山陰道は京都丹波口から亀山、福知山を経て和田山から鳥取へ。そして日本海側を西に米子、松江、出雲、浜田を経て益田で日本海を離れ、冠山山地の西端を抜けて津和野、山口を経て小郡で山陽道に合流する。
 この山陰道は五機七道の一つで、京都府(丹波、丹後)、兵庫県(但馬)、鳥取県(因幡、伯耆
(ほうき))、島根県(出雲、石見、長門)の各国を横切って周防国小郡に至る。距離は714km。山陰道の名称は山陰街道、丹波海道、丹波路とも呼ばれ、固有の名称が定着していたとは言い難い。同じ道でも京都に向かう場合は京街道、京道の名称で呼ばれている。

山陽道
みちの旅
平成211011日(日) 晴れ
京都(丹波口)から亀山(宿)へ (23km+α) 

9月に入って、足慣らしにと近くの青梅街道、五日市街道を歩いた。薩摩街道は熊本まで歩いたところ。まだ暑い日がつづいているので、つづきは11月後半~12月前半にまとめて歩くことにし、この間に少しでも山陰道を歩くことにした。
 旧山陰道は京都市中心街を西に抜けてから国道9号に沿って北西に向かうが、園部~福知山の間は鉄道路線から離れる。今回は京都から福知山までの約96kmを3泊4日で歩く。

 拝島駅6:11発の電車に乗って京都に9時半に着いた。資料「京の古道を歩く」に従って西本願寺の北側を通って大宮花屋町交差点を右折し、本田歯科医院の先で左の路地「丹波街道町」に入った。旧山陰道らしい面影はまったく残っていないが、民家の軒脇に「下京区 丹波口道下松屋町西入 丹波街道町」の町名標示が残っていた。
 西新屋敷太夫町にくると「大門」をくぐる。この門に「島原」の提灯が下がっていて脇に島原の説明が添えてあった。

 島原は江戸時代以来、公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきた。寛永18年(1641)、官命によって島原の前身である六条三筋町から現在の朱雀野の地に移された。その移転騒動が九州で起きた島原の乱を思わせたところから一般に「島原」と呼ばれてきたが、正式地名は「西新屋敷」という。
 この島原は単に遊宴を事とするにとどまらず和歌、俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。しかし、明治以降の島原は次第にさびれてゆき、現在では揚屋(今の料亭にあたる店)の「角屋」、置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋」、それに島原入口の「大門」、これら3箇所がわずかに往時の名残をとどめるものとなっている。云々とあった。


 この先に昭和60年(1985)まで営業がつづけられた角屋(すみや)が「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されている。
 角屋は寛永18年(1641)の島原開設当初から連綿とつづく揚屋で、江戸の吉原になく、京島原と大坂新町にあった。揚屋は置屋から太夫(傾城の最高位)や芸妓を呼び遊宴をするところで、遊宴のみならず、和歌、俳諧の文芸の席やお茶の席があり、文化サロンとしての役割を果たしていた。したがっていわゆる遊郭の店でなく、外観の格子造りも、京の近世初期の町家の形を遺しており、吉原の牢屋のような格子造りではないという。
 屋敷脇に「長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角屋」の碑が立っている。幕末には西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤皇の志士たちが、軍用金調達のために時の豪商を招いて会議を行い、彼らを探し求めた新選組が乱舞した場所でもあった。新選組の局長クラスの宴会があったが池田屋のような乱闘はなく、因みに芹沢鴨は文久3年(1863)に角屋で行われた新選組局長クラスの宴会に出席し、その夜屯所で暗殺されている。国指定重要文化財建造物。

 近くに東鴻臚館跡、西鴻臚館跡がある。平安時代に京の中央を南北に朱雀大路が貫き、この朱雀大路を挟んで東と西に設置された外国使節を接待・宿泊させる迎賓館とある。

 このあと七条通りを西に向かう。途中から道が狭くなり緩やかにカーブする昔ながらの旧道らしい道に変わる。所々に土蔵・格子戸造りの家が残る京都市中心街を抜けて11時半すぎに桂川(桂大橋)をわたった。この川淵に桂離宮があるので立ち寄った
 桂離宮は17世紀に八条宮家(桂宮家)の別荘として造営されたもので書院、茶屋、回遊式庭園から成り、近世の皇族の別荘の実態を伝えるものとして貴重らしい。入口がわからず敷地を一周することになった。今日は休館日だったが、敷地内で稲刈りをしているのが見えた。宮内庁京都事務所が管理している。
 旧道にもどり京都六地蔵巡りの霊場「桂地蔵寺」をすぎると古い道標が立っていた。「右、左・・・」とあるが解読できない。歩きはじめて3時間、12時半すぎに旧宿場「樫原」の町にきた。
 宿場町を思わせる家並みがつづく一角に樫原陣屋跡(本陣)の説明板が立つ屋敷があった。京都市内で唯一残る本陣遺構とある。樫原宿は山陰街道の京都寄りの一番目の宿場で、往時は昼間でも三味線の音が聞こえる相当に発展した町だったようだ。また丹波は明智光秀の所領として、また蛤御門の変(1864)で逃れてきた長州勢兵士にちなむ説明板が立っている。


 樫原宿をあとに国道9号を横断し緩やかな坂を上ってゆく。道脇の「山陰街道中山」の標示をすぎると、右手山側に淳和天皇御母御陵、桓武天皇御母御陵とつづく。
 「山陰街道沓掛」の標示をすぎた先で再び国道を横断し、京都成章高校前で小道に入ると京都霊園内に通じていて洛西散策の森を進む。国道が横に走っていて新老ノ坂トンネルに入るところで、通行止の紐が張ってあった。
 かまわず進むと小道が途切れ、右手にわずかに足跡が残る山道が通じていたので上ってゆくと古道らしい道にでて、西部クリーンセンターに通じる道の下をくぐってゆくと舗装道路にでた。ここに首塚大明神があり、この先に「従是東山城国」と刻まれた国境石があった。ここで山城国から丹波国に入る。

 少しゆくと「京都の自然二百選、老ノ坂峠(山陰道)」の標柱が立っていて、このあと一気に道を下ってゆく。王子橋の親柱の横を通って国道に合流。そして府道<402>に入って王子神社、さらに篠村八幡宮をすぎて篠町にくるとの手づくりの旧山陰街道表示がでていた。
 年谷川をわたると亀岡市中心街「旧亀山宿」に入る。この橋のたもとに千本松跡の説明板が立っていて、両岸堤防に明智光秀が植えたという見事な松並木がつづいていたと書いてある。
 八坂神社をすぎると旧宿場らしい土蔵造りの家がつづく。平安時代の武将源頼政の守本尊を祀った古世地蔵堂、そしてタイル・カラー舗装された京町通り、呉服通りを通り本町通りに入ると予約したビジネスホテルの最寄地点。このあと丹波亀山城古世門跡、高札所跡、大手門跡を通って亀山城跡に向かった。

 亀山城は天正5~7年(157779)明智光秀の丹波攻略の拠点として築城。3層の天守閣を備えていたと伝えられている。その後小早川秀秋によって築城整備され、岡部長盛が亀山藩主のとき大阪城の包囲網として西国大名の夫役による天下普請で完成。明治11年(1878)の廃城令で解体されるまでその雄姿を誇っていたという。
 大正8年(1919)荒廃していた城跡を教団「大本」が買取り、石垣を積み直して「天恩郷」として神苑整備され現在に至っている。城内は大本本部境内になっているが入ることはできる。しかし本丸跡に上ろうとすると「聖域につきこれより上はご遠慮ください」とあった。

 午後5時、亀岡市の街道筋近くのビジネスホテル「サン・ロイヤル」に着いた。
                                        


    「大門」をくぐる


     角屋(すみや)


       桂離宮


     樫原の町並み


   樫原陣屋跡(本陣)


    古道らしい道に


  旧亀山宿の町並み


      亀山城跡
平成211012日(月) 晴れ
亀山から須知(宿)へ (29km) 

 ホテルをでると曇り空で一面ボーと霧がかかっていた。7時半すぎに街道筋にもどって昨日のつづきを歩く。10/2325に開催される亀岡祭に巡行する山鉾のパネルが町々に出ている。
 亀岡祭は大堰川(おおいがわ)の氾濫による水害封じを祈願するために始まり、各山鉾町の町衆たちが大切に守り育て、今日まで受け継がれてきている。町々の山鉾11基が旅籠町に集結した後巡行がおこなわれ、亀岡祭が終わると丹波・亀岡は冬を迎えるという。亀岡市指定無形文化財になっている。

 この
宿場町の面影を残す旧亀山宿をあとに曽我谷川をわたった。そして伊達神社をすぎて桂川に沿って上流に向かう。歩き始めて1時間半、まだ稲刈りが終わっていない田園地帯を抜けて千代川駅近くにくると立派な門を構える学校があった。千代川小学校の校門で亀山城の遺稿「御殿門」との説明が添えてあった。
 霧も上がり青空に変わってきた。旧街道らしい昔ながらの街並みを残す八木駅近くの町をすぎ、桂川に沿ってしばらく歩くと「これより鳥羽宿」の石柱と説明板が立っていて、
 「江戸中期宝永年間(1704~)に大椻川が大氾濫したとき、幕府は直轄工事として大椻川の流れを今の流れに改修した。そして山陰街道をこの地に移し新道をつけ、諸藩の参勤交代に資し庶民の交通・運輸の便を図った。付近の民がここに集まり、人家が建ち並んで鳥羽宿ができるようになった。やがて鳥羽宿は山陰街道の重要な宿場町となり、往来の馬に水を給するために街道に沿って水路が開かれ、町の中央には木屋という本陣が位置し、ほか旅籠や料理屋・飲食店・油屋・船問屋など70軒程の賑やかな町並みが栄えた。明治33年京都鉄道開通とともに宿場町としての役を終わり、今はその面影がない。鳥羽には園部藩の年貢米の米蔵もあり大椻川水運の重要な中継地でもあった。云々」とあった。

 亀岡でも大椻川氾濫の話がでていたが、大椻川の呼称は地形図には載ってなく国土地理院は桂川で統一している。また鳥羽宿のことは資料に載ってなかったが、大椻川と園部川の合流地点である鳥羽村は丹波北部一帯から京へ物資を送る水運の拠点であり、交通の要所として宿場の景観を呈していたようだ。
 このあと一旦国道に合流するも、すぐに分かれて旧宿場「園部」の町に入る。本町商店街のくると旧宿場らしい土蔵造りの家が残っていて、この一軒に旅館「合羽家」がある。間口の広い家でかっての旅籠だったようだ。稲荷神社をすぎて園部川をわたり、解読不能な古い道標、千手観世音、城崎神社をすぎ、園部の町をあとにして国道にもどった。

 園部から須知、檜山、菟原の宿場を経て福知山に至るが、この間の約55kmは山陰本線から離れる。そして旧街道は観音峠を越える山道に入る。そんな道があるように思えずそのまま国道を歩き246mの観音トンネルを抜けた。峠道には峠観音があり頂上に一里塚があったらしい。
 トンネルを抜けたあと1時間ほど歩き旧道、国道、旧道とたどって旧宿場「須知」の町に着いた。昔ながらの旧街道らしい道をゆくと「歴史街道 丹波・須知(しゅうち)地区」の案内がでていて、江戸時代には山陰街道が須知地区を通り、宿場町として本陣・脇本陣・人足問屋・旅籠宿・茶店などが並び栄えていた。現在でもその風情を残す街並みが残っているとある。
 大きな町ではないが街道筋に宿場町を思わせる土蔵造り、格子戸造りの家が多く残っている。
国道や鉄道が町を迂回しているので往時を偲ばせる街並みがよく残っているのだろう。
 京都といえどこの辺は雪が多く、各家々は長い庇を張り出すよう街道より少しさがって建っているらしい。この軒下で旅人が休憩したりしていたという。

 一通りみて歩き、午後3時半を回ったところで今日はここまでとし、今日の宿「花丘センター」に午後4時すぎに着いた。この宿は須知の町外れにあり、長期滞在、学生の合宿に使われているようだ。須知の宿はインターネットの「ホテル・旅館ネット」で一軒みつけたが残念ながら営業してなくここを紹介してくれた。


     山鉾のパネル

  稲刈りが終わってない


  立派な門を構える学校


     園部の町並み


   風情を残す街並み
3.平成211013日(火) 晴れのち曇り
須知から三和町へ (27km) 

 8時少し前に宿をでた。すがすがしい朝日を浴びながら、人気のない静かな須知の町を通って昨日の街道筋にもどった。
 旧街道は京都府の中部、兵庫県との県境近くの丹波高地の山と緑に囲まれた集落を縫って北西に向かう。稲刈りが終わった旧道らしい道を歩いていると豆畑が目にきだす。農家の人に尋ねると特産物「丹波黒豆」だった。

 歩き始めておよそ1時間、旧宿場「檜山」の町に着くと旅館「油屋」があった。旅籠を思わせる屋号だが今風の建物だった。街中交差点に古い道標が立っていたが解読できなかった。

 このあと国道9号と所々で交差・合流しながら兵庫県の和田山へ向かう。2時間近く歩き、下大久保の集落ぬけ国道を歩いていると「山陰道細野峠越」の案内板が立っていた。菟原(うばら)へ抜ける峠越えの道、地形図に破線(1.5m未満の道)で描かれている。30分くらいで越えられそうな距離。でも入口が雑草ぼうぼうで荒れていたので無理をしなかった。

