168回「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュース  (2014816発行)

 

昭和60101日松江今井書店が発行した『松江/わが町』(漢東種一郎・文/福田茂宏・絵)という、大正時代の松江を描く素晴らしいスケッチ付きの随筆本がある。八雲会前事務局長の園部昭夫氏がご親切にも送付して下さった、『読書案内―描かれた島根』(松江市立図書館、平成13年)の中にも、2か所ほど詳しい言及がある。

 このスケッチ本は事務局が大切にしている宝物の一つである。長い間探していたが見つからない。昭和60年に3,200円もした大型本だが、購入者は文と絵の魅力から中々手放す気にならず、古本屋にも出ないのであろう。八雲会元事務局長の白築和夫氏も一冊所有されていて、譲る訳にはいかないが福田茂宏氏のご遺族に頼んでみてあげようとの言葉を頂いた。暫くして、滋賀県守山市の松浦晴子様から「贈呈します。父も喜んでいる事でしょう。想い出していただきありがとうございます」との葉書と共に、手元に残っていた貴重な1冊を送って頂く栄に浴した。

 「松江の、文字どおり生き辞引である漢東種一郎さんが、もちまえの誠意と愛情をめいっぱい傾けて“一気にペンを執った”のが本書である。一気に成ったものなら、一気に読まなくては申訳ない。同じ松江ッ子である、福田茂宏画伯のすばらしいスケッチに飾られた本書のゲラ刷りを一気に読了して、私は思わず唸った。」という江国滋氏序文の一部が載る帯もちゃんと付いていた。

 

61日、松江歴史館の「写真家植田正治が撮る松江」企画展に足を運んだ。会場には、上記の『松江/わが町』が2冊も置かれていてびっくりしたが、更に“古きよき時代の「松江」がよみがえる”―復刻『松江』写真:植田正治/文:漢東種一郎、「山陰放送開始60周年限定3000部」と印刷したパンフがあり、6月中旬発刊予定・予約受付中とあるにもかかわらず、既に販売されていた。

 勿論この写真集も喉から手が出るほど欲しいものであった。早速購入したが、

帯には「今は見ることのできない松江の顔、今も変わらぬ松江の顔」に続いて、(写真)植田正治「1960年をピークに前後8年間にわたって撮りつづけた膨大な作品の中から、作者が厳選した130点を収録!! “重いカメラを担いで、よくぞ粘ったものだ”と今、述懐する」、(随筆)漢東種一郎「松江を愛し、その街の古きを懐かしみ筆者がつづる四季折々の松江の姿。物音や、水の色、香り、味覚などを詩情豊かに書き上げて、写真と見事なハーモニーをつくりあげています」との文言が続いている。写真集冒頭を飾る田宮寅彦の「松江」を読めば、誰しもハーンの聞いた下駄の音を求めて松江を訪れたくなる。定価5,000円とやや値は張るが、松江、ハーンを愛する人には必見の写真集であろう。

 

 

1】《最近の情報から》:〈既に報告済みのものを含む〉

・『へるん』51号(八雲会、2014627

・写真集『松江・MATSUE』(写真:植田正治/文:漢東種一郎)、山陰放送開始60周年限定3000部で待望の復刻なる

・浮田佐智子「平成26年度八雲会定期総会と松江の旅」報告書(629

・名井茂:「日本の面影」松江公演(627)鑑賞報告。なお、同氏より、『日本の面影』パンフレット(朗読座・地人会新社)の恵贈を受ける。

・毎日新聞「ギリシャに小泉八雲資料館」(75日、夕刊)

・野田正明「ラフカディオ・ハーン没後110年」中国新聞(715日)

・古川正昭「ギリシャにおけるシンポジウム報告」★本日の例会で

・平成26年度「小泉八雲をよむ」感想文、作詞・詩(募集)930(第1次)

・山陰文藝協会創立20周年記念「ラフカディオ・ハーン没後110年シンポジウム」113(月):講演「文明の混沌とハーンの立場」(平川祐弘氏)ほか、島根県民会館中ホール。入場無料

・「小泉八雲没後110年イベントガイド2014」パンフレット

 

2《読みたい本》:長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(今井書店、2014

夏目鏡子に『漱石の思い出』があり、小泉セツには『思い出の記』がある。その小泉セツ、即ち八雲の妻の前半生を克明に追い、ハーンと結婚するまでの資料的説明と考証を見事に成し遂げたのが、長谷川洋二『小泉八雲の妻』(昭和63)であった。本書はセツの後半生にも記述を伸ばし、まさにセツの全生涯に亘る卓逸した評伝となっている。前半生についても新資料と新研究の成果が惜しみなく取り入れられている。上記『思い出の記』も親切に収録されており、ハーンと生活を共にしたセツ13年間の充実した生活を裏付けるものともなった。なお、セツの「英語覚え書帳」は以前通り残っているが、「資料及び参考文献一覧」は今回の新版にはなく、昭和63年の旧版の方にのみある。

 

3《次回の予定》: 913日(土)

 

4《事務局の本棚に加わった本》:

・写真:植田正治・文:漢東種一郎『松江』(山陰放送、20141978年版復刻

・吉見俊哉『博覧会の政治学』(中公新書、1992

・マシュー・グッドマン/金原見瑞人・井上里訳『ヴェルヌの「八十日間世界一周」に挑む』(柏書房、2013)★原書は5月号のニュースで紹介済み

・竹鶴政孝『ウィスキーと私』(昭和47)非売品

・森瑤子『望郷in loving memory of rita』(角川文庫、平成2年)

