中山道
 奥州街道は江戸から宇都宮〜白河〜福島〜仙台〜平泉〜盛岡〜青森〜津軽半島の三厩へと至る日本最長の街道で、幕府道中奉行は江戸から白河の区間を管轄し「奥州道中」と呼んでいる。この中の江戸〜宇都宮間は日光街道と同じ道なので、この続きとして宇都宮から歩くことにした。
プロフィール
参考資料

1.平成15919 晴れ
宇都宮から氏家へ(16km

 
 宇都宮駅前広場のベンチで旅支度(Tシャツにジョギングパンツ姿)をしてから国道
119号に出て日光街道と奥州街道の分岐点(追分)から奥州街道「みちの旅」をスタートした。

 商店街を過ぎると奥州街道名残りの旧町名「大町」の説明がでていた。車の往来が激しい広い道に出ると場違いのように昔風の蔵造りの旧篠原家住宅が残っている。このあと広い県道125号を北東に向かってひたすら歩く。
 そして緩やかな上り坂(稚児坂)をすぎると白沢地蔵堂がある。やげん坂(立札)、たまり漬けの老舗「水戸屋」を過ぎて白坂宿の交差点を左折すると、旧宿場の中心らしく本陣の屋号札を付けた大きな家があった。

 このあと鬼怒川の土手道を歩く。しばらくゆくと鬼怒川の渡し跡(阿久津河岸)があり、川をわたると阿久津の集落がある。この阿久津河岸は明治の中期まで水陸交通の要所として三百年間の繁栄をつづけたという。この河岸場に船玉神社、浮島地蔵堂がある。そして将軍地蔵を過ぎたところで鎌倉末期に氏家氏が築いた勝山城跡に立寄った。
 このあと旧街道を探しながら「奥州街道道標石」の説明板を見つけ、氏家東駅口の標識をすぎると町のシンボルとして親しまれているという光明寺の青銅造「不動明王坐像」がある。ここからJR東北本線から離れ喜連川へ向かうが、今日はここまでとし氏家駅から帰宅した。


    旧篠原家住宅

    不動明王坐像

2.平成15928 晴れ

氏家から大田原へ(29km

街道筋に戻る前に駅の近くにある老舗「仙禽酒造」に立寄った。「麓酒せんきん」の蔵元で江戸時代の後期に創業、醸造一筋に歩む蔵として県内最古の歴史があるという。このあと今宮神社で旅の安全を祈願し街道筋に戻った。
 表門を構えた家が何軒か並ぶ落ち着いた町並みがつづく、その一つに瀧澤家住宅がある。国道293号に合流すると、氏家地内唯一現存するという一里塚の立て札が民家の敷地内に立っていた。

 新旧二体の大黒天の先から旧道に入り、那須氏喜連川塩谷氏軍と宇都宮軍が戦った古戦場、碧梧桐句碑を過ぎて荒川(連城橋)を渡ると喜連川の町に入る。ここで足利家歴代の墓所・龍光寺、喜連川神社に寄ったあと喜連川城跡前を過ぎて小さな丘陵地を越える。
 天皇小休之際御膳水の碑を過ぎて佐久山の町に入ると、手洗いの壁に馬上の武士が弓を構え海に浮かぶ舟に掲げた的を狙っている絵が描かれていた。これに「与一の里 大田原」と添えてある。そして大日堂の「佐久山のケヤキ」の巨木を見て箒川(那珂川の上流)を渡り、のどかな田園地帯をしばらく歩くと蒲盧碑がある。
 なおも田園地帯を歩き、旧奥州道中 大田原宿新田木戸跡の石柱を過ぎると立派な薬師堂が建っている。大田原市の中心街に入ると郷土が生んだ英雄「那須与一の銅像」が建っていて、大きな交差点に見事な金燈籠が立っていた。予約した旅館の近くを通りすぎていたので、今日はここまでとし大田原の旅館に泊まった。


        大黒天

      金燈籠

3.平成15929 晴れ

大田原から芦野へ(21km

金燈籠の交差点の先にある大田原城跡に立寄った。今は竜城公園として桜の名所になっているようだ。蛇尾川を渡り、県道72号を北に向かうと中田原の一里塚、左奥州道中・右棚倉街道の追分道標、そして市野沢交差点近くに推定樹齢400年のコウヤマキ巨木がある。
 このあと真青な空を背景に樹木に覆われた林や田園地帯を抜けてゆく。黒磯市に入って、樋沢神社にある葛籠石と八幡太郎義家愛馬蹄跡の石の二つの巨石を見て小さな丘陵地を越える。
 鍋掛交差点までくると芭蕉の句碑と鍋掛宿の説明が立っていて、鍋那珂川(昭明橋)を渡ると旧越堀宿になる。鍋掛、越堀とも小さな集落で人影を見ることなく通りすぎた。

 小さな富士見峠を越えると奥州街道・寺子一里塚公園があったので旅館で作ってもらったおにぎりを食べて休憩した。そして余笹川を渡るとふたたび小さな丘陵地を越える。途中に夫婦石神社、夫婦石の一里塚がある。峠を下るとまもなく旧芦野宿に着くが、今日はここまでとし、近くの林の中の一軒宿・芦野温泉ホテルに泊まった。



    寺子一里塚公園

4.平成15930 晴れ

芦野から白河へ(18km


 畑の中にある芦野氏居館跡に立寄ってから奈良川の古い石橋を渡る。入口に地蔵尊が建っていて、芦野の集落に入ると旧宿場らしい屋号を記した四角い石灯籠が家の前にそれぞれ立っていた。この一軒にうなぎ「丁子屋」というお店がある。かっての旅籠「丁子屋」で奥に江戸時代の「蔵座敷」が残っているようだ。小さな路地に入って平久江家門構えと那須歴史探訪館を訪れてから芦野八景の一つ「遊行柳」に立寄った。
 このあとべこ石の碑文を過ぎるとしばらく国道294号を歩くが、空の青、雲の白、山々の緑、稲の黄金、それに澄み切った空気の街道景色はとてもきれいだ。

板屋の一里塚、先が尖った舟の形をした牛頭観世音、泉田の一里塚、瓢箪を模る石仏と続き、景色の良い丘陵地帯を上ると栃木県と福島県の県境・境明神峠の頂に着く。峠を下り泉岡の小さな集落に入ると白坂のバス停があったが、おそらく旧白坂宿の名残なのだろう。

ふたたび小さな丘陵地を越えると奥州藤原秀衝の家臣「金売吉次の墓」がある。雑木林の中に三基の宝篋印塔が立っている。
 白河市街に差し掛かると戊辰の役・古戦場跡がある。この地は白河口の激戦地で会津藩戦死墓と鎮魂碑、長州・大垣藩の墓が立っている。

 そして表門を構えた家や土蔵造りの老舗が散見される白河市の中心街を通り抜けたところで、今回はここまでとし白河駅北側にある小峰城(別名白河城)に立寄ってから帰路についた。


        遊行柳       
     境明神峠の頂

      小峰城
5.平成151015 曇りのち晴れ
白河から須賀川(28km

 
 白河駅に10:04に着いた。そして白河市街地を抜けて国道294号を北に会津若山方面へと向かう。阿武隈川を渡り「遊女志げ女の碑」を過ぎて一旦国道4号に合流するが、すぐに国道から分かれて旧根田宿の集落に入ると江戸時代から創業という「根田のみそ」醸造元・根田醤油合名会社があ.る。
 このあと道が途切れて迷ったが、なんとか旧道らしい道に出て旧宿場の太田川、踏瀬の小さい集落を通る。そして五本松地区にくると松並木700m近く続き、山王寺の「臥竜の松」を過ぎると旧矢吹宿の町に入る。
 空は晴れているが通り雨が降ったようで道路が濡れていた。街中にくると慶応元年(1865)創業という造り酒屋・大木代吉本店があり、この先に「矢ふきの宿」と刻まれたかわいい石碑と石地蔵が立っていた。

 このあと穀倉地帯が続き、バス停「笠石」を過ぎると地名由来の笠地蔵がある。板碑に笠がある珍しいもので、横に笠地蔵のしだれ桜(推定樹齢250年)が生えている。
 鏡石駅を過ぎてしばらく長閑な田園地帯を歩く。途中にきれいな形をした須賀川一里塚が残っていた。須賀川の市街地にくると奥の細道のコーナーがあり、ここに芭蕉と曾良2人の石像と「俳句ぽすと」が立っていた。そして中心街にきたところで、今日はここまでとし近くの予約したホテルに泊まった。


    街道風景(松並木)

     芭蕉と曾良の石像
6.平成151016 晴れ
須賀川から本宮へ(26km

 
 ここ須賀川は芭蕉が滞在したゆかりの地らしく、芭蕉記念館と軒の栗(可伸庵跡)に立寄ってから街道筋に戻った。今日は良い天気で空が澄み切ったように晴れている。

 中宿橋(釈迦堂川)を渡るとすぐに鎌足神社があり、この横に2mくらいある大きな草鞋が一足下がっていた。須賀川市街を抜けると県道355を郡山めざし北に向かう。
 きれいに整備された道の所々に石仏群が立っていて、この一つに筑後塚供養塔群があった。これは鎌倉時代の官道・東山道の路傍に建てられたもので、当時は戦乱と飢餓に明け暮れ、人々は現世に絶望し、阿弥陀仏の来迎供養等を建てて死者の供養とともに自らの死後の安楽を祈ったという。
 このあと笹川、日出山の集落を通り小原田のバス停を過ぎて郡山市街に入った。中心街にある安積國造神社に立ち寄ってから、郡山市の繁華街を抜けると「左会津街道 右奥州街道」と刻まれた道標が立っていた。
 安積橋(逢瀬川)を渡り、福原のバス停を過ぎると街道筋近くに宝沢沼があったので、釣りをしている人を眺めながら休憩した。
 
