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街角を曲がる都度、俺は何度も周囲をチェックした。 俺がこれから 行く所は、絶対に覚られてはいけない所だ。 もし万一あの場所を知 られたら、俺が捕まるだけではなく、他のメンバーにも生命の危機が 迫る。 ここだけはなんとしても、奴らに知られてはならないのだ。 昨日の光景を思い出すと、腹の底に冷たい塊が生れ身震いが起きてくる。 中年をやや過ぎたかと思われる身なりのいい紳士だった。 彼はゆったり とした足取りで歩いていた。 そこは盛り場とは言えないが、さりとて うら寂れた裏町というわけでもない。 まずはどこにでもある普通の街 角という所だった。 その紳士の脇に、一人の男が寄り添った。 一見ごく普通のおとなしそ うなサラリーマン風の男だった。 男は紳士に何事か話しかけた。 紳士は首を振って否定しているようだった。 男が紳士の腕に手をかけると、紳士はそれを振り払って走り出した。 男はその後を追い、紳士の行く手をふさぐように数名の男が現れた。 いずれも一見ごく普通の、特徴のないのが特徴という男達だった。 包囲された紳士はなにごとか叫んだ。 俺のいた位置からは若干の距離 があったし、俺自身も動転したいたので、全ては聞き取れなかったが、 およそこんな内容だったと思う。 「なぜあんたがたはほっといてくれないんだ! 私がやっていることは それほど悪いことなのか? 誰にだって一つや二つ・・・なことがある だろう? それが・・・ 」 紳士は内ポケットから何かを出した。 包囲した男達も同様に内ポケット から何かを出した。 そして銃声と硝煙・・・ 血に染まって崩れ落ちる 紳士の手に何かがあったが、それは拳銃ではなかった。 俺の近くでこの惨劇を見ていた学生風の若い男が呟いた。 「なにも殺さなくても良さそうなもんだよなあ。」 その連れの男が言う。 「だけどよお。 あれで捕まれば収容所送りだろ。 生きて出た奴は ないって噂だぜ。 なまじ収容所でじわじわといたぶられるよりは、 ひと思いに死んだ方がましじゃないのか。」 「だけど人を殺したわけじゃないぜ。 ただアレをやってたってだけ だろ。 問答無用で撃ち殺されるほどのことかねえ。」 やや高くなったその声に、一見サラリーマン風の男の一人が振り向い た。 鋭く冷たい眼、薄い唇、彼はもはやごく普通にもおとなしそうにも 見えなかった。 「お前達何か文句があるのか。 あるなら『所』で聞いてやろう。 一緒 に来い!」 「も、文句なんかありませんっ!」 「さ、さよなら」 学生風の男達は慌ててきびすを返し、宙を飛ぶように逃げていった。 サラリーマン風の男(というより『摘発員』とはっきり言った方が良いの のだろう)は、酷薄な冷笑を浮かべてそれを見送っていた。 この時代、『アレ』をやるということは、いつ何時この紳士のような最後 を遂げても良いというだけの覚悟がいる。 『摘発員』は物的証拠がなく とも被疑者を拘束して『摘発所』に連行できるし、摘発所での拘束と尋問 にも期限はない。 被疑者を拘束するのにも、摘発員が「その疑いがある」 と認めれば、それで通るのだ。 摘発所に連行された者が疑いは晴れた筈なのにいつまで経っても釈放され ず、そのまま収容所送りになったらしいという話などゴマンとある。 拘束される際に反抗すれば、この紳士のように射殺されることも希ではな い。 しかし、若い男が言っていたように、収容所に送られるよりはここでひと 思いに死んだ方が、まだましなのかも知れない。 全国に何カ所かある 収容所から釈放されたという人間を、一人として俺は知らないのだ。 