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なぜ古代、中世の日本国は(いや、古代中世のみならずその後に至っても)、朝
鮮半島にあれほど拘泥したのか? 5.6世紀の任那日本府、秀吉の朝鮮侵攻、
明治時代の植民地化などなど、日本の朝鮮半島への関心の強さを示す事例は多数
ある。
任那の日本府については、元々そんなものは存在なかったという説 を含めて諸説 紛々、確かなことは不明であるが、大和朝廷ないしは日本列島内の倭国(倭)が, 5世紀後半に加羅諸国を一括して,直接支配したとする説がある。 この5世紀中頃という時代は、AD270年の応神天皇又は313年の仁徳天皇 の即位を起源とする、大和王朝の発足から僅か百数十年しかたっていないのであ る。 ここれに先立つ100年程前には、かの有名な「耶馬台国」があった。 3世紀初頭AD210年頃、卑弥呼の統べる邪馬台国は、魏志倭人伝によると、 「男子は大小となく、みな黥面文身す」、つまり男は顔にも身体にも入れ墨をし ていたという。また、「衣を作ること単被のごとく、その中央を穿ち頭を貫きて 此を衣る。」ともある。 袖などのある複雑な衣服は作れないので、古代ローマ 時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいただけの服を着ていた。 しかも全てはだしであり、縦穴式の住居に住んで食事は手づかみであったという。 未だ独自の文字は存在せず、漢字を読み書きできるものはごく一部の者のみだっ た。 弥生時代末期のことである。 ともあれ、恐ろしく遅れた、当時としても最後進国の部類に入るような 国であったことは確からしい。 放送禁止用語でいえば、「土人」で ある。(笑) FIFAランキングにすれば、150何位とかいうあたりであろう。 なのにそれから僅か2、300年後の大和王朝初期の時代には、曲がりなりにも 中国の事物や風習を取り入れ、鉄製の武器を使用し、文字も5、6世紀頃には漢 字を簡略化したいわゆる万葉仮名が大いに使用されるようになった。 そして現存する日本最古の記録、日本書紀は720年に、古事記は712 年に完成した。 ☆黒いモノリスは降り立った? 大和朝廷の起源はAD270年の応神天皇又は313年の仁徳天皇の即位あたり とされている。(諸説あり。 もっと遅い年代とする者も多い。) ただしこの時代の人々の人物、生活や風物はほとんど明らかに されていない。 その後593年の推古天皇(女帝)の時代になって、我々にも おなじみの聖徳太子や蘇我入鹿などの名前が出てくる。 世界のトップ文明の推移は、約5千年前の人類最初の文明と言われるシュメール 文明に端を発し、その後エジプトがBC3千年からおよそ2、3千年を制し、 ギリシャマケドニアローマなどの地中海文明へと続き、その後3世紀頃から 中国の時代が13世紀頃までのおよそ千年。 その間古代ペルシャ文明な どがその間に入り、その後16世紀から今世紀迄はヨーロッパ(とその後 継者の北米)の時代という所が、ごく大雑把な掴み方である。 AD1年から300年頃の日本の技術的なレベルは、当時の最先端国である大陸 やエジプト、ローマより数百年或は千年以上も遅れていたと思われる。 それが 僅か数百年後の大和王朝初期には、未だ大陸との差はあるものの、その差はかな り少なくなっていた。 現代ならば、100年足らずで最低クラスから最高クラス へと飛躍できる程イノベーションの速度は速い。 しかし、この頃の技術進歩の 速度は現代とは違い、2.300年ではさしたる変化は見られない程の、遅々た る速度だったのである。 この時代にこのような速度で、「文明開化」を果たし た国は、他には見られないのだ。 なぜこのような急速な進歩が古代日本において行われたのか? 単に大陸の技術 を急速に取り入れたということだけなのだろうか? 邪馬台国成立より遥か前か ら、大陸との往来はかなりあったようだ。 この間に航海技術が格段に進歩し たということも、ありえないだろう。 この頃大陸や朝鮮半島の情勢が急を告 げ、倭国へ避難する中国人半島人がいたことは事実だろうが、それだけの理由 とも思えない。 それ以前から日本へ渡来する中国人半島人は相当数いたのだから。 こ の2、3百年の間に、これだけドラスティックな変化が行われるには、何かもっ と他の原因があったのではないだろうか? 例えば・・・ 黒い巨大な方形の石板が、ある朝邪馬台国の卑弥呼の前 に降り立ったとか・・・ ☆日本人の起源 日本人の起源については、未だ不詳である。 しかし近年日本人の起源について の研究がかなり進み、ある程度のことはわかってきた。 まず、 南の島から黒潮に乗って海洋民族が渡ってきた。 これは現在な らフィリピンやインドネシアに 当たるネシア系の人々であろう。 