175回「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュース  (201537発行)

 

 自己評価の最も低い選手と評される黒田博樹投手がアメリカの大リーグから7年ぶりに帰国した。「広島カープで最後の一球を投げたい」との熱い思いで、高額の契約金には見向きもせず、古巣カープのユニフォーム、背番号15を身につけることを選択してくれた。その類まれなる“男気”に地元広島はもとより、全国のカープファンは大感激、24年ぶりの優勝にも期待がかかる。

さて、去る220日は広島土砂災害発生から早や半年に当たる日であった。生活再建は今どの程度進んでいるのであろうか。芸備線下深川駅(安佐北区)のプラットホームから西を見ると、眼前に見える安佐南区八木地区の山肌に、新設の砂防ダムが数か所、その下方にはきれいになったさら地が見られるが、多くの高齢者はまだ安全確保の見通しが立たないと訴えている。

 

 近頃、八雲会100周年記念を目指して市河三喜博士のことを調べているが、著書の一つ『昆虫・言葉・国民性』(研究社、昭和14)を開いてみた。中に「ハーンに関する事ども」(大正139月ハーン20周忌に際し松江に送った講演)「小泉八雲記念館」(昭和93月「博物館研究」)「ハーンとチェンバレン」(昭和1110月「帝国大学新聞」)があり、博士の、東大のヘルン文庫の創設や記念館建立の協力などが多く語られている。

 本書の中に今一つ「試験委員のノートより」があり、面白い記録が載っている。「試験官として多数の答案を調べている内に色々珍妙な答えが出てくる」ラフカディオ・ハーンの例が引かれている。22通りの書き方があり、なかにはYAKUMO KOIZUMIと日本名で逃げているのもある。「これをLafcadio Hearn に分けて他の間違いと一緒にして揚げれば、40通り以上の違った形で現われていてハーンの遺児一雄君に“Laughkadio”(笑え一雄)と云って居るようなものもある。」(大正13年)これは市河博士のユーモラスな性格を如実に表わす一面であろう。

 かつて北海道で札幌、稚内、小樽などの郵便局長を歴任され、機関誌『へるん』にも屡々投稿されていた渡辺沢見というハーン愛好家がおられた。事務局は以前焼津で講演をした折に、渡辺沢見氏を津市の西野影四郎先生と酷似の御方だと失礼な言辞を弄した記憶があるが、まさにハーン先生を食事よりも愛し、ハーン関係の書物・情報を集めまくり、しかも得た知見は惜しげもなく人と分かち合う、誠に“善人が衣を着て歩いているような”お人柄だった。その渡辺沢見氏も先に引用した市河博士のユーモアに触れておられることを、つい最近知った。また『市河三喜英文集』(開拓社)にハーンに関した書物の序文が三篇収録されていることも氏の書かれたものから教えてもらった。

 

 

1】《最近の情報から》: 過去のものを含む

・「東京・小泉八雲ゆかりの地巡り」のレポート(去る125日に東京訪問をした古川氏による2月例会でのスライドショー、約20分)

氏が行かれたチェドツクザッカストア浅草でのヤン・シュヴァンクマイエル「怪談原画展」(11025)の紹介もあった。

NHKスペシャル(130日、22:00〜)「傷ついた人に寄り添って―黒田裕子・最後の日々」(横山健次氏の紹介と説明、同じく2月例会で)

218日、BS日テレ(8:00~9:00)「アメリカ南部ニューオーリンズ」

321日、第16回かまくら学府定例会(円覚寺で)〈小泉八雲没後110年記念シンポジュウム〉小泉凡、池田雅之両氏の基調講演など。

・「ニューズレター」no.81 日本英学史学会中国・四国支部

523日(土)日本英学史学会中国四国支部大会、安田女子大学で

319日、広島アイルランド交流会、6:30〜、モーリーマローンズにて

笹原綾乃「MUSIC TRIP〜アイルランド音紀行〜」5,000

317日は「セント・パトリックス・デイ」である。松江(山陰日本アイルランド協会)では、38日に、熊本では314日にパレードを行う予定。

 

2《読みたい本》:市河三喜『旅・人・言葉』(ダヴィッド社、昭和32

全体は3部構成。第1部は中国地方を旅した時の観察や感想で「山陽新聞」に書いたものが殆んど、第2部は英語や日本語に関する講演が中心、第3部は三喜氏自身のautobiography といってよいものである。研究社印刷所が昭和20年に出した『手向の花束−市河晴子・三榮追悼録』(非売品)は入手困難であるが、その中の「晴子の性格」が採録されていて、参考になる。氏は昭和47年に晴子夫人とともに松江を訪れ、ハーンの遺品を永久に保存して一般に公開できる記念館の建設を計画する。東京に「小泉八雲記念会」を起し、建設資金募集を始めたが、その際、晴子夫人が事務の一切を引き受けられた経緯などが克明に描かれている。「ハーンとチェンバレン」も第3部に入っている。

 

3《次回の予定》: 411日(土)

 

4《事務局の本棚に加わった本》:

・財団法人語学教育研究所編『市河三喜英文集』(開拓社、昭和41

・『浜田廣介童話集』(角川春樹事務所、2006

・添田知道『演歌の明治大正史』(岩波新書、1963

・平賀春二『元海軍教授の郷愁―源ない師匠講談十席―』(海上自衛新聞社、1970

・『幽』vol.22「ハーン/八雲」(角川書店、2015

 

 

The Nun of the Temple of Amida 「阿弥陀寺の比丘尼」:

