藩主島津義弘が慶長3年(1598)に朝鮮から陶工約80人を連れ帰り、そのうち40人余りが鹿児島県串木野市島平に着船。そのご慶長8年(1603)に串木野から現在の東市来町美山に移住し、島津藩の庇護のもとで開窯したのが薩摩焼の始まりだという。この街道沿いに薩摩焼の窯元、陶苑、陶舎、陶窯が1km近くつづき、表門に大韓民国名誉総領事館と薩摩焼宗家14代沈壽官の札をかけた屋敷が後ろの方にあった。

 この薩摩焼の「美山」をあとに高台を下り、40分ほど歩いて旧宿場「伊集院」の街中にくるとと、大きな人頭石像二体がある。島津義久公剃髪石、説明によると、
 天正15年(1587)、豊臣秀吉が大軍を率いて川内川口に上陸したと聞いた島津義久は焦土決戦を辞さない家臣達を留意しつ、従士10余名を引きつれて鹿児島を立ち、途中伊集院本通りにあった母の菩提寺雪窓院を訪れ、境内にあったこの座禅石の上で髪を剃り、僧体となって秀吉に謁して降を請い(降伏し)、三州の旧領を維持することができたという。側に千秋山雪窓院跡の標柱が立っている。

 午後3時半少し前、伊集院駅前にきたところで今日はここまでとし、神之川をわたって伊集院駅近くの「玉利屋旅館」に泊まった。伊集院駅前に島津義弘の騎馬像が建っている。


   木場茶屋駅をでて

  中馬砕石場~の旧道

   薩摩焼の郷「美山」


   島津義久公剃髪石
14平成21123日 曇りのち晴れ 
伊集院から鹿児島(宿)へ(24km+α)

今日の鹿児島は曇りのち晴れ、温度18℃(前日比-3)、九州以外は雨マークの冬型の天気予報だった。今日は伊集院から薩摩街道の終点・鹿児島まで歩く。距離は約24kmだが、このあと国道3号と鉄道路線から離れ、山間を縫うように薩摩半島を横断する。

 朝食をゆっくり食べ8時少し前に宿をでた。そして薩摩街道を歩く最後の日! と心を弾ませ昨日の街道筋にもどった。両側の歩道に置灯篭風の街灯と柘植の木の街路樹が交互に並ぶきれいな道で、「永平橋」と彫られた記念碑のある橋をわたる。西郷隆盛が書いたといわれている。
 少し行くと大きなプレートが何枚か石垣壁に貼り付けられていて、この一つに島津義弘と伊集院について書かれたプレートがあった。ここに、「伊集院の地は義弘人物玉成の揺籃の地となり、九州制覇、朝鮮の役等に転戦したのち、最後の戦いとなった関が原の合戦では西軍に与し、敗色濃い中、東軍の適中突破という大激戦を戦いました。云々」とある。このほか東西両軍関ヶ原布陣図、関ヶ原合戦図屏風、島津氏略系図、妙円寺参り、等も描かれていた。

 島津義弘は豊臣秀吉の九州平定軍に対して奮戦したとされるが、島津軍は兵力で豊臣軍に及ばす兄・義久が降伏し、秀吉から所領安堵されている。このとき義久から義弘に家督譲渡されたといわれている。また関が原の合戦で適中を突破して薩摩に逃れた義弘に対し、家康は後に島津討伐に向かうも、関が原に主力を送り込まなかった島津には1万を越す兵力が健在なことから討伐軍を撤退し、島津本領が安堵されている。

 伊集院の町をあとに、車の往来が少ない県道<206>をしばらく歩く。そして薩摩街道の表示がでていて、古道らしい道を30分ほど歩いて太陽化学の工場脇にでた。途中に五本松茶屋跡があった。出口に「妙円寺詣り街道」の石柱が立っていたがコースは薩摩街道と重なっているようだ。
 妙円寺参りは関ヶ原の戦いでの苦難を忍び、約20kmを武者姿で歩き参詣する祭りで、鹿児島の三大祭の一つとされている。(10月第4日曜日)

