199回「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュース  (201734発行)

 

前回のニュースでもお知らせしたように、ハーンが初めて焼津に来たのは明治30年。従って、平成29年(2017)は、ハーンが焼津に来て120年になる。節目の年になるということで、焼津では10月に記念の行事が予定されている。

 広島ハーンの会の方々の中には、すでに明治村「乙吉の家」を見学されたり、ハーンの作品を片手に焼津を訪れ、ハーン縁の寺社などを探索された御仁も存在する。こうした方々を含めて、10月に広島ハーンの会からも参加者を募ってはどうか、との意見も出ている。

 こうした背景をもとに、2月の例会ではお二方(古川、横山)の労を煩わしてハーンと焼津について語って頂いた。御両名に心底感謝する。

 古川氏には「焼津小泉八雲記念館」のホームページを資料に、ハーンの生涯を含めて、“焼津の海と八雲”、記念館の収蔵品、過去の展示や取組み、更にはハーンの焼津関連の作品から有名な箇所(英文と訳)の紹介をして頂いた。

 横山氏は、ご本人の5月旅行(3日間)を基に、明治村訪問を初め、「焼津市ウオ―キングマップ」の紹介。さらに、静岡や焼津の地図、焼津観光ロードマップからの“小泉八雲1万歩コース”など、カラーコピーでの詳細な説明もあった。焼津市歴史民俗資料館の「探しにいこう! 浜通り」「浜通り今昔―佐藤道外が描いた明治大正の頃の絵図と較べてみよう」(両面色刷り)という美事な資料も頂いた。(その他「第五福竜丸」などの資料については省略)

 

ところで、昨年はアイルランド共和国独立の発端となった復活祭蜂起(Easter Rising100周年記念の年であったが、今年は日本・アイルランド外交関係樹立60周年の記念の年に当たる。これに肖って、本日は浮田女史から「アイルランドと私」(仮題)についてのお話を伺うことになった。乞うご期待。

 

 さて愈々来月は広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念大会である。会場を「広島市まちづくり市民交流プラザ」(2時〜4時)に移して開催する。八雲の次男・巌氏の長男である稲垣明男さまに「八雲の住んだ海外の跡地を訪ねて」と題するご講演を頂くことになっている。元宝塚歌劇団花組でアイリッシュ・ハープ演奏者・奈加靖子さん(日本ケルト協会会員)もご参加くださり、我々にはお馴染みの“Believe me, if…”を演奏下さる予定だ。小泉凡氏の第100回記念講演「ハーンとヨーロッパ新考〜最近の旅から〜」、丹沢栄一氏の第150回記念講演「小泉八雲に縁の人々に導かれて」も感慨深く思い出すが、今回の稲垣様にも感謝の言葉もない。今日まで会を支えて頂いた方々には改めて心よりお礼申し上げます。200回記念を大いに楽しみましょう。

 

 

1】《最近の情報から》: 過去のものを含む

・日本英学史学会中国・四国支部ニューズレターNo.882017131) 

平成29年度第1回研究例会は527日(土)広島市内で開催の予定

NHKテキスト「100de名著」2月号「ガンディー 獄中からの手紙」(講師:中島岳志)

216日(木)能xケルティック・コーラス「鷹姫」Bunkamuraオーチャードホールにて。

WR・ミード著/寺下滝郎訳『神と黄金(上・下)』(青灯社、2014)の書評(東京大学・池内恵氏)が日本国際政治学会編『国際政治』186号に載る

・山陰日本アイルランド協会から、会報『コージャス』22号の送付とアイリッシュ・フェスティバルのご案内が届く。“Irish Festival in Matsue 2017”は312

218日、中国新聞(セレクト)「漱石と広島10」に“八雲の教え子 親交を結ぶ”と題して、大谷繞石のことが載る。これに先立って、客員編集委員の富沢佐一氏の訪問が2度あった(278日)。また上記掲載紙218日号を2部ご本人から送付して頂いた。後日大幅な書き加えをして一冊の本として出版される予定とか。

 

2《読みたい本》:小野木重治『ある英語教師の思い出』(恒文社、1992

 広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念(48日)には八雲の次男巌氏の長男である稲垣明男様に来ていただき、「八雲の住んだ海外の跡地を訪ねて」と題してご講演を頂く予定である。稲垣巖については、本日添付資料C〜Eの『へるん』に載る角田洋三氏の詳しい解説があり、また小泉時『ヘルンと私』の中にも「巖叔父のこと」が載っている。巖氏に関しては皆さん既に相当の知見をお持ちと拝察するが、48日を目前にして、いままで再三ご紹介してきた上記小野木重治氏の著書で悔いのない勉強をしておいて欲しいと願う。

 

3《次回の予定》: 48日(土) 《200回記念大会》

  ★4月のニュースは休み。 次々回は513日(土)です

 

4《事務局の本棚に加わった本》:

・赤澤史朗『東京裁判』(岩波ブックレット、1989

・池田雅之編著『共生と循環のコスモロジー』(成文堂、2005

・田中敬文『シャーロック・ホームズたちの冒険』(創元推理文庫、2016

・小谷野敦『本当に偉いのか』(新潮新書、2016

・伊藤玄二郎・池田雅之『鎌倉入門』(かまくら春秋社、平成28

 