『心』所収の一篇。全体が4章から成っている。→[起・承・転・結]

「起」では“little”「結」では“child”が目立って多く使われている。其々の章でポイントとなる語句を列挙すると、次のようになる。

@all those were happy hours 「幸せな時」

Ato have the dead called back; substitute=I should take your place

「とりっぱなし」;「身代わり」

Ba strange fondness for very small things 「小さなものを偏愛」

Cplay with the children of the children of the childrenjizo

「子ども達と一緒にいる事」=無上の愉しみ→幸せのうちに天寿を全う

▲それぞれの章にハーンの個人的な経験の反映が読める。

@ハーンが幼年時代、母と過ごした楽しい日々

Aアメリカ時代の記事「霊に交わりて」および『怪談』所収の「ひまわり」における従兄ロバートの死(「身代わり」)

Bハーンは昆虫、ハト・セミ・カエルなど小さな生き物を愛した

Cハーンは横浜で地蔵に出会う。「地蔵」に賽の河原、和讃への言及あり。

《その他の気づき》:

・お豊の子供を失った悲しみは、ハーンの母ローザの発狂を想わせる

・お豊は武家の娘(妻)である。→セツも武家の娘であった

・嵩山頂上にさる姫君を祀ったお宮がある。愛する人が戻らず傷心の余り石になった。→お豊が阿弥陀寺・小さな墓を建立してもらうことの伏線

・弱者(女性、小さきもの、日の当たらぬもの)に対するハーンの温かい眼差し→第1章の「陰膳」はこのstorysymbol 。勿論「陰膳」は、愛する夫に対する慎ましやかな(武家の)女性の温かい心を意味してもいる。

 

【その他】作品のタイトル The Nun of the Temple of Amida は普通「阿弥陀寺の比丘尼」と和訳されている。平井訳、仙北谷訳とも“比丘尼”を「びくに」とフリガナを付しているのに、不思議なことに、“阿弥陀寺”には両者ともフリガナが無い。ところが、『小泉八雲事典』の牧野陽子氏の解説には、「あみだでら」とのフリガナが付されている。ハーンの英文中にはAmida-ji とあるのに、

わざわざ“てら”と付した牧野氏の勇気には感心するが、真意は奈辺にあるのであろうか。(尼寺や瘤寺からの類推か?)←2月例会での三島氏の質問

 

★木幡吹月編著『大山と隠岐と出雲』(牧野出版、1968)の中に、梶谷泰之氏の「ハーンと山陰」があり、次の文が載っている(p.234) ので紹介する。

「待ちこがれて石になったという伝説はアジアのあちこちにある。嵩山もその一つとして興味がある。所謂望夫山で唐津の領布振(ひれふり)山の伝説―海を渡っていくさに行く大伴狭手彦を見送って佐与姫はひれを振りつづけ、悲しみの余り石になってしまう。中国には望夫山が多い。江西省徳安県、湖北省陽新県、香港のライオン・ピークにも望夫石がある。シェクスピアのハムレットの中でハムレットが母を責める文句の中に「ナイオービ」というギリシャ神話に出る女は、子の死を悲しんで石になる。ハムレットに書かれた山の伝説が意外にもアジアからギリシャ神話、さらにシェクスピアのハムレットにも関連があると思うと興味津々たるものがある。

Cf. 「心弱きもの、お前の名は女!―ほんの一月で、いや、父上の亡骸に寄り添い、ニオベのように涙にくれて墓場まで送った母上のあの靴もまだ古びぬうちに―母上が、あの母上が―ああ、ことの理非をわきまえぬ畜生でももう少しは悲しむであろうに―叔父と結婚するとは、…」(小田島雄志訳「ハムレット」)

 

★山本庫次郎(18671935):

八雲会が1998年に出したパンフレット「八雲会の歩み」によると、1914年(大正3926日に八雲会の発起が行われ、発起人6名(実は米村信敬氏が抜けている―ミス!)の中に、山本庫次郎氏の名が挙がっている。

松江で74日(土)に計画されている「記念シンポと講演会」のパネラーの一人日野会長が恐らく岸清一(ほかに山本庫次郎など)に就いて語られると思われるので、『明治百年島根の百傑』(島根県教育委員会、昭和43)から必要事項を抜粋して紹介しておく。(pp. 327-329)

・慶応3年(186710月松江城下石橋町に藩士山本大助・きんの次男として生まれ、専ら中等教育に尽瘁し、1935年自宅に没した。

・明治19年県立第一中学第7期生として卒業。同期生に若槻礼次郎、岸清一、三浦周行らがいる。

・卒業以来13年ぶりで母校松江中学校の教壇に立った。数学専門。短身矮躯、眇然たる小丈夫であったが生徒の指導は厳しかった。この「やまくら」先生は「質実剛健」(松江中学校の教育の基本方針)の権化のような存在で、「生徒は教師を信頼せよ」ということを誠意をもって説き、補導した。

・大正5年、従七位に叙せられ、名実ともに県下の教育界の重鎮となる。

・退職後も、恵まれない英才に進学の道を開くための育英資金の構想を打ち出し、その実現に奔走した。岸清一から資金提供を受け「岸育英資金給与規定」を作成した。松江中学からは幾多の英才が輩出し、国家社会に大きな貢献を果たしたが、その蔭の功労者・山本庫次郎の功績は高く評価すべきだ。

・法名成徳院釈実言好道居士。松江市石橋町光徳寺に葬られている。