 土師川に沿って国道を1時間半ほど歩いて菟原集落にくると、前と同じ「山陰道細野峠越」の案内板が立っていた。ここで旧道にもどって土師川をわたると旧宿場「菟原」の町。黒瓦屋根の家が並び、鯱?鬼瓦をつけた家を多く見かける。
 きれいな菟原の町並みをすぎると、ふたたび昔ながらの旧道らしい道がつづく。このあと二度ほど国道に合流して千束地区をすぎ、芦渕交差点にさしかかると、予約していた宿「三和荘」の案内がでていた。午後3時を回ったところ、今日はここまでとし宿に向かう。


 国道9号脇にポツンとある施設だが、披露宴から多目的ホール、香明の湯、スポーツ施設まで揃った立派な施設。早く着いたのでゆっくり休み、夕食は季節メニューの鹿肉特別料理を食べた。この辺は鹿が獲れるようだ。
 
「三和荘」はNPO法人(丹波・みわ)が運営する宿泊施設で国道9号近くにある。インターネット「ホテル・旅館ネット」、京都府→福知山市で探した。


   旧道らしい道を歩く

   旧菟原宿の町並み

     街道風景
4.平成211014日(水) 晴れ
三和町から福知山(宿)へ (17km) 

 8時に宿を出ると、夜中に雨が降ったようで地面がぬれていた。霧で一面もやっていたが、薄日が射していて天気はよさそうだった。すぐに旧道に入り、40分ほど歩くと生野宿の説明板が立っていた。ここに、
 「江戸時代には宿場7軒、本陣、高札場出張り、蔵屋敷などがあって、人力車や馬車の乗り継ぎ場をはじめ様々な店が立ち並び、400m余の宿場の盛況は明治になっても変わらなかった。云々」と、少しゆくと「このあたりが、約千年前の平安時代から京の都と丹後の国を結ぶ京街道宿場町として栄えた『生野の里』です。・・・・」とあった。
 今回調べた資料には生野宿はなかったが、官道の時代は宿場だったのかも・・・・。そして生野天満宮前の坂を下って国道を横断し土師川をわたった。途中に古道京街道の表示がでていた。
 しばらく行くと街道沿いに、くっついた2本の木が共に樹齢数百年を経ている巨木「かごの木・むくの木」、および北向地蔵と燈籠があった。

 なおも土師川に沿って2時間ほどを歩く。旧道なのでそれほど退屈しない。途中、バス停「長田」、「砂子池」をすぎると福知山温泉があった。いつの間にか周りの山々が遠のいていた。福知山盆地なのだろう。工業団地を抜けて土師川をわたり福知山市街に入った。ここは旧福知山宿、時計を見ると11時半少し前だった。
 土師川は福知山中心街の東にある福知山城近くで由良川に合流する。この土師川に沿って県道<55>を北に向かうと、まもなく福知山城公園の前にでて福知山城が目の前に現れ、昇龍橋をわたって場内に入った。
 福知山城は天正7年(1579)、織田信長の命を受けた明知光秀が丹波を平定した時から始まり、堀と土居に囲まれた城下町が整備されたのは、関ヶ原の戦いの後入部した有馬豊氏時代といわれている。福知山城の石垣に自然石と割石に混じって五輪塔・宝篋印塔などの石塔類が大量に使用されていて、丹波を平定した光秀は福知山城の縄張りを行い、治政に反抗的な近隣社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと伝えられている。
 明治の廃城後わずかに残された本丸に、昭和60年に2層2階の小天守閣、続き櫓が、昭和61年に3層4階の大天守閣が再建されている。

 天守閣に上って福知山市街を一望してから街道筋にもどった。このあと由良川に沿って「福知山の古い町並み」といわれる道を通る。そして福知山城の城門を移築した寺院の一つ、明覚寺、法鷲寺、それから明治13年建築された古い町屋(治水記念館)の前を通って高良厄除神社にくると、「右 京・大坂 道/左 丹後・但馬 」とくっきり彫られた道標が立っていた。
 そして午後1時すぎ、昭和通りにでたところで今日はここまでとし、明智光秀を祀った御霊神社に立ち寄ってから福知山駅に向かった。

 駅に着いたのは午後2時少し前、遅くなったが駅構内のラーメン店で昼食を食べ、14:39発の特急はしだて6号に乗った。家に着いたのは午後8時少し前だった。


   すぐに旧道に入り

   かごの木・むくの木

      福知山城

  福知山の古い町並み
5.平成211027日(火) 晴れのち時に雨
福知山から下夜久野駅へ (19km) 

今回は福知山から中国山地の北部を抜けて日本海側の鳥取まで約148kmを5泊6日で歩く。ほぼ国道9号に沿っているが八鹿~鳥取間は山陰本線から離れる。
 詳しくは、福知山盆地から丹後山地南側に流れる牧川に沿って夜久野高原を越えて兵庫県に入り、磯部川、円山川沿いを下って八鹿へ。ここから中国山地(大野峠、春来峠、蒲生峠)を越えて鳥取県へ。そして日本海の鳥取砂丘を通って鳥取市へ、といったコース。

 拝島駅5時半すぎの電車に乗り、八王子経由で新横浜7:05発の新幹線に乗った。昨日の雨も上がっていて、真っ青な空を背景に白く冠雪した富士山がとてもきれい。しかし京都近くにくると所々で雨が降っている、といった不安定な天候だった。
 京都で乗り換える山陰本線は一番端っこのホーム、いかにもローカル線という感じ。福知山駅に着いたのは11時少し前、薄曇りであまあの天気だった。

 前回の街道筋からつづきを歩く。福知山駅からでている北近畿タンゴ鉄道の「荒河かしの木台駅」前をすぎた先で牧川(由良川支流)をわたった。このあと天橋立(国道175号)に向かう道と分かれ、西へ牧川に沿って山陰本線と国道9号、旧街道を束ねるようにして夜久野高原に向かう。旧街道はこの国道と所々で交差・合流していて、御神燈と刻まれた石灯籠や石仏があって旧街道を思わせてくれる。


 歩き始めて2時間ほど、上川口駅の標識をすぎたあたりから空模様が怪しくなり雨が降ってきた。パーと降ってすぐに止んだが、通り雨のように何回かこのあとも雨に降られた。途中、小さな集落をいくつか過ぎ、夜久野トンネルをくぐってまもなく下夜久野駅に着いた。午後3時すぎ、次の夜久野駅まで8km以上ある。
 今日は福知山駅近くの宿を予約している。1時間近い待ち時間だが、ここまでとし電車で福知山にもどって今日の宿「ビジネスホテル松代屋」に着いたのは午後4時半少し前だった。


    西へ牧川に沿って

       石灯籠

     街道風景
. 平成211028日(水) 晴れ
下夜久野駅から八鹿(宿)へ (32km)

 8時前、ホテルを出ると一面霧がかかっていた。昨日の街道筋にもどって8時半すぎからつづきを歩く。昔ながらの家並みが残る下夜久野の集落を歩いていると、「“広い心” 相手の気持ちを受け入れて わかり合い許し合う そうすることで自分の心が磨かれ どんどん大きくなる」と書いた黒板に惹かれた。教育のまち福知山/教育委員会教育研究室の黒板だった。
 このあと、所々で国道と交差・合流しながら緩やかな坂を上ってゆく。いつの間にか霧が上がり青空が現れてきた。
 
 歩き始めておよそ2時間、みちの駅「やくの」の標識が見えたところで右折すると、郷土資料館、夜久野荘、観光案内所、夜久野高原温泉、丹波戦国料理「やくの本陣」が建ち並ぶ「農匠の郷やくの」があった。

 ここ夜久野高原は室町時代の将軍家跡目相続を巡って、全国を二分した大乱となった「応仁の乱古戦場」であり、縄文時代の住居跡など、数多くの歴史資源が残されているようで歴史散策コースの案内がでていた。
 ここから少しゆくと兵庫県・朝来市の標識が立っていて、振り返ると京都府・福知山市の標識が立っていた。この府県境の兵庫県側に夜久野茶屋がある。
 武士の出といわれる一道貞心がおこした茶堂(放光院)は、寛政の昔、水の乏しい夜久野ヶ原を旅する人の飢えを救うために湯茶の接待をしようと再興したお堂であったと伝えられ、大師堂とも呼ばれている。
 また、この茶堂を中心に夜久野高原一帯に設けられた88の石仏があり、四国八十八ヶ所大師霊場を移したものといわれている。この石仏群巡拝コースが設けられている。

 府県境をあとに豆畑が広がる緩やかな坂を下ってゆき、但馬牛だろう牛舎をすぎて国道9号にもどった。さらに大内部落を通って山陰本線の下をくぐった。そして梁瀬駅前をすぎてからしばらく歩き、玉置橋(円山川)をわたると朝来市中心街で、和田山駅前に着たのは午後1時を回ったところだった。この駅待合室で昼食休憩をとった。
 朝来市は4町の合併で誕生した新しい市。かっての旧宿場「和田山」の面影は駅名が残るだけで、ほかに見るものなく山陰本線のガードをくぐって和田山をあとにした。

 このあと円山川に沿って昔ながらの旧道がつづく。1時間半ほど歩いて養父市場の町にくると錦鯉販売所があり、ここ養父市場は「鯉の里」で、その始まりは江戸時代とも、それ以前からともいわれている。云々と鯉養殖の歴史が書いてあった。
 「但馬牛黒毛和牛」のお店、「従是・・・出石領」と刻まれた道標、養父神社をすぎ、上藪崎の集落を通って大屋橋をわたった。ここから円山川の土手道をしばらく歩き、一旦国道312号にでてから養父市中心街に入った。4町合併前の八鹿町で、旧宿場「八鹿」になる。

 京口通りを通って八木川をわたると、正面に八柱神社、土蔵造り風の建物「八鹿ふれあい倶楽部」が、仲町にくると昔風の土蔵造りの家が何軒か残っていた。午後4時半すぎ、旧八鹿町を抜けて県道<6>にでると、左に今日の宿「ホテル郁栄」があった。

 地図を見ると、養父市を流れる円山川は北側の日本海に注ぎ、姫路市を流れる市川が瀬戸内海に注いでいる。この川の上流が同じ生野地区にあるので日本海と瀬戸内海が南北に一本の細い緑(平地)でつながっている。


   下夜久の町並み

     夜久野高原

     夜久野茶屋

   旧八鹿宿の町並み
平成211029日(木) 晴れ
八鹿から村岡(宿)へ (38km) 

 旧山陰道は八鹿で山陰線から離れ、中国山地(大野峠、春来峠、蒲生峠)を越え、鳥取県の日本海に出たところで山陰本線と巡りあう。今日は八鹿から八木川に沿って上ってゆき、大野峠を越えると湯船川に沿って下ってゆく。国道9号と所々で交差・合流しながら村岡(宿)まで歩く。距離はおよそ38km。

 ホテルを8時前にでた。今日も一面に霧がたちこめていた。国道沿いに点在する集落を縫うように旧道が残っている。30分ほど歩いて高柳集落を抜けるころには霧がはれてきた。今日も良い天気で気持ちよい。しかし、山間を抜ける国道は道幅が狭く追い越し禁止で歩道がないのが一般的で、景色はよいが歩きづらい。
 道は緩やかな上りで八木川に沿って棚田がつづく。黄金色に実った棚田はとてもきれいだ。2時間半ほど歩くと手ごろな石灯籠があったので休憩し、11時前に関宮に着いた。

 ここから国道9号に沿って八井谷峠を越える道と、県道<87>に沿って大野峠を越えて福岡に至る道に分かれる。八井谷峠を越える道は倒木、土砂崩れで通行困難らしいので、5kmほど遠回りになるが今回は大野峠越えのコースをたどることにした。
 吉井集落にくると草花の大規模なビニールハウス栽培をやっていて、出荷前のシクラメンがきれいだった。日本精鉱中瀬精錬所をすぎると民家もなくなり、八木川に沿って上ってゆく。
 小路頃集落から右に大きく曲がって北に向かう。次第に坂がきつくなり左に氷ノ山国際スキー場、そして葛畑集落にくると左に鉢伏高原・ハチ高原各スキー場と分かれ、旧街道は真っ直ぐ大野峠に向かう。午後1時に大野峠の頂上(500m?)についたが峠標識やベンチあるわけでなくそのまま通りすぎ、この先の大野集落で昼食をとった。

 午後2時に福岡の集落に着いて八井谷峠越えの国道9号と合流した。そして笠波峠(335m)の標識をすぎると湯船川に沿って下ってゆく。行く先下方に村岡らしい町が見える。このあと単調な国道をひたすら歩き、午後3時半すぎに旧宿場「村岡」の町に着いた。
 村岡商店街の入口門をくぐり石仏群、大運寺をすぎると商店街路灯に「村岡城下町」の表示が付いていた。そして村岡藩主山名氏歴代の菩提寺・法運寺に高松宮殿下が宿泊された碑が立っていて、昆陽川をわたり旧村岡宿の中心地にくると今日の宿「かじや旅館」があった。午後4時前、予定より1時間早く着いた。

 予約したはずだが受けていないという。困ったなあ!と思ったが女将さんは快く部屋に通してくれた。大きな旅館だが寂れた感は否めなかった。すぐにお風呂を準備してくれ、手洗いした洗濯物の脱水もしてもらった。夕・朝食のご飯がふわふわとしていてとても美味しく、すてきな女将さんの“もてなしの心”、に心温まるものを感じた。