 県道<206>にもどって、歩道の広いきれいに整備された道を歩いていると野菜畑が広がり、道脇に野菜の路上販売店が現れだした。11時少し前、横井地区をすぎたところで県道<206>から分かれ、鹿児島市街に向かって坂を下ってゆく。空気が冷たく感じ、振り返ると真っ黒い雲が迫ってきていたので、雨宿りできる民家が現れるまでと急ぎ足で歩いた。そして武岡の住宅地に着いたところでホッとし、振り返ると黒い雲がいつの間にか消えていた。
 なおも坂を下り常磐町までくると鹿児島市街地で、まもなく鹿児島市中心街に入る。西田本通のバス停をすぎ鹿児島本線のガードをくぐり、鹿児島城下の玄関口にあたる西田橋(甲突川)にさしかかった。このとき12時半をまわっていたので、橋のたもとの公園で昼食休憩をとった。午前中は今にも雨が降りそうな曇り空だったが、午後になって陽がさしてきた。

 かってここに架かっていた西田橋は石工岩永三五郎を招いて架けさせた歴史的建造物だったという。少し南に鹿児島中央駅が、下流に大久保利通の銅像がある。
 街道筋を進むと薩摩義士墓所(大中寺)、フランシスコ・ザビエル滞鹿記念碑、ザビエル教会とつづき、国道3号にでると薩摩藩主28代島津斉彬を祭った照国神社、西郷隆盛銅像、小松帯刀像、さらに鶴丸城跡、黎明館、薩摩義士碑とつづく。

 薩摩義士墓所は木曽・長良・揖斐3川流域の住民救済の大規模な治水工事に千人近い藩士が赴いて工事を完成させたが、難工事・悪疫の流行などで数多くの犠牲者をだしたという。この藩士の遺徳を顕彰し供養するために建立されている。鶴丸城壁外れ薩摩義士碑がある。

 フランシスコ・ザビエル天文18年(1549)に日本人ヤジロー(鹿児島出身)の案内で鹿児島に上陸し日本へのキリスト教布教の第一歩をしるした。島津家15代貴久は伊集院の一宇治城でザビエルと対面し領内布教を許可したが、その後仏教徒の激しい反対に遭い、期待した貿易船がやってこず、貴久は布教に冷たくなる。鹿児島を去ったザビエルは平戸から山口、堺、京都まで足をのばし日本のキリスト教伝道の道を開き、大分県の沖之浜からマラッカに寄航、1552年中国で亡くなった。この石造りの建造物は戦災で焼失した祈念堂の一部で、1949年ザビエル渡来400年を記念し、ローマ法王の寄付金で教会とザビエルの胸像が建てられた。(説明文抜粋)

 島津斉彬と照国神社について、早くから開国論を唱え西郷・大久保を指導して幕政改革をめざし、幕末史に強烈な印象を残す英明藩主斉彬のリーダーシップは、中央政界での活躍の他、藩政においても発揮され、集成館事業(造兵事業)を手始めに、紡績事業、造船事業を起こし、電信、製鉄、写真、ガラス、ガス灯、などの西洋文化を積極的に取り入れ、日本の近代化の基礎を築いた。
 造船事業では洋式軍艦昇平丸や我が国初の蒸気船雲行丸などの建造を手がけている。このような洋式船を建造し始めると、日本の船を表す旗が必要と考え日の丸を日本の旗印とするよう提案、安政元年(1854)幕府は日の丸を日本の総船印と定め、万延元年(1860)国旗に昇格している。
 安政5年(1858)炎天下での閲兵が災いして49歳の生涯を閉じたが、生前の数々の功績を称え、勅命により照国大明神の神号を授け元治元年(1864)に照国神社が創建された。鹿児島県の総守護神・氏神様として尊崇されている。(説明文抜粋)