 旧街道は須賀川から県道355の一本道できているので分りやすい。稲穂が黄金色に染まる長閑な田園地帯を行くと日和田の町が見えてきた。町に入ると西方寺の傘松、713年に開山されたという蛇骨地蔵堂があり、この先にきれいに整備された安積山公園があった。ここは万葉集で詠まれ、松尾芭蕉と曾良が奥の細道紀行で訪れたところという。
 所々に松の木が残っている奥州街道松並木を過ぎて黄金色に広がる穀倉地帯の途中に積達騒動鎮定之遺跡碑が立っている。毎年の不作続きで餓死者がでて安積一揆が起こったが、農民の願いを聞き入れ流血することなく鎮定したという。
 そして太郎丸観音堂供養塔を過ぎて本宮本陣通りから本宮駅前を少し過ぎたところで、今日はここまでとし近くのホテルに泊まった。


      大きな草鞋

      石仏群

       街道風景
7.平成1510月17 晴れ
本宮から福島へ(31km)

 8時にホテルを出発し街道筋にでると、澄み切った青空に朝陽を浴びた安達太良山がくっきりと見える。安達太良川(阿武隈川支流)を渡り、県道355号を北に向かって歩く。旧宿場の本宮には海鼠壁の土蔵造りの家が所々に残っている。安達太良神社を過ぎると民家が途切れ、田畑が広がる先に安達太良山が見える街道風景を楽しみながら歩く。
 小さな丘陵地を越え薬師寺を過ぎると旧杉田宿だがその面影を見ることなく通り過ぎた。車の通りが少ない県道をのんびり1時間くらい歩き、二本松市街にさしかかったところで街道筋を離れ霞ヶ城跡に向かった。

 この城跡は霞ヶ城公園になっていて道を上って行くと霞ヶ池、洗心亭、傘松(傘を広げた形をした赤松の巨木)、智恵子抄詩碑(高村光太郎の詩集)、二本松少年隊顕彰碑と続き、最後に「奥州探題・畠山氏居城 霞ヶ城址」碑が立っている。ここに大きな城郭の石垣が残っていて、この中を上っていくと二本松城本丸跡がある。
 高台にあるので二本松市街地を一望でき、しかも西は安達太良山から東は遠く阿武隈高地まで見渡せる360度の眺望は素晴らしい。他の城にない壮大なスケールを思わせる。この城は室町時代中期に畠山氏歴代の居城として築城、その後伊達政宗、豊臣時代(蒲生氏郷)、徳川時代(丹羽光重)と領主が変わったが、幕末の戊辰戦争で徹底抗戦してすべてを焼失し、慶応4年(1868)落城したという。

 それにしても素晴らしいところに城が建っている。この景色をゆっくり眺めたあと正門・箕輪門から城址をあとにした。正門前に二本松少年隊群像が建っていた。
 二本松少年隊は戊辰戦争の最中、城内・城下が空虚同然になったのをみて13歳から17歳までの少年62名が出陣嘆願し果敢に戦ったという。

 このあと街道筋に戻り二本松駅前の繁華街を抜けてしばらく行くと「高村智恵子生誕之家」があった。当時のものなのか米屋と酒類醸造元の暖簾が下がっていて、2階に酒銘「花霞」の大きな看板と酒林が下がっていた。

 二本松市郊外を抜けバス停・安達駅入口を過ぎると黄金色に実る田園地帯が広がる。二本柳のバス停を過ぎると大清浄地蔵菩薩、二本柳宿「問屋」の立て札、しだれ桜の大木(樹齢400年)、柳清水(弘法清水)と続く。
 気持ち良く澄み切った秋空の下、車一台通らない旧街道を北に向かって歩く。そして小さな丘陵地にさしかかると伝説の石「鹿の鳴石」、五郎兵衛遺跡(奈良・平安期)があった。丘陵地を下るとふたたび黄金色の田園が広がり、信夫隠の碑、奥州八丁目天満宮、松川橋、西光寺と続き旧宿場の八丁目の町に入る。町中に奥州街道八丁目宿場「旅人宿」の暖簾を下げた旅館があった。
 道標を兼ねた石の六地蔵のところで左折し、ふたたび小さな丘陵地を越える。福島大学の前を通って旧清水町宿の出雲大神宮にきたところで脇の細い古道らしい道に入った。
 ところが東北自動車道の陸橋を越えたまでは良かったが、そのあと農道に迷い込んでしまった。なんとか南福島駅近くにでて、信夫橋を渡り福島市街地に入ると奥州街道の道標と宿場入口(江戸口)の説明板が立っていた。福島市の中心街にきたところで、街道筋に近くに予約したホテルに泊まった。


    安達太良山を望む

       傘松

    二本松城・箕輪門
   高村智恵子生誕之家
8.平成1510月18 晴れ
福島から貝田へ(20km)

 
 8
時にホテルを出発。福島駅前通りをクランク(枡形)に曲がりながら北に向かう。福島稲荷神社、福島競馬場、岩谷観音を過ぎて松川を渡ると、左に福島市のシンボルといわれる信夫山が近くに見えた。阿武隈急行の線路を潜ると青柳神社がある。ここに男根石と女陰石の道祖神が祀られているというので立寄ってみたが分らなかった。

 旧瀬上宿の町を通り過ぎ、摺上川(幸橋)を渡って海鼠壁の土蔵や立派な表門を構えた屋敷が残る伊達町を過ぎるとふたたび田園が広がり、りんご畑もチラチラ見えだした。そして伊達家の始祖・藤原朝宗の墓、桑折寺山門、旧伊達郡役所を過ぎて桑折町に今も残る海鼠壁の土蔵や塀を構える家、そして明治天皇東北御巡幸の際御休所となった無能寺の御蔭廼松をみて旧桑折宿をあとにした。

 田園地帯を抜け旧宿場だった藤田の町を過ぎると、今度は黄色い実をつけた柿畑や赤く色づいたりんご畑の中を歩く。車も人も通らない長閑な道を歩いていると「旧奥州街道跡」の標柱と「貝田宿入口」の案内板が、そして集落の中ほどに「奥州街道・貝田宿」の説明板が立っていた。貝田番所跡を過ぎて国道4号に合流するとすぐに東北本線・貝田駅前にでた。今回の旅はここまでで15:26発の電車で帰路についた。


      旧伊達郡役所

     長閑な道を歩く
9.平成1510月29 晴れ
貝田から宮城県・白石へ(12km)

 
 貝田駅に午後1時時半頃に着いた。少しゆくと国道脇に福島県・宮城県の境界石が立っていて、この先に大きな石「下紐の石」と越河番所跡(表示)があった。ここ白石市越河の県境は古く坂上田村麻呂が関所を置いて以来、下紐の関として歌枕にも揚げられるほど有名だったらしい。(歌枕とは和歌の題材になる名所のことを言うらしい)

 東北自動車道の下を潜り国道から分かれると越河宿の案内がでていた。この先古道が残っているようなので辿ってゆくと、白鳥神社を過ぎてから畑の草道になったので少し不安になったが、なんとか越河駅の先で舗装道にでてホッとした。そして征夷大将軍坂上田村麻呂ゆかりの馬牛沼を過ぎると孫太郎虫供養塔碑、田村神社と甲冑堂と呼ばれる六角堂、鬼ずるす石(説明)、そして斎川宿の案内板と続く。斎川の落ち着いた集落に古びた土塀と表門を残す検断屋敷が残っていた。

 奥州街道(斎川)踏切を渡ると国道4号に合流した。このあと「距仙台元標十四里」の石標や道祖神社を過ぎて国道から分かれると白石市街に入る。午後4時半を過ぎていたのでそのまま白石駅に向かい近くのホテルに泊まった。


      下紐の石

      馬牛沼
10.平成151030 晴れ
白石から岩沼へ(36km)

 
 今日は長い距離を歩くので7時半過ぎにホテルをでて街道筋に戻った。白石市の中心街を抜けてゆくが、商店街通りに土蔵造りの家や表門を構える家が残っていた。そして街外れに亘理町市神が残っていて、国道113号に合流すると道沿い土蔵造りの観音扉窓を残すお店や古い表門と海鼠壁を残す家があった。この先に奥州街道ふれあいの館の横に白石郵便発祥の地、うーめん発祥の地の碑が立っていて、街道筋から少し離れると萱葺の「片倉家中武家屋敷」がある。堰で囲われた立派な屋敷で無料公開されていた。このあと少し戻る形で武家屋敷通りから白石城に立寄った。

 白石城(別名益岡城)は豊臣秀吉が伊達領からこの地を没収して築城したようで、その後上杉領になったが、伊達政宗は関ヶ原合戦直前に白石城を攻略して取り戻し、以後伊達家臣の片倉小十郎が明治維新まで居城したという。明治7年に解体されたが、平成になって三層の天守閣や大手門が復元されている。城内に立派な「片倉小十郎景公頌徳碑」が立っている。

白石城をあとに「うーめん」のお店が並ぶところを通って白石大橋を渡った。このあと県道12号から広い国道4号をひたすら歩き、蔵王町に入ると国道から分かれ旧宮宿の集落に入る。ここで刈田嶺神社に立寄ったあと白石川に沿って1時間くらい歩く。
 そして脇道に入ると大高山神社の裏側にでた。ここに錆びた南蛮鉄の鳥居が建っていたが、江戸時代の鉄の鳥居が現存するのは珍しいという。大高山神社は敏達元年(571)に日本武尊を祭神とし創建、後に推古天皇御代、聖徳太子の父橘豊日尊も合祀されたとある。また白鳥崇拝は同社が発祥らしい。

 昔ながらの家が所々に残る旧金ヶ瀬宿をあとに、しばらく歩くと横に白石川が流れる側に如意輪観音堂が建っていた。江戸時代は白石川の渡し舟によって角田・亘理道に通じる要衝として、境内は旅人の小休所になっていたという。ここは旧大河原宿の西の入口にあたり海鼠壁の土蔵が残る大河原の町を通り過ぎると韮神山の山裾に石仏群が立っているのが見える。この中に奥の細道の標柱もあった。そして白石川の対岸に桜の名所・船岡城址公園が見える。
 このあと船迫(ふなはざま)の町を縫うように通り抜けたあと、白石川の土手道をのんびり歩く。秋晴れの良い天気なのでとても気持ちがいい。そして阿武隈川に合流すると、今度はしばらく阿武隈川に沿って北に向かう。
 旧槻木宿の集落から田園地帯を抜けて岩沼市の市街地に入ると聖徳太子堂の先に竹駒神社の標示がでていたので立寄った。
 竹駒神社は承和9年(842)創建の古社で生成発展、産業の大神として庶民に広く信仰され、古くから日本三稲荷の一社に数えられている。境内に芭蕉句碑と奥の細道の標柱が立っていたので松尾芭蕉も立寄ったものと思われる。