   山間を抜ける国道
    石灯籠で休憩

   出荷前のシクラメン

     大野峠の頂上

   旧村岡宿の町並み
平成211030日(金) 晴れ
村岡から湯村温泉へ (22km) 

豊岡地方の天気予報は晴れ曇り、降水確率0%、気温23℃で濃霧注意報がでていた。山陰道を歩いて気づくのは天気が良くても早朝は霧が多いことだった。今日は厳しい山道もなく余裕あるスケジュールなので朝食をゆっくり食べた。
 旅館の
女将さんは5代目だという。建物は130年経ち古くなっているが、女将の「もてなしの心」は今に引き継がれていると思った。1年かけて建て替えるとのことで、私が最後のお客らしかった。またお婆さんが受けた予約電話のメモがあったとのことだった。ビジネスホテルを利用する機会が多くなったが、改めて「日本旅館の良さ」を感じた。

 8時に旅館をでると朝霧がかかっていたがすぐに陽がさしてきた。木々は赤みがかってきて紅葉シーズンを迎えようとしているのどかな湯船川沿いの道を通って、かじや旅館のもてなしの心地よさを残し旧村岡宿をあとにした。
 村岡トンネルをくぐって入江集落に入ると「熊の出没注意、危険!」の看板がでていた。こういうのを見るとあまり気持ちよくない・・・・。このあと国道9号は大きく左に曲がって春来トンネルへ。旧道はヘアピンカーブの急坂がつづく県道<265>を上って置知峠へ、さらに長楽寺への分かれ道、前田純孝歌碑公園、をすぎて春来峠に向かう。

 人にも車にもほとんど出会わない。歩き始めて約2時間半。標高340m近辺までくると分かれ道があった。地形図で確かめ、県道<265>から県道<561>に入ると、静かな山中に大きな牛舎が幾つかつづく。おそらく但馬牛なのだろう。また稲刈り跡を残す小さな田んぼがあった。
 そして春来峠の頂上400m?)らしいところにきた。10時半をまわったところ。このあと緩やかな坂をくだってゆくと春来集落の手前にお店「そば処春来てっぺん」があった。1時間ほど下ると、右下に国道9号の春来トンネル出口が見え、そして国道に合流した。

 このあと春来川に沿って国道を下ってゆく。そして歌長集落の入口で温泉トンネルを迂回する旧道に入ったとき、12時半近くになっていたので腰を下ろせるところを探しゆっくり昼食休憩をとった。

 歌長集落をすぎてなおも緩やかな坂を下り、湯村温泉入口にきたところで国道から湯村温泉街に入った。竪町通り、本町通りを通って湯村温泉の中心地に着いたのは午後1時半だった。
 ここに湯煙につつまれた荒湯、春来川沿いにある足湯、常夜灯風建物の株湯、慈覚大師像と湯時計、等がある。

 湯村温泉は慈覚大師円仁が唐での修行を終え、帰国して都へ帰る途中の嘉祥元年(848)に山陰地方を通った際に発見されたと伝えられている。
 自噴泉で古来「荒湯」として知られているが、元湯には98℃の温泉がブクブクと湧出する「荒湯」と、対照的に98℃の温泉が毎分300ℓ静かに湧出する「株湯」がある。湯村温泉には49箇所の泉源があり全体で毎分2,200ℓ の温泉が湧出し、この豊富な湯量を利用して湯地区の約500世帯に温泉を配湯しているという。各家庭では蛇口を開くと約60℃の温泉がいつでも使用できるらしい。

 早く着いたので足湯にゆっくり浸かって時間をつぶしてから、湯のまち湯村を散策した。ここはNHKテレビドラマ「夢千代日記」の舞台となった温泉で、ドラマの主舞台となったドラマセットの風景や小道具などが再現、展示された夢千代館がある。荒湯から森下橋をわたると吉永小百合の夢千代像が建っている。台座石に祈恒久平和 寄贈広島市とある。
 夢千代日記は吉永小百合が主演した映画で、夢千代は胎内被曝として白血病とたたかいながら湯の里(湯村温泉)で母の残した芸者置屋を経営していた。座敷を終えた夢千代を待っていたのは、殺人容疑で手配中の芸者「市駒」の行方を聞きにやってきた山根刑事だった。・・・・・・、そして仕事一筋の山根刑事は証拠を焼き捨て刑事を辞める。・・・・・・、といったすじがき。

 また但馬は南部、新潟に次いで杜氏が多かったようで、酒の匠/但馬杜氏伝承展示館「杜氏館」があった。一通り見て歩いたので、温泉にゆっくり入ろうと今日の旅館「橋本屋」に向かった。「荒湯」近くの旅館で、着いたのは午後3時前だった。

 すぐにお風呂に入りたい、とお願いし入ったところお湯がぬるかった。各家庭では蛇口を開くと約60℃の温泉がいつでも使用できるとあったが・・・・・
 夕食まで時間があったのでユカタを着て温泉街を散歩した。98℃の温泉がブクブクと湧出する「荒湯」には卵はもちろん、山菜やカニなどを湯がく湯壷がある。近くのお店の人がほうれん草を湯がいていた。


   湯船川沿いの道

     春来峠の頂上

    国道を下ってゆく


      「荒湯」

   湯村温泉街と足湯

      夢千代像
平成211031日(土) 快晴
湯村温泉から大岩駅へ (28km) 

今日は所々で国道9号と交差・合流しながら兵庫/鳥取県の県境の蒲生峠を越えて日本海側を走る山陰本線大岩駅まで約28kmを歩く。
 朝食を7時に早めてもらい8時前に旅館を出た。朝陽がまぶしいほどの良い天気で、夢千代館の前を通って国道9号にもどった。そして湯村温泉をあとに、出合橋をわたってから岸田川に沿って蒲生峠に向かう。
 山間に延びる棚田を眺めながら緩やかな坂を上ってゆく。冬は雪が積もるのだろう、集落を通る旧道には融雪設備が設けられていた。国道は追い越し禁止だが歩道が設けられていて歩きやすい。気温17℃、快適だ。

 10時半少し前に蒲生トンネルの入口に着いた。ここから県道<119>に入って蒲生峠に向かうが30分も歩かず、11時前に蒲生峠の頂上356m)に着いた。左上に「鳥取県・岩美町」、振り返ると「兵庫県・新温泉町」の標識が立っている。
 鳥取県に入ると、県道<119>から右に分かれる小道(舗装道路)があり、この入口に、国史跡 「山陰道-蒲生峠越」の説明板が立っていた。「山陰から京都へ通じる道は古くから利用されてきたが、昭和53年(1978)に蒲生トンネルが完成し、峠道の役割は終わった。云々」とある。近くに往来人の安全を祈願した「延命地蔵大菩薩」が立っている。

 休憩ベンチがあったので一休みしてから小道を進むと、左道脇に史跡標柱「山陰道 蒲生峠越」が立っていて、小道に通行止の鎖が張ってあった。どうして? 車止めのためだろう、と解釈し、鎖をまたいでそのまま舗装された小道を進むと、上り道にさしかかった。一瞬エッ!と不思議に思いつつ、そのまま進むとT路地にぶつかった。磁石を見ると進んでいる方向がおかしい。地形図にはこんな道は載っていない。偶然にも作業用の軽トラックが通りかかったので道を尋ねると、ここは兵庫県だという。道を間違えた! 信じられなかったが、右折する道を進むと見覚えある県道<119>にでて、蒲生峠にもどったのが12時だった。1時間のロスだ!
 
 今度は史跡標柱「山陰道 蒲生峠越」が立つ草道に入ってみると、それらしい道がつづいていた。20分ほど歩くと石畳道の説明板が立っていたので、注意してみると落ち葉の下は石畳道だった。このあと10分ほど歩いて舗装道にでたが、途中に「←歴史の道 山陰道-蒲生峠越→」の案内が立っていたので安心して歩けた。
 今回、舗装道の小道は地形図にも、説明板にも載ってなかったため間違えてしまったが、国史跡 「山陰道-蒲生峠越」の説明板が史跡標柱「山陰道 蒲生峠越」前の草むら側に立っていれば間違えることはなかったと思う。

 午後1時少し前に国道9号にもどった。このあと国道沿いに点在する集落を縫うように、所々で国道と交差・合流しながら蒲生川に沿って下ってゆく。
 40分近く歩いて白地集落にくると、「女立像」で有名な彫刻家・山本兼文の顕彰碑、つづいて唱歌の父・田村虎蔵先生之生地碑が立っていた。田村虎蔵は金太郎、大黒様、花咲爺、一寸法師など、なつかしい心に残る小学唱歌を作った人だった。
 午後2時前にゆかむりの郷「岩井温泉」に着いた。ゆかむりとは頭に手ぬぐいをのせ柄勺で湯をかむる、という岩井温泉独特の風習らしい。

 岩井温泉を通りすぎたあと、国道から分かれ恩志橋をわたって蒲生川沿いの道をしばらく歩いた。前方をふさぐ山々が途切れてきたので日本海が近いな!と感じてきた。そして山陰本線を横断し、蒲生川をわたって山陰本線沿いを走る国道9号にでて、午後3時半に大岩駅に着いた。

 今日は鳥取駅近くの旅館を予約しているので午後4時少し前の電車に乗って、午後4時半に「温泉旅館 丸茂」に着いた。ビジネスホテルが空いてなくてこの旅館にしたが、高級な雰囲気ある温泉旅館だった。


   山間に延びる棚田

     蒲生峠頂上

  県道から右の小道
  史跡標柱が立つ草道へ

   田村虎蔵之生地碑

    山々が途切れて
10平成21111日(日) 薄曇のち雨
大岩駅から鳥取(宿)へ (16km

今回の福知山から歩いた5泊6日の旅も最後の日となった。今日は大岩駅から国道をしばらく歩いて日本海の海沿いの道にでたあと鳥取砂丘を歩いて鳥取市街地~鳥取駅へと向かう。天気は曇りのち雨、降水確率は60/90、気温23℃。前線が通過する大荒れの予報だった。
 旅館を7時半にでて大岩駅にもどったのが8時半少し前だった。空は薄曇り、とにかく雨が降り出さないうちに鳥取砂丘を通りすぎたかった。

 昨日のつづき、国道9号を西に向かって歩き、駟馳山峠の高台にくると日本海が眺める。この坂を下ってゆくと国道から右に鳥取砂丘に向かう道が分かれる。この砂丘道路<319>に入って塩見川をわたると、海岸沿いにきれいな道がまっすぐ延びていて、左側の砂地に広大なラッキョウ畑がつづく。この花が淡い紫色の絨毯を敷いたように見えてとてもきれい。ここ鳥取市福部町は鳥取砂丘があってラッキョウの産地でもある。


 30分ほど歩くと砂丘道路<319>の左側に遊歩道が、右側に砂丘海岸が現れてきて、10時少し前に鳥取砂丘の観光ポイントに着いた。
 鳥取砂丘は3万年もの歳月をかけて生まれた日本最大の砂丘で、中国山地の花崗岩など大量の風化土砂が千代川によって河口から吐き出され、その砂が北西の風で内陸へと打ち上げられ成長し砂丘を形成したといわれている。東西16km、南北2km、起伏は最高92mにも及ぶ広大な海岸砂丘で、砂丘表面に吹き抜ける風が作り出す美しいさざ波模様の風紋や雨のあとに乾燥しかけた砂粒が急な斜面を転げ落ちてできる砂簾模様が見られる。また現砂丘層の下に火山灰層を挟んで古砂丘層があるという。(国指定天然記念物)
 鳥取砂丘を含む山陰海岸国立公園は日本ジオパーク(地質遺産)の1つに認定されている。また、砂丘の採取は禁止されている。

 観光ポイントの砂丘入口から南北方向に砂丘を越えて海の側までゆくのに10分以上かかる。起伏があってけっこう厳しいので馬車に乗っている人もいた。
 旧山陰道は鳥取砂丘を通っているので、このあと砂丘を縦断するように南西方向に「砂丘こどもの国」を目指して歩く。 でも起伏があってまっすぐ歩いてゆけるのか分からないし、黒い雲が西の方から押し寄せてきているので、砂丘を歩いている途中で雷雨に見舞われたらどうしょう、と空模様も心配だった。距離は2kmくらいありそう。
 途中に模型飛行機を飛ばしていた人がいたので聞いてみた。「歩いてゆけるが砂丘の稜線を歩く方が楽、林が切れているところをめざせば駐車場に出られる」とのことだった。ハングライダーを練習している人達もいる。
 こういう人達をすぎると、砂丘に立つのは自分だけ。「砂丘の稜線を歩く方が楽」はありがたいアドバイスだった。だだっ広い砂丘の中を一人で歩くのも勇気がいるが、林が切れているところをめざしてひたすら歩く。なんとか雷雨に見舞われることなく30分ほど歩いて、10時半すぎに駐車場(鳥取砂丘休憩所)に着いた。