その内部でどのようなことが行われているかも、単なるデマ、噂、風説の 類しか聞いたことはない。 とはいえ、漏れ聞かれるその噂は、血を凍ら せる程恐ろしいものばかりだった。 曰く「ガス室」、曰く「生体解剖室」、曰く「自分を埋める穴を掘らさ れる」等々。 まるでナチスのユダヤ人収容所か満州の731/1644 部隊だ。 今時そんなものが存在するとは信じられないような気もする が、収容所は現実に存在するし、俺の知人にもそこに送られた人物がいる。 一二年前のことだが、その後彼の消息は彼の家族にさえ全く不明である。 そして彼の家族さえも、周囲の冷たい視線に耐えられなくなったのか、 いつしか住み慣れた土地を離れていったと聞いている。 俺は長い物思いからさめて、慌てて周囲を見回した。 幸い周囲には怪し い人物はいないようだ。 この時代、うっかり物思いにふけるという行為 は、死に繋がる場合もある。 絶えず周囲に気を配り、警戒していなけれ ばならないのである。 特に俺のような立場にいる者は尚更のことだ。 俺は大きく息を吸った。 緊張の余りしばし息を止めていたのだ。 そしてゆっくりと歩き始めた。 あそこまではまだ少しの距離がある。 焦ってはいけない。 急いではいけない。 あからさまに周囲を伺う様子 を見せてはいけない。 胸を張って顔を上げ、落ち着いてゆっくりと歩く のだ。 摘発員がまず目を付けるのは、おどおどびくびくしている者、絶えず周囲 をうかがっている者、うつむいて小走りに歩く者などだと聞いている。 要は「私は世間をはばかる者です」という風に見えなければいいのだ。 そのように歩いていたつもりだった。 しかし他の人にはそのようには見 えなかったのだろう。 角を曲がった途端、後ろから俺は腕を掴まれた。 「ちと一緒に来て貰えるかな」 感情のこもらない乾いた声が耳元でささやいた。 俺にもこの日がついにきたのか・・・ 覚悟は出来ていたつもりだが、実 際にこの声を聞くと、膝ががくがくと震えるのが自分でもわかる。 立っ ていられるのが不思議な位だ。 視野狭窄というのか、真正面のごく狭い 角度しか眼には映らない。 深い洞窟の中から入口を見ているように・・・ 「来て貰えるかな」といっても、これは依頼でも質問でもない。 「いや です」と断れば、昨日の紳士のように銃で撃たれ、路面を朱に染めて倒れる のだろう。 といって、おとなしくついて行けば、このまま摘発所に連行され、そして 収容所行きとなることは、100%間違いない。 いくら「私はやって いない」と主張しても、摘発員に眼を付けられた時点で、俺の運命は定まっ ているのだ。 俺は思いきって振り返ってみた。 そこには無表情な冷たい仮面のような 顔の男がいた。 どこといって特徴のない、しかし人間的な暖かさはかけ ら程もない男だ。 このまま走って逃げるか。 或いはかなわぬまでもここで闘うか。 それ ともおとなしく一緒に行くか。 どの選択肢も全て死に直結している。 そして俺にはこの三つ以外の選択肢は存在しない・・・ 俺は覚悟を決めた。 こうなった以上どうせ死ぬのだ。 いや、摘発員に 腕をつかまれた時点で、既に俺は死んでいるのだ。 ならば何もしないで 収容所に送られるよりは、ここでこいつと差し違えて死んでやろう。 差し違えるといっても、武器もない俺に出来ることは限られている。 せ めてこやつののど笛に食らいついてやろう。 恐らくはその前に銃弾が俺 の身体を引き裂いているのだろうが・・・ 俺は摘発員の喉を目指して飛びつこうとした。 摘発員の手が内懐に入る のが見えた。 一瞬の逡巡もない、ひらめくような、実に素早い動きだっ た。 