鳥飼酔雅『近代百物語』巻三「野馬にふまれぬ仕合せ吉」より

花見に濡れ場

 摂津の難波は日本一の港で、商売の機会は限りなく、金銀が足元に転がっているというのは、まさにこの地のことであろう。昨日まで尻からげの草鞋ばきで主人のお供をしていた身が、今日は頭巾に黒紬の羽織姿、また、笊に盆を伏せて豆腐を買いに行った女が、たちまち奥様と呼ばれるのも、この地ならではのことである。
 その昔、八軒屋の一角に、松屋万吉という人がいた。生まれもって商いの道にさとく、日夜いそがしく東西に駆け歩きながら、風流の道も心得ていた。

 万吉には、医者の長岡玄安という気のおけない友人がいた。
 ころは弥生のなかば、いずこも花咲き乱れ、万吉も心浮かれて、誰か誘ってくれないものかと思っていると、玄安がやって来て、
「野中寺の桜が、いま満開だと聞くぞ。さあ、花見に行こう」
とすすめる。万吉は、
「よく知らせてくださった。わたしの気持ちがわかるのは、やっぱり先生だね」
と言って、連れ立って出かけたのであった。
 東のかなたに葛城山、二上山が、花曇りの空にかすかに見えるのも、なんともいえない。野は一面の菜の花で黄金を敷いたかのよう、堤はスギナとレンゲでいろどられ、錦を張ったにひとしい景色だ。
 空に鳥の声を聞くのも家ではできない贅沢だと、はるかに見やると、その空から一羽の雲雀が池に降りる。それを目で追っていったところの草むらが、風もないのに左右に分かれた。
 おや、どうしたのだろう、とよく見ると、そこにいるのは、頭は女、身体は狐……。

 二人は顔を見合わせ、また黙って様子を見ていると、半化けの狐は、池の藻屑をとって頭に載せたかと思うと、たいそうきれいな女に化けきった。知っていてさえ心ときめく顔かたち、狐と知らぬ人が、こんな美人に騙されるのは当然だ。
 二人が眉に唾して行き過ぎようとすると、女が後から呼びかける。
「もしもし、道に迷って困っている者です。わかる所まで、連れて行ってくださいな」
 こう涙ながらに頼むのを、二人は傍によって、
「さっきの水遊び、まことに面白かった」
と言って笑った。
 女ははっと驚く気色、
「あら、恥ずかしい」
と顔を赤らめて逃げようとするのを、まあ待て待て、と二人で引き止めて、
「ばれてしまったものは仕方がないではないか。しばらくその姿を変えなさるな。われわれも子供のころから話には聞いていたが、実際に化けるのを見たのは初めてだ。ついでのことに、何かひとつ、狐の術を見せてくれ」
 この頼みに、女は面目なさげにしながらも、
「それでは、わたしの後から見え隠れについて来てください」
と言って、先に進んでいった。

 女の行く先の堤のへりに、旅がえりの半合羽の若者が腰かけていて、
「あねさん、どちらへ?」
と問いかける。
 通り過ぎた女が振り返って、
「何をおっしゃるの」
と言った顔を見るなり、男はぞくっと身震いして、
「どこへ行くんだい。送ろうか」
と、女の手などとって、南の方角へ歩いていく。
 ちょうどそこに番屋があった。男は女の袖をつかんで、
「ちょっと休んでいこう、な」
と、むりやり番屋の中へ引っ張りこむ。
「あら、いやよ。人が来る……」
などという声がかすかに聞こえ、それきり戸を閉めてしまったので、玄安は退屈し、近くの家に入って高いびきで眠ってしまった。

 万吉は、戸板の節穴に目をあてて覗き見に夢中だったが、誰かが後ろから、
「おい、危ないよ!」
と言ったのにびっくりして気がつくと、野馬の肛門に目をあてて、番屋と思って覗いていたのだった。
 驚きのあまり大声をあげて玄安を呼ぶと、牛小屋から目をこすりながらよろめき出て来て、全身泥まみれ糞まみれ。
 互いに顔を見合わせ、あきれて言葉もなかった。
あやしい古典文学 No.129