 このあと旧袋川(千代川の支流)に沿って鳥取市中心街に向かう。途中、行先下方に鳥取市街地が望めるが、市街地より鳥取砂丘の方が高いのだ!
 この先、旧街道は鳥取市街地の東側山沿いを南に下ってゆく。1時間近く歩いて市立北中学校をすぎると鳥取城跡久松公園がある。この一角に鳥取城跡北ノ御門跡、鳥取城跡(石垣)仁風閣、鳥取県立博物館などがある。
 鳥取城は戦国時代中頃(天文年間)久松山の自然地形を利用した山城として築かれ、以後因幡地方の政治拠点となり、また近世においては因幡・伯耆両国の支配拠点として長い間存続していた。このため鳥取城跡には中世山城的性格(山上ノ丸)と近世的城郭(山下ノ丸)遺構が併存しているという。国指定史跡になっている。
 関ヶ原の戦いの後に近世城郭にとして大改造され、これに伴って山下ノ丸が大きく拡充整備され、現在みられるような城郭の基礎ができあがった。その後、池田光政を経て岡山から池田光仲が入城して以後、鳥取池田家の因幡・伯耆両国の支配(32万石)の居城となった。地形図には久松山頂上(253m)に史跡・鳥取城跡が描かれている。
 仁風閣は明治40年、時の皇太子(のちの大正天皇)の山陰行啓に際し宿舎として扇御殿跡に建てられた。フレンチルネッサンス洋式を基調とする木造二階建ての本格的洋風建築で、中国地方屈指の明治建築として著名という。重要文化財になっている。

 そのうち雨が降ってきたので今回はここまでとした。リュックカバーと傘を取り出し足早に鳥取駅に向かったが、雨が強くなり風も吹いてきた。予報通りの大荒れの天気で、鳥取駅に着いたのは12時すぎだった。
 すぐにトイレで着替えてから昼食を食べ、鳥取12:54発のスーパーはくと8号に乗って姫路で新幹線のぞみ号に乗り換えた。スーパーはくと8号は因美線~智頭急行の京都行き電車で、山陰本線よりかなり速い。家に着いたのは午後7時すぎだった。


   広大なラッキョウ畑


   馬車に乗っている人



  ハングライダーを練習


    砂丘に自分だけ


    鳥取城跡(石垣)



       仁風閣
11平成2267日(月) 薄曇り
鳥取から浜村温泉へ (21km) 

鳥取まで歩いたあと、薩摩街道のつづきを歩いたので半年近く間が空いてしまった。今日は東京晴れ、鳥取は曇りで寒気が下りてきて雷雨も、しかも次週から梅雨入の予報だった。夏前に山陰道を歩き終えたいと思っていたが、天候具合と日程が上手くあわない・・・・・・。
 今回は、5泊6日で鳥取から日本海岸沿いに出て宍道まで、これといった峠道もなくJR山陰本線、国道9号が通っていて、旧道が途切れるところは国道を歩く。距離は約167km。

 拝島駅を5時半すぎの電車に乗った。そして姫路で新幹線から倉吉行きのスーパーはくと号に乗り換え鳥取駅に着いたのは12時だった。駅前から南町方面に向かい茶町交差点で左折して前回の街道筋に出た。すぐに袋川をわたる。この鋳物師橋(いもじばし)の袂に鳥取藩の御用石の説明がでていた。縄で橋脚を縛って洪水の際に橋を守るための「重り石」で、一番大きい石で160kgあったという。
 この少し先の玄忠寺に荒木又右衛門遺品館と荒木又右衛門之墓所があった。

 荒木又右衛門は大和郡山藩の剣術指南番をつとめ、寛永7年(1630)、岡山藩主池田忠雄の小生渡辺源太夫が同藩の藩士河合又五郎に殺されるという事件が起きた。仇討ちを悲願とする源太夫の兄渡辺数馬を助け、寛永11年(1634)伊賀上野鍵屋の辻において又五郎を迎え討ち首尾よく本懐を遂げさせた。この仇討ちは日本三大仇討の一つになっている。

 そして日本最大の「鳥取砂丘」を形成したといわれる千代川をわたった。振り返ると鳥取砂丘裏側なのだろう、この山肌が痛々しく見える。
 このあとJR山陰本線に沿って日本海側にでるところで道を間違えてしまった。真っ直ぐのつもりで歩いていたら、いつのまにか右折していて国道9号(鳥取バイパス)にぶつかってしまった。車道は車の流れを中心に考えられているので気をつけねばならない。30分以上のロス!
 湖山駅近くをすぎて旧道らしい道を歩いていると立派な六十六部供養塔が建っていた。鳥取大学の前を通り、左に湖山池を眺めながら県道<318>をひたすら歩く。そして日本海が見えてきたところで一旦国道9号に合流、すぐに旧道にもどってしばらくゆくと白兎海岸(はくとかいがん)がある。

 白兎海岸は古事記に記される「因幡のしろうさぎ」の伝説で知られる海岸で、この白うさぎがいたとされる淤岐ノ島が浜の西端に見える。ここに神話ゆかりの白兎神社があり、白兎神社樹叢はハマナス自生南限地帯として国の天然記念物になっている。この白兎海岸の一角は観光スポットになっている。
 因幡のしろうさぎの伝説は、出雲の国の大国主命が因幡の国八上の郷に住む八上姫という美しい姫をめとろうと旅をしている途中、通りかかった白兎海岸で毛皮をはがされて泣いている白兎を助けたところ、この白兎が大国主命と八上姫の仲をとりもったという恋物語。

 白兎海岸をあとにしたのが午後4時少し前。このあと海岸沿いの旧道を歩いていると、途中から空模様が怪しくなってポツポツと雨が降ってきた。カッパを着るほどではなかったが、予定より少し遅れていたので水尻池近くを通る旧道を止めてそのまま国道9号を歩き、日光地区にきたところで国道から分かれた。
 そして浜村駅の最寄地点にきたところで街道筋を離れ、駅近くの「浜村ビューホテル」に着いたのは午後5時半だった。

 駅前に足湯があり、「歓迎 浜村温泉」の案内がでていた。この辺はかっての旧母木宿のはず。立派な温泉ホテルで部屋もゆったりしていて湯量も豊富、夕食は部屋で、とゆっくり休むことができた。それでもビジネスコースで予約したのでリーズナブルな値段だった。こっちの方にくる機会あればまた利用したい。


    鳥取藩の御用石

     鳥取砂丘裏側

      白兎海岸

   海岸沿いの旧道を

   「歓迎 浜村温泉」
12平成2268日(火) 雨のち曇り
浜村から由良宿へ (35km) 

 こういう旅をすると寝るのも早いが起きるのも早い。朝早く露天風呂に入ると小雨がぱらついていた。天気予報は1日曇り。降水確率は午前40%/午後30%で、島根/鳥取に寒気が下りてきての雷注意報がでていた。
 今日は、前半は中国山地が日本海まで迫る海岸沿いコースだが旧道があまり残ってない。この多くを迂回路の国道9号を歩き、後半は天神川沿いの倉吉平野を横切って由良宿まで昔ながらの旧道らしい道がつづく。35kmと少し長い距離を歩くので早めの7時に朝食を食べた。

 雨が降っていたので簡易ポンチョを被って8時にホテルをでた。夜から雨が降っていたようで所々に水溜りができている。昨日の街道筋にもどると、すぐに旧道が途切れ海沿いの国道9号にでた
 天気予報は曇りだったが、雨が上がる気配がしないどんよりした空模様。チェーン脱着場があるので冬は雪が降るのだろう。そして八束水トンネル、さらに1212mの長い長尾トンネルとつづく。
 地形図に長尾トンネルは載ってない・・・! でも国道9号の表示が・・・、それがいつの間にか県道<274>に変わっていた。ガソリンスタンドで尋ねると、どうも地形図に載ってない道を歩いているようだった。

 かなり南側にずれたところを歩いていて、青谷上寺地遺跡跡(国史跡)の説明板が並ぶところを過ぎて山陰本線を横切り、勝部川をわたって旧道にもどった。ここは旧宿場「青谷」の町になる。

 青谷の町をすぎると旧道が途切れしばらく国道9号を歩く。そして海岸沿いに出て長和瀬から小浜の集落を抜け、旧宿場「泊」の町にさしかかると朝から降っていた雨も上がっていた。道脇に「大名行列」と「海上御幸」の様子が描かれた銅版プレートが張ってあった。

 泊の町をあとに宇谷から宇野地区の海岸沿いを歩き、大国主命にまつわるという「亀石」をすぎて海岸沿いを離れ、左の旧道に入ると枯れたことのないという「地蔵ダキ」がある。そして人影少ない旧宿場「橋津」の集落を通って橋津川をわたった。
 昔ながらの旧道らしい道がつづく旧宿場「長瀬」の集落をぬけて天神川をわたると、広々とした水田地帯が広がる
 久々に見る田園風景で、ちょうど田植えが終わったところ。水田が途切れるとラッキョウを収穫する農夫姿も見られ、村を通ると整姿作業をしている農家を見かけた。この辺でもラッキョウを栽培しているようだ。

 この倉吉平野を縦断するように長瀬から東園、西園地区を抜け、由良川をわたると旧宿場名が残る「由良宿」の町に着く。そして街道筋近く、今日の宿「ビジネスホテルたなか」に着いたのがちょうど午後5時だった。                           


    国道9号にでる

    海岸沿いを歩く

   旧泊宿の町並み

   水田地帯が広がる

13平成2269日(水) 晴れ

由良宿から名和へ (31km) 

今日は由良宿からふたたび海岸沿いにでて、昔ながらの旧道らしい道を山陰本線、国道9号と所々で交差しながら名和(御来屋宿)まで約31kmを歩く。天気予報は晴れ、気温25℃と少し暑いくらい。
 ホテルを出たのは8時少し前、昨日とはうって変わって真っ青な空がまぶしいくらい。昨日の街道筋にもどって由良宿の街中を歩いていると、旧宿場町らしく旧家が幾つか残っていた
 例えば、伯州屈指の刀鍛冶の末裔「道祖尾家」(さいのおけ)がある。この広賀一門は鉄を豊富に産出するこの地域で刀を作り、毛利家などの大名に刀を納め、柳生但馬守の愛刀が広賀作といわれている。米の移出・米刺しとして手腕を発揮した由良藩倉の役人「遠藤家」、それから西園寺公望公も宿泊した由良本陣跡「佐伯宅」とつづく。
 歩いていると宿泊を予定していた塩谷旅館があった。予約電話を2回いれたが応答がなかったので止めたが、感じの良いかっての旅籠を思わせる旅館だった。(この宿にすべきだった・・・・)

 由良宿をあとに長閑な田園地帯を通って海岸沿いに向かう。田植えを終えたばかりの水田、スイカ畑をすぎて海岸沿いにでた。左手遠くに大きな独立峰の山が・・・、たぶん大山だろう。遠束地区をすぎると右手海岸側にはお墓がつづく。そして旧八橋宿の集落にくると旧宿場らしい格子戸造りの家が散見され、その一軒に江原酒造があった。まち八橋の外れにお天気菩薩があった。

 由良宿を発ってからづーっと昔ながらの旧街道らしい道がつづいている。40分ほど歩いて赤崎にくると、菊港の波止場先端に三体の旅姿像が建っている。これは、
 波しぐれ三度笠で、寛政年間に築かれた菊港は千石船の寄港地であり、江戸時代には藩米の積出し港として栄えた古い港。板子一枚下は地獄の日本海の荒波を乗り越えて往き来した、たくましい海の男たち、それを送り迎えた港の人々。そんな人々の生きざまや、哀歓を彫り上げられたのがこの彫刻だという。

 ここ「赤崎」はかっての宿場町で、赤崎駅をすぎた先に代々庄屋を勤めた旧家「河本家住宅」があり、表門をくぐると立派な萱葺き屋敷が残っている。また街角に丸っこい大きな石が五個置いてあった。村の青年達が力くらべをしたという「力石」だという。

 このあとしばらく海岸沿いを外れるが、相変わらず昔ながらの長閑な旧道がつづく。梨畑をすぎると遠束地区でもみたが、石仏が並ぶ中に南無、六道、能化、地蔵、願王、菩薩の札が立つ六地蔵があった。だんだん近づく雄大な大山(伯耆富士)を眺めながら、「一里松のお地蔵さま」をすぎると木の根神社があった。これは男性を象徴した形の老松の根を御神体とする神社で縁結びなどに御利益があるとされている。

 のどかな旧道を歩いていると、田植えが終わった棚田の遠く先に一瞬だが日本海が見えた。そして御来屋駅の先で山陰本線を横断し海岸沿いに近い名和町に着いた。ここは旧御来屋宿で御来屋の地名も残っている。少しゆくと壱岐に流された後醍醐天皇の「元弘帝御着船所」の碑が立っていた。そして午後3時半少し前、名和駅近くにきたところで今日はここまでとした。

 このあと15:44発の電車で米子駅にでて、「スーパーホテル米子駅前」に着いたのが午後4時半だった。


    由良宿の街並

   波しぐれ三度笠
   旧家「河本家住宅」

  雄大な大山(伯耆富士)

  元弘帝御着船所の碑

14平成22610日(木) 晴れ

名和から安来(宿)へ (34km)

今日は名和(旧御来屋宿)から美保湾に沿って米子平野を横断し、島根県に入ると中海に沿って旧宿場の安来市まで。距離は約34km。鳥取/島根県境から旧道が途絶えるので迂回路(多くは国道9号)を歩く。天気予報は鳥取、島根両県とも晴れ、最高気温25~27℃と昨日同様に暑いくらい。