人間は死の瞬間に一生の間の全てを思い出すという。 俺の場合は、一生 と迄はいかないが、それでも充分色々なことが頭にひらめいた。 こやつ はこの素早い動きを随分沢山やってきたのだろうな。 こやつのおかげで 何人の人間が死んだのだろう。 こんなことになるのなら、もっとアレを やっておきたかった。 中でも一番強く思ったことは、もし生まれ変われるものなら、今度生まれ る時はもっと良い時代に生れたかったなあ、ということだつた。 せめて アレをやる位で問答無用で殺されたりしない時代に・・・ しかし銃弾の衝撃を感じることはなかった。 俺と摘発員の間に誰かが 割って入っていたのだ。 「まあまあ、ここはおだやかにおだやかに」 なんとも場違いな悠長な言葉とにこやかな笑顔。 それは俺の家のすぐ近 くに済む大原氏のものだった。 大原氏は確か公務員とか聞いていたが、 実におだやかで親切な人柄で誰からも好かれ、俺も懇意にしていたのだ。 それにしても摘発員の摘発を制止するとは・・・ なんという肝の据わっ た人だろうか。 問答無用で射殺されても文句は言えないのに・・・ 「あんた誰だ? 余計な口出しはやめてもらおう」 もの静かな口調がより凄みを感じさせる。 「いえ、いえね。 口出しなんかいたしませんよ。 ただ、何かの間違い だと思いましてね。」 「間違いかどうかは俺が決める。 なんならお前も一緒に所まで来るか」 「いえいえ、そんな・・・ ただ、この人はそんな大それたことをやる 人じゃありません。 この人は人畜無害完全無公害の見本みたいな人物 です。 それはこの私が保証いたします。」 摘発員は鼻で笑った。 「お前の保証などなんになる。 これ以上ごちゃごちゃいうなら、二人 共しょっぴいて行くまでだ。 さあ、一緒に来い!」 「あ、すいませんすいません。 お上に手向かうつもりなんかありませ ん。 ただ、この人の無実を保証したかっただけです。 あ、申し遅れ ましたが、私はこういう者です」 大原氏は優雅な動作で内ポケットから名刺を取り出し、摘発員に渡した。 名刺を見た途端、摘発員は眉をひそめた。 そして暫く無言のまま何事 かを考えている様子だった。 「まあしょうがない。 今回は見逃してやろう」 仏頂面でそれだけ言うと摘発員はきびすを返して去って行った。 俺は安堵の余りその場に蹲ってしまった。 助かったのだ。 そう思うと まるで身体の中から暖かい塊が湧いて出て、それがとろけて行くような気 分だった。 大原氏が手を添えて俺を立たせてくれた。 俺は未だ礼も言っていないこ とに気づき、丁重に礼を述べた。 そして、何故冷酷で鳴る摘発員が大原 氏の言葉で考えを変えたのかを尋ねてみた。 「いやあ、私は公務員の行動や費用を査定する部門に在籍していまして ね。 つまりはお役人も人の子ってわけですよ」 なるほど、そういうわけだったのか。 大原氏の仕事は財務省関係のもの らしい。 それも公務員の人件費の監査とか調査とかの部門なのだろう。 だから摘発員の給料もある程度はさじ加減できる、ということなのだろう。 あの摘発員も、ここで大原氏の口出しをむげに断れば、自分の懐に響く かも知れない、ということを考えて、俺を釈放したのだろう。 それにしても、あの瞬間に大原氏のような人物が近くにいてくれたとは、 信じられない程の幸運だ。 こんなことは一生に一度あるかなしのこと だろうが、それが今俺に起こったのだ。 これは奇跡としか言いようの ないことだ。 俺は神は信じないが、この時ばかりは神に祈りたい気分 だった。 「なになに、大したことじゃありませんよ。 それじゃまたお会いしま しょう」 大原氏はくどくどと礼を述べる俺を遮り、軽く手を振って去っていっ た。 