| CYBEROFFICE NEKADO 根角行政書士事務所 |
| 34-4-202. 3-Cyome. Yagi. Asaminami-ku. Hiroshima-city. Japan. |
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| 私の主張 pretension |
| 【高度情報通信社会】 【 ビッグバン】 【 地方分権・規制緩和】 |
| 【 アジアの世紀】 【 グローバルスタンダード】 |
| <借金時計> |
| 0015 ◆<あるMLでの憲法論議より>民主主義における議論・討論のあり方について 02/5/23 |
| 0014 ■同時多発テロ対策・支援策について |
| 0013 ■21世紀の課題、『感想と意見』根角香織 =全交連MLより= |
| 0012 ■最近の少年犯罪対策としての少年法改悪反対の立場から =全青連MLより= |
| 0011 ■首相の『天皇中心の神の国』という神道発言について 00/5/16 |
| 0010 ■国歌・国旗法成立に関して。教育についてど素人の私が不思議に思うこと。 99/8/10 |
| 同時多発テロ対策・支援策について |
| 今回の同時多発テロに対するアメリカを中心とした世界中の関係各国の対応は、自由と民主主義を守る戦いとは言いながら、その多くの先進諸国においては法治主義(思想)の大切さが見逃されていると思います。 換言すれば、戦争犯罪及びテロリズム(暴力主義)に対する国際刑事司法システム(国際刑事裁判システム)が確立していないまま、またその論議が尽くされないまま当時国をはじめ、その同盟国や友好国の思惑だけで処理されようとしています。 これでは何時まで経っても一人二役の裁判官と検察官に加えて糾問主義に偏った陪審員のみが被告を裁くだけのようなことであり、さらには弁護人制度(弁護権)も認めないまま当事国以外の国までもが裁判抜きでの刑の執行を是認するという流れになっているように思えます。(犯人の罪状が極刑に値することとは別次元の問題) このような状況は、これまでの過去の国際紛争処理の解決手法と変わるところはなく、依然として何のデュープロセスをも踏まない危険な状態であると言わざるを得ません。(仮に国連が冤罪は招かないという決議をしても、そのような過信では済まされない問題であるとおもいます。) もっともテロにより被害を蒙った当事国は正当防衛として反撃する権利があるということかも知れないが、その当事国に対するわが国の支援策などは、仇討ちのためだけの加勢のようなことにならなければと思うのです。 目下、小泉総理は憲法問題を憲法問題とせず、”憲法の枠内で”と言いながら、特別立法ないし時限立法だけで、ことに対処しようとしていうように見受けられますが、これが法解釈によっては、どうでもなるという憲法であったり、つまり、総理をはじめ内閣や国会だけの解釈(実際には各法制局)が正しいというのが、有権解釈(公権解釈)であるとするならば、一歩間違えば国は国を守るべき法(法治主義)によって滅びることになるかも知れないのである。 (自衛隊派遣のあり方によっては憲法問題として処理する必要あり、そのためには国民投票法などの制定をはじめ、先に解決することがあり、また国民には正しい判断に必要な熟慮期間が与えられなければならない。) 仮に、そのようなことであればあの過去の忌まわしい歴史にまして皮肉なことになりはしないであろうか。 この調子では、小泉さんの行動はスタンドプレーの連続であり、それは危険極まりない”調子”の良いだけのことだけで済めば良いのだが、それが場合によっては、”はずみ”としては、いずれは取り返しのつかない最悪の事態を招くことかも知れないのである。 この際、本来の小泉さんらしく、変人と言われても良いから、感情の高まりを押さえて、今一度冷静さを取り戻して欲しいものである。 平成13年10月1日 広島 根角香織 |
| 21世紀の課題、『感想と意見』根角香織 =全交連MLより= |
| 世界はどうなる? 今世紀以降も人類は生き長らえることができるか!? |