 ホテルを出たのは7時、米子駅7:11発の電車に乗って名和駅に7:36に着いた。街道筋にでて昨日のつづきを歩く。途中、海側の道に出てみると、遥か遠くに島のような陸地が見える。壱岐の島?と思って近くの人に尋ねると、遠くに見えるのは島根半島の先端(地蔵崎)で、ここは美保湾とのことだった。
 街道筋にもどり、富長神社の前を通ると「富長城跡」の標柱が立っていたので鳥居をくぐって境内に入ってみた。本殿は木々に覆われていて賽銭箱周りにいた狐の親子がパッと逃げていった。最初は犬かと思った・・・・。
 そして海沿いの道にでると、遠くの沖にタライが2個浮いていた。潜っている人がいるので貝か何かを採っているのだろう。
 このあと旧道は国道9号を横切るが、道が途切れるのでそのまま国道を歩く。左に大山(伯耆富士、標高1,729m)が見える。とても雄大な眺めだ。ブロッコリー畑が広がり、タバコ畑の中を突っ切ってゆく。この田園地帯をすぎると、まもなく「ようこそ史跡と名水のまち/淀江町へ」の案内板が目に入る。ここは旧淀江宿で、この面影の一つなのだろう柄川家屋敷跡の石柱が立っていた。


 この史跡と名水のまち?をあとに内陸に向かい、米子平野に広がる田園地帯を抜けてゆく。そして日吉津地区にきて日野川にぶつかるとしばらく土手道を歩く。ここに櫨の木の説明板が立っていて、「江戸時代の終わりごろ蝋の需要が増え、原料の櫨の実の生産を高めるためこの土手道は櫨並木だった」と。
 日野橋をわたると深田氏庭園(国指定名勝)がある。米子市車尾の深田氏は中世から続く当地方の旧家で、後醍醐天皇壱岐配流の際、行在所になったとの伝承を持ち、近世には伯耆国会見郡の大庄屋を度々つとめ、西伯耆の民生・産業・文化の発展に寄与されたという。この庭園は深田氏邸の旧書院に面して築かれた庭園で無料で開放されていた。
 そして米子城の北の守りとして重んじられた勝田神社から境港~米子間を走るJR境線を博労町駅横で横切って米子市中心街に入る。かっての米子宿で、元町サンロードのアーケードを通り、米子駅を左に見て加茂川をわたって米子市中心街をあとにした。

 正面の小さな山を避けるように左折しながら愛宕神社、やな井戸地蔵、総泉寺とつづき、そのうち左に山陽本線が現れてくる。
 途中、「米子城主のご母堂が眠る総泉寺」の説明板が立っていたが、ここに、「・・・・・寺の墓地には、17世紀約80年間にわたり竹島(鬱陵島)に渡海し、アワビなど大量の海産物を持ち帰り、藩の財政を助けた米子町人大谷甚吉の墓がある。・・・云々」とあった。

 領土問題になっている竹島を初めて知るものだった。地図で調べると鬱陵島(ウルルン島)と竹島の間に国境ラインが引かれていて、竹島には男島と女島の2島があって島根県壱岐郡壱岐の島町となっている。

 鳥取/島根県境近くにきたところで旧道が途切れ、道なりに右に曲がって吉佐交差点で国道9号に合流すると、「安来名物 数々あれど 無事故 無違反 安来節」の看板が立っていた。すでに島根県に入ったようだった。県境標識があるはずと国道を少しもどってみたが見あたらなかった。時計を見ると午後2時だった。

 このあと旧道がほとんど残ってなく、迂回路の国道9号、県道<257>を2時間近くひたすら歩き、午後4時少し前に山陰本線の安来駅前に着いた。きれいな駅で「ゲゲゲの女房の里」一色という感がした。

 途中、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房の里」の案内が出ていた。街道筋から6~8kmほど離れていたので立ち寄らなかったが、早く着いたので訪れてみたいと観光センターで尋ねると上手く合うバスがなく、タクシーは片道2~3千円とのこと。しかし、駅前に並ぶタクシーに聞くと1,500円、それも往復2,000円で快くOKしてくれた。
 安来駅は安来市中心街にある駅で、目の前に中海に面した安来港がある。「ゲゲゲの女房の里」の大塚町は安来駅から南に5kmほど下った中海に注ぐ伯太川沿いにある。
 タクシーに乗って15分くらいで「ゲゲゲの女房の里」に着いた。NHK朝ドラで放映中だけあって、「ゲゲゲの女房のふるさと展」が開館中で、水木しげるの妻「武良布枝」の生家紹介、等々町を挙げて観光スポット化されていた。

 タクシーを待たせていたので一通り見て回ったところで安来駅にもどった。そして駅近くの「ホテルひさご家」に着いたのは午後5時少し前だった。


   タバコ畑を突っ切って

   旧淀江宿の町並み

     深田氏庭園

      勝田神社

   鳥取/島根県境へ

      安来駅

  ゲゲゲの女房の・・展

15平成22611日(金) 晴れ

安来から松江(宿)へ (25km) 

今日は安来から中海の南岸を西に、そして宍道湖と中海を繋ぐ大橋川口の松江市まで、国道9号と所々で交差・合流しながら歩く。距離は約25km。今日も良い天気で気温29℃との予報。
 ここ安来市はかっての安来宿であり、民謡安来節と鋼の町として知られている。また散策ガイドマップによると、天然の良港に恵まれ、昔からたたら製鉄の港町として発展。この「たたら製鉄」の技術は今日に引き継がれ、特殊鋼「ヤスキハガネ」が生産されているという。

 この散策ガイドマップを持ってホテルを7時半すぎに出た。そして安来港の港公園から、廻船問屋や鉄関係の問屋などが建ち並んでいたというかってのメインストリートを散策し、昔ながらの造りを今に伝える相坂家、雲伯鉄鋼合資会社の事務所だったという山本家、土蔵造りの蕎麦屋「志ばらく」、昭和初期に建てられた料亭建築「山常楼」、安来市の代表的商家「並河家」などを見て街道筋にでた。
 並河家は江戸時代に「勝鎧」の蔵元というお酒の蔵元として財をなした商家で、天明飢饉の際、母屋は民衆を助けるための「お助普請」として建設されたといわれている。きれいな模様が描かれた土蔵造りの建物で、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」が始まるときに出てくる。

 そして安来町の双璧をなす土蔵造りの原本家、やすぎ懐古館一風亭とつづく。やすぎ懐古館一風亭はかって市内屈指の呉服・雑貨商を営んだ大商家「旧鎌田本店」を改修したもので、朝市や季節のイベントなどが行われ、安来から全国への情報発信基地に利用されている。
 ここを管理されている長谷川さんからこういった話を伺い、少し先に進んだところで帽子が無いのに気づいた。誕生日祝いにと息子が一週間前に買ってくれた帽子! たぶんホテルだと急ぎ足でもどると、長谷川さんに呼び止められた。すぐにホテルに電話を入れ自転車を貸してくれた。有難い。 よかった! ホテルのフロントに帽子が置いてあった。


 少し行くと若い松の木の安来一里塚がある。国指定史跡とあるが、その後枯れて植え替えられたもよう。そして伯太川(安来大橋)をわたり、欄干に建つ安来節の踊り「どじょうすくい」の石像を見て旧安来宿をあとにした。
 なおも昔ながらの旧道らしい道がつづき、飯梨川をわたると田植えが終わった水田が広がる。JR荒島駅をすぎると広田亀治像が建っている。広田家は代々松江藩の蔵番を勤めていたため米質の良否を見分けることができ、良品種の水稲の「亀治米」を開発したとあった。
 山陰本線、国道を横断し荒島の町にくると月形神社がある。この辺は海が荒れ狂うので荒島といわれたようで、月読命(つきよみのみこと)を祀った荒波を鎮め人々の難儀を守ってくれる神社。月読命は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなびのみこと)から生まれた月神様で、天照大神と兄弟神様。
 このあと一旦国道に合流し、潮風を浴びながらしばらく中海沿いを歩く。羽入で国道から分かれると出雲街道の案内がでていて、「大社から津山へ172キロの道 松江藩の参勤交代の道 出雲街道はたたらの道」とあった。このあと出雲街道の案内に従ってしばらく歩き、風土記や日本書紀にもでてくるという揖夜神社をすぎて揖屋の町へ。

 JR揖屋駅の先に三菱農機(株)の前身、佐藤造機の創業者佐藤忠次郎が生前暮らしたという旧居があった。転倒した自転車の車輪に稲穂があたり飛び散るのを見て、現在のコンバインの原型「回転式稲扱機械」を発明したという。旧居は一部改装され記念館になっている。
 そして大内神社をすぎ、旧宿場「出雲郷」の外れで意宇川(出雲郷橋)をわたるとまもなく国道9号に合流する。この辺はかっての国府のようで、南に1~2km離れたところに国史跡の出雲国分寺跡附古道、出雲国府跡がある。
 午後1時近くになっていて休憩場所を探していると左に大きな神社があったので昼食休憩をとった。入口には武内神社とあったが、由緒書きに平濱八幡宮が併記され出雲国最古の八幡宮とあった。

 このあと宍道湖から中海に流れる大橋川沿いに松江市中心街に向かう。右松江駅の表示を見て、国道の一つ裏道を進み、宍道湖に出る少し手前でT路地にぶつかる。旧街道は左折するが、松江城を訪れるためここを右折し、擬宝珠の飾りがある天神橋をわたった。
 天神町から本町商店街竪町商店街をまっすぐ進み、小泉八雲ゆかりの源助公園を右に松江大橋(大橋川)をわたる。擬宝珠飾りに灯篭も立つ風情ある橋で松江城に通じる道を思わせる。

 江戸時代、この大橋川周辺は問屋、蔵、商店等の建ち並ぶ町並みだったという。「國暉」蔵元は文化2年(1805)に建て直された江戸時代の城下町の町屋風情が漂う建物という。また、北前船や各地から舟道を通って陸揚げされる品々で賑わったという商人の町「茶町」を通って松江城に向かった。松江城前に着いたのは午後4時15分前、北惣門橋をわたり二の丸下の段から天守閣に登った。
 松江城は千鳥城ともいい全国に現存する12天守の一つで、南に流れる大橋川を外堀に、天守閣の高さ30m、5層6階の平山城。慶長16年(1611)出雲の領主・堀尾吉晴が5年の歳月をかけて完成。以来、堀尾氏3代、京極氏の治世を経て寛永15年(1638)からは徳川家康の孫にあたる松平直政が信州松本から移封され、以来松平氏10代234年にわたって、その間一度も戦乱に巻き込まれることもなく明治維新を迎えている。
 明治になって全国の城は殆ど壊されたが、地元有志の奔走によって山陰地方で唯一天守が現存する城郭として残る。昭和10年に国宝に指定されたが、昭和25年の文化財保護法の制定により「重要文化財」に改称されている。

 天守閣に上って松江市街が一望したあと、帰りは松江神社から明治天皇の御宿所として建設された興雲閣の前を通り、千鳥橋をわたって松江城をあとにした
 今日は大橋川近くの「ホテルルートイン松江」を予約しているので、もどるように茶屋町から大橋川沿いを散策しながらホテルに向かった。松江城も立派だが、お城~大橋川畔周辺にかけての街路樹や商店街の景観が素晴らしい。城が残っている城下町として、住んでいる人達の町並み景観に対する誇りのようなものを感じたのは私だけだろうか・・・・。
 ホテルのチェックインしたのは午後5時すぎだった。


       並河家

   やすぎ懐古館一風亭

     安来一里塚

  「どじょうすくい」の石像

    大橋川沿いを歩く

   松江大橋をわたる

      松江城

   千鳥橋をわたって

16平成22612日(土) 晴れ

松江から宍道(宿)へ (21km)

今日は松江から宍道湖南岸を宍道まで距離は約21km。松江平野をすぎると山陰本線と国道9号が重なるように宍道湖南岸を通っていて、旧街道も多くは国道を歩く。天気予報は晴れのち曇り、温度は29℃と今日も暑い。
 今回の旅の最後の日。なるべく早く目的地に着いて身体の汗を拭ってから電車に乗りたいので、朝7時の朝食だが10分前に食堂にゆくともう食べている人がいた。いつものバイキングをお腹一杯に食べ、7時半すぎにホテルをでた。
 朝が早く、人気のない静かな街中にあって魚市場だけは人が集まり活況を呈していた。こういった朝の光景を楽しみながら8時少し前、昨日の街道筋にもどった。今日も朝陽が射す良い天気だ。

 所々で途切れる旧道、この迂回路を探しながらとにかく1時間近く歩いて、山陰本線をわたり宍道湖沿いを走る国道に合流。ここから南に2kmくらい下ったところに玉造温泉があり、近くに案内表示と大きな玉石があった。
 このあと中国山地が宍道湖まで迫っているのだろう。湖岸ぎりぎりの所を山陰本線と国道が走っていて、迂回路を含め多くは国道を歩く。

 本郷地区をすぎると日本シジミ研究所が、この先40分ほど歩くと来待駅に「来待石の原産地」と刻まれた石が立っていて、駅前の石灯籠店に「出雲石灯籠をどうぞ・・・」の看板があった。いずれもこの地の産業の一つなのだろう。そして小松地区まできて国道から分かれた。そして一旦国道に合流したあと旧道にもどり、宍道湖の西端近くまでくると、今日の目的地の宍道の町がある。
 ここはかっての宍道宿で、宍道駅前をすぎた先に八雲本陣「木幡家住宅」がある木幡家は江戸時代、意宇郡の下郡(したごおり)などの役職を勤め郡政に参画する一方、酒造業を営むなど、有力地主・商人としての地位を維持し本陣宿も勤めている。主屋をはじめ、飛雲閣、新座敷棟、奥座敷棟、等々が重要文化財に指定されている。

