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パラダイムシフトという言葉がある。
パラダイムとは、「ある時代に支配的な物の見方、考え方、認識の根本的 な枠組みであり、思考や行為の基準、規範となる世界観」を言うそうだ。 ごく大雑把に言えば、「包括的価値観或いは世界観」 ということになるの だろう。 したがって、その基準や世界観は時代により、或いは何かの革 新的な考え方が提起された場合などに、変化する。 その変化が「パラダ イムシフト」である。 これは勿論個人にとっても起こりうる。 私にとっては、二つの理論を 知ったことが、その「パラダイムシフト」にあたる。 二つの理論とは、 ドーキンスの「利己的な遺伝子」と、プランク、ボーアらの量子論 (量子力学)である。 この二つは、私にとって文字通り驚天動地コペルニクス大展開のイデー だった。 目からうろこが取れたのか、それとも目にうろこが飛び込んだ のか、いずれかはわからないが・・・ ドーキンスによる「利己的な遺伝子」の概要は、 「生物の主体は遺伝子であって、個体は単なる乗り物(ビークル)に 過ぎない!」ということだ。 今まで主体であった個体は、 ドーキンスによればただの乗り物にすぎないということになる。 主体である複製子(遺伝子)は、それを乗り継いで自己 の複製をより多く作ることに専念する。 これはダーウィンの古典的進化論から見ると、正に天と地が入れ替わっ たようなものだ。 人間も猿も祖先は同一というダーウィンの進化論は、 1859年当時としては、特に宗教関係者などには受け入れがたいもの があっただろう。 しかしそれでさえ、生物の主体はあくまで個体である。 無論当時はDNAなどというものは、知られていなかったにせよであ る。 それがドーキンスにかかるといきなり主客逆転、本体の筈の個体 は只の乗り物に格下げされてしまい、生物進化の主体は遺伝子 ということになってしまった。 これが18世紀以前だったら、間違いなくドーキンスは焚刑に処されて いただろう。 19世紀にダーウィンの進化論が発表された時でさえ、 宗教界からの反発は非常に強く、英国国教教会から破門さ れかかったという。 19世紀でさえこの有様だから、それ以前の時代 に「生物の主体は個体(人間個人)ではありません」などと言ったら、 「こやつ悪魔の使徒に違いない」と、焚刑か車裂きかはたまた百叩き か。(^^; この「利己的な遺伝子」を読んだ時は、それまで疑問に思っていたこと の幾つかが、氷解した(と思った)。 何故生物は子孫を残すことを 最優先にするのか、何故生物は子供を守るために生命までかけるのか。 ある種の鳥は、巣に近づいた敵を欺くために、怪我をした真似をして 敵を巣から遠ざけるよう、誘導する。 一つ間違えれば、敵に襲われて 自分自身が食われてしまうのに・・・ 何故働き蜂は、幼虫の世話という、自分にとって何の得にもならない ことをするのか。 こんなことが「利己的な遺伝子」を知ることによって、「そうだった のか・・・」と、なんとなくわかったような気分になってしまう。 もっともこの利己的な遺伝子説、これが人間レベルになると、「悪いの はワタシじゃない、遺伝子がそうさせるのだ」と、利己的な軽薄子の 隠れ蓑にされてしまうこともあるようだ。 又、ドーキンスは又「ミーム」という概念も提示している。 「ミームとは文化の伝達や複製の基本単位である。」 この「ミーム」という概念は、アジモフのファウンデーションシリーズ の後期の作品及びベンフォード、ベア、プリンらの新ファウンデーション シリーズにも持ち込まれ、「模倣子」と訳されている。 アジモフらの 小説では、「歴史上の人物の仮想人格」という形で表現されており、 ヴォルテールやジャンヌ・ダルクが登場したりする。 このあたりに なると、ドーキンスの提唱した概念とは、大分かけ離れているようだ。 もっとも、アジモフらがドーキンスの「ミーム」を知っていて小説に 導入したのかは、本当のところ不明である。 量子論(量子力学)の方も、正にsense of wonder、驚愕以外の何もので もなかった。 「/STRONG>観察することによって結果が変る」ということは、 量子論の理論としてはなんとなく理解できるにしても、どのようにして も実感がわかない。 あの有名な「シュレジンガーの猫」である。 猫を閉じこめた箱の中に 青酸カリがあり、一定時間後に放出される確率は50%。 実験開始か ら30分後にその決定的瞬間が訪れる。 そして更にその30分後に 箱を開ける。 その時猫を観察すれば、その猫は死んでいるか、生きて いるかのどちらかで、その確率は50%ずつである。 (注 本物のシュレジンガーの猫では、30分後という特定の時間では なく、ある時間が経過すると、電子や中性子を放出する放射性原子が置 かれている、という設定である。 ここではわかりやすくするために、 このように書いた。) では、実験開始後、決定的瞬間の30分後から、観察する1時間後迄の 猫の状態は? というのがこの「シュレジンガーの猫」のミソである。 この間の猫の状態は、「死んでいる猫が50%、生きている猫 が50%」・・・ つまり、箱を開けて観察するまでは 「不確定」で、生きているのでもあり、死んでいるのでもあり、 という状態なのだそうだ。 そんなことを言われても、ワタシのような凡人には理解できっこない。 日常生活の常識では、決定的瞬間が訪れた後の猫の状態は、死んでいる か生きているかのどちらかである。 どうやってみても、「死んでいる か生きているか、その両方」などというブキミな状態は、思い浮かべる ことができない。 もっともこの話しを書いた頃のシュレジンガーは、量子論には懐疑的で あったそうで、それでこのようなケッタイなことを考えついたのだろう。 電子は粒子であり且つ又波でもある。 両方の性質を合わせ持つという。 電子は位置がわかると運動量がわからない。 運動量がわかると 位置がわからない。 ハイゼンベルクの不確定原理 である。 何故両方が同時にわからないのか。 電子を観察するということは、その電子に光子が当り、 跳ね返って観察者の目に到達するということだ。 ところが、電子 に光子が当たることによってそののコースが変る。 これが 「観察することによって、自然の法則に影響を与え、その結果が不確定に なる」ということらしい。 そう言われれば、「確かにそうだな・・・」と納得はできる。 納得はできても理解はできそうにもないが・・・ これらの量子力学の考え方を「コペンハーゲン解釈」という。 開祖ニールス・ボーアの出身地の名前を取ったものだそうだが、 当時(1920年代)は、ボーアが所長を勤めていたコペンハーゲ ン大学の理論物理学研究所が、理論物理学のメッカとなっていた。 ディラック、パウリ、仁科芳雄ら、錚々たるメンバーが揃っていた そうである。 量子力学の最も不可思議な点は、理論物理学上の認識と、日常生活 上の理解が、まるで一致しない所だろう。 理論的に説明されれば完全に理解はできなくとも、なんとなく「そ んなものか・・・」と、とりあえずは納得できる。 しかし、日常生活上の感覚からは、死んでいるのと生きているのと半々の 状態だとか、観察することによって結果が変るということは、 いくら頑張ってみても実感として把握することが出来ない のだ。 このように量子力学の世界は、常識人にとっては百鬼夜行奇々怪々、 キムジョンイル氏の考えていることより、もっとわからないことば かりである。 遺伝子、光子、電子、いずれも奇怪奇天烈なものばかり。 なんでこの 世界にはそんなものがあるんでしょうかねえ・・・ |