 岩沼市の中心街にくると海鼠壁の土蔵や立派な門構えの家が散見され、本陣・南町検断屋敷跡(八島家)の長屋門が残っている。この先にも古い土蔵造りを残すお店が何軒かあって旧宿場の面影を感じさせてくれる。
 午後4時半を過ぎると急に暗くなってきたので急ぎ足で岩沼の一つ先の館腰駅まで歩き、ここから仙台に出て最寄のホテルに泊まった。


  片倉家中武家屋敷

      白石城
      
     白石川の土手道

      竹駒神社
11.平成151031 晴れ
岩沼から七北田へ(22km)

 
 ホテルを8時にでて館腰神社で旅の安全を祈願してから、街道筋を離れ雷神山古墳に立寄った。東北最大の前方後円墳で国指定史跡になっている。
 そして名取市中心街にくると土塀に表門を構える立派な屋敷があった。中を覗くと「明治天皇増田御膳水」碑が立っていた。少しゆくと増田宿・北方検断屋敷跡と奥州街道の説明板、衣傘の松が生える史跡コーナーがある。名取駅前を通り、まっすぐ北に延びる国道4号を仙台に向かってひたすら歩く。

 歩き始めて2時間半、南仙台駅前(旧中田宿)から名取川を渡ると仙台市街のビルが見え出す。長町駅前を通って広瀬川(名取川の支流)を渡ると、橋の袂に橋の礎石、橋姫明神社の小さな祠と橋供養碑があった。この広瀬橋(旧永町橋)は寛文8年(1668)に架けられ、奥州街道の本筋として大名の参勤路だったという。この広瀬川は仙台市内を流れるきれいな川で、上流に向かってテレビ塔が立つ大年寺山から右に仙台市街のビルが建ち並ぶ景色はなかなか美しい。
 このあと旧道を辿って旧町名を刻んだ石柱が所々に立つ路地を歩く。そして三宝大荒神社、谷風の碑、泰心院山門を過ぎて国道4号を横断すると東北大学がある。この正門前から青葉通りを横切り、国分町にさしかかると「芭蕉の辻」碑と道標が立っている。この道標の北面に「津軽三厩迄 百七里二十二丁 奥道中」、南面に「江戸日本橋迄 九十三里 奥州街道」と刻まれている。芭蕉の辻の由来は、かって芭蕉樹あったとか、繁華な場所ゆえ「場所の辻」が訛ったとか定かでないらしい。
 広瀬通りにきたところで街道筋から離れて西公園に向かった。ここに仙台領におけるキリシタン迫害で9名のキリスト教徒が大橋の下の水牢で水責めにあって殉教した遺跡「キリシタン殉教の碑」がある。近くに青葉城跡、瑞鳳殿などもあるが、仙台単身赴任時代に何度も訪れているので今回はパスし街道筋に戻った。
 仙台の飲食店街の国分町から定禅寺通りを過ぎて仙台市街の外れまでくると、奥州仙台七福神「寿老尊」、そして輪王寺と伊達政宗を祀る青葉神社がある。仙山線を北仙台駅近くで渡り、交通量の多い単調な道を七北田に向かってひたすら歩く。そして午後4時少し前、地下鉄八乙女駅前にきたところで仙台に戻り帰宅した。


     雷神山古墳

        広瀬川

    芭蕉の辻と道標
12.平成151114 晴れ 
七北田から古川へ(36km)


 八乙女駅を9時過ぎにでて七北田川にさしかかると近くにサッカー場のドームが見えた。旧宿場の七北田の町を過ぎてから国道4号に合流した。
 歩道が広くしかも真っ青に澄んだ空に雲がポツンポツンと浮いている気持ちの良い日で歩いていても快適だ。途中、清水が竹筒から流れ落ちる「大清水石かん」を過ぎ、なおも1時間くらい歩いて国道から分かれ、旧宿場の富谷町に入る。八雲神社から白壁の塀に表門を構えた大きな家を過ぎたところで、まず熊野神社で旅の安全を祈願した。このあとも所々に表門を構える立派な家があったが、この中に本陣跡、鳳陽醸造元・内崎ヶ崎酒造店、脇本陣跡などの標示があった。他にも土蔵造りの建物も残っていて旧宿場らしい景観を残していた。

 国道沿いの一里塚(再現)と「奥道中歌」碑を過ぎてから県道147号を辿って吉岡の町を通り、九品寺の石碑群、吉岡八幡宮を過ぎて旧吉岡宿をあとにした。
 この先小さな山越えになるが、とくに史跡もないので山道を避けて巻道(車道)を歩くことにした。紅葉がきれいな丘陵地越えの道で、途中で山越えの道と合流したあと須岐神社で休憩した。明治天皇小休止址を過ぎるとしばらく東北自動車道に沿って歩く。伊賀一里塚(標柱)を過ぎて丘陵地を下ってゆくと三本木の町が見えてくる。そして東北自動車道を横断して大豆坂地蔵尊を過ぎると三本木町で、わずかに残る旧宿場の面影を見て鳴瀬川を渡った。この橋から遠く先まで広がる古川市の広い平野を見渡すと、すでに夕日が沈み遠く平野を囲む山々のシルエットが美しい。

 午後4時半を過ぎると辺りが急に暗くなってくる。この先の古川までまだ4キロ以上あるので田園地帯を急ぎ足で通り抜け、午後5時半過ぎに古川市街に着いた。もう暗いので瑞川寺や緒絶橋に立寄るのをパスしそのままホテルに直行した。


     国道4号

      旧富谷宿
       街道風景
13.平成151115 晴れ
古川から築館へ(22km)

 
 7時半にホテルをでてから瑞川寺のところまで戻った。ここに室町時代の建築様式で古川城の搦手門を寺門風に改造したという山門があり、この先に歌枕で有名だったという緒絶橋があった。
 その昔、ここに流れていた玉造川が流路を変えた後に残った川筋を玉の緒の絶えた川、すなわち緒絶川と呼ばれた。古川の地名はこの流れの絶えた川底に発達したのが由来という。これにちなむ清酒「玉の緒」の看板を残す橋平酒造の建物がこの橋の袂にあるが、今は操業していないようだ。 このあと古川第一小学校の校庭に古川城址の説明板が立っているのを見てから古川市街をあとにした。

そして昔は玉造川と言われた江合川を渡り、「聖骨伝眞居士」の碑、「延慶の碑」を過ぎると荒谷の集落がある。小さな旧宿場の外れに斗蛍稲荷神社参道入口の案内が見えたので立寄った。この神社に頼朝の勘気を受けて源義経が奥州平泉へ下向する際に北陸路から鳴子を経て荒谷に到着。ここに歌舞伎「義経千本桜」にちなむ社伝が残っているという。また幕末の剣客・千葉周作もこの地で少年時代を過ごしたらしく、側に「剣聖千葉周作先生の屋敷跡」の標柱が立っている。

 このあと1時間くらい旧道と国道を歩き、「泉のふるさと高清水」の看板が立つところで国道から分かれて高清水町に入る。この地名は高台の地に多くの清水が湧いていたことに由来するらしく、この先に「七清水・本町裏清水」の石柱が立っていた。そして高清水中学校に立寄って校庭に立つ「高清水城跡」の碑を見てから、高清水の町外れまでくると奥州善光寺があった。
 境内が公園になっていて、北条塔など石仏群が立っている。善光寺本尊は保安年間(11201123)奥州藤原基衝が父清衝の菩提を弔うため信州善光寺を模して建立したもので、日本三善光寺の一つと古事記に記されているらしい。その当時植えられたという推定樹齢800年以上の「しだれ桜」の巨木が生えている。ここで昼食休憩をゆっくりとって高清水をあとにした。


 ほとんど車が通らない国道4号に合流してから、すぐに古道らしい道を辿って丘陵地を越える。この道で良いのかと少し不安だったが、すぐに「旧奥州街道」の標柱が立っていたのでホッとした。もみじが紅葉する遊歩道10分くらいゆくと「旧奥州街道・力石」の標柱が立っていた。このあと畑の中を行く舗装道路に一旦出たあと、ふたたび荒地の中に入ったので不安になったが「旧奥州街道」の標柱が所々に立っていたので助かった。結局1時間近く古道らしい道を歩いたが、ここは旧奥州街道でも道幅、道形、道脇の濠の痕跡も往時さながら現存されている道だという。
 このあと一旦国道4号に合流するもすぐに分かれて長閑な丘陵地を越える。まもなく築館町に入り築館町観光案内板が立つところを過ぎると奥州杉薬師如来があった。ここに樹齢1200年を越えるという巨杉「薬師堂の姥杉」と奈良時代(760年)に開創されたという杉薬師瑠璃殿があった。いずれも古い歴史を感じるものだった。
 ここから東に7キロくらい離れたところに白鳥で有名な伊豆沼がある。そして築館の町外れきたところで、近くのビジネスホテルに泊まった。


    瑞川寺の山門
      緒絶橋

      
     今も残る古道

    薬師堂の姥杉
14.平成1511月16 曇り時々小雨
築館から有壁へ(19km)


 今日は少し遅く八時半過ぎにホテルをでた。旧築館宿をあとに国道4号に合流し水沢方向へ向かう。路面が濡れているので夜間雨が降ったようだが、今は青空が見えわずかに陽も射している。今日はガイドに道筋が示されていても、地形図には道がないところが多いので苦労しそうだ。

 歩き始めて1時間、下宮野の集落を過ぎると照明禅寺の横に伊治城跡の説明がでていた。奈良時代後期に大和朝廷が胆沢地方(岩手県)の蝦夷(えみし)を治める前線拠点として築いたらしいが、東北先住民の抵抗もあって簡単には治められなかったみたいだ。この先に「伊治城外郭北辺土塁及び大溝跡」の標杭があった。
 このあと道が途切れたので国道に戻り二迫川を渡ると国道から少し離れた道脇に三界万霊供養塔が立っていた。江戸時代後期にしばしば飢饉が起こり、天明の諸国飢饉は東北地方の被害が最も甚大で犬の肉はもちろん雑草、樹皮まで食べ、道路に倒れて死んでゆくものその数知れず、野たれ死にしたもの相当あったと記されていた。この供養塔らしい。