 

 

ハーンと英語教育

The plain truth is that young men are sent to foreign seats of learning for other ends than to learn how to devote the rest of their lives to the study of psychology, philology, literature, or modern philosophy. They are sent abroad to fit them for higher posts in Government-service; and their foreign study is but one obligatory episode in their official career. (有り体に言うと、若い連中を外国の学問の本場へ留学させるのは、心理学や言語学や文学や近代哲学の研究に、一生をいかに捧げるかということを学びにやるよりも、他に目的があるのである。彼らは、官庁の公務において、より高い地位に就くのにふさわしい人物となるために留学させられるのであって、従って外国における彼らの研究は、官吏としての履歴の上の一つの天下り的な余禄に過ぎないのである。)

『日本―一つの試論』Japan: An Attempt At Interpretation所収の「官制教育」からの一文である。若い留学生が日本に帰国すると、折角専攻した部門(実用的でない場合)の研究をそれぎり止めてしまう。こうした日本人、特に帰国後官吏になる若人の海外留学(ハーンではobligatory episode)の在り方について、ハーンの鋭い批評眼が窺える。

 

「出雲への旅日記」(「出雲再訪」)Notes of a Trip to Izumo

この作品は1897年(明治30年)「アトランティック・マンスリー」5月号に掲載された。ハーン在日14年の丁度中間にあたっていた年である。この作品は、@「松江にて」628 A「松江にて」630 B「松江にて」73 C「加鼻にて」822 D「広島にて」829 の5部から成っている。

 『西田千太郎日記』には、ハーンに関して6月中の言及はない。71日(雨)、来遊のハーンから旅館で西洋料理の饗応を受けた記録はある。また820日(晴)ハーン出発を大橋に見送った(西田とハーンの最後の別れ)のも事実。

 東大出講の直前、ハーンは松江に50日間も滞在したが、820日、松江を出発、境港に至り、海路神戸へ(敦賀から汽車)のコースを採った。小泉セツ『思い出の記』には、東京着が明治29827日となっているので、上記の日付はハーンの行動記録と一致せず、特にCとDの日付には作為がある。

 Cの加鼻は美保関のことだが、3回訪問している。1回目(189182529)、2回目(18928259月上旬)、3回目(18967158月上旬)で、『見知らぬ日本の面影』第10章「美保関にて」は1回目と2回目の滞在体験を纏めたものである。〈822日に美保関に居た記録はない〉

 D18911115日、ハーンは熊本に向けて発った。宍道から人力車で中国山地(54号線)を越え、広島に出た。4日間かけて19日夕刻熊本駅に着いた。可部に宿を取ったのは17日であろうと推察される。兎も角、夏ではない。

 

《バック・パッカー(旅に暮らす人)の元祖・ハーン》:A

ハーンが世紀末と呼ばれる時代に生きたことは特筆大書すべきことである。『80日間世界一周』(1873)は世界中の大ベストセラーとなり、無数のジャーナリストや作家が競って辺境の地へ出掛け、地球の全ゆる地域から見聞記を寄稿した。アメリカを初め英語圏にはそれを熱狂的に迎える土壌があった。

 ニューオーリンズで最も有名なジャーナリスト、且つ翻訳や書評を手掛け新進の文学者と目されたハーンは、「ジャーナリストから作家へ」との思いが湧き、1884年夏、ミシシッピ川を南下し、カリブ海に面した島々の一つであるグランド島を訪れる。文学的なインスピレーション、小説の構想を得るためである。このフィールドワークが作品『チータ』に結実する。

 当時一流の出版社・ハーパー社と親交のあったハーンは、18877月上旬、バラクータ号で西インド諸島への旅に出る。マルティニーク島サン・ピエールに2カ月滞在、旅行記『真夏の熱帯行』を書く。10月再びマルティニーク島へ、17ヶ月滞在。やがて『ユーマ』『仏領西インド諸島の2年間』を出版。

 ハーパーズ・マンスリーの美術主任ウィリアム・パットンに日本行きを勧められたハーンは、189038日、挿絵画家ウェルドンと共にニューヨークを出発。カナダ太平洋横断鉄道(3年前の5月に開通)の協力を得て、モントリオールから「横浜号」寝台車に乗る。ヴァンクーヴァ―からは、318日、「汽船アビシニア号」で横浜へと向かった。太平洋を16日間で渡り、明治23年(189044日午前6時に横浜港に着いた。

ニューヨークを出て、ハーンは約1か月(正確には26日)後に、日本へ到着(4か月前に日本を訪問したビスランドは23日で到着)。4月下旬、来日第1稿「日本への冬の旅」を「ハーパーズ・マガジン」に発表した。

 

★太田川橋:「可部夢街道もてなし隊ご案内ハンドブック」(平成25年)より

・明治20年…初代太田川橋完成。木製で、橋桁が多く、ムカデ橋とも呼ばれた。沼田郡八木村(佐東町)と高宮郡中島村(可部町)の間に架けられた。別に、橋の上流500mの地点には、出雲街道としての“渡し場”があった。

・明治37年…2代目の太田川橋が完成。木製だが橋の幅は拡がり、明治38年からの可部―横川間のレトロバス運行が可能となる。

・大正12年…3代目の太田川橋が完成。県下初の鉄製橋として完成。現在は三次市の尾関山駅近くの「祝橋」に。

・昭和32年…4代目の太田川橋が完成。5代目の新太田川橋完成と同時に広島方面行き専用となる

・昭和55年…5代目の太田川橋が、新太田川橋として完成(54号線の下り専用橋として)。