| 皆さん、新年を迎え、おめでとうございます。 多くの方から年賀状を頂き、ありがとうございました。今年からは年賀状を廃止すべきとは思いながらも、皆様への返戻のため名簿や挨拶文の準備をしているところです。 ところが、挨拶文が纏まらず、未だに思案するばかりといったところです。 以下は新世紀を迎えた際の感想や意見です。 【新しい民主主義のモデルとは? 社会制度の再構築、それは既存制度の破壊に始まる?】 新世紀は永劫回帰の一プロセス(地球史が一巡する過程)としては、一体全体どの時期に当てはまるのであろうか? 今世紀は歴史的再生の世紀になるか? なるとすれば、21世紀は再生紀の始まりでもある。 それは蘇生のための新たなる破砕=フラクタル(fractal=fracture)造りによりなされることなのかも? とすれば、破壊されるべき集団(人類社会)の形は新たなる(細胞)分裂により再生されるだろう。それが21世紀なのかも知れない。 20世紀の終わり頃、新たなる創造のための破壊が始まったとすれば、人々は個の確立を目指し、閉じ込められた鋳型社会から脱出し始めたことになる。 それは、あたかも軍団が解散するときの様に似て、古い社会のモデルや秩序から解き放たれ、それぞれが平和な新世界創りのため、新天地開拓へ向け旅立つかのように。 これからは異なる国や民族同士が、新たなる調和のための形を求めて、そして、互いが異なる生き方や種の存在を認め合い、育み合い、互いが求め合い、誘引し合わねばならないだろう。 【一方、今後の科学の発達と人類の行く末は? 科学(の発達)は危険と隣り合わせするような側面があることの反省点に立ち。】 そして、科学のあり方としては、遅くとも21世紀の中頃までには、この地上世界においても、森羅万象生きとし生ける物、すべてが織り成す美しい自然環境が再現されるようなことでなければならない。 さもなくば、如何なる科学の発達を持ってしても、人類がこれまで以上の生存能力を高めることにはならないのではあるまいか? これまでのような地球環境の破壊と引き換えに歩んで来た人類繁栄の歴史を繰り返すことは、ある意味では戦争による殺戮と同様の結果になりはしまいか? 互いが生存競争のため、互いが生き延びるためだけの手段では、それは現状をさらに悪化させることになるかも?このままでは、そして、いずれは人類全体が悲惨な運命を辿ることになるかも知れないのである。 このことは、霊長類の頂点にある人類の運命としては、あまりにも愚かなことであり、皮肉な末路を迎えることになりはしないかということでもある。 恐竜やマンモスでさえ、自然の力が働く(見えざる神の手による)までは、その生命をまっとうしたのである。 人類のみが自然を破壊し、自らの手で、その終焉の時期を早めるとすれば、それは地上の楽園を地獄と化すようなことではあるまいか?そのことは死後においても子孫を思う心とは裏腹に、その魂を悪魔に売り渡すことのような気がしてならないのである。 そして、その後、人々は無間地獄を永遠に彷徨うようなことになりはしないだろうか。 斯くして21世紀のあり方を考える時、もはや国同士がただ需要を満たすため、そして、そのためだけを重視した経済的発展を目指すことは許されないことかも、今世紀においても、これまでのような手段で国や集団ごとの繁栄を競い続けるなら、今となっては狭くなりすぎた地球が、さらに狭くなるに違いない。 また現実世界では病気が蔓延したり、食料不足で餓死したりしている国も後を絶たないが、一方では富める国ほど様々な危機に直面していることもある。その深刻さは人々の生き甲斐感喪失による自殺者や切れる若者や老人が多いことでも明らかである。 また、そうでない人達にとっても環境面においては、その息苦しさは増す一方である。環境の悪化は目に見えないレベルで確実に進行し続けている。今まさに、それはかつてないほど最悪の状況を呈しているのである。 とりわけ、我が国における生活住環境悪化の背景としては、産業廃棄物が齎す汚水による地下水の汚染や、排気ガスなどによる酸性雨など、有害雨現象も引き起こされており、また有害エネルギー物質から生ずる超微粒残存物の地中、大気中への蓄積が激しく、そして、そのことによる食物連鎖による各種科学物質の体内蓄積なども進んでおり、さらにはダイオキシン等をはじめ、夥しい種類の環境ホルン拡散による自然界の動植物や人体に異変が生じているなど、それは親から子へと、個人レベルでは生まれながらにして、避け難い状況にあり、誰もが好むと好まざるとを問わず、否応なしに日常生活を通じて自らが蝕んでいる状態なのである。 このような図式こそ、人類が科学によって滅びるプロセスなのかも知れない。それは、見方によっては、これまでの科学の恩恵の代償なのかも知れないのである。そして、それは、また見えざる神の領域を侵したことの結果であるかも知れないのである。 これまで人類が求めてきた繁栄の手段の多くは科学によるところが多かった。