三迫川を渡ると旧宿場の沢辺でこの町中を通り過ぎ、くりはら田園鉄道を渡ると金成役場前に「澤来太郎先生之像」があった。町からちょっと離れると果てしなく田園が広がっている。まさに宮城県の穀倉地帯を思わせる。そして金成の町に入ると金成代官役所跡や旧金成小学校校舎がある。現在この校舎は金成町歴史民族資料館として公開されていた。
 旧金成宿をあとに大橋とは名ばかりの小さな新町大橋を渡り、農道のような道を通って所々牧草地が広がる丘陵地を越える。途中に「金売吉次の里」の案内がでていた。

東北自動車道を横切るところで道が途切れて迷ったが、それらしい道を探しながら歩いていると「奥州街道新鹿野一里塚」の説明板が立っていた。こういう時に道標や旧街道の史跡を見つけるとホッとする。
 丘陵地を下ると田畑が現れ民家が見えてきた。しかし横に新幹線の軌道が見えるがすぐ先で消えている。今度は新幹線のトンネルの上を歩く山越えの道に入る。いくら低くても人気のない山道を1人で歩くのは心細い。所々に水溜りが残っている山道を20分近く上ると頂上らしきところに「明治天皇東北御巡幸御野立休憩所」の標柱が立っていた。ここから落ち葉が舞い散る道を下り、石仏群が立つところを過ぎると有壁の民家が見えてきた。そして東北本線を横切ると古い土蔵を残す家が見受けられ、有馬川を渡ると国指定史跡の有壁宿本陣屋敷が現存していた。表門に「明治天皇有壁宿小休所」の碑が立っている。

 午後2時少し前、この先峠越えでしかも次の最寄り一関駅まで8キロ近くあるので今回はここまでとし、線路の方に戻り近くの有壁駅から帰路についた。

             


   旧金成小学校校舎
     新町大橋
     
     丘陵地を歩く

     
    有壁宿本陣屋敷
15.平成1511月27 晴れ
有壁から平泉へ(16km)


 新幹線で一関駅まで行き、ここから一駅戻って有壁駅に115分前に着いた。旧奥州街道は有壁から先山越えになる。しかし地形図に道が載ってないので一旦国道4号にでて山を下りたところで旧街道に合流した。

 20分も歩くと宮城県から岩手県一関市に入る。鬼死骸という変わった地名(バス停)を過ぎると豊吉の墓があった。処刑された豊吉の死体を一関の医師達が貰い受けて解剖し、医学上の疑問を解明することができたので丁重に葬り墓を建てたという。
 祥雲寺の一切経堂を過ぎると国道284号にでて一関市の中心街に入る。一関駅前を通って「豪商・菅原屋跡」碑を過ぎると松尾芭蕉二夜庵跡がある。ここに2泊した時の「奥の細道曽旅日記抄」の碑文が立っていた。玄関横に「明治天皇行在所跡」の碑も立っている。

 この先で盤井川(北上川支流)を渡り、しばらく歩いてから神木「姥杉」がある配志和神社に立寄った。これは本殿の手前にある白鳥神社の神木で樹齢1000年以上と記されていた。姥杉を見た後、本殿まで100段はあろう階段を上って旅の安全を祈願した。本殿前にも二本の老杉(夫婦杉)が生えていて、そばに芭蕉の句碑もあった。
 街道筋に戻るとまもなく旧山目宿で、胡風荘前に立つ「奥の細道」の標柱を見て山目駅前を過ぎる。道の東側には蛇行する北上川がわずかに見える。街道との間にある広々とした田んぼを眺めながら1時間ほど歩き、太田川を渡ると旧宿場の平泉の町だ。
 平泉駅前にきたところで街道筋を離れ毛越寺、観自在王院跡を訪れてから中尊寺に向かった。そして弁慶堂から紅葉が残る月見坂を上って奥の細道展、地蔵堂、薬師堂、中尊寺を経て金色堂前にきた。午後4時で辺りは薄暗く訪れている人も少ない。以前にも来ているので拝観せずに平泉駅に戻り、今日は一関のホテルに泊まった。


    岩手県へ(県境)

    
      月見坂

        金色堂
16.平成1511月28 晴れ
平泉から金ヶ崎へ(25km)

 7時半にホテルをでた。そして平泉駅に戻って街道筋(県道110)の続きを歩きだすと、伽羅御所跡の表示がでていたので立寄ってみた。だだっ広いところに柳之御所跡の説明板が立っていた。藤原清衝が平泉に進出して居館を構えたところという壮大なスケールの遺稿で、三代秀衝の日常の居館だった伽羅御所はこの南西に建設されたと記されていた。
 少しゆくと今度は秀衝が宇治の平等院を模して造らせた無量公院跡がある。田畑の中にあるが国指定特別史跡になっている。さらに5分くらいゆくと義経最後の地と伝えられてきた高館義経堂がある。小高いところに建っていて甲冑姿の義経像が祀られているという。
 そして義経の最後を見届けた藤原兼房の伝説ゆかりの「卯の花清水」、武蔵坊弁慶大墓碑と続き、弁慶が立往生したという衣川を渡ると阿部一族鎮魂碑があった。藤原清衡の祖・阿部一族はこの衣川の地に本拠を置いたらしい。

 このあと1時間くらい、道が途切れるところは国道を歩いて白鳥川を渡ると旧宿場・前沢の町に入る。ここは前沢牛で有名らしくこの看板を目にしながら前沢駅前を過ぎると表門を構える立派な屋敷があった。太田家住宅(太幸邸)で明治期に建てられた近代和風建築の民家として岩手県指定有形文化財になっていた。

 旧前沢宿をあとに北上川に沿ってひたすら歩く。一関辺りから旧街道は北上川に沿っているが、大きく蛇行しているので川は見えない。「風鈴のまち水沢」の大きなモニュメントが建つ水沢市に入るが、中心街までかなり距離がある。なおも1時間以上歩き、水沢が生んだ幕末の蘭学者・高野長英の碑から水沢公園を過ぎて水沢市街地に入った。
 水沢駅近くにさしかかると立派な屋敷「高野長英旧宅」(国指定史跡)と横に武家屋敷「高橋家」がある。ここから日高小路通りに入ると武家屋敷「小幡家」、「阿部家」と続き、この先の日高神社の巨杉「姥杉」と留守宗利像、斉藤實記念館、後藤新平旧宅前を通って水沢城跡(市役所の一角)にくると、留守城下の黒門と三之曲輪「姥杉」が、さらに武家屋敷「八幡家」、後藤新平記念館とつづく。そして江戸時代の絵図にも描かれたという小路に入ると疑宝珠の欄干をもつ光寺橋(愛称めがね橋)がある。下を流れる大町川沿いには旧宿場らしい雰囲気が残っていた。
 このように水沢には大畑地区の武家屋敷を始め往時の雰囲気が漂う町並みが今も残っている。旧街道に戻ると「内務卿・大久保利通、大蔵卿・大隈重信御宿所」、この先に「上胆沢代官所跡」の碑が立つ家があった。

 水沢には多くの著名な人物が生まれ育ち、活躍したことから「偉人の町」といわれてきたらしい。また、水沢は胆沢地方の中心地で、古代には大和朝廷軍の侵略と戦った「蝦夷」のリーダ・アテルイの本拠地だったという。
 このあと県道270を北に向かって50分くらい歩くと国指定史跡の胆沢城跡がある。平安時代初期、延暦21年(802)坂上田村麻呂によって造営され、まもなく鎮守府が多賀城から移されて以後、古代陸奥国北半の統治機関として行政・軍事面で重要な役割を担ったという。近くに坂上田村麻呂から三代に渡って飲用されたという三代清水があった。
 胆沢川を渡るとまもなく旧宿場・金ヶ崎の町に入る。午後4時、金ヶ崎駅前にきたところで今日はここまでとし、電車で二つ先の北上駅まで行って近くのホテルに泊まった。


     柳之御所跡

    高館義経堂  
  日高小路通りの町並み

       めがね橋
17.平成1511月29 薄曇のち小雨
金ヶ崎から北上へ(11km)


 8
時前にホテルをでて金ヶ崎駅に戻り、一本道の旧街道を北上川に沿って歩く。田畑が広がる先に北上川が流れているはずだと、丸子舘跡、千田正記念館を過ぎてさらに30分くらい進むと道が途切れ雑木林にぶつかってしまった。県道と思える道が途中で消えている。近くの人に聞くと「前も同じような人がいたよ」といって回り道を教えてくれた。
 仕方なく東北本線の六原駅近くの線路を渡って国道にでた。途中から小雨模様になってきたが、なおも1時間くらい歩くと伊達・南部藩の境界に境塚がある。両藩による境界争いが各地で起こったので江戸幕府老中立会いのもと境界がつけられ要所々に塚を築いたという。これを復元したもののようだ。少し先に江戸方面への関門「南部藩鬼柳関所跡」があった。

 このあと北上川に流れ込む和賀川を渡る。大きな川で渡りきるのに10分近くかかったので橋の長さは1キロ近くありそう。この九年橋を渡ると北上市街(旧黒沢尻宿)に入る。午前11時過ぎ、少し早いが今日は高校時代の同窓会があるので北上駅の最寄り地点にきたところで、今日はここまでとし帰路についた。

     街道風景

        境塚
18.平成1612月1日 晴れ
北上から花巻へ(14km)

 奥州街道を歩くのは1年振りになる。北上駅に11時半に着いて前回まで歩いた街道筋にでた。北上市の中心街を抜け北上線を渡ると県道<39>で一路花巻へ向かう。1時間ほど歩くと二子一里塚がある。国道が新しく切替えられたため、この先の成田一里塚とともに原形のまま完全な形で残っているという。村崎野駅を過ぎると成田一里塚があった。左右とも見事な塚と塚木が残っていた。