 12時半すぎ、一通り見たところで今回の旅はここまでとした。宍道駅にもどってトイレで汗を拭い、簡単に着替えをしてから13:44発のやくも20号に乗った。車中で昼食弁当を食べ、岡山~新横浜経由で拝島駅に午後9時半少し前に着いた。


   大橋川沿いの風景
   湖岸に沿って歩く

 八雲本陣「木幡家住宅」  
17平成221112日(金) 薄曇り
境港散策 (αkm

台風が通りすぎたあと好天がつづきそうなので、この機会を逃すまいと必死に旅程と宿の調査を行った。とくに山陰道は交通の便が悪く、できれば宍道から終点・小郡まで距離約303km、これを10~11泊で一気に歩きたいと準備を進めた。また今回は宍道からだが、旅程を上手く組み立てられなかったのを幸いに、まず境港に立ち寄って「水木しげる」の故郷を散策して松江で一泊。翌日宍道から出雲市まで歩いたあと出雲大社にも立ち寄ることにした。

 拝島駅7:25発の電車に乗って新横浜から新幹線で岡山へ。ここで伯備線に乗り換え、米子駅でJR境線に乗り換え境港駅に着いたのが午後3時だった。
 東京は朝から天気が良かったが名古屋では空は厚い雲に覆われ、岡山にくると晴れていたが黄砂で空がかすんでいた。
 米子駅のJR境線のホームにくると雰囲気がガラッと変わる。「水木しげる」の妖怪一色で、ホーム中央に大きなねずみ男が立っていて、ここに「ねずみ男の駅」と書いてある。それにピンク色の電車の側面と内側天井に猫娘が大きく描かれていた。


 JR境線は中海と美保湾に挟まれた細い部分を走っていて境港はこの先端に位置している。島根半島内側の宍道湖、中海を塞いだような部分で、中海と美保湾は境水道で繋がっている。地理的には鳥取県で途中に米子空港がある。JR境線で40分ほど、美保湾側は弓ヶ浜で、途中ネギが多く栽培されていた。

 境港駅に着くと「ようこそ妖怪の国へ」、「鬼太郎駅」と書いてあり、駅を出ると街中妖怪だらけ! この水木しげるロードを歩くと道脇にいろんな妖怪ブロンズ像が建っている。この外れに水木しげる記念館があった。NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」が放映されていたこともあって多くの観光客が訪れていた。
 境港は境水道にあって、戦国期は水軍停泊地に、江戸時代は北前船の寄港地に、明治以後は国内航路の要衝として、また朝鮮半島との貿易港として栄えている。この境港の埠頭に立って潮風を浴びてから午後4時発の電車で米子駅にもどった。今日の宿「スーパーホテル米子駅前」に着いたのは午後5時だった。


    JR境線のホーム

    妖怪ブロンズ像が

      境港の埠頭
18平成221113日(土) 曇り
宍道から出雲市(今市宿)へ (22km

米子駅7:35発の電車に乗ろうと7時すぎにホテルをでた。ところが事前に調べていたのは平日ダイヤ、今日は土曜日ダイヤで8:30発の電車しかなかった。時間がもったいないので8:08発の特急電車に乗ったが、特急料金を払って、しかも予定より30分遅れで宍道駅に着いたのは9時少し前だった。

 街道筋にでて八雲本陣「木幡家住宅」の前を通ってつづきを歩く。旧宍道宿をすぎて旧街道が途切れて迂回路の国道9号を歩いていると、右手(北側)に出雲空港に着陸する飛行機が見えた。
 このあと国道に沿って所々で交差しながら旧街道がつづく。地形的には出雲平野の南端を西に向かう。山陰本線の荘原駅をすぎると稲刈りが終わった田園地帯の中を通ってゆく。
 島根米「パールライス」の看板をだすJA全農島根をすぎて直江町に入ると、東白寺参道入口に秋葉大権現の由来が書いてあった。

 「直江町の豪商といわれた江角屋善助さんが、江戸より帰る途中に駿河の国に立ち寄り、火防せの守護神・秋葉大権現を勧請し、東白寺の境内に鎮守堂を建立して祀ったのが起源で、霊感あらたかなものとして現在も家屋の壁や柱に貼り、火難息災を祈る風習が続いている」とあった。

 金比羅宮出雲分社、直江八幡宮、岩野薬師堂とつづき、この先、地形図に描かれた一里塚の国史跡マークを目指して歩いた。途中に案内があったのでたどり着けたが、道から外れた民家の片隅に、枯れ果てた根の部分だけが残っていて国指定史跡 出西・伊波野一里塚」の説明が添えてあった。近くに豆畑が広がっていたが、この辺の特産物なのだろう。

 宍道湖に注ぐ斐伊川をわたると「神話の夢舞台出雲へようこそ」の案内が出ていた。そして出雲市の中心街に向かうと山田家住宅(本陣遺構)が残っている。出雲市はかっての今市宿で、その面影を残す京都屋の土蔵、そして出雲市街を流れる風流な高瀬川沿いの道をしばらく歩く

 午後1時すぎ、出雲大社へゆく畑電鉄大社線の「出雲科学館パークタウン前」駅近くに来たところで電車に乗った。川跡で乗り換え20分ちょっとで出雲大社前に着いた。時計を見ると午後2時前だった。
 駅前の神門通りを北に進み「勢溜の大鳥居」から「松の参道」を通ってゆくと八雲山を背に社殿が見えてくる。そして「銅の鳥居」をくぐると参拝者で賑わう大注連縄をかけた拝殿(御仮殿)前にでる

 拝礼の作法について、「お祈りは二礼四拍手一礼で、手を合わせながら心の中で自分の住所・名前を言って次に参拝に来れたご挨拶をし、その上でお願いごとをする」とある。
 まずこのお祈りを済ませ、拝殿の後ろに回って「八足門」(重要文化財)前に立つと、本殿は「平成の大遷宮」で屋根の葺き替え工事を行っており素屋根で覆われていた。
 本殿は「大社造り」という日本最古の神社建築様式で現在国宝になっている。残念ながら
八雲山を背に厳かにたたずむ本殿の姿を拝観できなかった。

 本殿の西側に十九社、神楽殿とつづいて建っている。神楽殿に掛かる注連縄は長さ13メートル、重さ4.5トンの巨大なもので、この注連縄にお賽銭を投げる人が何人もいた。

 社殿をあとに参道にもどって、大国主大神が“縁結びの神”になられた時の様子を表わす「ムスビの御神像」、イナバの白うさぎに慈悲を施す大黒様(大国主大神)の「御慈愛の御神像」を見て神門通りにもどると前方に大きな鳥居が見える。一の鳥居「宇伽橋の大鳥居」で高さ23mの日本一の大鳥居といわれている。

 平成の大遷宮について、出雲大社は60年に一度の甦りの遷宮が行われる。この「平成の大遷宮」が現在行われていて、祭神・大国主大神(おおくにぬしのみこと)は御仮殿に遷り、本殿をはじめ、境内の様々な社の修理が行われる。この御仮殿遷座祭が平成20年4月に行われ、屋根の葺き替えなどの修造を終えて甦った本殿に大国主大神を還す「本殿遷座祭」が平成25年5月に執り行われる。
 出雲大社日本最古の歴史書といわれる「古事記」にその創建が記されているほどの古社で、「出雲国風土記」に大国主大神のために大勢の神々が集まって宮を寸付(きづき)いたと記されており、明治時代初期まで杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれていた。主祭神は大黒様として馴染みの深い大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)で統率力、英知がある上に人々を幸せな縁で結ぶ“縁結びの神・福の神”として崇められている。
 「古事記」に記される国譲り神話には、大国主命が高天原の天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲り、その時に造営された天日隅宮(あまのひすみのみや)が出雲大社の始まりといわれている。このように数千年もの歴史を持つ出雲大社はこの地の象徴であるかのように八雲山を背に威容を誇る神殿が厳かに立っている。本殿は「大社造り」という日本最古の神社建築様式で現在国宝になっている。

 ムスビの御神像は日本海の荒波の向こうから「幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)」という魂が現れ大国主大神が神となり「ムスビの大神」“縁結びの神”になった時の様子を表わしている。
 御慈愛の御神像について、「イナバの白うさぎ」に出てくる大黒様は大国主大神で、大黒様が背負われた袋の中には、私達の苦難・悩みが入っていて、私達の身代わりになって背負っている。その後、大神さまは幾度も試練・難事にあって“死の淵”に沈むがが、その後に見事に復活し蘇った。それで“復活の神”、“よみがえりの神”、“いのちを結ぶ神”ともいわれている。

 出雲大社をあとにお土産店などが建ち並ぶ神門通りをくだり、午後3時すぎの電車で「出雲科学館パークタウン前」駅にもどった。そして適当なところで街道筋を離れ、今日の宿「東横イン出雲市駅前」に着いたのは午後4時をまわったところだった。


   出西・伊波野一里塚

     山田家住宅

    高瀬川沿いの道

     勢溜の大鳥居

      松の参道
  出雲大社拝殿(御仮殿)

    ムスビの御神像

    御慈愛の御神像
19平成221114日(日) 曇りのち晴れ
出雲市から波根へ (34km

松江地方の天気は曇りのち晴れ、気温19℃の予報。ウォーキングにはベストの天候。朝食は7時から、少し前にゆくとすでに多くの人が食べていた。ホテルは団体客が入っていて満員だった。旧山陰道は出雲平野をぬけると終点・小郡まで大きな平野はなく、このあと日本海側にでて海沿いの道を歩く。
 7時半すぎにホテルを出た。出雲市をでると大きな町を通らないので、駅構内のコンビ二でおにぎりを買ってから昨日の街道筋にもどった。神戸川をわたって出雲市郊外へ。昔ながらの旧街道らしい道がつづくが史跡らしいものに出会わない。
 神門町を通ったとき、おばさんから「どこまで行くの?」と声をかけられた。旧山陰道を歩いていることを話すと、「ここが旧街道だとよく分かったね!」とのこと、でもうれしかった。
 大きな草履がかかっている山門があったので近づいてみると小浜大師講と書いた木札が付いていた。街道松の名残と思われる松の下を通り、神西湖から日本海に流れる差海川をわたった。そして一畑薬師?と刻まれた石灯籠をすぎ、11時少し前に日本海側にでた。

 このあと日本海を眺めながら歩き、陶匠木村甚兵衛之碑が建つ平久村海岸公園のところで一旦海岸線から離れた。JR小田駅をすぎてふたたび日本海岸にでて国道9号に合流すると海岸側にJR山陰本線が走っていた。
 そして田儀町をすぎると鉄道はトンネルを経て海岸線へ、国道は内陸の方へと分かれ、旧街道はこの真ん中の山の中を通りぬけてゆく。この山道に入る手前の中嶋埼は石見国と出雲国の国境で、ここに「出雲国風土記登場地」の標柱が立っていた。

 このあと山道を30分ほど歩くと「中山の道標 みちしるべ石」があった。説明板に「右仙山みち 中いずも道 左やまみち」と記されていたが、磁石で調べてもたどるべき道が分からない。すでに午後2時半をすぎていたので、とにかく南に下れば国道9号に出るだろうと安全策をとった。
 10分ほどで国道にでることができた。あとで分かったが、この道標は出雲市に向かう反対方向の道標でどの道も誤りだった!

 国道を30分ほど歩いて山から下りてくる旧街道にもどり、街道筋にある今日の宿「水明館」に着いたのが午後4時少し前だった。

 この宿は海鮮料理店をもつ海乃宿で食事がとても美味しく、朝食は7時からを6時半にしてもらい、おにぎり弁当もお願いした。きれいなとてもいい宿だった。
 今回は3日目以降に泊まる宿は、旅をしながら予約することにした。一応予定通りということで明日の宿、温泉津「長命館」に予約の電話を入れた。


    街道松の名残


   中嶋埼に立つ標柱


      山道を歩く
20平成221115日(月) 強風・雨のち曇り
波根から温泉津(宿)へ (38km

 朝早くに窓に雨が吹き付ける音で目覚めた。TVの天気予報は寒気が南下し雷雨、強風注意報がでていた。今日は温泉津まで約38kmと距離がある。宿の予約を昨夜してしまったので、無理なら2回に分け温泉津で2泊しようと風雨の様子をみていると、風は強いが雨が少し弱まってきた。朝食を6時半に食べたがこういう迷いもあって出発は8時近くになってしまった。

 今日はこのあと鉄道からも離れ、しばらく海岸近くの旧道を歩く。傘では歩き難いのでポンチョを被って歩きはじめると、そのうち気持ちが前向きになってきた。こういう風雨の中を踏破するのも一つのチャレンジと思うようになり、それに不思議なもので明るくなると気持ちも変わってくる。中途半端に2回に分けて歩くのを止め、道がはっきりせずに迷いそうなところは迂回路を通って、とにかく温泉津まで歩こうと考えるようになった。

 こうして歩き始めて約1時間。県道<287>に合流し鳥井町の海岸線にでた。途中に一畑薬師と刻まれた自然石、国有文化財・天然記念物の「波根西の珪化木」があった。
 さらにホタテ貝や牡蠣の殻を積んだ家やぶどう畑をすぎて静間川をわたると、国道9号が、そしてJR山陰本線が近づいてきて五十猛駅にきたところで旧道が途切れて一旦国道9号にでた。海岸線にでると史跡石見銀山の案内がでていたが、石見銀山遺跡はここから南に直線で10kmくらい離れた内陸にある。