その多くが戦争の道具を開発することに始まり、そして、やがては平和利用という形で人々に豊かなる物質文明を齎したが、否、齎すかのように見えたのだが、これから先、その行く末には何が待ち受けているのであろうか? これまでの社会の進歩の度合いや、現下の国情などを振り返れば、政府や政治家だけに依存するだけでは、あまりにも頼りないだけに、このままでは、今世紀においてもなお人々の不安は日増しに募ることになりはしないでしょうか。 【見えざる神の手は何をしようとしているのだろうか?】 ヒトゲノム情報解析の完了を間近に控え、某国はこの情報の独占化を図ろうとしています。このことは人類の共有財産の独占というよりも、一国の政府や一企業が見えざる神の手を操ろうとする企てに似て、見方によっては人類に恐ろしい予感を与えるものであると思います。 近未来においては、人はDNA改良技術によって様々な難病をも克服し、長寿を得るかも知れません。また、世界はDNA組替え技術により食料を増産することができるようになり、それで人口爆発に対処できるようになるかも知れません。 だが、しかし、それによって人の心はどのように変化するのでしょうか? そして、生と死の関係、生命のサイクルに異変は起きないのだろうか?ということの疑問もあり、これらのことは21世紀における人類共通の問題として大変な論議になるでしょう。 何の異変も起きないとすれば、人間が神と一体となるということなのでしょうか?あるいは人間自身が神のような存在となるということにもなるのでしょうか? そして、またその人間の手によって生命の起源や、いずれは、そのために宇宙が造られたのではという軌跡が明きらかになるとすれば、その創り手の意味や意思はどのように解釈され、定義づけされることになるのであろうか? 仮に人や動物や植物など、生きとし生ける物すべての起源が明らかになる時、そして人間が(地上の)万物を再生したりする時、人は未来に向かって何を予感し、その先は何を求めるのでありましょうか? 果たして、科学万能時代の先には何があるのでしょうか。その行く末に待ち受けているのものとは? 人は科学を通して無限なる宇宙の営みを探ろとしていますが、それは人間自身が造った宗教のように、誰かが仕組んだ永劫回帰の一パターンであると推測していたからのことなのでしょうか? もしかして、見えざる手が見えて来ることは、パンドラの箱を開けるのに似て、取り返しのつかないことにならねば良いのだが。 あるいは、またそれが最終局面としての人間世界の終焉を告げる出来事にならねば良いのだが。それは新しい地球再生の引き金ともなりかねず、その創造も破壊から始まることであるとするなら、人間のみが、その破壊の対象外とは言えないということではなかろうか? いずれにしても21世紀には、人類は、ヒトゲノム情報やデジタル技術を応用、駆使することにより、これまではSF(空想科学)として描いているに過ぎなかった世界をより急速に現実化して行くに違いない。 そのためには、今から未来社会のリスクコントロールのための準備や、そのための制度の構築を急ぐ必要があるのだが、又、そのためには如何なるモラトリアム(現状安定化策だけのための重要政策延期措置)をも許されないということを改めて痛感するのであるが、現実はその時の結果によってのみ知らされるのかも知れない。 そのことの予測とは裏腹に21世紀突入と同時に人々の期待は科学万能時代に向けられ過ぎていると思うのは私だけのことであろうか? 2001年1月4日 根角香織 |
| 最近の少年犯罪対策としての少年法改悪反対の立場から =全青連MLより= |
| 『大人の社会が良くなれば、政治家がまともな人間になれば少年達も良くなる!』 |
| 上坂さん、根角香織です。久しぶりのレス&コメントです。 清宮さん、山本さんもご苦労様です。 少年犯罪の増加、凶悪化に関しては様々な原因や背景があるのでしょうか。 このことに関しては私も上坂さんと略同様な考えを致しておりますが、 このことは > 2000年4月19日 11:12[zenseiren:01926] Re: 行政罰についてのメッセージで述べさせて頂きました。 かつて我々の先祖は理想の国民であると言われたこともあります。 多くの方が歴史書などを紐解き、語り継いでいることではありますが、今から遡ること450年ほど前のこと、布教のため来日した、かのイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは、時を同じくして、インドのゴアにて布教活動をしていた会友に当てた手紙の中で、当時の日本人について次のように語っています。 「この国の民は、私がこれまで遭遇した国民のなかでは、一番傑出している」と、つまり他国の人より飛びぬけて優れていると、 また、「日本人は大変貧乏である。