松浦静山『甲子夜話』巻之二十六より

グゼ船

 我が平戸藩所領の海には、船幽霊、別名「グゼ船」というものが出る。
 これは、海で溺死した者の迷魂が為すところの怪妖で、夜陰に乗じて海上を往来する船を惑わすのだ。

 ある人が小舟に乗って、平戸城下の北一里半の海へ出て釣りをし、夜になって帰途についた。
 小雨の降る暗い夜であったが、北方向の彼方から、大船が帆を十分に揚げて走り来るのが見えた。よく見れば、風に逆らって走っていた。それなのに帆の張りようは順風に走るようだった。
 船首のところに火があって、赫々として光を放った。なぜか燃え上がる焔はなかった。ただ赤い光が波を照らしつけ、周囲は白日のようだった。船中で数人の人影が揺動するように見えたが、その形は曖昧で定まらなかった。
 怪しみ見るうちに、その人の小舟は止まって、進まなくなった。その場を漕ぎ去ろうとしても、動かなかった。また、進む方向の目当てとした島の形は、突然没したように見えなくなった。
 そのときふと、『船幽霊は、苫(とま)を焼いて船端を照らせば立ち去るというぞ』と思い出して、そのようにしたところ、はたして四方の視界が開け、舟が動き出した。
 気づけば舟は、間近にあった鎌田の横嶋というところの浅瀬にかかって、岩礁に当たって難破する寸前だった。急ぎ碇を下ろして危機を避けたが、それやこれやで二時間あまりも船幽霊に迷わされ、やっとのことで城下まで帰り着いたのだった。

 平戸の南の志自岐浦でも、夜帰る者の舟の櫓が、途中でにわかに動かなくなり、舟が止まった。怪しんで周囲を見回すと、乱髪の人が海面に首を出し、櫓に噛みついているのだった。
 鮒幽霊と知って、慌てて水竿で突き離そうとしたが離れない。そこで灰をふりかけてやると、しばらくして離れた。
 海面もよく見分けられないほどの闇夜であったのに、なぜか船幽霊の顔だけははっきりと見えたという。

 志佐浦では、風雨の夜に、ある兄弟の者が舟で行くとき、白衣乱髪の者二人の乗った破船が接近し、兄弟の舟を慕うように付いてきた。
 二人の顔色は雪のごとく白く、兄弟を見て歯を剥いて笑った。言いようのないほど恐ろしく、兄弟はその場を脱しようと、力を尽くして漕いだけれども、怪異の船は離れない。
 どうしようもないので、一か八かで燃えさしの薪を投げつけたところ、みるみる離れて、無事に港へ帰ることができた。
 これも船幽霊の一種である。
 兄弟はその後、かの顔色が事あるごとに眼に浮かんで恐ろしく、舟の稼業はするものではないと思って、ほかの仕事に就いたそうだ。

 先年、平戸周辺に大風が吹いて、船々が大小数知らず沈没し、幾人かの溺死者もあった。
 それ以来、夜ごとに船幽霊が出て、往来の船の邪魔をした。「これでは航行ができません…」と役所に願い出があったので、瑞岩寺という寺に申し付けて、施餓鬼を行わせた。
 大勢の僧が船で海へ出て誦経し、また舟形数百を造って海面に浮かべた。燭をともした舟形が潮にしたがって漂い、おびただしい火光が波間にひらめいた。これによって、船幽霊の禍いは止んだという。
 このとき、その辺に停泊していた商船も、みな燭を舟形にともして弔いをしたので、火光はますます海上に満ち満ちたのだった。

 生月(いきづき)という地の鯨組の祖に、道喜という者がいる。
 道喜がいまだ貧しい船乗りであったころのこと。ある夜、暗い海を舟行するとき、船端に数十の白いものが取りついた。よく見ると、すべて小児のごとき細い手である。
 驚いて水竿で打ち払ったが、いったんは離れても、何度でもまた取りついてくる。ふと思いついて、竿の先を焼いて打ち払ったところ、ついに退いて姿を消した。
 これも船幽霊の類だという。苫を焼く、焼きさしの薪を投げる、灰をふりかける、竿を焦がす等々は、「陰物は陽火に勝つことなし」という理による方法だと、船乗りたちは言い伝えている。