 鶴丸城は鹿児島城の別名で、慶長6年(1601)島津家18代家久が関ヶ原合戦の後、政治・経済の中心地として居館を築き、周辺に家臣の屋敷を移し、慶長11年(1606)城の前の橋が完成。77万石の城といっても本丸、二の丸、下屋敷が並び、天守閣や層楼のない屋形づくりだったという。「城をもって守りと成なさず、人をもって城となす」という薩摩藩流の思想によるもので、藩内の各所には兵農一致の郷士団が守る外城がめぐらされていたようだ。維新後は熊本鎮台の分営として使われ、明治6年(1873)炎上。残されたのは城壁と疑宝珠つきの石橋だけという。現在、本丸跡に黎明館(歴史資料センター)、二の丸跡に図書館や美術館などが建っている。

 薩摩街道は鶴丸城までかもしれないが午後2時半少し前と時間が早いので、20分ほど歩いて鹿児島駅前から祇園之洲公園まで足を延ばした。
 この公園は稲荷川河口にあって祇園之洲町は鹿児島発祥の地として中世以来の島津氏ゆかりの地が数多く残っていて、鶴丸城に島津氏の居城が移るまで海の玄関口だったという。ザビエルも稲荷川河口に上陸したといわれ、琉球とも往来していたようだ(近くに琉球人松碑がある)。
 公園内に祇園之洲砲台跡、薩英戦争記念碑、西南の役官軍戦没者慰霊塔、移設復元された高麗橋岩永三五郎之像等がある。坂を上って多賀山公園にくると「東福寺城跡」と「東郷墓地と多賀山公園」の説明があった。高台に東郷平八郎銅像が建っている。

 祇園之洲砲台跡は島津斉彬が砲台6門をここに設置した。文久3年年(1863)の薩英戦争で初めて実戦に使われ、正午に始まった砲撃戦は3時間に及び双方に相当の被害がでた。最後尾で祇園之洲砲台を攻撃していたレースホース号が目の前で浅瀬に乗り上げたが、砲台はイギリスが誇るアームストロング砲ですでに打ち砕かれていて成すすべがなかった。イギリス側の死傷者63名、薩摩側は死傷者13名だったが、城下の被害はすさまじく西洋との力の差を知った薩摩藩は、この戦いを機に開国へと動き始めたという。
 高麗橋は鹿児島市の中心を流れる甲突川の五石橋(武之橋、高麗橋、西田橋、新上橋、玉江橋)の中でも二番目に長い4連アーチの石橋で、河川改修計画に合わせて祇園之洲に移設復元された。五石橋は城下整備の一環として肥後から招かれた石工・岩永三五郎によって架橋されている。
 東福寺城は南北朝時代に島津氏が鹿児島に進出した根城で、その後清水城、内城、鶴丸城が築かれ城下が南にのびている。
 東郷墓地と多賀山公園について、東郷平八郎は弘化4年(1847)加治屋町に生まれ15歳で薩英戦争に参加。イギリス海軍の力を目の当たりにしてイギリス留学を振り出しに海軍の増強につくし、明治38年(1905)日露戦争で連合艦隊司令長官としてロシアバルチック艦隊を破る。晩年、東宮学問所総裁をつとめた東郷元帥は昭和9年(1934   88歳で亡くなり、国葬によって多摩墓地に埋葬。多賀山には元帥の遺髪が葬られ銅像が建てられた。
 海上決戦において祖国を救った二大提督は日本の東郷と英国ネルソンといわれている。多賀山が墓所になったのは、鹿児島港に入る軍艦から真正面に見えることと、東郷を海軍に進ませた薩英戦争の遺跡・砲台跡を真下にみる場所だったからという。(説明文抜粋)

 この多賀山から鹿児島港が一望でき、正面に桜島の雄姿が望める。時計を見ると午後3時をすぎていたので、多賀山公園をあとに鹿児島市の中心街にもどった。
 観光ステーションに立ち寄って明日の鹿児島散策のための観光バスと桜島フェリーの資料をもらってからホテルに向かった。今日は中央公園前の「ホテル
&レジデンス南州館」に泊まった。