 東北地方の地形は左遠くに奥羽山脈が走り、右にある北上高地との間を北上川が流れている。この川に沿って北に帯状に伸びる平野に東北自動車道、新幹線、東北本線、旧街道を含め国道4号が通っている。それも高い山といえば遠く東方向に見える唯一冠雪した早池峰山くらいだろう。このように迫るような高い山がないので、民家が途切れると広々と遠くまで見渡せる。だから歩いていても気持ちが良い。奥州街道ならではの街道風景だろう。

 今も残る「奥州街道なごりの松」そして上館跡、向小路同心屋敷跡の標柱を過ぎて豊沢川を渡ると花巻市街に入る。すぐに城下町花巻の表玄関だったという豊沢一里塚跡がある。この先に土蔵を残す宮沢賢治生家があった。そして街道筋脇にある花巻城跡に向かうと大手門跡の近くに城内にあったという時鐘が建っていて、高台を上ってゆくと花巻城本丸跡がある。
 花巻城は十世紀のころ島谷ヶ崎城と称し阿部氏の居城だったと言われ、十六世紀に南部の領有になって花巻城に改称したという。丘陵地を利用し、周辺に深い堀を設けた要塞堅固な平山城だったらしい。

 城から下りたのは午後3時過ぎ、少し早いが今日はここまでとし最寄の花巻駅から北上駅に戻り、北上川の畔を少し散歩したあと近くのホテルに泊まった


     成田一里塚

       時鐘
19.平成16年122晴れ
花巻から古館へ(23km)

 8時過ぎにホテルを出発。花巻の街道筋に戻って9時少し前から歩き始めた。花巻市街を抜けると国道4号に合流し、単調な国道をひたすら歩く。花巻空港前を過ぎて1時間くらい行くと国道沿いに一里塚が残っていた。江曽一里塚で築造当時の原形を留めているという。この少し先に「逆ひば」がある。古くから街道を往来する多くの旅人に親しまれてきたらしく、弘法大師が地面に挿した杖が根付いたという伝説もあるようだ。

 歩き始めて2時間、国道から分かれ県道<265>に入るとまもなく石鳥谷駅前にきた。蛇行する北上川がここで接するように近くを流れている。11時半を回ろうとしていたので近くの店でおにぎりを買って川岸に下りた。澄み切った青い空は流れる川をも青く見せてゆったりと流れ、水面に浮かぶ水鳥が所々で群れを作っている。とても美しい光景だ。
 ポプラ並木の街中にくると海鼠壁の土蔵前に井筒屋(小野家)跡の説明板が立っていた。かっては名のある酒造店だったようだ。ここ石鳥谷は「南部杜氏の里」として古くから酒造りが盛んで、越後、丹波とともに日本三大杜氏の一つと称され、今も北海道から中国・四国地方まで、各地の蔵元に赴いて日本酒造りを支えているという。
 落ち着いた旧宿場・石鳥谷の町をあとにしばらく行くと菊池数馬の墓と境塚の説明板が立っていた。菊池数馬は南朝方勤皇の名家らしく近くに数馬館があったようで、境塚は郡境や村境として築かれていたようだ。

 このあと国道4号に合流し盛岡に向かう。途中、街道沿いの五郎沼に休憩を兼ねて立寄った。白鳥や鴨が多く生息していて、近づくと餌を求めて寄ってくるので人懐っこく可愛い。ここに五郎沼の蓮のいわれが書いてあった。
 「この沼に今から約900年前に咲いていた古代蓮がある。中尊寺には藤原清衝、基衝、秀衝の3人の遺体と泰衝の首がミイラとなって安置されている。これは昭和25年の学術調査で確認されたが、泰衝の首桶の中から蓮の種が見つかり、これを生命工学で平成6年に発芽させ、平成11年中尊寺に移植し開花させた。中尊寺の貫首から、藤原泰衝は源頼朝に敗れさらし首にされたが、後に中尊寺の金色堂に安置された。その時首桶にたむけられた五郎沼の蓮花が種となり800年経って蘇ったと聞かされ、これを株分けし五郎沼に移植した」といった内容だった。

 このあと国道から分かれ旧日詰郡山宿に入ると、日本最北に位置するという延喜式古社・志賀理和気神社があり、境内に紫波発祥の赤石が霊石として鎮座している。日詰の町中にくると「銭形平次のふるさと紫波町」の標柱が立っていた。
 午後3時少し前、「只今の気温7℃」の表示を見て、右に北上川に向かうと高台に高水城跡がある。中世斯波氏累代の居城で、足利尊氏によって奥州官領に任ぜられた斯波家長は、この城を本拠とし奥州における北朝方の重鎮として活躍したという。のちに南部氏に攻略され、占領した南部氏は郡山城と改称している。跡地は城山公園になっている。高台にあるので見晴らしが良く、遠くにわずかに冠雪した岩手山が夕日に照らされてきれいに見える。
 このあと山裾にある走湯神社の前を通って国道4号に合流し、古館駅の最寄り地点にきたところで今日はここまでとした。そして盛岡駅近くのホテルに泊まった


      北上川

      五郎沼

        赤石
      高水城跡
20.平成16123晴れ
古舘から盛岡へ(15km)

 7時半にホテルを出て8時半少し前に昨日の街道筋に戻った。今日は盛岡市街近くまで一路国道4号を歩く。今日も雲一つない素晴らしい天気で「只今の気温2℃」と表示されている。30分ほど歩くと国道沿いに徳丹城跡がある。弘仁3年(812)、時の征夷大将軍・文室綿麻呂によって造られたもので、古代大和朝廷が東北地方支配のために築いた城柵としては最後のものらしい。国指定史跡になっている。

 まっすぐに延びる国道をひたすら歩くこと3時間、途中から進行方向正面に岩手山が見え出した。大国神社を過ぎて家々が建ち並ぶ盛岡市郊外にくると、国道から分かれ県道<16>で盛岡市の中心街に向かう。小鷹処刑場供養塔を過ぎるとまもなく北上川を渡る。この明治橋で立ち止まると、頂上付近はわずかに雲に隠れているが雄大な岩手山が見える。北上川を渡ると盛岡市街に入り、新渡戸稲造の坐像を過ぎてから盛岡城跡に立寄った。
 盛岡城は慶長3年(1598)豊臣秀吉の許可を得て築城、盛岡藩主南部氏20万石の居城だった。本丸、二の丸に自然石を用いた築城当初の重厚な石垣が残っている。国指定史跡で跡地は岩手公園になっている。本丸跡に上って盛岡市街を一望したあと街道筋に戻った。
 このあと盛岡城を遠巻きに中津川を渡るが、ここに架かる「下の橋」は木製欄干に青銅疑宝珠で飾られた風情ある橋で、京都三条大橋の疑宝珠を写したものという。同じ青銅疑宝珠がある「上の橋」に立寄ると疑宝珠に幾つか文字が刻まれていて、一つは「慶長十六・・年」と読めた。
 そしてレンガ造りの岩手銀行の前を通って石造地蔵菩薩坐像、四ツ谷惣門跡、赤川堰跡を過ぎて、山田線の上田踏切にきたところで今日はここまでとした。ここから盛岡市の中心街を抜け、北上川に架かる開運橋で岩手山の雄姿をもう一度眺めてから盛岡駅に戻った。そして午後2時半過ぎの新幹線で帰宅した


      徳丹城跡

      重厚な石垣

       下の橋
21.平成185月25
盛岡から岩手川口へ(27km)

 奥州街道の続きを歩くのはおよそ1年半ぶりになる。それは「みちの旅」を始めてから、暑い夏も寒い冬も歴史街道をひたすら歩いてきた。そして熊野古道を歩き終えたのが一昨年の秋、このあと冬に向けて奥州街道の続きを歩くのは無理だった。歩き始めて3年、良い機会なので今度は歩いたところを旅日記にまとめることにした。これを今年の3月、文芸社から『歴史街道を歩いてみよう「江戸五街道」旅日記』として出版した。

こうして1年半ぶりに奥州街道の続きを歩く。新幹線で10時すぎに盛岡駅に着いた。今回は開運橋の上流に架かる夕顔瀬橋を渡った。由緒ある橋で歴史は明暦2年(1656)まで遡るらしく、橋の真ん中に石灯籠が二基建っていた。北上川の上流に聳える残雪の岩手山がとてもきれいだ。
 10時半過ぎに上田踏切のところにでて歩きはじめた。少し行くと高松の池がある。当時は上田堤といって盛岡の治水のために江戸時代初期に造られたと書いてある。今の盛岡市街地は北上川と中津川が洪水を繰り返す湿地帯で、この上田堤を築いて水を留め、城下への浸水を防いでいたという。それほど北上川の洪水被害は宿命的だったようだ。
 このあと北上川に沿って一路北へ向かう。歩き始めて2時間、途中にあった上田一里塚、小野松一里塚を過ぎると大きな湖面が現れてきた。 四十四田ダムで堰きとめられた北上川だった。この湖上に聳える岩手山は絵になる光景だ。
 なおも人里離れた丘陵地帯を2時間近く歩くと田植えが終わった水田が現れてきた。この水田の先に裾野から広がる雄大な岩手山が大きくみえる。独立して聳える岩手山はまさに岩手県のシンボルだ。

 そして国道4号に合流し旧宿場の渋民の集落を通り過ぎた。なおも国道を2時間近く歩き、途中の国道沿いに残る新塚一里塚、巻掘神社、一字一石一札供養塔を過ぎて岩手川口駅近くにきたところで今日はここまでとした。午後5時に岩手川口駅に着いて盛岡のホテルに泊まった。


     高松の池


    雄大な岩手山
22.平成185月26
岩手川口から小繋へ(28km)

 ホテルを820分に出発、昨日の街道筋に戻って9時半から歩き始めた。このあと川口城跡に立寄ろうと古道らしい道に入ったが途中で畑のあぜ道に迷い込んでしまった。右手にそれらしい森が見えるが道がないので鉄道路線を渡って県道に戻った。このあと旧街道はいわて銀河鉄道と国道4号に沿って山間の道を進む。