5】会員からの発表・報告など(前回):

 寺下滝郎さんから、翻訳されたウォルター・ラッセル・ミード著『神と黄金(上・下)』(青灯社、2014)の書評(東京大学・池内恵氏)が日本国際政治学会編『国際政治』186号に掲載されたことについてのコメントがあった。

 寺下さんに拠ると、WR・ミード著『神と黄金』は、アングロ・アメリカ人(英米人)の進歩、発展を進めてきたspirit を象徴するものとして、ロングフェローの「エクセルショー」(「さらなる高みへ」)の精神を挙げている。そして英米人が先導し、そのあとについて「さらなる高み」を目指してきた近代人は、いよいよ袋小路に入ったかの様相を呈している。まさに漱石『三四郎』に登場する広田先生の言葉の重みと深みをもって胸に突き刺さる…

 

余談だが、「『坊ちゃん』の時代」や『孤独のグルメ』で知られる漫画家の谷口ジロー氏が211日多臓器不全で死去との訃報があった。69歳。2月例会の途中休憩(10分)の間に、上記「『坊ちゃん』の時代」(双葉社、1987)のことについて寺下さんから個人的に話があった。事務局は帰宅後書棚から取り出し、久しぶりに再読出来た。この場を借りて御礼申し上げる。

これも余談だが、上記のマンガ第2章の終わりに、「漱石の病いは、近代社会ではじめて自我に目覚めた日本人の悩み、あるいは西欧を憎みつつ西欧を学ばざるを得なかった日本知識人のジレンマとまさに同根であった」(p.48)というまことに示唆に富む評言がある。

 

★最近国内外ともに夏目漱石の『こころ』に注目が集まっている。「上 先生と私」の書き出しは次の如くである。

「私は其人を常に先生と呼んでゐた。だから此処でもたゞ先生と書く丈で本名は打ち明けない。是は世間を憚かる遠慮といふよりも、其方が私に取って自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。余所々々しい頭文字抔はとても使ふ気にならない。」

 

前回の《事務局の本棚に加わった本》にある会田弘継著『追跡・アメリカの思想家たち』(中公文庫)でも優れた翻訳として紹介されているEdwin McClellanの英訳を見てみよう。

I always called him “Sensei.” I shall therefore refer to him simply as “Sensei,” and not by his real name. It is not because I consider it more discreet, but it is because I find it more natural, that I do do. Whenever the memory of him comes back to me now, I find that I think of him as “Sensei” still. And with pen in hand, I cannot bring myself to write of him in any other way.

 

古来名訳として研究社から出ていた近藤いね子氏の翻訳と較べてみよう。

I never called him anything else, so I will write about him here only as the sensei without mentioning his name, not because of any hesitation in doing so, but simply because the sensei comes naturally to my mind when I think of him. As for his initial I could never bring myself to resort to such an unfeeling manner of designating him.

 

★ハーンの蛙好きは有名(松江の小泉八雲記念館にはハーンが描いた蛙の絵が展示してあるし、八雲旧居北側の庭では蛙を獲らぬよう蛇に餌を与えていた)であるが、稲垣巖の「蛙嫌い」または「蛙恐怖症」もよく知られている。中学生の頃、理科の時間に蛙の所があると保証人から届書を出してその時間だけ休ませてもらったとか、桃山中学で教壇に立っていた時、英語の教科書(『イソップ物語』?)にfrog という言葉が出て来ると、ページは糊で貼り付けて隠し、その課(lesson)はとばして先に進めていた。また学校前にある作業畑の土中から出て来た蛙を見た途端に、真っ青になり、宿直室に飛び込むや否や蒲団を頭からかぶってブルブル震えていたなど、エピソードに事欠かない。小泉時氏は、カエルに関しては隔世遺伝であろうと述べておられる。

 

★田部隆次の『小泉八雲』に載る稲垣巖に関する情報は2つしかない。一つは、「30年の215日に誕生。強そうな名前の大山大将(注:薩摩藩士。日清戦争で第2軍司令官、日露戦争で満州軍総司令官、のち元老、18421916)の名をとったのであった」、今一つは、「364月から大久保小学校へ。一雄と巖が世話になると云うのでハーンは請われるままに小学校の父兄会に出席して田村豊久の通訳で一場の談話(注:「父兄の教育上における注意」)をした」である。

 

6】本日の添付資料:(数字はページ番号)

B『凡』第11号(ヘルン友の会、1995)、「八雲会報」第42号(20085

C『へるん』第22号(昭和60、八雲会)

D『へるん』第25号(1988、八雲会)

E『へるん』第26号(1989、八雲会)CDEは「稲垣巖」について

F『英語青年』第102巻第3号(昭和31年、研究社)「漱石の録音」

G中国新聞(セレクト)20161217「漱石と広島」加計正文

H『通俗仏教百科全書』上(顕道書院、明治25)「前世を知たる事」

I『ほどくぼ小僧勝五郎生まれ変わり物語調査報告』(平成27)より