 このあと丘陵地を越えて海岸線にでるといったアップダウンを繰り返し、宅野と仁万の町を抜けるところで少し道に迷ったが仁万駅に着いたのが12時だった。予定よりも早いので無人の駅構内で昼食を兼ねてゆっくり休憩した。雨もほとんど止んだのでポンチョを脱いだ。

 なおも旧街道の史跡を見ることなく、とにかくひたすら歩いて馬路琴が浜の町をぬけたのが午後1時半。このあと旧街道は山道に入る。距離は4kmほど。地形図に描かれているが途中で道が途切れる部分があるので、無理せずに迂回路の国道9号にでた。 
 この国道を1時間ちょっと歩くと温泉津温泉の標識がでていたので国道を離れ、JR温泉津駅の前を通って温泉津温泉街に着いたのが午後3時だった。
 途中、国道を歩いたときトンネルを四つ通り、五つ目のトンネルをぬけたところで旧街道にもどって温泉津温泉に向かう道があったが、これを見落としていた。ということで旧街道をもどる形になってしまったが、街道筋にある宿の近くに「やきものの里」があるので立ち寄り、新谷道太郎像をみて午後3時半すぎに今日の宿「長命館」に着いた。


 温泉津焼は江戸中期に瓦製造を始めたのがはじまりで、日用雑器を主とした庶民的な焼物を生産していた。「登り窯」で水瓶や壷などが作られ、中でもアメ色の「はんど(水瓶)」は温泉津の名とともに全国に出回り知れ渡ったという。今は、「やきものの里」として廃業となった巨大な「登り窯」2基(長さ30m・15段、長さ20m・10段)が復元され、作陶体験ができる「やきもの館」がある。
 新谷道太郎は坂本龍馬と同行し薩長仲直りの橋渡しのため高杉晋作を訪れ、明治維新の原動力になった1人という。晩年ここに住み96歳で死去。
 温泉津温泉の由来ついて、往古より温泉が地表より流れ出していて、伊藤家初代・重佐は観応・文和の頃、草に覆われ人里はなれた谷間に湧き出るこの温泉の開発を始めたと伝えられている。伊藤重佐は巌間から湧き出している霊温泉を、湯壷を造って流し入れ、病苦の人々を入浴させ疾病者の救済を行った。霊温泉は「養生の湯」となり、「湯治の場」、「保養の場」となった。そして霊温泉を訪ね来る人々のために湯治宿、入湯宿が出現し商店が軒を並べるようになった。
 平安時代、承平(930~)の頃にはすでに温泉の所在が都に知られていたという。この草創の歴史モニュメントが共同浴場の元湯温泉「良薬湯」の前に建っている。


 今日の宿「長命館」にはお風呂がなく、入湯券をもらって対面の元湯温泉「良薬湯」に行くと、湯場は狭くて、近くの人達と思われる人で一杯だった。源泉49℃と熱く、淡茶褐色で飲用も効果があり、原爆被爆者の療養に効用あるとのこと。最高評価の天然温泉として認定されている。食事は対面の元湯温泉「良薬湯」の隣の家で食べたので、共同浴場の経営もやっているようだった。洗濯機が使えたので汚れ物を洗った。泊まり客は私1人だった。


   一畑薬師の標石が


    一旦国道9号に


  やきものの里「登り窯」


   元湯温泉「長命館」


  草創の歴史モニュメント
21平成221116日(火) 曇りのち時々晴れ
温泉津から都野津(駅)へ (30km

今日の天気は寒気が下りてきていて温度は5℃~14℃、曇りの予報。朝食を7時半に食べ、昨夜お願いした昼のおにぎり弁当をもらっ8時半前に宿をでた。
 
 駐車場を挟んだ隣にもう1軒の共同浴場「薬師湯」がある。日本旅館が並ぶ温泉街を通って恵光寺、西楽寺、龍御前神社をすぎると内藤家庄屋屋敷があった
 ここ温泉津はかっての宿場町で、石見銀山で採掘された銀の輸出港として隆盛を誇ったという。関ヶ原合戦のあと毛利が石見から撤退すると、内藤家は温泉津に土着し代々年寄りや庄屋を勤め、その間、廻船問屋、酒造業、郵便局等の経営にも携わっている。

 そして温泉津港にでて温泉津をあとにした。この辺はリアス式海岸で100m200mの山地が海に迫っている。国道9号にでてこの山地を抜け、ふたたび旧道にもどった。
 今浦~古浦にかけてアップダウンの道がつづき、海岸線(黒松漁港)にでると風力発電の風車が海岸線に沿って並んでいた。この風車が2時間以上先まで延々と続いていたが、中には止まっている風車も幾つかあって、上手く稼動しているの?・・・と思われた。


 ふたたび丘陵地を越えると、前方に赤い屋根の多い町がみえてきた。青木秀清翁碑が立つ江津市渡津町で、この先「江の川」をわたり中心街に向かうと、橋の欄干に「大蛇(おろち)」、「ホーランエー」、「鍾馗(しようき)」の説明がでている。
 この地方は昔石見の国と呼ばれ、古事記や日本書紀にも取り上げられ、神話を題材とした石見神楽が古くから盛んだったようだ。今に伝え残されていて、この橋に石見神楽で舞われるスサノオの命とやまたのおろちの戦いや疫病神を追い払う鍾馗(神様)を描いた大きな壁画があった。ホーランエーは山辺神社の水上渡御祭にまつわる行事の一つとある。
 江津市はかっての郷田宿で、江戸時代に日本海沿岸交易や江の川舟運の要所として賑わい、北前船や地元の廻船問屋持船の船着場として繁栄していたという。江の川沿い街道筋に「天領江津本町甍街道」(いらかかいどう)の説明板が立っていた。

 旧郷田宿をあとに小さな丘を越える古道をたどる。地形図に幅員1.5mで描かれているが通れる若干不安だったが、草は刈られていてそのうち石畳が現れ、登りきると「従是西濱田領」の領界石柱と「旧山陰道土床坂」の絵図板が立っていた。旧山陰道表示を初めて見た気がしてうれしかった。途中に「土床坂の保存を目的とした学術調査中」と書いてあった。

 このあと一旦国道9号にでてすぐに旧道にもどり、西方寺、矢立の神事の大年神社をすぎ午後3時半に都野津駅(山陰本線)の最寄地点にきたところで今日はここまでとした。

 電車に乗って五つ先の浜田駅近くの「グリーンリッチホテル浜田駅前」に着いたのは午後4時半すぎだった。


     龍御前神社

    内藤家庄屋屋敷

   風力発電の風車が

   旧山陰道土床坂
22平成221117日(水) 曇りのち時々晴れ
都野津から西浜田(駅)へ (25km

8時すぎにホテルを出て都野津駅に戻ったのが9時少し前。夜間に雨が降ったようで道が濡れていて、空には大きな雲の塊が漂い、青空が僅かに顔を出していた。今日の天気予報は松江が雨、西の方は曇り、気温14℃だった。昨日の街道筋にもどり9時からつづきを歩く。

 敬川をわたると旧街道を辿れるか分からない部分がしばらくつづく。国道沿いに大きな看板「石見神楽面製造元」が見えた。このあと草むら道を通って山陽本線のレールをわたり、旧道らしい道にでて波子町を通りすぎたところで国道にもどった。そして歩き始めて1時間半、旧街道沿いにある島根県立石見海浜公園に着いたところで一休みした。
 遠くから白鳥の首のような大きなモニュメントが見えたが、国道にかかる陸橋の支柱「はっしータワー」で、中央に立派な海洋館アクアスがある大規模な海浜公園だった。雲の間から時々陽が射すが、じっとしていると寒いので早々と出発した。

 このあと道に迷いながら石見国分寺尼寺跡を通って国道にもどった。途中に井戸公頌徳碑が立っていて、当地方を襲った享保の大飢饉(1732)の時に石見銀山領の代官が幕府の許可を待たずに穀倉を開いて食糧を分け与え、甘藷の種芋を作付けさせて領内に1人の餓死者も出さないよう心血を注いだと書いてあった。

 下府川をわたると旧街道は途切れ、国道9号を1時間近く歩く。山陰本線を横断する手前で国道をから浜田駅に向かう道に入ると、すぐに浜田市東公園があったので昼食休憩をとった。時計を見ると午後1時だった。
 ここはかっての浜田宿。駅前通り「銀天街 どんちっちタウン」の看板をくぐり、浜田駅前にくると大きな「どんちっち神楽時計」がある。伝統芸能「石見神楽」の演目「大蛇」をテーマにした“からくり時計”で、神楽雜子が鳴り出すと雜子手が現れ、次に神楽殿から大蛇が顔を出し、須佐之男命と大蛇が闘いを繰り広げるという。時計の名前は石見神楽の雜子の音を子供たちが「どんちっち」と言うことから命名されたとのこと。

 この浜田市の中心街をぬけて浜田漁港にくると照明灯を一杯付けたイカ釣漁船が並んでいた。浜田市は天然の良港に恵まれ漁業都市として古くから栄え、全国11番目の特定第三種漁港に指定されている。主としてサバ、イワシ、イカ、カレイなどが水揚げされ関西、山陽方面に出荷されているとのこと。
 水産会社が並ぶ水産加工団地をすぎて湾岸沿いにつづく県道<241>をひたすら歩く。途中、熱田町に石見神楽面の工房があった。午後3時すぎに西浜田駅前にきたところで今日はここまでとした。

 浜田駅にもどり、今日も昨日と同じ「グリーンリッチホテル浜田駅前」に泊まった。電車がなくホテルに着いたのは午後4時すぎだった。


    はっしータワー

   石見国分寺尼寺跡

   どんちっち神楽時計

   石見神楽面の工房
23平成221118日(木) 曇りのち時々晴れ
西浜田から益田(宿)へ (45km

今日は益田まで45kmのロングコース、しかも石見高原が海まで迫る厳しい道がつづく。今日は益田にたどり着くのを優先に、地形図に載ってないところは迷わずに迂回路を歩き、無理なら石見津田駅で電車に乗ることにした。天気は曇り、雨40%、気温14℃の予報。朝食は7時から、でも8時前の電車に乗りたいと早めにゆくと10分前に食べることができた。

 7:47発の電車に乗って西浜田駅で降りた。いつものように乗降者はほとんどが学生だ。街道筋にもどって8時少し前から昨日のつづきを歩く。
 20分ほど歩いて神久山神宮入口の表示杭が立つところで左折し、日脚町の丘陵地越えの旧道を40分ほど歩いて周布川をわたったあと国道9号にでた。途中、昨夜雨が降ったのか道が濡れていた。 このあと旧道が途切れるのでそのまま国道9号を1時間ほど歩いて丘陵地越え海岸線に出た。このあと折居駅をすぎた先で、旧道は東平原に向かう山越えの道に入る。しかし空模様もはっきりしないので無理をせずにそのまま国道を歩いた。


 歩き始めて2時間半、道の駅「ゆうひパーク三隅」があったので休憩した。ゆうひライン石見は、温泉津から益田の海岸線は砂浜とリアス式海岸が織り成す美しい海岸線と輝く夕日に染まる山あいのドライブウェイとして石見地区のシンボル道路になっている。

 山陽本線は海岸近くを走っていて、国道は鉄道から離れた山あいを通っている。11時半すぎに旧宿場「三隅」の町に着いた。とくに見るもの無く三隅川をわたり、旧宿場をあとに田原の交差点をすぎた。
 旧道は滝見地区から山道に入るが地形図に道が描かれてないので引き続き国道を歩く。アップダウンを繰り返し日の峠のバス停を通りすぎたとき12時半をまわっていたので、適当なところで腰を下ろし昼食休憩をとった。


 金山下にきたところで旧街道は山越えの道に入る。地形図には破線(幅員1.5m未満)で描かれているが、通れるか分からない。しかも途中に標識のない分かれ道があると迷ってしまうので山道はパスし、迂回路として海岸沿いを通る国道9号を歩いた。鎌手駅近くを通ったのが午後2時。なおもアップダウンを繰り返し石見津田駅前に着いたのが午後3時だった。
 次の益田駅まで約8km、ここから鉄道を離れふたたび山あいの道を辿る。天気がよくなっているので午後4時半頃まで明るいだろうと益田駅まで歩くことにした。

 このあとも旧街道をたどれないところがつづくため一路国道9号を歩く。午後4時をすぎて日没の気配を感じてくる中をひたすら歩く。そして午後4時15分に益田川をわたって益田市中心街に入り、午後4時半に国道近くにある「ステーションホテルダイエー」に着いた。今日は良く歩いた!

