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犯罪、特に凶悪且つ社会的反響の大きい犯罪が起こった後、加害者に
対する「支援」と称する行為が、時に行われることがある。 勿論犯罪者
の更生は社会的に極めて重要なことではある。 しかし、その「支援行為」
が被害者やその家族に、どのように受け取られ、どのような想いを生じさ
せるか、そのあたりを「支援者」の人たちは考えたことがあるのだろうか。
一例を挙げれば、連続射殺事件の永山則夫は獄中で著書「無知の涙」を 執筆刊行し、その収益を被害者の遺族に送ろうとした。 当然のこと だが遺族は受け取ることを拒んだ。 又、永山則夫は自伝的小説も書き、 新日本文学賞とかいう文学賞を受賞した。 更に彼は獄中で結婚もした。 さて、永山のこのような行為は、被害者の遺族にはどのように映るのだろう か? 「立派な書物を書き、賞まで貰った。 なんという素晴らしい人物だろう」、 「重罪を犯したのに、獄中で結婚までした。 華々しい限りだ。 自分も あやかりたい」と考えるだろうか? 私がこの事件の被害者の遺族であれば、「これほど遺族の感情 を逆撫でする行為は、この種の凶悪事件の犯人の中でも、見たことがない」 と 思うだろう。 永山は「悪いのは社会であって自分ではない」と自己弁護に 終始した書物を書き、文学賞を受賞し、結婚までした。 それでは、永山に殺された被害者はどうすればいいのか? 彼らは最早 書物を書くこともできない。 (まだ結婚していないとすれば)結婚する こともできない。 無論文学賞など貰うこともできない。 死んでしまった人間は何一つすることができないのだ。 なのに、何一つ罪のない彼らを殺した犯人は、それらの全てを得た。 これ では話しが逆ではないか? 遺族にとっては、できるだけ加害者のことは思い出したくない筈だ。 犯人の派手やかな活動によって得た金を麗々しく送られて、これが罪の 償いだと納得する人は、あまりいないと思う。 殺人という犯罪の場合、被害者は既に生存していない。 従ってどのよう な贖罪行為も、被害者を救済することはできない。 ただ一つ出来ること は、被害者の遺族への償いだけだ。 よって、罪を償うということは、 即遺族の意志に沿うこと、これだけではないのか。 遺族から見れば、犯人による贖罪とは、ただ静かに刑に服して罪を償う、 という一点だけではないだろうか。 犯人がどのように悔恨の意を表しても、 父を兄を子供を殺した犯人が、もてはやされ、注目の的になるこ とを、喜ぶ遺族がいるだろうか? 遺族の感情を思いやるのなら、たとえどれほど言いたいことがあったとし ても、派手な活動は控えるべきだと思う。 死刑年表というものを掲載しているHPがあった。 それを見て獄中で 結婚する受刑者がかなり多いのに驚かされた。 永山則夫しかり、 最近では池田小事件の宅間しかり、その他にもかなりの数のケースがあ る。 いったいどのようなことを考えて、殺人犯と獄中結婚するのか、私の ような凡人には理解に苦しむところである。 売名か自己陶酔か宗教的 信念によるものか、それとも他にもっと深遠な理由があるのか・・・ 獄中結婚に限らず、犯罪、特に殺人など重大な犯罪の加害者に対する 「支援」と称する行為には、苦々しい感情を抱いた人が多いのでは ないだろうか? 何故苦々しさを覚えるかと言えば、その「支援行為」が一見(一見 ではなく、実際にその通りなのかも知れないが) 被害者の救済より、加害者の救済が優先されているように見える からである。 「被害者より加害者の救済の方が優先されるとい うのは、筋が通らない。」と感じるのは当然のことだろう。 無論、犯罪者の更生と社会復帰の為の支援そのものが悪いと言っている のではない。 そのような行為は社会的に重要なことでもあるし、その ような支援をする人々は、崇高な精神の持ち主で有徳の人たちであろう。 しかし、ものには順序というものがある。 その事件に対してなにかの関心を持つようになり、何らかの行動を起こすの ならば、まず何よりも被害者とその家族のことを考え、最大限その意に そうことが、最も重要なことだと思う。 被害者とその家族の立場と 感情を第一に考えない者は、犯罪者に対して支援活動などするべきでは ないし、その資格もない。 むしろ社会的に有害な人々である。 本来まず第一に支援を受けるべき立場の人間は、加害者ではなく被害者 とその家族だからだ。 「日本は加害者天国」などとメディアにはよく書か れる。 決して名誉なことではないし、嬉しいことでもない。 加害者にとって天国なら、その反面に存在する被害者に とっては、地獄なのだから・・・ |