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・・・2006年10月の戯言・・・


2006年10月22日

<いじめ問題>

 いじめってさ絶対になくならないと思うのね。
子供なんてみんな残酷。でも、その残酷さの中から優しさを覚えていくもんでしょ。人を思いやる気持ちとかさ。
単純だよ。虫捕まえて、世話して、飽きて、死んじゃって、がっかりする。
そーいったことの繰り返し。
いじめもそう。
その中から、人の気持ちを知ることや後悔、罪の意識を学ぶんじゃないかな。
 俺の周りだけかもしれないけど、いじめた側の人間て、あまり良い人生送ってないんだよね。闇金会社に勤めるハメになったりとかさ。
逆に、いじめられた人は、けっこう幸せそうにしてたりする。結婚して、子供つくって、幸せそう。
それは人の痛みを本当に"痛いほど"知ってるからなんだよね。だから、人を思いやれる。だから、人を大切にできる。だから、人に幸せを感じさせることができる。だから、自分も幸せを分けてもらえるんだ。
 当然だけど、いじめなんかなくなればいいと思うよ。
でも、それは無理かも知れない。
ただ、現状はおかしい。
いじめを無くすことはすごく難しくとも、いじめが存在することを大人が認識しそれをコントロールし最小限の被害で済ませることはできるはず。
「いじめ」という実体を隠し、見て見ぬ振りをし、なかったことにする。
それは子供が成長しようとするエネルギーを、大人がきちんと正しい方向に向けさせる義務を放棄しているようでしょうがない。

子育ての拒否。教育の拒否だよ。それこそ大人による子供への「いじめ」だ。

 いつからだ?
「いじめ」の定義を大人が作り出したのは。。。
 いつからだ?
「いじめ」られたと言う子供本人の言葉が無視されるようになったのは。。。
 いつからだ?
「いじめ」られたと言う子供の言葉を信じなくなったのは。。。

 今日、ちょっと話した相手が言っていた。
「セクハラ」は女性がそう感じた時点で「セクハラ」になるって。その通りだ。
 でも、不思議と子供が感じた「いじめ」は大人にとっては「いじめ」じゃない。

 腐ってるね、今の学校。今の大人。今の社会。
それがいじめかどうかは大人が決めるのではなく、子供が生きてる社会での出来事なんだから子供に判断させるべきだと思うんよね。
その子供の判断を受け入れた上で、大人としてどんな風に対応していくか考えるべきなんじゃないか!?

 学校はさ、子供の社会なんだよ。
そこに大人が入り込んで大人の社会との接点を持たせてるんだよ。
勉学だってその一環。大人の社会で生きるための術だからね。
大人の社会との接点を持たせ、子供達の成長に手をさしのべ導く。ただただ、その勉学だけ与えることを教育と呼ぶなら、腐ってるとしか言いようがない。

 ゆとり教育!?笑わせるね。
大人こそ、子供にいじめとはなんなのか、教わったほうがいい。。。


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