歩き始めて3時間、旧宿場の沼宮内の町を過ぎてから鉄道路線、国道4号から分かれ、古道らしい道を辿って小高い林道に入る。10分くらい行くと、大同2年(807年)に坂上田村麻呂将軍が祈願所として建てたという御堂観音堂があった。この境内に北上川の源泉弓弭(ゆはず)の泉がある。木の根の下でポトポト水が滲み落ちていたが、北上川は弓弭の泉を源として247kmを流れ石巻の河口で太平洋に注いでいる。ここに「明治天皇御叡覧之地」の碑が立っていた。
 御堂・馬羽松一里塚を過ぎると林道から一変して畑が広がる気持ちよい丘陵地に変わった。土が薄茶色なのでより明るく感じる。とうもろこし畑が多く、水田もあったが人手で田植えが行われていた。火行伝馬所跡、旧奥州街道の標示板、塚平一里塚を過ぎて丘陵地を下ってゆくと国道4号にぶつかる。この合流点にある小繋駅に午後3時半過ぎに着いた。ここから二戸駅に出て新幹線で帰宅した。
 今回は1年半ぶりの「みちの旅」なので靴が合うか心配だった。案の定 2日目に左足の薬指にマメができた。予定では一戸駅近くの旅館に泊まり、翌日は金田一温泉まで行くつもりだった。3万円近い交通費をかけるので、少なくとも23日くらいはと思っていた。しかし歩いているうちに600km近くも遠く離れたこの地を、こうして自分の足と目で見て歩けることに充足感を覚え、1泊でももったいないと思わなかった。


     弓弭の泉

      丘陵地を歩く
23.平成187月7
小繋から二戸へ(22km)

自宅を6時半に出て小繋駅に11:05に着いた。そして国道4号を馬淵川に沿って歩く。只今の温度20℃と出ているのを見て暗い小繋歩道トンネルを抜ける。山間を走る道なので周りは緑一色に包まれて景色は良いが、大型トラックの往来が激しくしかも歩道が所々で途切れているので困る。
 国指定天然記念物「藤島の藤」の表示を過ぎたところで旧道の山道に入る。駕籠立場所と明治天皇御野立所之碑が立つところから女鹿口を過ぎたところで椎茸畑に迷い込んでしまった。仕方なく途中まで戻って最寄の車道にでた。

 歩き始めて三時間半、一戸駅前を通り一戸の町外れに来ると実相寺に国天然記念物の公孫樹(イチョウ)があった。イチョウの祖先は古生代の290万年前から世界中に茂っていた植物で、日本でも中世代の地層(220万年前)からその化石がたくさん発見されているらしい。実相寺のイチョウは樹齢280年とさほど巨木ではないが、雄株でありながら小枝の一部に雌花が付き、毎年ブドウ房状の実を結ぶ貴重なイチョウだという。

 このあと国道を横切り浪打峠越えの旧道に入る。入り口に奥州街道「末の松山のみち」の表示が立っていたが、木が生い茂っていて人の気配はまったくしない。この静寂な山道を20分ほど上ると峠の頂上に着いた。ここに浪打峠一里塚が左右に残っていて、この先に国の天然記念物「浪打峠の交叉層」がある。今から千五百万年前に海水の中で堆積したものという。この層が街道沿いの斜面に露出している。
 峠を下ると途中から舗装された道にでて二戸市街に向う。途中、街道筋から少し離れたところに戸城跡があるので立寄った。建物は残っていないが広大な敷地は
きれいに整備され堀跡などが保存されている。
 九戸城は九戸氏が明応年間(1492〜1501)頃に築城。
秀吉は小田原城攻略に参陣しなかった九戸政実を攻めて九戸城は落城。こうして秀吉の全国統一が完了し、後を継いだ南部信直はこの城を福岡城と改め居城したという。城跡は国指定史跡になっている。
 このあと二戸市街を通って中心街から少し先の街道筋にあるホテルに泊まった。ホテルに着いたのは午後5時だった。


   旧道の山道に入る
   
   浪打峠の交叉層

    九戸城の堀跡
24.平成187月8
二戸から三戸へ(20km)

 
 8
15分過ぎにホテルを出発した。二戸市はかっての福岡宿で途中に名残の福岡長嶺というバス停があった。この先に八戸街道の基点があり、ここに「八戸道 三戸道」と刻まれた追分石がある。
 1時間半くらい馬淵川に沿って歩き、金田一温泉駅前にきたところで休憩した。この先まだ旧道は続いていたが、地図を見ると途中から山道に入り、しかも道が消えている区間があったので安全を期してここから国道4号を歩くことにした。
 新幹線の下を潜り、2時間ほど国道をひたすら歩く。歩道が途切れているところもあったが、周り緑一色に包まれているので景色は悪くない。途中に「蓑ヶ坂・駕籠立場・一里塚 入口」の古い標柱が立っていたが、国道を歩かなければここに出てきたに違いない。鬱蒼とした林になっていたので歩かなくて良かった。

そして「関根の松」の案内が立っているところで国道から右へ細い脇道に入った。たばこ畑やりんご畑が広がっていて、久し振りに丘陵地を抜ける長閑な道だ。途中、景色を楽しみながらホテルで作ってもらったおにぎり弁当を食べ、12時半過ぎに三戸の町に着いた。
 そして擬宝珠の飾りを残す黄金橋を渡り、県の天然記念物「関根の松」を見て午後1時40分に三戸駅に着いた。りんごの産地らしく街中に立派な「APPLE DOOM」がある。ここから青い鉄道で八戸に出て14:56発の新幹線で帰宅した



     街道風景

    丘陵地を歩く

      関根の松
25.平成18924日 晴れ
三戸から五戸へ(19km) 


 三戸駅に10時半前に着いた。そして前回の街道筋に出てしばらく行くと馬暦神社があり、ここに「唐馬の碑」が立っていた。オランダ人が八代将軍吉宗に献上したペルシャ馬が南部藩に下付され、これを種馬として馬匹の改良を図り、馬が死んだときこれを悼み碑を建て弔ったという。
 そしてりんご畑が広がる長閑な道を歩くと赤く色付いたりんごがどの木にも一杯ついている。今年はりんごが豊作なのだろう。町の外れにくると奥州街道の石柱横に「南部公霊屋」の案内がでていたので立寄った。若くして病死した南部利康霊屋で和、唐、天竺の三様式を巧みに配合した桃山風の建築らしいが、建物に覆われていて現物を見ることはできなかった。

 三戸の町をあとに高山峠越えの山道に入る。途中から鬱蒼と木が茂る寂しい道になったので少し不安になったが、黙々と登ること1時間、展望台がある高山峠の頂上(海抜273m)に着いた。かっての駕籠立場跡で明治天皇御小休所跡碑も立っている。展望台に上ると北方行く先の野辺地の町から陸奥湾までかすかに望める。12時を過ぎていたのでゆっくり昼食休憩をとった。

下り道は広く快適なハイキングコースで水梨清水、並木の松、そしてりんご畑を過ぎると黄金色に実った稲田が現れる。小さな清水の集落を抜けてふたたび山越えの道に入る。
 りんご畑に農家の人が見えたので、りんごを一つわけてもらえますか? と百円を渡すと、「欲しいだけもってゆきな、お金はいらないから」と一杯渡されたが、沢山もらっても重いので1日に1個食べようと三つだけもらった。すぐに歩きながら食べたが、とても甘くて美味しかった。

 この少し先に奥州街道の説明板が立っていて「この道は平安時代から都への献馬、貢物及びこの地方の産物の輸送等の主要道路であった。鎌倉時代には奥筋といわれ路次の主要地に宿駅を設けている・・云々」と書いてあった。鳥内坂を上ってゆくと雑木林の中に一里塚があり、この先の明治天皇御小休所跡碑を過ぎてしばらく行くと道脇にりんご畑が続く広い舗装道に出た。

旧五戸宿に入ると、街道筋から少し離れて江渡家住宅(国重要文化財)を訪れた。天明年間(178188)に飢餓救済事業として建築されたとのことである。午後3時半、少し早いが街道筋近くの旅館「さ・くら屋」に着いた。お風呂がいつでも入れ、ランドリーがあって朝食も6時から食べられるので奥州街道を歩く人にとっては有難い。


     寂しい道

     水梨清水

     りんご畑

     江渡家住宅
26 平成18925日 晴れ
五戸から七戸へ(27km

朝食を早く食べ7時半に旅館を出た。今日も素晴らしい秋晴れで、五戸町図書館前の復元された建物「五戸代官所跡」を見て旧宿場をあとにした。
 しばらく長閑な旧道を歩き、「明治天皇田の草取天覧御聖蹟」碑、赤い鳥居の八幡宮を過ぎると雑木林の入口に史跡奥州街道の古い標柱が立っていた。草が茫々に生えた荒道だったので入るのを止め国道4号に出た。

 所々で歩道が途切れる国道を1時間くらい歩き、伝法寺の集落にきたところで国道から分かれ古道らしい道に入ったが、いつの間にか県道<145>を歩いていた。そして奥入瀬川に架かる御幸橋を渡る。御幸橋という名の橋は今までも渡っているが、いずれも明治天皇御巡幸に際し架橋されたのを記念し命名されている。
 このあと大欅が生える一本木の一里塚を過ぎて十和田市街地に入った。この街の道路は碁盤の目のように道が直角に交わっていて、旧街道(国道4号)は北北西に一直線に十和田市の中心街を突き抜けてゆく。途中、十和田市街地のシンボルだという日本の道百選「官庁街通り」を少し歩いて街道筋に戻った。

 稲生川を渡り1時間ほど歩くと右手に土手山のケヤキがある。推定樹齢300年、樹高26mの大木でありながら枝葉が整っているので際立って大きくみえる。このあと国道4号を北北西に向って黙々と歩いていると松並木が現れてきた。大きい松が1kmくらい続いていてなかなか壮観だ。この松並木が途切れると池ノ平の一里塚がある。国道脇の雑木林の小路にこんもりと盛り上がった一対の一里塚が残っている。昔の道の一部が残っているのだろう。
 七戸町の標示を過ぎてからしばらく歩いて七戸橋を渡ると旧宿場に入る。町中にきたところで小高い台地にある七戸城跡(国指定史跡)に立寄った。
 七戸城
は鎌倉時代に築かれ、南北朝時代以降南部氏によって整備された。南朝方の拠点として津軽地方に対する備えに重きをなしたという。跡地は柏葉公園になっている。そして青岩寺に立ち寄り、七戸城の城門を移築したという山門を見て七戸をあとにした。