・・・しかし、貧乏を恥辱だと思っていない」と、 さらに、「日本人は賭博は大いなる不名誉と考えているから、一切しない。何故かと言えば、賭博は自分の物でないものを望み、次には盗人になる危険があるからである」「彼等は盗みの悪を、非常に憎んでいる。大変心の善い国民で、交わりかつ学ぶことを好む」・・・・と、 このことを要約、換言すれば、当時の日本人は、ずいぶんと善良で優れており、名誉を重んじ、貧乏を恥じず、盗みもせず、学ぶことも好きな理想的な国民であったということになります。 それが現代では、このことが、まるで嘘のことのようであり、それだけに、当時の日本人が如何に素晴らしい国民であったかと思うと、同族子孫としては、想像にせよ、誰もが昔は良き時代であったことを信じるでしょう。 近代国家の実現に関しては明治以降になり、本格的に日本人が海外に交わり学んで来たということでは、それもその後は長きにわたり、まさにザビエルが言ったとおりの国民であったかのように思えます。 問題はその後の日本社会です。文明開化と言われる時代には富国強兵、日清日露の開戦は勝利したとは言え、世界経済の中では疲弊し続けてきた日本国は、ついにあの大戦で主権国家としては完全に崩壊し、その後は他国の管理や援助により復興を遂げたかに見えました。 そして、形上は(国際法上は)国家としての主権をも回復するに至り、また経済大国と言われるまでになりながらも、その実は、政治家をはじめこの国の人々の多くは、それまでは一環して長きに亘り、何かしら一生懸命求めようとしていたものがありましたが、それも希望としては得ることができたであろうに、何時の間にか、その大切なものを捨て去ったかのように、今日の時代まで迷走し続けているのです。 明治、大正の指導者層のことはともかく、戦後においては昔のような純粋なる立身出世主義も廃り、影も形もなくなり、その代わりに規制と権威主義の中、その影響により「悪しき平等主義」が定着、「真のエリート教育」などの理想は無視され、何時の間にか忘れ去られ、 (*真のエリート教育とは学年など同条件下における競争だけではなく(飛び級のなどのこと)、また上から下への伝授のみでなく、また年功序列だけではなく、生涯教育を通じて、などの意です。) 彼等は新幹線とも言われる昇進速度で権力の座につき、何ら奥深い、妙なる人間社会における試練を経る事もなく、知恵を絞ることなく、知識のみにより、自らの判断のみにて国を操っており、また、そのことに慢心し、それが、国民には、従順に成らしめるように、お上と言う意識を持たせながら、そして、親が子供に対するように、同様にそれが国民のためと思っているのですから、(一方では甘える国民にした) 何時の時点から、このようなことが当たり前になったのかが問われなければなりません。そしてその時点では何がそうさせたのかをはっきりと知る必要があります。 人によっては、このような示唆は思想教育やその背景となる国是としての教育方針などと結びつけ考えることでもありましょうが、 私の考え方としては、(どちらかと言えば、持論と言いたいのですが)日本における教養の流れをなす現代の文化や人々の理想と言われるものには、教養があり富める者でも低俗な生き方をし易く、教養なく富めることもない者は社会を恨み易く、 実は、それぞれの教養の源である文化や理想自体が怪しくなっており、それ自体が、本来人間が求めて止まない真の理想とは言いがたい、なにかに置き換えられつつあるようにも思えるのです。 思うに現代人は昔のように古代からの偉人、賢人に学ばなくなりました。多くの人はそうでないと言うかも知れませんが、 しかし、学んでもそれは知識としてしか学んでいないのでは、それでは、人を負かすためだけのものであり、自分のためではなく、単に人に見せるだけの教養の手段だけのために学んでいるに過ぎないかも知れないのです。(教わる方は、その知識から正しい心まで学ぶことができれば、それでも良いのですが) このことに関しては、何か関連で思い起こすことがあります。それは日本人は実に器用で西洋から学んだことは必ず実践においても成功させることの意?から、動物では人間に一番近くて利口な猿に喩えられ、(皮肉を込めた意味合いからも)西洋からは「猿の物まね」と言われることもありました。 これは換言すれば、その心は解らなくても(真似できなくても)形だけ(格好だけ)は真似できるということかも知れません。 心を学ぶには形からでも学ぶことが大切ですが、やはり、形だけではどうにもなりません。 子供達に関しては、そのことが子供達にもわかるように、十分理解できるように、子供達にとって大人社会が信頼できるように、先ずは我々大人が真に大人と言えるような心を持たなければなりません。 