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駅の階段を下ると横断歩道が目の前にあった。 俺はその横断歩道 を渡り、駅前の商店街へと続く道を歩き始めた。 ここはようやく二車線 が確保できる位の狭い道で、幅3メートル足らずの歩道が申し訳程度につい ている。 歩道にはびっしりと違法駐輪の自転車が並んでいるので、 歩行者が歩ける幅は実質的には1メートル強しかない。 いつかこの危険で邪魔っけなチャリンコ共を踏みつぶしてやるぞ、と呪い ながら、2.3分歩いた所で前方からチャリンコがやってきた。 いや、やってきたなんて穏やかなもんじゃない。 飛んできた、かきわけて きた、すりぬけてきた、突き飛ばしてきた、と言った方が適切だ。 スキーのスラロームよろしく歩行者の数センチ横をすりぬけ、積載量 オーバーのダンプカーみたいにお年寄りを威嚇し、 艦載ジェット戦闘機 が着艦する時位の猛速度でぶっとんでいた。 俺の目の前でお年寄りがそのチャリンコを避けようとして転倒したが、 チャリンコに乗った男は目もくれず、俺の腕をすれすれにかすめてすっ 飛んでいった。 俺はかっとなって振り返りざまその男に叫んだ。 「このドアホッ! なにをしやがるんだ!」 相手の反応も確かめず、すぐさまお年寄りの所へ駆けより助け起こした。 幸いにして怪我はなかったようで、お年寄りは礼を言って立ち去っていっ た。 振り返るとチャリンコはいつの間にか停止していた。 若い男が乗って いる。 はたちを出るか出ないか位の年頃だろうか、ガタイがでかく、爬 虫類みたいに無表情で非知性的な顔をしている。 色あせたジーンズに 白いシャツの裾を外に出した、お定まりの格好だった。 しかも眼が三白眼で、なんとも薄気味の悪い奴だ。 頭はガキのままなの に身体だけが大人になったという、当今よくあるタイプだ。 そいつ はいやらしい目つきでじっと俺のことを睨んでいた。 俺もそいつを睨み返した。 俺は多少だが喧嘩にも自信があり、こやつの 傍若無人な態度に腹を立てていたので、ここで殴り合いになってもいい、 という位の気分だった。 暫く俺達は無言で睨み合っていた。 その内に、いい歳をしてこんなガキと張り合っているのが馬鹿らしくなっ てきた。 「おい、こんな狭い道でそんなにぶっとばしたら危険だろうが。 少しは 他人のことも考えろ」 俺はそれだけ言うときびすを返して歩き始めた。 背後の若い男は無言の ままだった。 暫く歩くと商店街に入った。 いつもの総菜屋で夕食用の「愛の鮭フレー ク弁当ザンギ付」を買った。 北海道では唐揚げのことをザンギと言うそ うだ。 ついでにビールのつまみ用にと、「まりな100%小次郎味」というけったい な名前の、得体の知れないカンヅメも買った。 どんな味がするのかは食ったことがないのでわからないが、たまにはこう いうゲテモノもいいのでは、と思っただけのことだ。 特にこんなヘンな 名前のものが好物だというわけではない。 食い物をリュックサックにしまって振り返るとその男がいた。 あの暴走 チャリンコのガキだ。 チャリンコにまたがり、俺のことをじっといやな 目つきで見つめていた。 こやつも夕食を買いに来たのかと、一瞬俺は意外な気がした。 しかし 考えるまでもなく、誰だってメシは食うのだ。 取り立てて意外に思う ことでもない。 俺はそいつを一瞥しただけで総菜屋を離れた。 俺のアパートは商店街の外れから10分ほどの所にある。 2.3分歩いて 振り返ると、あのチャリンコが10メートル程後ろにいる。 こやつ俺を つけているのか。 それとも家が一緒の方角だというだけなのか・・・ 少し歩いて又振り返ってみた。 チャリンコ野郎は相変わらず10メー トル程後ろにいる。 ようやく俺も気づいた。 やはり俺をつけていた のだ。 「おい、俺に何か用か? 用があるんなら言って見ろ。 聞いてやるぜ」 若い男は無言のまま俺を睨んでいた。 三白眼の白い部分が更に大きく なり、眼全体が白目になったような感じで、実にいやらしい目つきだ。 流石に俺も薄気味悪くなった。 何か文句をつけてくるならまだしも、 一言も言わず押し黙ってただ睨むだけというのは、なんとも不気味だ。 俺は相手にしないことにした。 こんな変な奴にかかずらわっても ろくなことはないだろう。 無視するに限る。 俺は目線を逸らし、 歩き出した。 アパートの前まで来て振り返ると、奴はいなかった。 やれやれ、 さんざん嫌がらせをしたので、ようやくあ奴も気が済んだのかと一安 心、自分の部屋へ入った。 俺の部屋は今時珍しい木造二階建てのアパートの二階にある。 