 このあと国道4号に出て野辺地に向かうが、今日はここから20分ほど先にある東八甲田温泉に泊まった。午後4時前に宿に着いたのでランドリー(無料)で洗濯し、温泉にゆっくり浸かって疲れをとった。湯量も豊富でとても良い温泉だった。


    五戸代官所跡

     官庁街通り

      松並木道
27.平成18926日 晴れ
七戸から野辺地へ(25km) 
 奥州街道は七戸の先で下道(本街道)と上道(近道)に分かれるが、旧街道を辿りやすい国道4号沿いの上道を行くことにした。この街道は鹿角産の御用銅や福岡、三戸、五戸、七戸産の御用大豆を大坂へ送るため野辺地港まで運ぶ人牛馬の通行で賑わったという。

 8時に宿を出て一路野辺地に向うと、すぐに七戸松並木が現れてきた。松の木が200本くらい、距離にして2km近く続いている。ほとんど片側だけだったが見事な松並木だ。そして下道と分かれ、坪川を渡ったところで国道から分かれた。
 とくに史跡もなくひたすら歩き、田園地帯を抜け、小高い森を越えると奥州街道の追分石があった。「右千曳道 左野辺地道」、裏面に「弘化・・六月・・」と刻まれているのがなんとか読めたが、弘化2年(1845)に建立されたものらしい。ふたたび小高い森を越えると、ながいも畑があちこちにある。ながいもは七戸や野辺地の特産物のようだ。

 このあと狭い古道をたどって国道4号に出ると、日本中央の碑歴史公園があったので少し休憩した。公園の建物に「日本中央」と刻まれた「壷の碑」が収められている。坂上田村麻呂が弓筈で石に文字を記したと伝えられる伝説の古碑らしいが、閉館で直接見ることができなかった。外からよく見えなかったが窓越しに写真を撮ると写っていた。
 ここで国道を横断し長閑な県道<8>を歩く。本来の街道はもう少し左にあったようだ。石坂地区にきたとき「親巡蹟」の案内がでていたので小路に入ると、明治天皇が岩倉具視、木戸孝充、大久保利通、大隈重信ら総勢148名で東北巡幸を行った際に休憩されたというお野立所跡があった。

国道4号に合流すると「右下北半島」の道路標識が見える。ここで国道4号から国道279号を辿りまもなく野辺地の中心街に入る。そして野辺地代官所跡(標柱)、野辺地八幡宮に立寄ったあと、早く海を見たいと野辺地湾に出た。今まで東北の山間部をづっと歩いてきたので、海を眺めていると本州の北の外れに到着したという実感がする。
 この海辺に遠見番所跡の標柱が立っていた。江戸幕府は外国との通商や交通を禁止していたことから外国船を発見・監視するために設けられたという。近くに野辺地湊に行き交う船を見守ったという浜町の常夜灯がある。野辺地湊は尾去沢鉱山(秋田県)で生産された銅や青森県の材木(桧)を江戸や大坂に運ぶ湊として繁栄していたようだ。

 午後1時半前、まだ早いので愛宕公園に立寄って、展望台から野辺地市街や夏泊半島〜下北半島を眺めてから野辺地駅に戻り帰路についた。

   田園地帯を抜ける
       壷の碑
    
    長閑な県道

    浜町の常夜灯
28.平成18929日 晴れ
野辺地から西平内へ(25km 


 野辺地駅に11時少し前に着いた。野辺地八幡宮で旅の安全を祈願してから続きを歩く。野辺地川を渡ると旧街道は野辺地湾に沿って北西に向うが、ここに野辺地戦争墓所がある。戊辰戦争のとき東北地方の諸藩は官軍に対抗して奥羽越列藩同盟を結成したが、各藩の意見は一致せず秋田藩・弘前藩などはその後官軍支持に立場を変え、野辺地に侵攻したが盛岡藩・八戸藩が反撃し弘前藩は敗走したという。

 国道4号に合流すると馬門御番所跡がある。冠木門とそれらしい建物が建っていたが、それはトイレだった。そして海岸に下りると津軽・南部藩境塚がある。溝のような小さな二本又川を挟んでそれぞれ二基ずつ四基の塚が並んでいる。12時を回っていたのでここで陸奥湾を眺めながら昼食休憩をとった。
 国道に戻ると東京から700kmの国道標示が立っていた。この先を歩いている人がいる。この人を追いかけるように、所々に特産のほたて直販店がある国道2時間ひたすら歩く。9月末とはいえ陽が照りつけるような天気だ。あまりに暑いので途中のコンビニで飲物を補給しアイスキャンデーを食べながら国道に戻った。ところが先を歩いていた人は見えなくなっていた。同じ奥州街道を歩いている人のようで歩くペースがかなり早い。

このあと国道から分かれ旧宿場の小湊の町に入ると明治天皇行在所跡碑が立っていた。小湊をあとに国道を横断し古道らしい細い道に入ると天明の飢饉供養塔があった。
 天明の飢饉1782年)は歴史に残る4大凶作の一つで、平内でもたくさんの人が餓死し、家も半数が空き家になったという。4大凶作とは元禄(1695年)、宝暦(1755年)、天保(1832年)をいうらしい。

 雑木林を抜け広い道に出たところで、誰かが通りがかりの人に道を尋ねている。先を歩いていた人だ!すぐに追いて話をすると、その人も野辺地から奥州街道を歩いているという。このあと話しをしながら一緒に歩き、西平内駅近くに来たところで別れた。その人はさらに浅虫温泉まで歩かれたが、私はすでに午後4時を過ぎていたので電車で浅虫温泉に行き、駅前の吉田屋旅館に泊まった。


     馬門御番所跡

    津軽・南部藩境塚

       国道を歩く
29.平成18930日 晴れ
西平内から奥内へ(36km

朝早く海岸を散歩し朝風呂を浴びてから朝食をとり、旅館を8時に出て昨日の街道筋に戻った。奥州街道は小湊の町を通って夏泊半島を横断し青森湾に出る。
 西平内駅はこの半島の真ん中辺にある。1時間近く歩いて青森湾に出ると特産品売店「ほたて広場」があり、ここに土屋御番所由来の説明板が立っていた。

青森市区域に入るとすぐに浅虫温泉の町がある。この温泉街にある道の駅「ゆ〜さ浅虫」で昼のおにぎりを仕入れ、コーヒーを飲んで一服したあと、昨日泊まった吉田屋旅館、民芸「麻むし工房」の前を通って浅虫温泉をあとにした。浅虫は古くからの温泉場でもとは麻蒸湯といったらしい。
 このあと海岸線に出て青森湾の海を眺めながら歩く。そして善知鳥崎のトンネル横の小道に入ると、波打ち際に古戦場跡の碑が立っていた。平泉藤原氏の残党が鎌倉軍に対して最後の防戦地にした所と伝えられている。また明治天皇御休所跡の碑も立っていたが、この善知鳥崎は板の梯をかけて通るような、越後の親知らず・子知らずと並ぶ険路で、明治天皇巡幸の際も梯をかけて通ったらしい。今は善知鳥(うとう)トンネルが通っている。

川上神社前に立つ庚申塔を見て小高い台地を越え、旧宿場・野内の町を過ぎるとふたたび海岸沿いの道に出る。しばらく行くと新しい標柱「原別マリンロード」が立っていたので海岸に出てみた。すると波打ち際にレンガ敷きの遊歩道が続いていたので、磯の香りを浴びながらしばらくこの道を歩いた。
 12時前だがお腹が空いてきたので、防波堤に上って青森湾の海を眺めながら昼食をとった。浅虫温泉でおにぎりを三つ買ったが、コンビニのものより大きくて二つしか食べられなかった。何人か釣りをしていたが釣れている様子ではなかった。

 
 海岸の道を離れて青森市の郊外近くに来たところで旧街道は合浦公園の中を通る。桜の木が多い公園だったが、ここに「三譽の松」と呼ばれる推定樹齢460年の老松がある。そして堤川を渡ると旧宿場・青森市の中心街に入る。旧街道は青森の繁華街の裏道を行く。所々に塩町、大町といった旧町名を説明する標柱が立っている。そして青森駅近くにきたとき善知鳥神社があったので立寄った。
 境内に青森市はかって善知鳥村といわれ、この辺一帯は安潟と呼ばれた大きな湖沼だったという名残の碑と青森発祥の地になるという神社の由緒が書いてあった。神社入口に「奥州街道終点記念の碑」と刻まれた新しい石柱が立っていたが、この地の人は善知鳥神社前を奥州街道の終点とし、この先は松前道・外浜道と呼んで区別しているようだ。このあと青森市の繁華街に出て青森駅の反対側に渡った。

青森市森林博物館の前を通って国道280号に合流したあと、ふたたび海岸沿いの道を歩く。そして旧宿場・油川にさしかかると「羽州街道・松前街道合流之地」の碑が立っていて、ここに「ここはみちのくの主要道羽州街道の終点であり、松前街道の起点でもあった。かっては制札場もあり馬の蹄の音や旅人が交わす話し声でいつも賑わいをみせていた。羽州街道は福島県桑折より油川まで約500Km、松前街道は油川より三厩まで約60km」と記されていた。
 油川駅を過ぎてから特に史跡がないので海側の道に出てみると、護岸整備された波打ち際が延々と続いていたので潮風を浴びながら1時間半近く護岸堤防の上を歩いた。この辺一帯は「ほたて貝」の漁場で、船倉が海に面して幾つも並んでいて周りに養殖網が一杯積んであった。

午後4時半過ぎ、奥内駅近くにきたところで国道に戻り、奥内駅から青森行きの電車に乗ろうとすると、なんと昨日西平内で別れた人が車内で手を振っている。青森駅までご一緒させていただくと、10km以上先の蓬田まで歩いて電車に乗ったという。ホームページを公開していることを伝え青森駅で別れた。今日は青森駅近くのビジネスホテルに泊まった。