現代の子供達は今更、親や教育者、そして政治家などが、たとえ子供は国の宝、社会の宝などと言っても・・・ 親や教育者、政治家などが、自らの襟を正さずして、また大人達が、内輪の不正を隠し、外だけには立派なことを言っても、何ら信用されないばかりか、子供達にとっては、その成長段階においては、ますます混乱を来たすだけのことでありましょう。 このようなことから、先ずは大人が弊害ある社会システムを是正するためにも、自らが立ち上がらなくてはなりません。 そのためには政治家が先だ、官僚が先だ、教育者が先だ、などということでもありません。だれであろうが、心ある者が一人でも多く、そして、先ずは人の親として子を育てる者から気付き、自らの知恵と努力で立ち向かうよう、、また他に対しては啓蒙が必要であると思うのです。 私たち行政書士という立場でも、何でも良いから、できることがありましたら始めましょう。 と、いうことで、まだまだ、書き足りませんが、途中で終わります。読み方によっては大変暗い話になりましたが、 それでは、この辺りで失礼致します。 平成12年6月2日 根角香織 |
| 首相の『天皇中心の神の国』という神道発言について |
| 首相の発言は暴走気味であり、またそれは忌わしい過去の歴史を賛美し、懐かしむようでもあり、歴史は繰り返すということの兆候なのか? 彼の政治的発言からは政策らいし政策はこれまで見えてこないが、だからと言って決して調整役だけの人物とは言いがたいと思うのは考えすぎであろうか? 思うに神道に惑わされ、多くの肉親の不幸を嘆き、その忌わしい戦争に糧を求めた歴史に懲り懲りした国民は、それを批判しながらも、今なお、心の奥底では神道に畏怖し、迷信などを信じ、恐れ、また困難な時代にあっては強いリーダーシップやカリスマに頼るという不安定な状態があるからだろうか? それとも首相の単細胞的思考故のことか?それとも主義主張に見合う思想や哲学などの理念を持ち合わせ、その計算に基くことなのだろうか? いずれにせよ、戦後半世紀後と雖も、いたるところで神道は影ながらますますその力を増しているのではなかろうか。 我が行政書士会の古参会員が日常、組織では勲章目当てに振る舞い、そしてその行動心理を操る者がますますそれに拍車をかけるように表彰制度を濫用するのは首相と共通した考え方と言えよう。 社会の時代背景としては国は人々に対し、信賞必罰のうち賞をもって靡かせ、同時にその代償が『理由なき従順や盲目』になることを罰として科しているのではなかろうか。 さもなくば、彼等のようにいたって凡人が今日にあっては人間的には彼等より優れた人材や多くの真面目な国民をリードする方法があろう筈もあるまいと考えるのだが、 人によっては北朝鮮のかの金日成やその後継者である金正日を日本の天皇の真似事という批判もあるが、日本の政界のリーダーについても世界の目には同じように映ることもあるのではなかろうか?童話やおとぎ話の世界のことなら恥ずかしくはないが、冗談にせよ、日本だけが未だに神の国だなどと言うのは日本人としても恥ずかしい限りである。 いずれにせよ、政治家自身が天皇制や神のみに頼ることを強調する時はもはや政治家もなすすべを失いつつあるということにならなければ良いのだが。 平成12年5月16日 根角香織 |
| 「日本は天皇中心の神の国」 森首相が発言=平成12年5月16日 ASAHI COM より転載 |
森喜朗首相は15日夜、東京都内のホテルで開かれた神道政治連盟国会議員懇談会(会長・綿貫民輔代議士)の結成30周年記念祝賀会であいさつし、「(同懇談会は)昭和の日の制定など、政府側が若干及び腰になるようなことを前面に出して、日本の国はまさに天皇中心の神の国であるということをしっかりと国民に承知していただくという思いで活動をしてきた」と述べた。 首相は、自民党幹事長当時から同懇談会の顧問を務めている。首相は、天皇の名において教育理念などを規定した 「教育勅語」について「いいところもあった」と評価しており、日本を「天皇中心の神の国」とした今回の発言も首相の国家観がにじんだ発言と言えそうだ。 |
| 21世紀の広島市長の秋葉さんへ |
| 広島市長の秋葉さん、あなたが市長に当選された際は、正直、申し上げて大変、驚き、そして当惑致しました。しかし、昔から諦めていたことが、嘘のように思える今日この頃です。それは、あなたが市長になられてからというものは、『政治は誰がやっても同じよ!変わるものか!』という声は周辺から一切、聞かれなくなりました!???・・・・・・・・・・市政に当たられましては、とにかく、誰から何と言われようとも、思い存分に仕事をして下さい。そして、人が代われば政治も変わることを証明して欲しいのです。もう、国会議員当時のメールアドレスがなくなっていますが、これからは広島市民の声にお耳をお貸し下さるのでしょうか?できるだけ、早めに広島市民のために電子メールアドレスを公開して下さいますようお願い申し上げます。 |
