★妄説シリーズ★
邪馬台国はカノープスにあり! 魏志倭人伝の謎
邪馬台国の所在を巡る論争は、江戸時代の新井白石の頃から続いている。  現在では、畿内説と九州説が両横綱という所であるが、 未だ決着はついていない。

ところで、この魏志倭人伝の記述には、色々とおかしな、あえて言えば理屈に 合わない所が多々あるように思える。 例を挙げれば、「水行10日陸行1月」 というあたりである。 その前には「東南へ500里、伊都国に到る。」など 邪馬台国へ到る道のりが記述してあるが、1里を400メートルとして記述通 りに進むと、太平洋の真ん中で溺れ死んでてしまう。  方角か距離か、或いはその両方がおかしいのである。 

もっとも当時の1里が現在の400メートルにあたるということも、確定的と は言えないので、そもそも距離そのものがまるで当てにならないとも言える。

魏志倭人伝は三国志魏書東夷伝の中の一部を通称したものであるが、倭国の国 名や人名、風習などかなり詳細に書かれている。 これほど詳細に倭国を調べ たにしては、倭国へ至る距離と方角がいい加減過ぎないか? 

なお、この三国志は、おなじみの「三国志通俗演義」とはなんの関係もない。  三国志は、3世紀における魏蜀呉の三国鼎立時代の史書であり、三国志演義は 明の時代に羅漢中によって書かれた、史実に潤色を加えたフィクション、小説 である。

以下これまた筆者の邪説にすぎないのでそのつもりで。(^^;

この魏志倭人伝の作者陳寿は、直接倭国へ調査旅行したわけではあるまい。 恐ら くは又聞きのその又又聞きというところであろう。  宴席のゲームに、多数並 んだ人々に、ある話しを隣の人に耳打ちさせ、次々と中継させると、最後の人 が語る話しは、最初のものとはまるで異なる、とんでもないものになっている、 というものがある。 

まして、当時は訪れる人も希な僻地蛮地の倭国のことである。 239年(魏の景 初3)から247年(正始8)まで、魏と倭国との間で通交はあったということは、三 国志にも書かれているが、直接倭国におもむき踏査した者がそれ程多数であっ たとも思えない。 その数少ない実地踏査をした者から伝え聞いた話しが、 魏志倭人伝の作者に届くまでには、「いろはにほへと」が「ABCD XYZ」位に変化していても不思議はあるまい。

しかも、魏志倭人伝の原本は散逸して残されておらず、現在の研究は数種の写 本によって行われているが、写本ごとにかなりの違いがあり、この違いの解釈 も又論争の種である。 更に前述のごとく、1里の距離も、435メートル説 あり、85−90メートルの短里説あり、様々である。 方角にしても、全て の方角が65度偏向しているという説あり、箇所によって(恣意的)に東を南 とする説あり、もうシッチャカメッチャカという状態だ。

魏志倭人伝(三国志)の作者は陳寿という人物だが、勿論この陳寿が実際に倭 国へ渡って魏志倭人伝を書いたわけではない。 又、「ならびに詔をもたらし て金帛、錦けい、刀、鏡、采物を賜う。」、「今汝をもって親魏倭王となし、 金印紫綬をかし」のくだりの魏使・梯儁の一行が、距離方角を記したのでもあ るまい。

倭国への行程の描写は、狗邪韓国(釜山〜金海付近)、対馬国あたりまでと、 その後とはかなり異なる。 陳寿にこの行程を語った人物は、恐らくは狗邪 韓国(釜山〜金海付近)、対馬国あたり迄は実際に行ったことはあるが、そ の先の倭国には行ったことはないように思えるのだ。 

倭国についての情報は、この人物が倭 人に聞いたものの、又聞き情報としか考えられない。 これが狗邪韓国(釜山〜 金海付近)、対馬国あたり迄は1里400メートルのスケールで、その後の倭 国の部分は1里80−90メートルの短里である、という説も出る所以である。


方角と距離がこれ程妖しげな情報をMSに、いや元にするなら、私なら 邪馬台国はカノープス(南極星)の彼方にあると証明して見せる 。(^^;

