169回「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュース  (2014913発行)

 

ご存じの如く、1990年(平成2)の830日から92日まで、松江市で「小泉八雲来日100年記念フェスティバル」が開催された。今日のハーン現象を産み出した誠に記念すべき盛大なイベントであった。その年には、『神々の国の旅案内』(和文・英文)や『小泉父子英語練習帳』、『小泉八雲草稿・未刊行書簡拾遺集』(雄松堂出版)第123巻の刊行などもあり、ハーン顕彰は大いに賑わった。

 事務局は当時母校の高校で英語を教えつつ、同時に図書館の仕事もしていた。大学生の時、東京豊島区雑司が谷に下宿していた関係もあり(八雲先生のお墓はwithin a stone’s throw 圏内であった)、高校時代副読本で『怪談』を読んでいた経験もあったので、是非とも上記フェスティバルに参加して、高校の図書館で展示や新聞の特集を組み、生徒達にハーンを紹介し、ハーンに親しんでもらう機会を設けたいとの思いが募った。

 それから数年後、ハーンへの熱が脳内で高まりつつあった頃、或る日、東広島市八本松町で教育長をされていた景山英俊先生(高校時代の恩師、国語科)を訪ねる機会があった(事務局は、年2回先生宅へ表敬訪問を欠かさなかった)。景山先生から、近頃呉市在住の先生が秋月胤永の「有故潜行北越、帰途所得」という漢詩の読み方を教えて欲しいと頼んで来られた。何でも小泉八雲にご執心だと聞くので、一度会ってみたらどうか、とのお言葉を賜わった。

 この(英語の)先生というのが佐藤俊之氏であった。事務局とは同年齢(昭和121128日生まれ)だが、ハーン研究に於いては大先輩、実に色々な事を真心を以って教えて頂いた。普通では中々入手し難いハーン関係の研究書や情報も送って下さった。また佐藤氏を通じて全国各地の著名なハーン研究者を知ることも出来た。佐藤氏は浄土真宗の僧侶でもあったが、秋月胤永に就いても詳しく、ハーン研究史上に燦然と残る業績として、『へるん』第31号(平成6年)掲載の「玉の光の梓弓―秋月胤永の書幅―」がある。

 去る621日、佐藤俊之氏が他界された(享年76歳)。ハーン先生に肖ってか、終生煙草を手放されず、死因は肺ガンであった。20007月に立ち上げた「広島ラフカディオ・ハーンの会」は恩師・田村一郎先生と畏友・佐藤俊之氏に負うところが大きい。佐藤氏の思いがけぬ死は誠に残念でならない。心よりご冥福をお祈りすると共に、千の風になって何時までも我々を見守って欲しい。

 佐藤氏の逝去に伴って、氏が長年に亘って秘蔵されていた秋月胤永の書幅2点(一雄氏の誕生祝に祝賀品として持参したものとは別物)を奥様(孝江夫人)から事務局が拝領した。誠に勿体ないことである。前回の例会でご披露したが、何分貴重なる美術品なので、何とか大切に保存する方策を考えたい。

 

 

1】《最近の情報から》:〈既に報告済みのものを含む〉

・去る621日、佐藤俊之先生が肺癌のため逝去されました。享年76

728日、小泉凡先生『怪談四代記』出版記念祝賀会

・中国新聞(夕刊)「でるた」五十嵐二郎先生「恩師と問題解決学習」84

・中国新聞「広島大と旧海兵英語図書」(伊藤弘之先生、89

・徳島の福間直子先生より「朗読による福間直子作品集I」(平成268月作成)のご恵贈を受ける→何時か例会で拝聴の機会を持ちたい。

・遠山顕「ラジオ英会話」7月のSpecial Weekに“A Dead Secret”を放送

823日、福山聚蔵館における講演「広島とハーンを繋ぐもの―服部一三の“点と線”―」(風呂鞏)午後1時半より

・山田太一「よろしくな 息子」(「おやじの背中」シリーズ) 824日(日)RCCBチャンネルで、21時から

・「小泉八雲・朗読の夕べ」ギリシャ凱旋公演、松江市プラバホール(914

 

2《読みたい本》:小泉凡『怪談四代記―八雲のいたずら』(講談社、2014

「八雲没後、小泉家四代にわたり起きた怪異と、親族ならではの考察を交えたエピソードの全てがこの1冊に。」と帯に読める。小泉家に脈々と続くギリシャ、アイルランドの血が感じられ、身内に起こった不思議な出来事の中にも人生の 「真実」 があることを教えられる。一見人間がコントロールできない外側の(異界の)力によるのではないかと思われる「偶然の出会い、邂逅」(凡先生はそれを、Coincidence という語で表現されている)にも、何か必然の、あらかじめ約束された出会いが感じられ、それによって人生の幸福が齎されることが有り得るのだと納得させられる。是非一読して下さい。想わぬ発見があり、人生を生きることがより楽しくなるに違いない。

 

3《次回の予定》: 104日(土)

 

4《事務局の本棚に加わった本》:

・橘南谿『東西遊記』III(平凡社、昭和49)〈東洋文庫〉

・グレン・グラント著/藤野治美、河西理恵子訳『ハワイ妖怪ツアー』(大栄出版、1995

・阿川弘之『井上成美』(新潮文庫、平成4

・集英社ホームコミックス『怪談』漫画:桟敷美和ほか2名(集英社、2014

原作:小泉八雲、集英社文庫『怪談』(繁尾久訳より)

・呉善花『なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか』(PHP文庫、2014

・樫本慶彦『北前船と尾道湊との絆』(文芸社、2014

・ヘレ―ン・ハンフ著/恒松郁生訳『続・チャリング・クロス街84番地』(雄山閣、2013

 

