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このところ中国韓国で反日デモが続いている。 日本人にとっては 心安らかではない話題である。 デモの画像、特に大使館への投石シーンなど見る限りでは、充分な警備が 行われていなかった、としか思えない。 暴徒が投石しても、その前 に立ち並んだ多数の警官は誰一人として阻止する様子を見せなかっ た。 このシーンだけを取り上げれば、今回の事件は明らかに中国側に 非があり、日本側が謝罪と賠償を求めるのは当然のことと思われ る。 しかし、問題は事件の主要な原因は、このシーンにだけ求 めることは出来ない、ということのようだ。 諸外国特にヨーロッパの主要紙の論調は、「ドイツは徹底的な謝罪を しているのに、日本の謝罪は中途半端。 暴力は良くないが、日本側 も積極的徹底的な謝罪を」というものが多かった。 特に英国系紙の 論調は日本に対して厳しいようだ。 私たち日本人から見ると、日本が行った過去の行為への謝罪は、心から のものであり、決して中途半端なものでもおざなりなものでもない と思えるのだが、問題はそれが日本人から見てのもので、 外国人の眼にはそのようには映らない、という点である。 今までの私個人の考えは、日本はこれまで充分な謝罪の意志を表明してき た。 これ以上何を謝罪したら良いのか。 これ以上の謝罪となれば、日 本の存在自体を否定するよりほかはないではないか。 そのようなことができるわけもないし、日本の真摯な謝罪の意志を受け取 らないということは、むしろ相手に非があるではないか、というものだった。 恐らくこれは、私に限らず大多数の日本人に共通した考え方だったと思う。 無論異論のある方もあるとは思うが・・・ しかし今現在は、私は上のような認識にかなりの疑問と困惑を持っている。 いくらこちらが「悪かった」と本心から謝罪しても、相手がそれを謝罪と は受け取らなければ、それはやはり謝罪とは言えない のではないか。 そのような考え方もある、ということに気がついたのだ。 それではどのような点で日本の謝罪が相手には伝わらなかったのか。 私たち日本人から見ると、ドイツと日本の謝罪の言葉にそれほど相違が あるとは思えない。 しかし、他国からはかなりの相違があると認識さ れる。 このあたりの「言葉の表現技術」に違いがあるのではないか。 それなら ば、明確な表現での新たな謝罪意志の表明を考える時期に来てい るのではないだろうか。 特に皇室の方々の意思表明は、「君臨すれども統治せず」、政治的な しがらみが少ないだけに、大いに有効ではないかと思う。 尚、これは全ての点で日本の権利や主張を否定するということでは決して ない。 領土問題など主張すべき所は冷静且つ論理的に充分主張すべきだ。 ただ、意志は相手に伝わらなければ意味がない、ということなのである。 それにしても、既に半世紀以上、そもそもの発端からは1世紀に近い 年月を経ても、未だに大いなる負の遺産は日本を苛んでいる。 大半の日本人は生まれてもいない頃に起きた事件の為に、 である。 どこまで続くぬかるみぞ・・・ もう一つ、ドイツと日本との大きな相違点は、ドイツの場合、「あれは ナチスがやったことでドイツ人の総意ではなかった」 という言い方もできることだ。 ドイツは第二次大戦終了後には第三帝国が崩壊し、全く別の国体となった。 しかし、日本の場合は国体に大きな変化がなかった。 内容的には全く と言って良いほど別の国になったのだが、天皇制は維持されたし、 国名が「大日本帝国」からただの「日本国」になっただけ、と 他国の眼には映ったのかも知れない。 これも大きな相違と言える。 日本は過去を清算していない、という非難 はこのあたりから来ている、と思われる。 この点で、せめて終戦直後に天皇(当時の昭和天皇)の退位があれば、大分 事情は違っていただろうと思われるが、今更それを言ってもせんなきこと である。 とはいえ、私は終戦直後に昭和天皇は退位すべきだった と、以前から考えて いる。 昭和天皇御自身は善意の人であり、他国の人々 を虐げたりすることは決して好まなかったと思う。 しかし、会社などの場合、もし部下に重大な過失や犯罪があれば、例え社長 が直接それを行ったり指示したりしたのではなくとも、社長が引責 するのは 日本の慣習である。 法的な責任がなくとも道義的責任はある 、ということ である。 それは国という規模であっても同様であろう。 そのような意味で、昭和天皇にはご自分の意志で責任を明確化していただ きたかったのである。 なお、私個人は皇室否定論者ではなく、むしろ 皇室支持論者である。 だからこそ尚更そのように感じるのである。 |