まるで何事も起こらなかったように・・・ 艷福亭は目の前だった。 艷っぽい名前とは裏腹に、どこと言って特徴の ない、どちらかといえばうら寂れた喫茶店である。 もう一度周囲をチェックした上で、俺は中に入った。 そこそこの広さ の店内には客が数人、飲み物を飲みながら新聞など読んでいる。 その 中には顔なじみもいたが、挨拶をする者は誰もいなかった。 俺はいつ もの席に座り、ウインナーコーヒーを注文した。 顔なじみのウェートレスが運んできたコーヒーを飲みながら、客を観察 する。 顔なじみでない者もどうやら問題はなさそうだ。 俺は機を見 てトイレに立った。 この店はごくふつうの喫茶店「艷福亭」だ。 種も仕掛けもない、ただの 喫茶店だ。 しかし、トイレの隣の狭い清掃用具置場には種も仕掛けも ある。 その狭苦しい清掃用具置場に入ると、奥には小さなドアがある。 それを 開けるには、ICカード、網膜と掌紋のチェック、更には乱数表を用いた 日替わりの暗証番号と、三重のセキュリティを通る必要がある。 俺はそれらのセキュリティチェックをクリアした。 ドアが開くと狭い 階段が見える。 地下へ降りると、そこはスモークイージー、いわゆる『煙場』だった。 愛煙家のサンクチュアリ、最後の至聖所、カナンにも等しき安息の地。 これが「煙福亭」である。 一階の『艷福亭』は仮の姿、真の姿がこの 地下の『煙福亭』である。 度重なる手入れで数は次第に減ってはきたが、この手の煙場はまだかなり あるらしい。 とはいえ俺の知っている煙場はこの煙福亭だけだ。 俺はこの数年の迫害の日々を思いやった。 ヒステリックな嫌煙主義者が次第に勢力を得て、やがて「喫煙禁止法」が 制定された。 当初の刑罰は罰金刑程度だったが、狂的な嫌煙主義者達の 主張で次第に刑罰は重くなり、禁固刑から懲役刑、ついには喫煙者は「反 社会的喫煙者更生収容所」に収容されるようになった。 この長たらしい名称は、僅かの間に単に『収容所』という名称で呼ばれる ようになった。 日本には他にこの種の収容所はなかったからだ。 この収容所の冷酷さ無惨さは、一頃のハンセン病者収容所を遙かに上回り、 これに匹敵するものは第二次大戦中のアウシュビッツ位しかないだろう。 この収容所の目的は、表向きには「反社会的な喫煙者を更生させる」とい うものだが、ここに収容された人が出所したという話しは、一度たりとも 聞いたことがない。 入った人はいても出た人はいない。 行きて還らぬ 死出の旅・・・ 一説には、内部にガス室があり、収容者は煙草の煙のガスでいぶし殺される という。 もっとも、見てきたようにそう言う者も、実際に収容所に入って いたわけではないから、信憑性は余りないが・・・ そのようなやくたいもないデマでさえ、それを話す時には周りを見回して 「喫煙者摘発員」がいないことを確認した上で言うのである。 この「喫 煙者摘発員」も喫煙禁止法の一項で定められたもので、当初は喫煙者を密 告する為の民間人の組織だった。 喫煙禁止法制定以前にも、この手のお節介なオバハンはたんといたが、 その頃は別段喫煙が法律で禁止されていたわけでないので、法的拘束力 は全くなかった。 単に「煙草は喫煙者以外の人々にも、にも受動喫煙に よる害があります。 喫煙者たるあなたがたは、人類に対する加害者なの です」とか無茶苦茶なことをわめいているだけの、こうるさい存在に過ぎ なかった。 「アホ抜かせ。 煙草を吸って人類に対する加害者になるんなら、クルマ はどうなんだ。 クルマの排ガスの毒性は、煙草の比じゃありませんで。 