これがいわゆる「隼人族」 の祖先と思われる。 卑弥呼の国耶馬台国の人々は、魏志倭人伝の記述を信じるならば、南方系の隼人 族ではなかったかと思われる。 この人々は南のミクロネシアなどから、 丸木船に乗って遙々と海を渡ってきたのであろう。 当時の航海術は未熟 とはいえ、ほぼ同じ頃(1万5千年程前)には、南の島々から太平洋を筏で渡っ て南米に辿りついたという、ヘイエルダールなどの説もある。 数は多くなか ろうが、決して不可能なことではない。 これとは別に北からアイヌを始め、ツングースやオロチョン、 ギリヤークなど、 アイヌ系の人々も日本列島へ渡ってきた。 これが「蝦夷」(えみし、 えぞ)と後に呼ばれる人々であったのだろう。 およそ1万5千年程前までは、間宮 海峡も津軽海峡も凍結していて、歩いて渡ることができたそうだ。 彼らは日本の東半分に広く存在し、 西日本の出雲にさえその出自を思わせる伝説が残っている。 これらの南方系北方系の人々の他に、当時地続きだった大陸からも多数の人々が 日本に入り込んでいたことは、想像に難くない。 これらの人々は時に混交し、 時に対立して日本人の起源となっていったのだろう。 その後温暖化に伴う海面の上昇により、日本列島は南方とも大陸とも隔絶した。 そしてこれらの先住民族を、大陸からやってきた先進文明の持ち主である、とあ る部族が征服して大和王朝を築いたというのが、私の考える所であり、また一般 的な説でもある。 ☆閉ざされた古代墳墓 ところで、畿内近辺には未だ調査の行われていない大規模な墳墓がいく つかある。 その代表的なものは纒向古墳群であり、箸中山古墳(伝箸墓) 全長280m、纒向勝山 古墳全長100mの前方後円墳、纒向矢塚古墳 全長96mなどがある。 いずれも4世紀前後の大規模な墳墓である。 箸中古墳の築造年代は、280− 300年頃とされているが、これはとりもなおさず「大和王朝発 足の時代」であ る。 これらを学術調査できれば、日本史の不明な部分の相当量が、一挙に 解明されるであろうというのが、学者たちの一致した意見である。 なのに、これらの墳墓は宮内庁により「陵墓」(大王の墓)に指定されており、そ の調査は、宮内庁により全て拒絶されている。 曰く「個人の葬墓 である」とい うのがその理由だ。 しかし「個人の葬墓」といえば、エジプトの ピラミッドも王家の谷の遺跡も全て個人の葬墓である。 何故日本の王家の葬墓の調査のみが、 これほどかたくなに拒絶されるのだろうか? これは、「もし調査されれば、天皇家にとってあまり芳しくない事実が公表され るから」と、かんぐれないだろうか? 単に天皇家が大陸(半島)の出自である、というだけなら、これほど秘し隠さず ともよい。 この説はほぼ日本史上の定説となっているからである。 その「あまり芳しくない事実」とは? このあたりからは全く筆者個人の 憶測邪推のたぐいであるので、そのつもりで読んでいただきたい。(笑) では? 私の邪推妄説によれば、天皇家の出自は朝鮮半島のとある部族である。 2.3世紀の頃、、この人物は一族朗党と共に海を渡り、東方の未開の地を 目指す。 そして遅れた土人共(放送禁止用語!)を蹴散らし、その地の 覇権を握る。 彼らにとっては、はだしに入れ墨、鉄製の武器もろくに持っ ていない先住民族など、物の数に入らなかっただろう。 こうして出来上がったのが大和王朝である。 彼らは大陸の進んだ文明を先 住民族に教え、その上に君臨した。 こうして世界の最後進国は、先進国へ の第一歩を踏み出したのである。 この人物が日本へ渡った理由が、あまり芳しくないものであったことは、 確かであろう。 当時の日本は、上に書いた通り世界の僻地であり、 未開野蛮の土地であった。 そんな所へ、危険を冒して遙々海を渡り、 わざわざ住み着こうというのは、現在住んでいる所で厚遇されている人 物のすることとも思えない。 恐らくは、部族内での権力闘争に敗れたとか、他部族との抗争で住む 土地を追われたとかそのようなことであろうが、或いはもっと切迫した、 又は不名誉な事情があったのかも知れない。 勿論そのあたりの事情は 今現在知ることは不可能である。 もっとも、宮内庁の秘密主義は誰もが知る通りなので、これらの葬墓の調 査拒否は、単に天皇家の出自が半島にあるというだけの、案外単純な理由 かも知れないが・・・ ☆かくして狼は故郷を目指す なぜこれほど日本は朝鮮半島にこだわるのか? これは当然のことであろう。 日本の支配者であるこの部族にとっては、半島は故郷である。 失地の回復にこ だわるのは当然のこと。 よって国家創設後僅かにして半島へ出兵、失われた地 の奪還を試みる。 白村江の戦いに大敗しこれに失敗しても、その後故郷への夢 は長く生き続いて何度となく半島へ出兵し、ついに1910年朝鮮併合に到る。 父祖の地の回復はここになったのである。 |