   伊集院の街並み

   石垣壁にプレートが

     古道らしい道に

   歩道の広い道を歩く

  ザビエル滞鹿記念碑

     西郷隆盛銅像

      鶴丸城跡

    祇園之洲砲台跡

   復元された高麗橋

    岩永三五郎之像

    東郷平八郎銅像

     桜島の雄姿が
15平成21124日 晴れ 
鹿児島散策

 今日は観光バス「カゴシマシティービュー」の一日乗車券(600yen)を買って鹿児島中央駅9:00発のバスに乗り、南州公園、仙巌園、桜島フェリーターミナルで下車し、桜島にわたったあと鹿児島中央駅にもどり、鹿児島空港15:10発のSNA78便で帰宅する予定。
 天気予報は晴れ、気温17℃だった。少し早いが8時にホテルをでた。歩いて鹿児島中央駅にくると、真っ青な空に若き薩摩の群像と称する大きなモニュメント碑が建っていた。
 碑の由来について、
 「1863
の薩英戦争でヨーロッパ文化の偉大さを知った薩摩藩では、前藩主島津斉彬の遺志をついで慶応元年(1865)イギリスへ19名の留学生並びに外交使節団を派遣した。まだ日本は鎖国中。甑島大島出張と偽って串木野羽島浦を出航し、道中驚きの眼を見はりながら66日目にロンドンに到着する。
 イギリスで紡績機械を購入し2年後に鹿児島市磯に日本最初の紡績工場を建設。またイギリス滞在の経験を活用していろいろ働きかけ、フランスが幕府を支援するのに対して、イギリスは薩長倒幕派を支援するようになり、倒幕運動の進展に重大な影響を与えた。慶応2年(1866)薩長同盟の成立以後、幕府と倒幕派対立が激化し、薩摩藩は派遣団からのヨーロッパ情報に大きな力を得て情勢を有利に展開した。
 留学生はその後、大部分の人がアメリカやフランスに渡って留学生活を続け、帰国後明治政府に仕えて留学の成果を大いに発揮した。こうした薩摩藩当局の勇気ある決断と若き薩摩の青年たちの積極的熱意は、日本の歴史を大きく転換させ、新生日本を建設する原動力になったのである。」とある。(説明文抜粋) こういうのを読むと心が動かされる・・・・。

 9:00発の城山・磯コースのバスに乗って南州公園に9時半近くに着いた。ここに西南戦争に敗れた薩軍2023名もの将兵が眠る南州墓地がある。熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れた薩軍は多くの死傷者をだしながらも九州を南下し、故郷の城山で最後の決戦を行い、明治10年(1877)城山で西郷隆盛が自刃して西南戦争が終わった。
 入口に建つ常夜灯は、西郷隆盛と勝海舟との会談により、江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年当時の東京市によって寄贈建立されものという。
 バス停にもどると、後ろが今和泉島津家本邸跡だった。篤姫が生まれ育った屋敷自体は現存しないが、通りに面して残っている石垣が当時を偲ばせているという。

 10時近くにバスに乗って10分足らずで仙巌園に着いた。正面奥に鶴峰神社、右に薩摩藩主別邸「仙巌園」、仙巌園入口から左、尚古集成館・駐車場にかけての一帯は、幕末、薩摩藩主島津斉彬が築いた工場群「集成館」の跡地で、国の史跡文化財指定されている。機械工場(現尚古集成館本館・重要文化財)や反射炉跡、工場の動力用水路跡が現存し、さらに地中には多くの遺構・遺物が眠っているという。

