新井白蛾『牛馬問』巻之一「小野小町」より

小町がいっぱい

 ある人が尋ねた。
「小野小町のことは、兼好法師の『徒然草』の説をはじめ、ほかにさまざまな説があって、定まったものがありません。鴨長明の『無名抄』などから考え合わせると、小町の全盛期は在原業平よりも以前のようにも思われるのですが、どうなんですか」

 答えはこうだ。
 昔は一国から一人ずつ、内裏の雑事を行う采女(うねめ)を、朝廷に献上する習わしがあった。すでに仁明帝の前後には、采女として召された者が六十余人あったという。
 采女は後宮の建物である常寧殿に住み、そこは別名「后町(きさいまち)」といったので、彼女たちは皆「小町」と呼ばれた。
 やがて宮仕えを終えて、故郷に帰って死ぬと、その墓はたいてい「小町塚」と称された。だから、国々に小町塚というものが多い。美濃と尾張の間だけでも二、三か所ある。
 これらをすべて一人の小町のように思うことから、紛らわしい説がたくさん生じたのである。
 たとえば、藤原実方が陸奥へ下向したとき、目の穴から薄(すすき)が生え出た野ざらしの髑髏の姿で「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ…」と詠んだとされるのは、小野正澄の娘の小野小町だ。
 文屋康秀が三河国の役人になって下るとき、同行を誘う康秀に「…身をうき草の根を絶えて誘う水あらば…」と返したのは、高尾国分の娘の小町である。
 「おもひつつぬればや人の見えつらん…」の歌を詠み、また在原業平から「秋の野に…」などと言いかけられたのは、出羽の郡司 小野良実の娘の小町だ。
 高野大師に「壮なる時驕慢最も甚だし。衰る日然歎猶深し。…」と語ったのは、常陸国の玉造義景の娘の小町である。
 このように、もともと一人ではないから、各説で、時代そのほかが異なるのは当然だ。幾多の小町の中で、小野良実の娘の小町は、美人で和歌にも優れ、名高かった。そのため、小町といえばこの人ひとりのように伝えられてしまったにすぎない。
あやしい古典文学 No.1291