クルマの排ガスを車内に引き込めば、あっという間に死んでしまうが、車 内で煙草を吸っても死ぬ人などいない。 それじゃ、クルマの運転者はみ んな人類に対する加害者か?」と、愛煙家は反論していたものだった。 ところがそれから数年、喫煙禁止法が制定されてしまい、状況はがらりと 変った。 この摘発員、当初は隠れて喫煙する人物を警察に通報する、というだけの 組織だったが、その権限も次第にエスカレートして、現在では喫煙者又は 喫煙をする恐れのある人物の拘束も出来るようになった。 この「喫煙をする恐れのある者」というのがくせもので、何も証拠がなく ても、摘発員が「喫煙をする恐れのある者」と認めれば、誰でも拘束 できるというのが実情だ。 今では、泣きわめく子供を叱る時に、「おとなしくしていないときつえん しゃてきはついんに連れていかれるぞ」と脅す程になった。 喫煙者達の中には、摘発を恐れて禁煙する者も多数いた。 しかし、筋金 入りの喫煙者は喫煙禁止法にもかかわらず、喫煙を続けた。 収容所の恐怖も喫煙者摘発員の陰険な目つきも、彼らの意志をくじけなかっ た。 とはいえ、公共の場は勿論自宅内でさえ、喫煙は重罪の時代である。 人目 につく場所での喫煙は不可能だ。 そのような行為は即収容所行きを意味す る。 入ったが最後、誰も出てきた者のいない収容所に・・・ こうして秘密裏に会員制の非合法喫煙所が生まれた。 彼らは1920年代アメリカの禁酒法時代、秘密裏に酒を飲ませる酒場「スピー クイージー」をもじった、「スモークイージー」という非合法喫煙所、いわ ゆる「煙場」に集うようになった。 煙福亭の中は十数人の先客がいた。 思い思いに椅子に座りくつろいで いた。 紫煙が漂い、芳ばしいヴァージニア葉の芳香が立ちこめている。 奥にはお定まりのカウンターがあり、バーテンの源さんがシェーカーを 振っている。 このあたりは普通の酒場と全く同じだ。 ただ、酒以外 に煙草を出す所は全く異なる。 ここの客達は皆強い連帯感を持っている。 それはそうだろう。 全員 が見つかればすなわち死に至るという、重罪を犯しているのだ。 連帯感 がない方が不思議だ。 もっとも、俺達には重罪を犯しているという意識 はないのだが・・・ ともあれ煙福亭はのどかだった。 俺は手近の椅子に座り、煙草に火を付 けて深々と吸い込んだ。 喉への軽い刺激と痺れるような陶酔感。 至福 の一時とは正にこのことだ。 隣の席の話し声が聞こえてくる。 「柴田さんも昨日やられたそうだよ」 「えっ! 柴田さんもやられたのか」 「ああ。 見事な最後だったそうだ。 射殺される直前に、摘発員に向 かって堂々と持論を叫んだそうだ。 それだけじゃない。 撃たれた直後 には、内ポケットに入れていた煙草を取り出して、摘発員に見せたという ことだ」 「それは凄い。 私にもその位の覚悟があればなあ・・・」 これは・・・ 俺が昨日目撃した紳士のことだ。 あの時手にしていたの は煙草だったのか。 確かに凄い。 筋金入りのスモーカーだ。 俺は席を立ち、隣席の二人の客に挨拶した。 二人共前に何度か見たこと のある人達だが、話を交わしたことはなかった。 「失礼します。 実は私、昨日その柴田さんという方の最後を目撃した者で す」 「えっ! あなた目撃されたのですか。 是非その時の様子を教えてくだ さい」 「さ、どうぞこちらへ」 俺は隣の席に移った。 そして俺の目撃した始終を語った。 二人共感無 量といった様子だった。 「そうでしたか・・・ 私らにはとてもまねの出来ないことです」 「柴田さんは肝が据わっていたからなあ・・・」 話はこのご時世のことに移り、慨嘆と郷愁の言葉が積み重なり、暫しの 時が流れていった。 