 筆者が本人から直接聞いた話だ。
 壱岐の生まれの馬添の喜三右衛門という者が、勤番で厩にいたときに、何かのきっかけで船幽霊のことを話しだした。
「私は、壱岐から本土へ渡る際、途中でグゼに出遭いました。はじめは遠くから多くの人の声のようなもの聞こえまして、すると船頭は、すぐにそれと知って、『ほどなくグゼが来る。けっして見てはならない。見ればこの船に祟りがある。ちらとでも見ることはならない』と人々を制しました。
 それで船中にひれ伏していたのですが、まもなく例の声がごく近くなって大いに騒がしくなったので、見るなと言われたけれども我慢ならず、少し顔を上げて見てしまいました。
 帆を十分に揚げた大船が、私どもの船に、横向きで見る見る近づいてきます。その船上には大勢の人の姿があって、しかしどれもみな影のようで、腰から下は判然としません。手に手に何かを持って、私どもの船に海水を汲み入れようと騒ぎ蠢いているらしく見えます。
 私どもの船の船頭は、舳先に立って何か唱え、守り札のようなものを掲げて祓いをする様子でしたが、やがて灰を四方に振り撒きますと、グゼ船はそのまま私どもの船を透き抜けたらしく、さっきまで左にあったのが右にきて、次第に遠ざかってゆきました。
 船頭が『もう大丈夫』と言うので、みな頭を上げました。そのときには、グゼ船はもう跡形もなかったのです」

    *

 他所の船幽霊の話も記しておこう。

 ある人が語った。
「豊後佐伯藩の家老某は、知行地に往来する際、三度も船幽霊を見たそうだ。そのさまはこうだ。
 はるかな沖から船が来るらしく、人の呼ばわる声が遠く聞こえた。すると、船頭ほか乗組の者が甚だ恐れる様子なので、どうしたのかと尋ねると、『船幽霊ですぞ』と言う。はっとして返り見ると、はや我が船に、四五人も乗り込んでいた。その形は煙のようで、二十歳から二十四五の男たちであったが、船の舳先を歩き回って、やがて海に入った。その後は船頭たちも恐れることなく、止まっていた船も動き出したそうだ」
 その人は、また語った。
「人吉侯の侍医で佐藤宗隆という者は、海路江戸へ向かうとき、船幽霊を見たという。播磨の舞子浜の辺りは怪事が稀な場所なのだが、その夜は陰火が海面を走っていかにも不気味であった。ほどなく、大きさ四尺余のクラゲのごときものが漂ってきて、見ればその上に人の形があり、船に向かってものを言いかけるようだった。船頭たちが、すぐに苫を焼いて投げかけると、そのまま消滅したそうだ。
 同じ人吉藩の医師で宗碩という者も、備後の鞆ノ浦辺りで船幽霊を見た。これは型どおり手を海中から出して、『柄杓かせ、柄杓かせ』と言ったらしい。宗碩は、『船幽霊のことは、我々だけでなく、多くの人が経験して知っていることだ』と話した」

 筆者の隠宅の隣に、大道という僧が住んでいた。
 大道は筑前秋月の人で、もとは黒田家秋月藩の藩士であった。その当時、藩用で上京する途中に長門の赤間ヶ関に停泊した際、船幽霊をまのあたりに見たといって、こう語った。
「三月十八日のことでした。船頭どもが『今日は何もおっしゃるな。くれぐれも話は無用ですぞ』と禁じるので、どういうわけかと問うと、『今日は平家滅亡の日で、もし物語などすれば、必ず災難に遭うのです』と言うのでした。
 それで、黙ったまま辺りを見ていますと、やがて海上一面に霧がかかり、ぼんやりした中に何か人の形のようなものが幾つとなく現れました。それは敗亡した平氏の怨霊で、これが人声を聞けば、たちまちその船を覆すゆえ、談話を禁ずべしと言い伝えているそうです。昔から、十七、十八日にはこの禁があり、また、その前の十四、十五日ごろから、海上が荒れて渦潮を生じるなどして、赤間ヶ関あたりは物凄い有様となるとのこと。
 この船幽霊を見たのは、私ばかりではありません。秋月藩には、かの地に船を泊めたときに見た者が多くおります」
あやしい古典文学 No.1184