畳敷き の6畳一間に無理矢理くっつけたようなキッチン、狭苦しくろくに手足も 延ばせない風呂とトイレがついている。 家賃が安いだけが取り柄のア パートだが、なんといっても我が家は我が家である。 ここに帰ると なにがしか心が安らぐ。 俺はほっと一息ついて煙草に火を付け、リュックサックを下ろそうとし た。 その時けたたましい音と共にドアが吹っ飛び、何かが飛び込んできた。 そこにあったのは自転車だった。 仰天した俺は叫んだ。 「なんだなんだ! これはなんなんだ! なんで自転車がそこに あるんだ!」 叫んだ後で気がついた。 「自転車がそこにある」のではなく、「自転車が飛び込んできた」のだと。 それもあの三白眼男付きの自転車が。 「いったいなんのつもりだ、これは? どういうわけで俺の部屋に チャリンコで押し入るんだ?」 チャリンコにまたがった男は、仮面のような無表情のまま、相変わらず 無言で俺を睨んでいた。 俺の背中に冷たいものが流れ落ちた。 こいつはまともじゃない。 ど う見ても正常な精神状態の持ち主とは思えない。 一種のパラノイアか、 それとも病的な加虐趣味者か。 怒り狂って殴りかかってくる相手なら、応戦するなり謝るなり逃げるなり、 こちらもまだ対応のしようもある。 しかし、押し黙ってただ睨むだけ、 という相手にどう対応したらよいのか。 しかも、こいつは「ただ睨む」だけではない。 自転車ごと他人の家の ドアを押し破って飛び込んできたのだ。 小学生の女児を殺してその写真を親に送りつけたり、幼女を逆さ吊りに して血抜きをしたりする輩と同じレベルにある精神状態の持ち主だ。 それに気がつくと、舌と指が硬直しがくがくと膝が震えた。 俺はもつれる脚を叱咤激励して窓際にたどりついた。 窓枠にしがみつ き、ここから助けを呼ぼうかとも思ったが、どうやっても声が出なかっ た。 第一そんなことをしている間に、あいつに殺されてしまうかも知 れない。 俺は意を決して窓から飛び降りた。 俺ははだしのまま走った。 とにかくあいつから少しでも遠く離れたかっ た。 暫く必至で走り息を切らせながら振り返ってみた。 あのガキはいなかっ た。 俺はほっとして立ち止まり、荒い呼吸を整えた。 ここは駅裏の 路地のあたりだろう。 気がつくと食料の入ったリュックサックを背負ったままだった。 捨てよ うかとも考えたが、折角金を払って買った食い物だ、捨てるのは勿体ない と思い直した。 このあたりが俺のみみっちい所だ。 これだけ走り回れば、鮭フレークもザンギもシェークがよくかかって、 婚前一体式を挙げる時にゃ新郎妊婦、さぞやまったりとした美味になって いるだろう。 これが納豆だったらかき混ぜる手間が省けたのにな、と下ら ぬことを考えたりした。 さて、これからどうしよう。 アパートへ帰るのは怖い。 ドアを開けた 途端、いやドアは壊れているから、ドアをくぐった途端、あやつがチャリ ンコにまたがってじっと睨んでいたらと思うと、背筋が冷たくなる。 アパートへは当分帰らない方が無難だ。 会社はどうか。 しかし会社へ戻っても誰もいないだろうし、はだしの まま電車に乗るのも気が引ける。 後はもう思いつく所はない。 そうだ、警察へ行こう。 俺は思いついた。 警察へ行って事情を話し、 保護して貰えばいいのだ。 暴走チャリンコを逮捕して貰うことだつて できるだろう。 なんでこんな簡単なことに今まで気がつかなかったのだろうか。 やはり 動転していたのだ。 俺は一人で納得して駅前の交番に向かった。 交番は駅裏から踏切を渡り、四つ角を曲がった所にある。 小さな交番だ が、中年の警官が常駐している筈だ。 交番は記憶どおりの所にあった。 俺は「ごめんください」と声をかけて 中に入った。 中には警官がいて・・・ 警官はいなかった。 そこにいたのは・・・ あのチャリンコガキだった。 やつは今までと同様、チャリンコにまたがり 無言で白目をむいてじっと俺を睨んでいた。 俺は悲鳴を上げて逃げ出した。 何故警官の替わりにやつがいたのか、警官 はどうなったのか、という疑問は湧かなかった。 ただひたすら恐ろしく 怖かったのだ。 そんな疑問を抱く余裕すらなく、俺は走りに走った。 どの位走ったのか。 ついに息が続かなくなり、俺は立ち止まった。 ばくばくと心臓が波打っている。 犬のように舌を出し、はあはあと荒い 呼吸をしながら、ガードレールにもたれかかって息を整えた。 動悸がおさまると、疑問が湧いてきた。 あの交番にいた警官はどうなっ たんだ? それはあまり考えたくない疑問だった。 幸いあたりにやつはいないようだ。 それにしてもここはどこなのか。 自分の家の近くの筈なのに、土地勘さえ働かなくなってしまった。 