以下魏志倭人伝の行程を元にして、カノープスへの行き方を語る。

狗邪韓国から1、000余里の海を渡り対馬国に到着。対馬島の大きさは 推定で方400余里、人口は1、000余戸。 (この辺はそのまま)

対馬国から南へ1、000余里の海を渡り壱岐国に到着。壱岐島の大きさは推 定で方300里、人口は約3、000戸。

(これは「壱岐国」ではなく、「行き着く」の意である。 また「対馬から南 へ」は、「対馬から南へ向かって空に昇ると銀河鉄道に行き着く」の意である。)

壱岐国から1、000余里の海を渡り末盧国(佐賀県唐津市付近)に到着。人 口は4、 000余戸。  (この「海」は、勿論「星の海」である。 つまりは、どんどんどんどんと蘆 の末まで星の海を渡って進む、ということ。)

南へ水行20日で投馬国に至る。人口は推定50、000余戸。 (更に南を目指して星の海を20日も航海するのだ。 投馬よ、いや違った、飛 雄馬よ、お前は夜空に輝くあの星になるのだ・・・)

南へ水行10日・陸行1月で、女王の都の邪馬台国に至る。 (こうしてたどり着いたカノープス星に降り立ち、更に歩いて1月、ようやく 女王の国にたどりついた。 疲れた・・・)

というわけで、邪馬台国の位置は、カノープス星の彼方にあります。(^^;


このように、魏志倭人伝の細部、特に日数や距離などの数値は、 ほとんど信用できないと考えた方がいいのではあるまいか?  つまりこの魏志倭人伝の記述によって邪馬台国の所在地を比定す ることは、そもそも無理があるのである。

勿論全てがいい加減というわけではなく、倭国の風習や生活ぶりについては、 ある程度この書を信ずることができるだろう。 そのような事柄については、 例え伝聞であっても、ある程度の内容は確実に伝わるであろうからである。  又これらの事柄は、伝聞の間に多少の変化はあっても、ある程度の情報は得ら れるものだ。

しかし、数値や方角のような事柄は、伝聞に伝聞を重ねる間に著しく変化し、 場合によっては正反対になったり倍の数値になったりしてしまうことも、間々 あるのではないか? 風習などと異なり、方角日数が変化してしまったら、特 定の場所を比定するための情報としては、一文の価値もない。 このような理 由で、魏志倭人伝の記述による邪馬台国の地理的比定は、ほとんど不可能と思 える。

ここで又々魏志倭人伝の謎をもうひとつ。 上に書いたように、この書では 倭国の風土風習が具体的に記述されているが、その中には、いや、 中にはというよりその相当の部分が、我々の知る日本の風土とはかなりかけ 離れた描写をされている。

曰くその1、 4千戸あまりが山や海岸にそってあり、草木は生い茂って前を行く人が見え ないほどだ。 魚や鮑を好んで捕るが、深い浅いにかかわらず水に潜って 取る。

曰くその2、 男子は大小となく(「大人も子供も」の意、但し、「身分の上下を問わ ず」、という解釈もある)皆が黥面文身(黥面は顔に入れ墨、 文身は身体に入れ墨)をし(略) 倭の人々は好んで潜水して魚や蛤 を捕らえる。

曰くその3、 倭の地は温暖で夏も冬も野菜を食し、皆はだしである。(略)  朱丹でその身体を塗るのは中国で粉を用いるのに似ている。  飲食には手づかみである。

その1は末盧国(北九州の松浦半島付近と想定される)の、その2と3は 邪馬台国についての描写だが、なにか違和感を感じないだろうか? 