   浅虫温泉をあとに
   

      善知鳥崎

      波打ち際
 
    船倉が海に面して

     養殖網が一杯
30.平成18101日 晴れ
奥内から蟹田(17km

ホテルを7時半に出て820分に奥内駅に着いた。前日同様に海側に出て波打ち際を歩く。途中に「昇竜の松」があるので一旦街道筋に戻ったが、護岸整備された海岸が延々と続き、この海辺沿いにほたて漁船の船倉が並び、周囲には養殖網が一杯積んである
 歩き始めて3時間弱、旧宿場・蓬田の町を過ぎると玉松海水浴場にぶつかり、整備された波打ち際もここで一旦途切れる。ここで旧街道と津軽線を横断して小さな台地に上ると、樹齢300年という名松「玉松」と黒松の大木が並ぶ「玉松園」がある。

 ふたたび海辺の道にでると近くに住む人なのだろう、波打ち際でかもめに残版を与えていた。たくさんのかもめが群がる中にカラスがいる。ここではカラスとかもめは共存していて、近づくとかもめはすぐ飛び立つがカラスは逃げない。
 そのうち海辺の道が途絶えて国道に合流した。すぐ横に津軽線が走っていて、まもなく民家が建ち並ぶ旧宿場・蟹田の町に入る。そして蟹田駅の標識が出ていたところで今日はここまでとし、12時半に蟹田駅に着いた。
 まだ早いのでもう少し先まで行きたいところだが、この先は電車もバスも通ってないので、ここで終えるしかなかった。予定を早めて13:07発の特急白鳥で八戸まで行って新幹線はやて20号に乗り換え、午後7時半に自宅に着いた。

23日目の小繋からJR東日本の「大人の休日倶楽部(ミドル)」の会員パスを使った。利用期間が限定されているが、12,000円で3日間乗り放題なので重宝させてもらった。


    養殖網が一杯

      国道に合流
平成15930 晴れ
31.平成181016日 晴れ
蟹田から平舘(15km


 蟹田駅に1142分に着いた。仙台辺りまで天気は良かったが八戸では雨になっていた。しかし青森までくると晴れていたので安心した。今回は終点・三厩をめざす奥州街道最後の旅になる。心をはずませて街道筋の国道280号に出た。蟹田川を渡り観瀾山公園にくると下北汽船フェリーが停泊していた。

石浜地区にくると、道のすぐ海側には引き上げられた漁船が並び、周りにほたての養殖網が一杯積まれている。この辺は海と山に挟まれた狭い土地に民家が建っていて、海岸線は侵食対策が施されているようだ。舟岡地区にくると、あちこちに櫛に刺された小イワシが天日乾しされていて、作業場を覘くと女性の人が小イワシを櫛に刺す仕事をしていた。小アジも含まれていたが、これらはいずれもダシ用に使われるという。

今津から野田地区に入ると海岸線が開けてきたのでふたたび波打ち際を歩いた。澄んだ青い空に海からの潮風を浴びながらの快適なウォーキングだった。
 そして平舘漁港から平舘神社前を過ぎると松並木が生い茂る道が続く。この入口に「津軽国定公園」の標柱が立っていて、田ノ沢川を渡った先に推定樹齢600年、幹周り633cmの黒松「長寿の松」の巨木がある。もう少し行くと平舘灯台がある。海に出るときれいに整備された渚公園が延々と続いていた。平舘海峡の向こうに下北半島の南側先端・北海岬の海岸線山肌がくっきりと見える。公園のベンチ座ってきれいな景色をゆっくり眺めてから、午後4時前、灯台前にある今日の宿「ペンションだいば」に入りチェックインした。

 ここ平舘村は弘化4年(1847)、オランダ捕鯨船の船員が上陸して大騒ぎになったらしく、翌年幕府の命令で平舘台場が築かれ大砲が備え付けられたという。この砲台があった窪みと土塁の名残があるらしい。宿を予約するとき「・・・・・だいば」の名前を不思議に思ったが、ここに来て始めて意味が分かった。

       漁船

   小イワシの天日乾し

     波打ち際を歩く

      平舘灯台
32.平成181017日 曇りのち暴風雨
平舘から三厩(28km

 宿を7時半に出発した。今日の天気予報は日中に低気圧の前線が通過し、東北北部から北海道にかけて強風・雨、所により雷となっていた。外に出ると西の方は黒く雲に覆われていたが、まだ薄日がさしていたので今のうちに行けるだけ行こうと海辺を通る国道280号を急いだ。
 元宇田地区にくると左は山が迫っていて右は海、この狭い部分を国道が通っている。この民家が途絶えると途中に岩屋観音堂とだるま滝があった。網不知地区にくると民家が現れ、一本木漁港を過ぎてから高台を越え鈴ヶ森の集落に入ると「赤根沢の赤岩」があった。
 歩き始めて2時間強、9時半過ぎに高野崎にきた。灯台から先、海に下りて潮騒橋、渚橋を渡って岬の先端まで行く遊歩道がついていたが、風が強く波が被っていてとても行ける状況でなかった。
 袰月集落の海雲洞を過ぎて鋳釜崎に来たところで雨が降ってきた。強風の横殴りの雨なので、屋根つきの休憩ベンチでは凌ぎきれず、トイレで雨が止むのを待った。20分ほど雨宿りすると少し収まってきたので歩き始めたが、すぐに横殴りの強い雨が襲ってくる。
 大泊の集落を過ぎるとしばらく風雨を凌ぐところがないので、民家の車庫で様子を見ていたら、10分もしないうちに雷が鳴り出し暴風雨になった。11時を回っていたので、宿で作ってもらったおにぎりを食べながら腰をすえて風雨が収まるのを待った。1時間くらい経つとやっと雨も上がり空が少し明るくなってきた。たぶん低気圧の前線が通過したのだろう。ここで一休みしたのは正解だった。

 急ぎ足で海岸沿いの道を通り過ぎ、午後1時少し前に旧宿場・今別の町に着いた。ここで本覚寺の大仏と青銅塔婆を見て奥州街道の終点・三厩に向う。

 雨は上がり、アスファルトの道路も所々乾いている。行く手に大きなモニュメントが見えてきた。近づくと、風力発電の翼が2本建っていて一つに「左三厩駅 津軽国定公園 龍飛」と書いてある。終点に近づいてきた! 心を弾ませて先を急ぐと国道280号の終点らしいところにきた。ここから民家が並ぶ細い道・国道339号に入ると、まもなく前方に大きな岩が見えた。厩石だ。横に回ると「松前街道終点之碑」が立っていた。午後27分、ヤッター、ついに奥州街道の終点にたどり着いた。
 このあと、厩石のまわりを一周し、高台にある義経寺を訪れてから厩石公園のベンチで一休みした。残しておいたおにぎりを食べながら、奥州街道踏破の喜びをかみしめた。

 厩石について
 「文治5年(1189)、兄頼朝の計らいで衣川の高館で藤原泰衡に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた! 藤原秀衝の遺書(危険が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし)のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることができない。そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を沈め渡海できるよう一心に祈願した。丁度満願の暁に、白髪の翁が現れ“三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい”といって消えた。翌朝巌上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷に渡ることができた。それから、この岩を厩石、この地を三厩屋(三厩村)と呼ぶようになりました」と由来が記されていた。
 この横に「源義経渡道之地」の標柱と源義経、静御前の龍神塔が立っていて、きれいに整備された義経海浜公園が海岸線に沿って続いている。

今回は本州の北の外れを訪れる折角の機会なので、もう1泊して龍飛崎まで歩こうと三厩に宿を予約しておいた。この宿は少し先の義経海浜公園の前にあった。「旅館いこい」に入ったのは午後3時過ぎ、ゆっくりお風呂に入ってビールでのどを潤し、もう一度奥州街道踏破の喜びをじっくりとかみしめた。


     街道風景

     高野崎灯台

   大きなモニュメント

        厩石

   松前街道終点之碑
33.平成181018日 晴れ
三厩から龍飛崎(12km

 
 宿を7時半過ぎに出た。今日は昨日と違って素晴らしい天気だ。義経海浜公園に出ると、正面に昨日歩いた高野崎の奥に下北半島が延びているのが見える。その先端は本州最北端の大間崎だろう。そして左前方に北海道が見える!イヤー感激だ。

 しばらく景色を眺めたあと国道339号を北西に向って海岸沿いの道を歩く。電車は三厩駅が終点で、この先の龍飛崎までは町営バスが通っているだけ。しかし集落が点々と続いている。本州の北端部分の、この山と海に挟まれた狭い場所に多くの人が生活しているのに驚かされる。山が海まで迫っているところ以外は民家があり、岩場が無いと漁船が繋がれ近くに漁港がある。これは津軽海峡の潮の流れがこの海域に豊かな海の幸をもたらし、これを求めて漁をする人達が遠い昔から住み着いていたのではないだろうか。一方、津軽海峡の荒波にさらされる沿岸は浸食が激しいようで、かっての奥州街道は海に消えてしまったところが多いという。近辺の海には波消しブロックの離岸堤が数多く築かれている。

 ここまでくるとホタテの養殖網を見かけなくなった。代わりにタコの生け捕り網が所々に乾してあるのが目につく。平舘や三厩の宿で地元のマグロ、ホタテ、イカの刺身など海の幸をいろいろ味わったが、これらや昆布などがこの地の特産品のようだ。浅虫温泉で、龍飛崎で採れる「若生こんぶ」を巻いただけのおにぎりを買ってみたが、昆布の塩味が上手く味付けされていて美味しかった。

 2時間半ほど歩いて龍飛崎の先端・帯島に10時半頃着いた。太宰碑公園でUターンして階段国道339を上り龍飛崎灯台にくると、対面に北海道の南端・白神岬が身近に見える。右端遠くに見えるのは恵山岬らしいが、ぼんやりしていて定かではない。この海面下140mに函館トンネルが通っているのだろう。灯台の反対側には「龍飛砲台跡」があった。
 このあと「津軽海峡冬景色歌謡碑」が立つところに寄ってから、127分発の三厩駅行きバスに乗った。30分くらいで三厩駅に着いたがバス代は200円だった。津軽線で青森まで行き、八戸から新幹線に乗って午後8時過ぎ自宅に着いた。


                         (完

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   狭い場所に家が

    階段国道339

    龍飛崎灯台

    白神岬が身近に
みちの旅