|
先般のキリンカップの選手構成を見て感じたのは、20代前半の 若手が一人もいないという点だ。 土肥と三浦淳宏を除いて 全ての選手が20代後半 である。 年齢の欄には、「25歳」という文字列がずらりと並ぶ。 稲本小野玉田大黒遠藤加地坪井本山高原と、9人もいる。 対バーレーン戦の選手構成でも、20代前半の選手は坪井1名のみである。 こちらも25歳というのが最も多く、本山中田稲本小野遠藤高原玉田大黒 と8名いる。 後は全て20代後半か30代という、かなりの高齢者(笑)チーム である。 どこの国であれ、ベテラン中堅若手とバランスの良い選手構成ができ るのは、やはり伝統と実力のある国で、しかも将来性もある強国、と いうことになるのだろう。 再三書いているが、日本の場合優秀な若手が出てこないとい うのが、将来的に見ると非常に大きい不安材料だ。 韓国も イランもベテランはそれなりに活躍しているが、若手も順当に伸びてい る。 海外リーグ(ブンデスやオランダ)でも韓国・イランの 若手選手の活躍はめざましいものがある。 日本の場合、20代前半の選手で海外で活躍しているのは大久保位であり、 他の選手は全て20代後半だ。 前にも書いたように、日本代表チームはドイツ大会迄はかなり活躍が期 待できるが、その後は次第に衰退してゆくのではな いかという危惧は、これが原因である。 若手選手の飛躍が切望される 所以である。 現在の状況を見ると、残念ながらこの不安は当分解消されることはなさ そうだ。 かつての日本サッカーは、弱いものの代名詞 みたいな存在だった。 昭和の30年代以前には、韓国や北朝鮮にはボロ負けだったと記憶して いる。 弱いだけでなく、国民的関心も皆無に近い状態で、スポーツと言えばま ず野球、続いて相撲、というところだった。 サッカーなどマイナーも いいところ、自分でプレーするどころか、実際の試合を見たこともない 人がほとんどであった。 ところが東京オリンピックを機会に、デトマール・クラマーさん という 名伯楽を得て、めざましい成長をとげた。 当時クラマーさんは西ドイツの オリンピック代表チーム(現在で言うB代表)の監督に内定していたが、 それを蹴って日本のコーチに就任したため、ドイツの人達からは「お前は ドイツの味方なのか、それとも日本の味方なのか」と嫌みを言われたという。 クラマーさんがそれに対して反論した言葉の正確な内容は覚えていないが、 確か、「私は未だサッカーが不毛な地に、種をまきに行くのだ」 といった ような内容だったと記憶している。 このあたり、ジーコが日本 に来た時の言葉と似てますな。 そのクラマーさんが日本の選手達に一番最初に言った言葉は、 『君たちは大和魂を忘れたのか!』というものだった。 当時の日本サッカーは、当りを恐れて一対一の競り合いに弱く、「お嬢 さんサッカー」などと陰口をたたかれていたそうだ。 そこへクラマー さんの雷が落ちたわけである。 勿論クラマーさんの指導は精神論だけ ではなく、最も重視したのは基本的な技術であり、正確なトラップの仕 方や正しい球の蹴り方など、基本技術を繰り返し繰り返し教えたという。 そしてその成果により、ローマでは栄光の銅メダルを勝ち取り、アジア のトップレベルに並ぶほど成長した。 なお、クラマーさんはその後 韓国のコーチもやったそうだ。 ここで日韓ワールドカップでの感動的な一シーンを思い出した。 車椅 子に乗ったクラマーさんが会場に現れた。 車椅子を押していたのは、 あのメキシコオリンピックのヒーロー、釜本だった・・・ この度開設した日本サッカーの「Hall of Fame」、日本サッカー殿堂には クラマーさんも殿堂入り。 「ドイツにはこんなミュージアムも殿堂もない。 光栄だ」と挨拶したそうだ。 しかしメキシコ以後若手の成長が芳しくなく、世代交代に失敗した日本 サッカーは雪道を転がり落ちる雪だるまのように落ちて行く。 70年代のことだったと思うが、シンガポールでのオリンピック最終予選 では、久方ぶりのオリンピック出場が有力視されていた。 ところが蓋 を開けて見ると、敗戦又敗戦、オリンピック出場どころかついに全敗で 終わってしまった。 この頃は第二次大戦終了後間もない時代であり、東南アジア全体に反日 感情が残っていた時代だった。 そのためシンガポールの観衆は日本の 対戦相手を応援し、日本にはブーイングの嵐という有様だった。 これはシンガポールに限らず、フィリピンでボクシングの世界タイトル マッチが行われても、同様の現象が見られた。 ものを投げ入れたり、 帰りのバスが襲われたりという、過激な行動はなかったが・・・ その時の日本の選手の言葉がまことにもって帆立貝に遺憾だった。 曰く「観衆が相手を応援したので、力が出せなかった」 アホかお前は!(笑) そんなもん、どこの国であろうとアウェーなら 当たり前。 それで力が出せないのなら、日本チームは全ての試合を 日本国内で行わないと勝てない、ということになってしまう。 この象徴的な「事件」以後、日本のサッカーは長い暗黒のトンネルに 入ってゆく。 およそ20年近く、Jリーグの開始前迄、「出ると負け」 の状態が続いたのだ。 現在なら3−0、5−0が当たり前のタイやインドネシアにも惨敗とい う情けない状態が続いた。 私自身サッカーに愛想を尽かし、「もうサッカーは応援しない。 これ からは野球を見るぞ!」と思ったものだ。(笑) 勿論高校時代からのサッカーとの縁は、そう簡単には切れず、Jリーグ 発足の直前から再びサッカーに対する関心は高まりはしたが。 残念なことに、現在の状況はこの70年代に酷似している ように見える。 主力だった優秀な選手の後を引き継ぐ選手が現れず、主力の選手は 年を取ると共に故障が多くなり、全盛時代の実力が出せなくなってくる。 このあたりはそっくり同じではないか。 無論、現在はサッカーへの国民的関心は当時とは比較にならないほど高 いし、Jリーグやその下部組織などの育成環境、又競技場など基本的な 条件が充実している点は、70年代とは決定的に異なる。 とはいえ、優秀な若手の出現という点では、日本は完全に韓国やイラン に遅れをとっている。 中田中村中沢がどんなに良い選手であっても、 いつまでも最高のコンディションを維持できるわけではない。 彼らを追い越すような優れた若い選手が次々に出て来なければ、その国 のサッカーのレベルは次第に落ちて行く。 この点で、釜本杉山 小城を追い越す選手がついに出現しなかった70年代と、現在の状況は非常に よく似ている。 これが私が再び日本サッカーは暗黒時代へ突入するのではないかと恐れる 所以である。 |