まず「黥面文身」だが、もしこの頃の日本が中国と往来があり、かの地 から日本へ相当数の移住者があったとすると、おかしなことになる。  昔も現在も、中国では入れ墨を嫌うことは周知の事実である。 これは 犯罪者に入れ墨をするという刑罰があったからであろう。 朝鮮半島 でも、中国の影響により入れ墨は好まれなかった筈だ。

となると、邪馬台国の人々は、少なくとも中国や朝鮮半島から 直接渡ってきたのではない、ということになる。 九州は、古来東シナ 海経由で中国と往来があったことを考えると、奇妙なことではある。

更に、北九州と言えば、緯度的には東京都と殆ど同じで、気候的にも似 たようなものだ。 邪馬台国が畿内にあったとしても、やはり標準的な 日本の気候の筈である。 なのに、「年中海に潜る」とか「温暖で半裸」 とか、「前を行く者が見えないほど草木が茂っている」とか、日本の 風土とはかなりずれがあるように思える描写が多い。

これらの描写から思い浮かぶ地域といえば、南方、それもミクロネシア などのネシア地域である。 こちらの人々は入れ墨をするし、ジャング ルでは草木も大いに繁茂している。 当然海にもよく潜るし、身体に 塗料(朱丹)を塗るという風習もあったようだ。

更に魏志倭人伝には、 女王国の東に海を渡ると(略)また侏儒国がその南にあり、身長は3.4尺 で、女王から4千余里の所である。  また裸国・黒歯国がその東南にあり船で行くと1年ほどで到着する。  海の中の島に点在し、周囲は5千余里ほどである。

ともある。 この辺になると、どう見ても日本のものとは考えられない。  これはフィリピンとかインドネシアあたりの、東南アジアのこととしか 考えられない。

このように、魏志倭人伝の内容は、倭国(北九州又は畿内)とそれ以外 の国、地方とがゴッチャになっており、全てを鵜呑みにすることはで きない。 このあたりが、邪馬台国阿蘇説や沖縄説、上総説が出てく る所以だろう。 

阿蘇や沖縄などで驚いてはいけない。 邪馬台国の所在についての 説は、文字通り山ほどあり、東北説やら四国説、凄い所になると ハワイ説やインドネシア説まである。 この辺になると、 「トンデモ説」の範疇に入る資格が充分にある。(笑)

邪馬台国に関しての、史上最強痴情最狂のトンデモ説 は、なんと言ってもあのキムタクさん、いやキムタカさんの説 だろう。 これについ ては、又別に書きたいと思うのでここでは省略するが、一読驚嘆驚愕 卒倒腹上死間違いなしの豪説猛説究極の妄説である。

ついでに書けば、このキムタカさんの説(新史学)をパクリ、自説の 根底に据えたのが、竹内巨麿の偽書竹内文書 であると、私は邪推している。 

超古代には、全ての点で日本が世界の中心であったという基本的観念 がそっくりさんだし、 時代的にも、新史学は明治末期に発表され、竹内文書は大正末期から 昭和10年頃にかけて逐次「発見、発表」され(たことになっ)ている。  十数年という、読みこなして自説に取り入れるには、丁度手頃な時間が かかっているのである。

なお、この竹内文書については、半村良も傑作「黄金伝説」のネタ本 のひとつとしている。


邪馬台国の所在地については、確かな物的証拠、つまり「ならびに詔を もたらして金帛、錦けい、刀、鏡、采物を賜う。」の卑弥呼の銅鏡10 0枚や5尺刀2口など、或いは「今汝をもって親魏倭王となし、金印紫綬 をかし」の国璽などが発見された場所が、すなわち邪馬台国ということ になるのだろう。 それらは、恐らくは卑弥呼の墓に眠っている・・・

この卑弥呼の金印は、1784年(天明4)2月23日,博多湾志賀島で百姓甚兵衛が水 田の溝で発見したものとは異なるようで、こちらは《後漢書》にみえる光武帝 が建武中元2年(57),倭奴国王に贈ったとされる金印である。 つまり、この 頃から九州と大陸の間には、往来があったということである。

又近年大量に発見されている三角縁神獣鏡は、この卑弥呼の銅鏡と同一 のものとする説と、中国本土では発見されていないことから、全く別のもので あるという説と両説あり、判断に苦しむ所である。 中国で発見されていない ということは、或いは「輸出専用」に作られたということかもしれないし、又 は卑弥呼の銅鏡とは全く無関係のものということかも知れない。

−了−



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