 工場群「集成館」は斉彬が、植民地化政策を進める西欧列強のアジア進出に強い危機感を抱いていた。日本が植民地にされないためには、日本を西欧諸国のような強く豊かな国に生まれ変わらねばならないと考え、嘉永4年(1851)薩摩藩主に就任すると「集成館事業」という富国強兵・殖産興業政策を推進。「集成館」はその中核となった工場群の総称で、鉄製砲を鋳造する反射炉、反射炉に鉄を供給する溶鉱炉、砲身を穿つ鑚開台、蒸気機関の研究所、ガラス工場などがあり、最盛期には1,200名もの人が働いていた。
 安政5年(1858)斉彬が急死すると、集成館は大幅に縮小され、文久3年(1863)の薩英戦争でイギリス艦隊の攻撃を受け焼失した。しかし斉彬の弟久光と久光の長男で家督を継承した忠義の手で集成館は復興された。尚古集成館本館はこのとき建てられた機械工場で、この集成館事業により薩摩藩は日本最高水準の技術力・工業力を持つに至り、明治維新でその威力が発揮された。
 明治4年(1871)集成館は官有となり、明治10年(1877)私学生徒がここを襲撃して西南戦争が勃発。奪還を図って攻防戦が繰り広げられ多くの工場が焼失し荒廃した。後に、機械工場は改装され、大正12年(1923)島津家の歴史資料館「尚古集成館」としてオープンした。(説明文抜粋)
 仙巌園は万治元年(1658)19代島津光久が鎌田出雲政近の大磯下津浜門屋敷を御用地と成し、御仮屋を建てたのが始まりとされている。島津藩ではすでに18代島津家久が城山に鶴丸城を建て島津氏の居城としており、仙巌園に建てられた御殿は島津家の別邸として代々の藩主に受け継がれている。
 鶴峰神社は明治2年(1869)島津家歴代の当主とその家族等をお祭りする神社として創建され、後に島津家歴代に由緒深い旧集成館工場跡の現在地に遷座された。境内地は国指定史跡集成館の一部になっている。
 島津氏は12世紀末、源頼朝から島津荘地頭職、薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護職に任命された惟宗忠久が島津を名乗ったことにはじまります。江戸時代になると、島津氏は琉球の支配も認められ72万石の外様大名として南九州を統治し続けました。
 忠久は源頼朝の長庶子といわれ、境内に鎌倉市民有志から寄贈されたという源頼朝公石塔がある。「・・・荒廃した源頼朝公の墓所を再興した島津家にその恩に報いたいと玉垣を添え遷座するものである」とある。

 このあと10時半すぎのバスに乗って、鹿児島水族館前から桜島行フェリーに乗って桜島にわたった。フェリーに乗っていたのは15分ほどで、桜島に11時すぎに着いた。
 桜島の大部分を構成する御岳は南北にならぶ北岳、中岳、南岳からなり、最高峰の北岳(標高1,117m)を御岳と称している。南岳の近くに噴煙を上げている昭和河口がある。活火山ランクAの山で、南側半分は大正溶岩、昭和溶岩で形成されている。人口は年々減少、平成19年で約5,800人。鹿児島の反対側で大隅半島とつながっている。
 
 大正溶岩が海まで迫る桜島の東側海沿いに溶岩なぎさ遊歩道がある。途中に全長100mあるという天然温泉の足湯があった。もちろん無料で多くの観光客がくつろいでいた。上流の方は足を浸せないほど熱かった。
 このあと溶岩原を間近に見る「溶岩なぎさ遊歩道」を歩いた。振り返ると、桜島御岳の噴煙の白い雲が漂っている。この道は海沿いに約3kmつづくが、飛行機便に間に合うよう途中で引き返し、12時すぎのフェリーで鹿児島にもどった

 こうして薩摩街道を歩く「みちの旅」を無事終え、鹿児島空港15:10発のSNA78便で帰路についた。家に着いたのは午後7時だった。

           (完)


                           


    若き薩摩の群像

     南州墓地
  今和泉島津家本邸跡

      仙巌園

    工場群「集成館」

   大正溶岩が海まで

    天然温泉の足湯   

   溶岩なぎさ遊歩道

    桜島をあとにして

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