 ホテルにレストラン(夕食)は無かったが、夜食(カレーライス、ドンブリ物)を頼めるというので、ホテルに入る前にホカホカ亭でご飯無しの弁当を買い、ホテルに午後6時に夜食のカレーライスをお願いした。
 ゆっくりお風呂に入って疲れを癒し、ビールを飲んでいるとき部屋にカレーライスをもってきてくれた。
和室があるという想像外にきれいなホテルで、テレビも最新型、それにリーズナブルな値段と◎のホテルの一つだった。


   丘陵地越えの旧道


    国道9号を歩く


   旧宿場の三隅町


    日の峠を越えて
24平成221119日(金) 晴れ
益田から津和野(宿)へ (36km

今日は日本全国好天マークで島根県も晴れ、気温16℃の予報。8時少し前にホテルをでた。朝からスカッと晴れた気持ち良い日だ。まず駅のコンビ二で昼のおにぎりと水を調達した。昨日は途中から旧道筋を離れて国道9号をたどってホテルに向かったので、旧道にもどるため国道191号を東に向かい旧道と交差する市立益田東中学校のところで旧道にもどった。

 昔ながらの旧街道らしい道が延びていて萬福寺をすぎると七尾城通りの説明板が、そして益田川をわたると、この道筋は江戸時代の山陰道にあたる、云々と記された説明板が、さらに田畑修一郎旧居・旅館「紫明楼」跡の説明板、旧山陰道の表示とつづいてあった。
 奈良時代からの由来ある机崎神社、多田温泉白龍館をすぎると小さな峠を越えの道に入る。途中にある扇原関門跡、長州軍を前に扇原関門を死守し戦死した岸静江国治の墓をすぎて峠を越えると、山あいに通じる旧街道らしい道がつづく
 遊歩道「あんな坂こんな坂」の表示を見てJR山口線をわたり、小さな峠を越えると右手下方にきれいな棚田が広がる山あいの町が見えてきた
 
 歩き始めて3時間、この横田町をすぎると旧道は高津川に沿ってJR山口線と国道9号を束ねるように上流・野坂峠(山口県との県境)に向かう。そして旧街道らしい道も石見横田駅をすぎた先で国道9号に合流し、このあと旧道が途切れるので国道を歩く。車の往来は比較的に少ない。


 東青原駅をすぎると電柱の脇に横町沖渡船場跡の標柱がひっそりと立っていた。旧山陰道はここ青原で鉄道路線と国道9号から離れ高津川をわたって鬼ヶ峠、カシノミ峠を越え、津和野で国道9号と鉄道路線に合流する。地形図には描かれているが破線(幅員1.5m未満)部分が幾つかある山越えの道。途中に分かれ道が幾つもある。距離は約20km。
 時計をみると12時をまわったところ。この峠越えの道は最初からパスするつもりだったので迷うことなく、そのまま高津川沿いの国道を進んだ。

 ひたすら歩くこと1時間、途中、小瀬村洞門、富田洞門をすぎると道の駅「シルクウェイにちはら」があったので昼食休憩をとった。

 池村第一洞門をすぎて日原駅の前を通ったのが午後2時半前。午後3時をすぎると太陽が低くなって集落背後の山々に西日が射してくる
 青野山駅をすぎ、津和野川をわたって吉野山隧道をくぐると、大きな看板「史跡と鯉とロマンの町 津和野へようこそ」が見えてきた。そして旧道にぶつかったのが午後4時20分、迂回路を4時間歩いて旧津和野宿の入口で旧街道にもどった

 薄暗くなってきているのでまず宿をさがし、今日の宿「民宿みやけ」に着いたのが午後4時半少し前だった。街道筋にあったのですぐ見つかった。

 「お食事処 みやけ」の看板を出した民宿で、寒いのだろう部屋にはコタツが用意されていた。食事処でもあり夕食がとても美味しかった。
 民宿といってもTVはデジタル型、トイレはウォシュレットと立派な宿と変わらない。テレビで紹介されていたが、津和野の芋煮は東北の芋煮と違って里芋だけのシンプルなものだが鯛魚の味がよく効いてとても美味しかった。
 明日の昼の弁当をお願いし8時すぎに床についた。昨日、今日とよく歩いて疲れたのだろう、すぐに眠ってしまった。


    旧街道らしい道へ

     山あいの道

   棚田が広がる集落

    西日が射して

    津和野宿の入口
25平成221120日(土) 晴れ
津和野から長門峡(駅)へ (30km

早く目が覚めると、昨夜コタツに足を突っ込んで寝たので良かったが最低気温が3~4℃とすごく寒かった。今日は津和野から島根/山口県境の野坂峠を越えて長門峡駅まで、昨日と違って7~80%は旧道を歩く。天気は晴れ気温18℃の予報。
 昼の弁当をもらって宿を8時に宿をでると、斜め前に津和野駅が見えた。朝早いためか人影がなかった。


 津和野は野坂峠を控える山あいの旧宿場町、旧街道がこの街中を真っ直ぐ南に突き抜けている。ブロック舗装されていて華泉醸造元、蔵元橋本本店、初陣蔵元といった酒造会社がつづく商人町が、そして武家屋敷街に入ると海鼠塀や大岡家老門を残す建物、津和野藩校養老館、津和野藩家老多胡家表門とつづく。この辺は殿町といわれ城下町の中心部にあたるところ。津和野川をわたると草刈代官門を残す津和野町郷土館、筆頭庄屋屋敷だったという杜塾美術館がある。このように津和野は城下町の面影をよく留めていて、この風情ある町並みは“山陰の小京都”といわれている。

 城下町中心街をすぎると、警察署の後方山頂に津和野城跡の石垣が見える。蒙古の襲来に備えて築いた城で日本海に向いているという。リフトで行けるようだが今回はパスした。
 津和野は医学博士、文学博士の森鴎外の出身地で、少しゆくと10才で上京するまで過ごしたという森鴎外旧宅があり、津和野川をわたった反対側に哲学界の先駆者として知られる西周(あまね)の旧宅がある。いずれも国指定史跡になっている。

 森鴎外は6才より藩校養老館に学び10才で上京。東大医学部卒業後、陸軍々医に任ぜられる。その後、ドイツに留学し衛生学、文学、哲学、美学を研究。帰国して軍医総監、後に帝国博物館長、帝国美術院長となる一方、文学者としても活躍し、明治大正を代表する文豪として夏目漱石と並び称されている。
 西周は浦賀に来航したアメリカの黒船を見て西洋の社会制度、学問を学ぶことが急務であるとしてオランダに留学して法学、経済学等を学び、西洋哲学の思想にも多くの影響をうけた。帰国後、開成所(東京大学の前身)教授となり、また徳川慶喜に招かれ西洋の議会制度、三権分立について諮問をうけ「議題草案」を著し答申している。我が国最初の憲法草案といわれる。また明治新政府では国防のための各種法規の制定、一方「百一新論」を著し哲学による諸学の統一を説いた。その他、哲学、心理学、論理学の書を訳出するとともに、主観、理性、悟性など新たな学術用語を造語し学会の発展に尽くした。

 津和野は石州和紙の里としてNHKで放映されている。この伝統石州和紙会館をすぎると、まもなく萩へ向かう道と分かれ野坂峠越えの道に入る。地形図には実線(幅員1.5m~)で描かれている。
 まもなく人里を離れて野坂峠の上り坂にさしかかる。舗装されたきれいな道で時々小さな車が通るので不安感はない。振り返ると山あいに広がる津和野の町が望める。津和野川沿いに広がる赤瓦の家並みがとてもきれい。

 登り始めておよそ1時間、10時すぎに野坂峠頂上(360m)に着いた。山口市の標識、そして振り返ると島根県・津和野の標識が立っている。

 このあと一旦国道9号に合流すると長門国/石見国の国境の野坂御番所跡があった。温度11℃とある。ふたたび旧道にもどって峠を下り、山あいに広がる田園地帯を抜けて県道<311>にでた。時計をみると12時少し前だった。
 いつの間にか街道脇にリンゴ園が現れ、直売店があったのでリンゴを買った。徳佐リンゴで1個200円と思ったより高かった。歩きながらリンゴを食べ、午後1時近くになったので腰を下ろせる場所を見つけ昼食休憩をとった。

 澄みきった空に赤瓦の家が映えてとても美しい。車の往来も少なくこの街道風景を楽しみながら県道をひたすら歩く。名草のバス停をすぎ、山陰本線の三谷駅前を通ったのが午後2時半近くだった。
 渡川駅の手前で山陰線をわたって国道9号にでると渡川城跡(説明板)があった。中世大内氏の三大古城の一つで石州街道の要衝として築城されたとある。

 午後3時をすぎると南西に向かっているので西日がまぶしい。この西日を浴びながら国道を歩いて、予定通り午後4時少し前に長門峡駅に着いた。今日はここまで。

 駅前のもみじの紅葉がとてもきれいで多くの人が写真を撮っていた。16:06発の電車に乗ったところSLの特別季節列車だった。山口駅で下りて駅から少し離れた柳井旅館に着いたのは午後5時少し前だった。
 きれいとはいえないが静かで部屋も広く設備の整った良い旅館だった。翌日もと思ったが日曜日は夕食がないとのことで明日は湯田温泉駅の「スーパーホテル山口湯田温泉」に予約を入れた。


  旧津和野宿の町並み

  大岡家老門を残す建物


     西周旧宅

  山あいの津和野の町

     野坂峠頂上


    旧道にもどって
26平成221121日(日) 濃霧のち晴れ
長門峡から湯田温泉(宿)へ (32km

今日は篠目の手前で国道から分かれたあと湯田温泉まで旧道を歩く。途中、大峠越え(380m)の山道が約10km含まれている。天気は晴れ、気温20℃の予報、でも最低温度5℃と寒い。朝食を6時半に早めてもらえたので7時半前に宿をでて、駅のコンビ二で昼食を調達し7:52発の電車に乗ることができた。
 8時半少し前に長門峡駅に着くと一面濃霧に包まれていた。折角の機会なので長門峡探勝コースの入口に立ち寄ってみた
 長門峡阿武川沿い12kmにわたる峡谷で、奇岩や滝、深淵など変化を織りなす奇勝として知られ国の名勝に指定されている。探勝コースは長門峡駅から龍宮淵まで距離5.3km、約1時間40分。

 国道にもどってしばらく歩くと旧道らしい分かれ道があった。のどかな旧街道らしい道で霧も晴れてきた。途中で道を間違えたりしたが、万霊塔観音堂跡をすぎ、大峠(380m)の頂上にくると国境の碑(北長門国阿武郡/南周防国吉敷郡)が立っていた。そして明るい開けた場所にでた。時計は11時半少し前。
 ここは国道9号と萩に向かう国道262号の分岐点で、ドライブインもあって車が一杯停まっていた。木戸山/風の谷の案内板に「左萩街道 右津和野街道」とある。
 この交差点を突っ切るように国道262号を横断して国道9号の脇に通じる山道に入る。ゆるやかな坂を15分ほど下ってゆくと棚田が現れ、“熊注意”が立っているのをすぎると所々に民家がポツンポツンと現れてきた。そして12時半、宮野の集落に下り着いたところでゆっくり昼食休憩をとった。

 宮野新橋の交差点で国道9号を横断し、まもなく一旦県道<204>に合流、宮野駅をすぎた先で旧道らしい道にもどった。途中に街道筋近くにザビエル記念公園があった。
 キリスト教を布教するために鹿児島に上陸したフランシス・ザビエルは京都へ向かったが、戦乱で乱れていたため政情の安定した山口で大内義隆に布教の許しを得、廃寺であった大道寺を住居に布教に当たったという。この公園が大道寺跡にあたることからザビエルの肖像をはめ込んだザビエル記念碑が建てられたという。

 上山口駅前を通ったのが午後2時。このあと大市商店街を通って安部橋をわたり、長州藩井上馨遭難の地をすぎて湯田温泉駅近くにきたところで今日はここまでとした。

 ここで右折し井上馨の生誕地「高田公園」の横を通って今日の宿「スーパーホテル山口湯田温泉」に向かった。公園内に足湯があって寛いでいる人達がいた。ホテルでチェックインしたのが午後3時半だった。


  門峡探勝コース入口

  大峠(380m)の頂上

     大峠を下って

     公園内の足湯
27平成221122日(月) 雨
湯田温泉から小郡(宿)へ (11km 完

今日は山陽道との合流点・小郡まで、山陰道714kmを歩き終える最後の日。心が弾むが天気は雨模様。朝食時は小雨だったがそのうち本格的な雨に変わった。
 リュックが濡れるのでポンチョを被り、傘を持って8時にホテルをでた。ホテルは湯田温泉街の中心にあって隣の松田屋ホテルに名園史跡、明治維新史跡の石柱が立っていた。ホテルの脇道にも足湯があった。
 湯田温泉は伝説として、大内氏が紀伊の熊野三社から勧請し、湯田地区に祀る熊野神社の権現山に棲む老狐が痛めた足を湧水で治療していたことから泉源が発見されたといわれている。長禄3年(1459)の大内家壁書に入湯の規則が明記されており、当時すでに湯治客があったことが知られている。
 高田公園の横を通って昨日の街道筋にもどったところ、公園内の足湯に伝説の狐像があって摂氏64℃、泉質はアルカリ性単純泉と添えてあった。昨日は気づかなかった。

 8時半前から昨日のつづきを歩く。旧街道をたどっているつもりだが面影はまったく残っていない。雨が降る中ひたすら歩くこと2時間、途中から椹野川沿いを歩き上郷駅のところでJR山口線をわたった。山陽道との合流点・小郡まであと2km弱、ここはかっての小郡宿。そして10時半少し前に下関からくる山陽道と合流した。この合流点に「左萩山口石見 右京江戸・・」と刻まれた江戸時代の道標が立っている。

 このあと新幹線の新山口駅まで歩いて、山陰道踏破の喜びをかみしめながら帰路についた。自宅に着いたのは午後6時だった。

尚、山陰道を歩き終えての感想&所見は各旧街道の概要を参照下さい。

            (完)

                             


     伝説の狐像


    山陽道と合流点

を歩く