colum SENSE OF WONDERについて
この SENSE OF WONDER という言葉は、通常レーチェル・カーソンの 著書の題名という認識が一般的だ。 しかし、この言葉は、カーソン の著書の出版される遙か以前から、SFの本質を指す言葉として使わ れていたのだ。 誰の言葉かは失念した。 ヒューゴー・ガーンズバック だったか?

意味は、「驚異の感覚」「不思議さに驚く感性」など、もっと平たくいえば、 「不思議不思議あら不思議」といったところか。 

もう少し解題すれば・・・
月の裏側で発見された深紅の宇宙服の人間。 チャーリーと名付けられた それは、およそ5万年前のものと推定された。 5万年前に人類が月に到達し ていた? そんな馬鹿な・・・ 更に調査を進める内に、もうひとりの遺体が発見される。 しかしその遺体 は人類とは思えぬ巨大なものだった。

チャーリーと現生人類の関係は? 人類の発祥の地は? 巨大人類は何もの? そもそもこの太陽系の創世は? 謎は謎を呼び、更に深まる・・・

と、お定まりの惹句で終わるが、この小説の名は「星を継ぐもの」 。  ガンダムとはまるで無関係である。 無論ガンダムの方が パクリなのである。(笑)

作者はJ・P・ホーガン。  この一作で日本に熱狂的なホーガンファンが大量に生れ、 「ホーガン贔屓」という言葉は、ここから発生した。  というのは無論嘘である。

この本を新宿の紀伊国屋で偶然見つけ、 立ち読みしたのは1980年のことだから、かれこれ四半世紀前のことに なる。 最初の数ページを読んだ途端、私は全速力でレジへ走った。 一刻も早く家に帰って続きを読みたかったからだ。 それほどこの小説 の出だしはインパクトにあふれていた。

小説としては、内容的にはそれほど複雑なものではない。 ストーリー は、ただひたすら上記の謎の解明に終始するだけだ。 込み入った人間関係 の描写があるわけでもなく、愛憎の微妙な陰影が描かれているわけでもな い。

しかし、その謎の解明されてゆく過程そのものが、知的好奇心を非常に 刺激するのである。 幾つかの情報から一つの推論が導き出される。 その推論は、現在の我々の常識からすると唖然とするほど意外なもの だが、そうこうする内に更に新しい情報が得られ、それによって一度は 正しいかに見えた意外な推論が、ひっくり返されて更に更に意外な推論 が導き出される。

この「情報取得−推論−更なる情報−新たな推論」といった繰り返しと、 その過程での新鮮な知的驚異が、正に「SENSE OF WONDER」そのものなので ある。 一言で言えば、これが「不思議不思議あら不思議」なのだ。

SENSE OF WONDERとは何かという問いに対して、 最も平明且つ的確な答えは、この「星を継ぐもの」を読むことだ 、と確信を持って言える。

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もう一つ例を挙げる。 「ストーカー」である。  異性につきまとってエッチなことをする人間の、揺れ動く心理と生理を鋭く えぐった作品・・・ ではない。

ロシアの兄弟作家ストルガッキーの代表作で、タルコ フスキーによって 映画化もされた、全年代全世界を通じてSFの最高傑作の一つである。  原題は「路傍のピクニック」或いは「道ばたのキャンプ」 というような 意味で、この方が内容にふさわしいと思う。 邦訳にあたっては映画と 題名を同一にするということで、「ストーカー」となったのだろう。

こちらは「星を継ぐもの」程単純ではなく、読み方によって色々と違った 解釈と受取り方ができる。 事実、タルコフスキーの映画は、ストルガッ キーの原作とはまるで異なるアプローチとテーマによるもので、最初に 予定されていた原題も「願望機」というものだった。

タルコフスキーによる映画の方はひとまずおいて、原作の内容を簡単に 紹介すると、近未来(原作の書かれた1972年から見てのことで、年代的に はほぼ現在の2000年頃か)北米のどこか(カナダと推測されている)である 異変が起きた。

エイリアンの来訪か、それとも超常現象か、原因には触れられていないが、 その異変の起きた地域は「エリア」と言われ、「エリア」の内部では 人智を越える奇怪な現象が多発する。 厳重な警戒をかいくぐって侵入する ことに成功しても、ほとんどの人間は「エリア」内の怪現象のため、 生還することは不可能なのだ。

又、時に発見される物件は異常で用途不明なものばかりだが、運良くそ れを取得して帰還できれば、富裕な好事家に莫大な価格で売ることができる。 

その「エリア」に侵入し、無事生還することの出来る、特殊な才能、 というより体質を持った人間が「ストーカー」と呼ばれる存在だ。 主人公はその数少ないストーカーの一人で、クライアントの依頼で 「エリア」に侵入するが・・・ というのが、ごくおおまかなあらす じである。

原題の「路傍のピクニック」から考えると、人々がピクニックに 出かけ、道ばたで食事をして立ち去る。 後に残された缶詰の 空き缶や弁当箱などは、野の虫たちにはどのように見えるのか、 という解釈が最も妥当なように思える。

空き缶に入り込んだアリは、思いもかけぬご馳走に歓喜するが、次 の瞬間には鋭い缶の縁で胴体を両断されてしまう。 弁当箱にとまっ たアブは、珍味を味わう暇もなく、巨大なネバネバに足を取られて しまう。

「充分に発達した科学は魔法と同様に見える」という、例のおじさ ん(笑)の言葉のように、超越的知性の持ち主である存在が、地球に立ち 寄り、残していったものは、現生人類には魔法のようなものにしか 見えない。 

アリから見て、人類という存在は魔法の世界の住人に等しいものだろう。  彼らに見えるものは、人間のほんの一部の部分だけで、全体像は決して 見ることができない。 

アリがたかった葉っぱを、人間が別の場所へ移動させたとする。 アリか ら見ると、今までいた地点からほとんど瞬時に、他の地点に移動させられ たように感じられるだろう。 これは彼らにとって、彼らの知性を遙かに 越えた驚異以外の何ものでもない。 

たわむれにアリの上に石を落としたとする。 アリにとっては、彼らに は関知できない所から、察知できない原因により、突如として大いなる 災厄が降りかかって来たとしか思えないだろう。

それと同様に、地球に立ち寄った超越的存在がなした行為は、人間に とっては全く理解不能であろう。 この存在と現生人類の間には、人間 とアリ同様、或いはそれ以上の深淵が横たわっているからだ。

存在の意義と知性というテーマを、これほど正面から書いたSFはあまり ないと思うが、「エリア」で起こる現象や奇異な物件の描写は、これ又 「SENSE OF WONDER」の極致である。


タルコフスキーの映画では、これとは全く異なる解釈 であり、どちら かというと宗教的雰囲気を強く感じた。 現実界(侵入=モノクロ)− エリア(探索=カラー、但し強い色彩を押さえた淡彩的表現)−現実界 (帰還=モノクロ)という三部構成には、現実は夢、夢こそは現実、「エリ ア」こそ真の現実ではないか、という宗教的イマジネーションを覚える。

特にラストシーンでモノクロがカラーに変わり、主人公の娘が超常現象 を起こすあたりは、その感が強い。 贖罪と救済というところだろうか。  当初「願望機」という題名が予定されていたのも、 このためだろう。 映画の方も必見の名画である。

この他にも色々な解釈が可能であり、このように多種多様な読み方が出来る この「ストーカー」は、やはり大変な名作だと思う。



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