俺は頭を抱えて蹲った。 これからどこへ行けばいいのだろう? 警察さえ頼りにならないのでは、 もう行く所はない。 俺はどうすればいいのだ? そうだ! 電車に乗って遠くに行こう。 遠くといっても四国や九州に迄 行く必要はないだろう。 小一時間も電車に乗れば、チャリンコでは追っ て来られない程度の距離は稼げる。 幸い財布はちゃんとポケットに入っ ている。 はだしだったが、この際そんなことにかまってはいられない。 とに かくあいつから遠ざかれればそれでいいのだ。 駅のある方と思われる 方角へと、俺はとぼとぼと力のない足取りで歩き始めた。 はだしの足の 裏が冷たく痛かった。 20分ほど歩くと駅が見えてきた。 なんと隣町の駅だった。 恐怖に 蹴りたい背中を蹴られながら走り回って、隣町まで来てしまったらしい。 まあいい。 どこであろうと駅は駅。 要は電車に乗れればそれでいいの だ。 待つほどもなく準急がやってきた。 終点の海沿いの町まで行く電車 だ。 この時間帯ならかなり混雑している筈なのに、乗客はまばらだった。 俺はほっとして席に座った。 時計を見て驚いた。 なんと9時近くになっている。 3時間近くも あやつから逃げ回っていた計算になる。 それに気がつくと急に腹が 減ってきた。 喉もからからだ。 3時間も走り回れば、喉も渇くし 腹も減る。 幸い逃げ回っている間にもリュックサックは捨てなかったらしく、俺の 背中にちゃんと収まっていた。 「愛の鮭フレーク弁当ザンギ付」も その中に鎮座している。 次の駅に停車した際、飛び降りて冷たいお茶と缶コーヒーを買った。 電車の中で弁当を食うのは若干気が引けるが、この際そんなことに かまってはいられない。 まずは腹の虫をなだめるのが先決問題だ。 幸い乗客は少ないので、それほど人目を引くこともあるまい。 再び席に座りおもむろに弁当を取り出す。 まずはお茶を飲み、 次に一口鮭フレークを口に入れる。 うまい・・・ どこまでが鮭フレークで、どこからがザンギなのか 目で見ては全く不明だが、腹に入ってしまえば全て同じこと。 要は 食えればそれでいいのだ。 終点の駅に到着したら、どこか安い宿にでも一泊しよう。 ビジネス ホテルなら数千円で泊まれる筈だ。 その位の金は持っている。 そ して明日自分の町に戻り、会社へ行けばいいのだ。 丸一日経てばあの気狂いチャリンコも諦めるだろう。 後は今までどおり の暮らしに戻れる。 俺は幸せな気分になって弁当から目線を上げた。 目の前にチャリンコ野郎がいた。 前と同じようにチャリンコにまたがり、 無表情な三白眼をむいて冷たく俺を睨んでいた。 俺は座席から飛び上がってリュックサックもろとも「愛の鮭フレーク弁 当ザンギ付」を投げつけた。 鮭フレークが愛情深く奴の顔にへばりつ き、奴の頭髪にザンギの花が咲いた。 リュックサックに入っていた「まりな100%小次郎味」カンヅメ・ノート・ ペン・牛乳の紙パックなどがザッピングして、奴と奴のチャリンコにふ りかかった。 まあ、まりなと小次郎ならザッピングするのも当然だが ・・・ それでも奴の仮面のような表情は全く変らず、一言の言葉も発しなかっ た。 ただひたすら奴は俺を睨み続けていた。 俺はわあわあと泣きながら電車の中を逃げ回った。 後ろを振り返る 都度、気狂いチャリンコは執念深くどこまでも俺の後をつけてきていた。 一言も発せずただじっと睨みながら・・・ 逃げる途中でふと思った。 奴はいったいどうやってチャリンコに乗っ たまま改札を通過できたのか。 当然駅員は制止した筈だ。 その駅員 はどうなったのか。 交番の警官も駅の駅員も、みんなどうなってしまったんだ? ・・・・・・ しかしもうそんなことはどうでもよかった。 俺の体力と気力は尽きて いた。 疲れ果てた俺は奴の前に土下座した。 「ゆるしてくれ、俺が悪かった。 なんでもする。 金もやる。 だか らもう勘弁してくれ」 奴の表情には全くなんの変化もなかった。 ただただ無言で俺を睨み 続けるのみ・・・ おいおいと泣きながら俺は又逃げ出した。 どの位逃げ回っていたのか、 電車はいつの間にか終点の駅に到着していた。 終点の駅は海の近くにあった。 俺は改札を通り抜け、夜の港町を走り に走った。 街には灯る明かりすらなく暗く静まりかえっていて、 俺の足音と呼吸の音だけが空しく響いた。 後ろを振り返ってあのチャリンコが追ってくるのかを確認することさえ せず、俺はただひたすら走り続けた。 いつの間にか町並みがとぎれて港に来ていた。 目の前の突堤の先には、黒く果てしのない大海原が拡がっている。 俺 はまっすぐにその海を目指して、ただ走り続けた。 |