「静かに!」 俺達は一斉にその声の方角を注視した。 バーテンの源さんの声だった。 「手入れかも知れない。 皆さん、ご用意を」 俺達は一斉に動いた。 ドアにテーブルをもたせかけ、つっかい棒にする 者、戸棚の銃を取り出す者、非常脱出口をチェックする者、それぞれが無 駄なく素早く無言で動いた。 このような事態に備えて、何度か演習をしていたのだ。 できるなら無用 のものであって欲しかった演習を。 その演習が役に立つ時は、俺達の人 生の最後の時なのだから。 やがて荒々しい足音がドアに向うから聞こえ、声がした。 「喫煙者摘発所の者だ。 ここを開けろ!」 「開けられるもんなら開けてみな」 誰かが叫んだ。 返事はアサルトライフルの一斉射撃だった。 こちらも一斉に発砲した。 室内は煙草の芳香の替わりに硝煙の臭いが充ち満ちた。 源さんが叫んだ。 「ここは私が食い止めます。 皆さんは非常口から脱出してください。 さあ、早くっ!」 非常口は外のマンホールへと続いているのだ。 緊急事態に備えての 避難路だった。 その声に客の一人が非常口のドアノブに手をかけた。 その瞬間ドア が爆発し、客は吹っ飛ばされた。 そして非常口の奥からはフルオート の乱射。 しまった! こちらにも手が回っていたのか・・・ 銃口をそちら に向けようとした瞬間、俺は胸に衝撃を感じた。 床がゆっくりと 近づいてくる。 俺は手近の椅子につかまり、辛うじて倒れるのを ふせいだ。 室内にはもう立っている者は誰もいないようだ。 それを見届けた瞬間 床が更に近づいた。 ドアが開き誰かが入ってきたようだ。 「監査官殿、全員制圧いたしました」 「うむご苦労。 ここはもう用もなさそうだな。 お前達全員引き上げ てよろしい」 この声は・・・ 「はっ! しかし、まだ危険があるのでは・・・」 「なに、もう手向かう気力のある奴などいないだろう。 現場検証は 警察がやってくれるし、俺達のすることはもうない。 さっさと行け」 まさか、あの人が・・・ 「はっ! では失礼します」 足音が去ってゆく。 そうか、そうだったのか・・・ やはり奇跡などこの世には存在しないの だ。 信じられない程の幸運などあるわけがない。 これは全てシナリオ 通りの進行だったのだ。 大原という人物は、恐らくは摘発所直轄の監査官、又はそれに似たような 機構の者だろう。 彼は俺に目を付け、泳がせていた。 だから他の摘発 所の摘発員が、俺をしょっぴこうとしたのは迷惑千万なことだった。 俺を張っていれば、後少しで新たなスモークイージーを発見できるのに、 ここで摘発されては元も子もない。 だから彼は俺を助けたのだ。 俺は お人好しにも大原に感謝し、そして煙福亭迄奴を連れてきてしまったのだ。 しかし、どうやってあのセキュリティをクリアしたのだろう? 足音が俺に近づいた。 「こやつのおかげでセキュリティも楽に突破できた。 あの時こいつに 解析器を貼り付けたとは、お釈迦様でも気がつくめえ。 道案内はして くれるは、セキュリティ解析はしてくれるは、お前はほんとに役に立っ てくれたよ。 もっとも、死んでしまってはいくら感謝されてもしょう がないだろうがな」 あの時・・・ 俺に手を貸して立たせてくれた時か・・・ 俺の軽率さ 故に、自分だけでなく同志達迄破滅に陥れてしまった。 今更謝ってす むことでもないが、もう全てが終わる。 だんだんあたりが暗くなって きた。 床の木目ももう見えない。 そしてかすかな金具の音と煙草の匂い。 微かに聞こえる遠い声。 「ふふ 一仕事終わった後の一服はこたえられんな。 これでここの煙草も全て俺のもの。 大分ストックが増えたな」 |