 

ハーンと英語教育

‘Human society is based upon mutual giving, or upon the sacrifice of man for man, or of each man for all other men; and sacrifice is the very essence of all true society.’ Without such knowledge there can be no society and no education,not, at least, if the object of eduction be to form man for society. Individualism is today the enemy of education, as it is also the enemy of social order.The Genius of Japanese Civilization

「『人間社会は相互の受授ということに根底をおいている。つまり、人が人のために、或いは、各人が他の全ての人達のために、献身することを根底としている。献身こそは、あらゆる真の社会の根本の要素である。』…このことをわきまえなければ、社会もなく、教育もない。教育の目的が社会のための人間をつくることに在るのだとすれば、まさにそうである。個人主義は、今日では社会秩序の敵であると同時に、教育の敵でもある。」

『心』所収「日本文化の真髄」からの引用である。冒頭イタリック体の英文は、ハーンがフェルディナン・ブルュンチェールの教育論からラムネーの名言を孫引きしているものである。“giving”や“sacrifice”、“教育の目的は社会のための人間をつくること”などは、個人主義など存在しない蟻の社会を理想の社会と考えるハーンならではの教育論であり、今日の日本の教育の有り様を眺める時にも、思わず我々の胸を刺す寸鉄であろう。

 

★前々回ご紹介した岡長平編著『カバヤ児童文庫の世界』(岡山文庫)によると、“カバヤ児童文庫は、昭和27年(1952)から昭和29年にかけて、岡山市に本社を置く「カバヤ食品」が、キャラメルのおまけとして、毎週1〜数冊のペースで発行した児童向け文学作品を収めた叢書である。当時十円のキャラメルを買うと、中に文庫券が入っており、これを集めて送ると、好きな本がもらえる仕組みになっていた。”

 藤森ご夫妻が早速岡山市北区御津野々口のカバヤ本社まで足を運んで下さり、小泉八雲著『耳なし芳一』(昭和29328日発行)の「はしがき」(駒沢大学教授・冨倉徳次郎)のコピーを持って帰って下さった。また訳文は日本童話小説文庫(11)の山宮允訳『耳なし芳一』(小峰書店刊、昭和25)と同じものであることも確認して頂いた。ご努力に心底感謝申し上げます。

この日本童話小説文庫(11)の山宮允訳『耳なし芳一』(装幀:恩地孝四郎、さしえ:福沢一郎)は、表紙に「小泉八雲代表作集」とある如く、『怪談』を初め、ハーンの諸作品から34編が採録されている。山宮允氏の“まえがき”、「小泉八雲の生涯」や「小泉八雲の作品」を含む“解説”(34頁分)の他に、7頁に亘る八雲関係の写真(白黒)が載っている。

 

《バック・パッカー(旅に暮らす人)の元祖・ハーン》:B

ハーンは、189038日、挿絵画家ウェルドンと共にニューヨークを出発した。カナダのモントリオールから、太平洋横断鉄道(3年前の5月に開通)の寝台車「横浜号」に乗る。ヴァンクーヴァ―からは、318日出港の「汽船アビシニア号」で横浜へと向かった。

モントリオールの第一印象から横浜港に上陸するまでの体験を綴った紀行文が「日本への冬の旅」である。ハーンは4月下旬、その来日第1稿を「ハーパーズ・マガジン」(後に『アメリカ雑録』に収録)に発表した。

 その旅行の中で、ハーンが敢えて記録に残した注目すべきことが2つある。

先ず、カナダ鉄道は右も左も低い雑木の茂った原野を通って行くが、途中313日には、駅の近くにインディアンの天幕が見える。骨董品として野牛の角を売るインディアンの女達が車内に来る。想えば野牛は古来彼らに食糧と暖と雨露をしのぐ場所を与えてきたのに、その乱獲が一種族の絶滅に繋がったのだ。さらに、ハーンが車中で読んだカナダの新聞には、自分の子を食べてしまったインディアンのことを報じる記事が載っていた。

 今一つ、北太平洋を横断する船旅17日間(124時間が何処かへ消えた)は単調な灰色の日々であった。100人を超えるシナ人の3等客が乗っている。粗末な木の寝棚で阿片を吸ったり、賭博をしている。船底に近い船倉には約60の箱があり、一面に漢字が書いてある。中味はシナ人の遺骨で、故郷の土に帰るべく送還される途中だ。かつては、彼らもこのような船に乗り、このような寝棚の上で煙草を吹かしたり、夢みたりしてこの海を越えて行ったのであろう。

かくして、太平洋を16日間で渡り、明治23年(189044日午前6時に横浜港に着いた。ニューヨークを出て、約1か月(正確には26日)後に、日本の土を踏み、高々と聳える霊峰富士山を仰ぎ見ることが出来たのである。

 

★『八雲の五十四年』(松江今井書店)に、銭本健二氏が次の文を載せている。

―こうした文人(志賀直哉や里見クなど)の松江訪問に刺激されたのであろうか、同じ1914年の八雲の命日(926日)に、太田台之丞、山本庫次郎、桑原洋次郎たちによって八雲会の創立が発起され、翌年625日に八雲会は創立された。野津直久氏の調査によると、山本庫次郎がその場で「八雲旧居根岸家」と題して講演をした。同じ1915年には、田山花袋、柳田国男、岡本一平らが松江を訪ねているが、なかでも、ロバートソン・スコットと農業視察のために来訪した柳田国男は、命日の926日に八雲会第1回総会が開かれることを聞きつけて、会場の私立松江図書館に駆け付け、「所感」と題して即興の演説を行った(野津直久編『第1次八雲会略史』)。島根商業学校の英語教師吉田耕一は、その頃の思い出を『英語青年』(1926)に書いている。