colum なつかしき河のほとりで
SENSE OF WONDER

現在の青少年たちから見ると、この言葉を使うことはかなりハズカシイこと になるようだ。 うっかり使うと、80年代的でダサイとか言われる。(笑)  80年代で何が悪い。 80年代には俺だって若かったぞ。 少なくとも 今よりは・・・

50年代から60年代あたりには、この言葉がそのまま当てはまるようなSF があふれていた。 クラークの「幼年時代の終わり」や「都市と 星」、アジモフの「ファウンデーションシリーズ」や「鋼鉄都市」「裸の 太陽」、ハインラインの「地球の緑の丘」「人形つかい」「夏への扉」 などなど

日本のSFは少し遅れて60年代半ばから花開き、 小松左京の「日本アパッチ族」や「果しなき流れの果に」から、筒井康隆の 「公共伏魔殿」「コレラ」、半村良の「石の血脈」や「不可触領域」、 「産霊山秘録」、更には山田正紀の「神狩り」「弥勒戦争」、「宝石泥棒」 へと繋がってゆく。

これらの作品を、文字通り「乾いた砂が水を吸い込むように」、私は 耽読した。 

日本語で書かれたSFがほとんど存在しなかった時代に、 SFに目覚めた私は、 SENSE OF WONDER に餓えていた。 当時は日本 語で書かれたSFは、年間を通じて数冊出れば上々という時代だった。 SFを読みたい一心で、タトル商会の古本(恐らくは米兵が読み捨てた ものだろう)を買い、辞書と首っ引きで1日数ページずつ読み進んだり もした。  アジモフの「暗黒星雲の彼方に」(the Star Like Dust)と記憶している。

ガッコの勉強もこの位熱心にやっていれば、立派な優等生になれたか も知れないが、生憎SFと関係のない勉強には全く不熱心だったので、 完璧に劣等生でありました。

そして数年後にSFマガジンが創刊され、小松半村筒井らの活躍が始まっ た。 毎月必ず日本語で書かれたSFが読める! 地上の楽園とは正にこ のことか。 

「これは一体どうしてなのだろうか?」、「何故このようなことが存在 するのか?」といった、素朴な知的好奇心を強く刺激するこの頃のSFは、 私にとって正に夢の世界の宝物だった。

その後の英米のSFは、ギブソンらのサイバーパンク の時代があり、 ハードSFではロバート・フォワードの「竜の卵」や、J・P・ ホーガンの「星を継ぐもの」シリーズがあった。

更にその後には一時停滞気味の時代もあったが、ホラーと掛け持ちの ダン・シモンズが「ハイペリオン」シリーズを書いて 気を吐き、某野球監 督の言葉を借りれば、「アメリカSFは永遠に不滅です!」といったとこ ろか。 とはいえ、現在のアメリカSFは黄金時代に比べれば、そのパワー は明らかに落ちて来ているようだ。


日本のSFは、英米に比べて更に衰退の感が強い。 小松筒井半村の ご三家以降に出現しためぼしい作家は山田正紀や栗本薫、夢枕獏 位である。 その山田も最近はSFからは完全に離れているし、 小松はほとんど新作を発表せず、筒井は純文学に、栗本はファンタジー に、夢枕獏はバイオレスアクションへと流れ、半村は68歳という働き盛 りで亡くなってしまった。

この十数年間は、新しい作家はかなりの数出現しても、どれもシロウト同然 のカスばかり。 これは!という作家は中々登場せず、たまに出る優れた作 家は大半がホラー系という有様だった。 このあたり、日本SF衰亡史と いった感がある。

もうセンスオブワンダーのあの感触を味わわせてくれる作家は、日本には出 現しないのかと悲観していたが、最近早川書房のハードカバーシリーズ Jコレクションには、野尻抱介の「太陽の纂奪者」、田中啓文 「忘却の船に流れは光」など、佳作が幾つか見られた。 

(田中啓文は私のごひいき作家の一人であり、そのアクの強い駄洒落は 往年の筒井に似ているが、更にバイタリティがあり、より毒々しい。  「蹴りたい田中」などと言っておらず、ダジャレものだけなく「忘却 の船に流れは光」のような本格的SFを、 もっともっと書いて欲しいものだ。)

これらが日本SFの「復活の日」に繋がってくれれば良いのだが・・・

以上、一オールドSFファンの思い出と繰り言でありました。



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