| 平成11年2月17日 |
| 平成11年3月31日市長への提案ホームページが開設される |
| 【http://www.city.hiroshima.jp/japanese/mayor.html】←広島市長への提言・投稿 |
| 市長室:E-Mail Address mayor@city.hiroshima.jp |
| グローバルスタンダードって何だろう?プロ野球のことではないらしい! |
| 「グローバルスタンダード」という言葉は和製語であり英語ではないらしい。主に経済活動における「世界共通のルール」のことであるらしい。今、世界では『政治や人のあり方』を含めた意味のグローバルスタンダードが問われているのではなかろうか。皆さんのご意見をお寄せ下さい。 |
| <借金時計> |
| 一昔、バブル景気に国中が踊っているとき、『21世紀は亜細亜の世紀!』と騒いだのは?一体なんだったんだろうか? |
| アジアの世紀と題して投稿を募集しています。アジア経済・地域交流・未来予測などに関する話題をお寄せ下さい。 |
| <借金時計> <借金時計> <借金時計> |
| 【English News Papers】 |
| APEC閣僚会合閉幕=アジア経済再興の契機となるか? |
| 平成10年10月11日掲載 |
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| <借金時計> |
| このコーナーでは地方自治に対する建設的意見・提言・主張を紹介します。 |
| 自治省のホームページ → 言いたい知りたい!地方行革 http:/www.mha.go.jp/iken/index.html |
| 地方行革の全体像★http:/www.mha.go.jp/iken/zentai.html ・・・・ 平成10年10月14日 |
| 地方分権推進計画の概要(自治省ホームページ)・・・ 機関委任事務制度の廃止・権限委譲の推進等 |
| 地方分権推進委員会第2次勧告 ・・・・・・ 地方分権推進委員会第2次勧告地方分権推進委員会 |
| 財団法人 地方自治情報センター http://www.lasdec.nippon-net.ne.jp/ |
| 規制緩和推進3か年計画 ・・・・・・・・・・・ 規制緩和推進3か年計画(平成10年3月31日閣議決定) |
| 規制緩和小委員会審議概要 ・・・・・・・・ 総理府第16回規制緩和小委員会審議概要 |
| 地方自治体マップ検索(日本地図をクリックしてあなたの都道府県市町村ページを見ることが出来ます。) |
| 日本版ビッグバン(金融制度改革)の主な予定 | |
| 自 由 化 ・ 競 争 激 化 | |
| 改正外国為替法施行(平成10年4月施行済) | (平成10年4月) |
| 損害保険料率の完全自由化(平成10年7月実施済) | (平成10年7月) |
| 証券会社の株式売買手数料自由化(平成10年度) | (平成10年度) |
| 証券会社の登録制移行(平成10年度) | (平成10年度) |
| 銀行・保険会社による投資信託の直接販売解禁(平成10年度) | (平成10年度) |
| 多 様 化 ・ 新 製 品 | |
| 給与振込ができる証券総合口座の全面解禁(平成10年度) | (平成10年度) |
| 銀行・証券、郵貯・信託銀行などATM相互接続(平成10年度) | (平成10年度) |
| 私募投信・会社型投信の導入(平成10年度) | (平成10年度) |
| 経 営 ・ 破 綻 対 策 | |
| 金融持ち株会社解禁(平成10年3月解禁済) | (平成10年3月) |
| 金融機関に早期是正措置の導入(平成10年度) | (平成10年度) |
| 預金保険機構の機能拡充(平成10年度中) | (平成10年度中) |
| 寄託証券補償基金の強化(平成10年度) | (平成10年度) |
| 主 な 金 融 相 互 参 入 の ス ケ ジ ュ ー ル | |
| 平成10年10月 破たん救済目的の銀行保険会社間の子会社設立解禁 | (平成10年12月) |
| 銀行の銀行子会社解禁 | |
| 証券会社の専業業務を廃止 | |
| 普通銀行による社債発行を解禁 | |
| 平成12年3月 保険会社の銀行子会社を解禁 | (平成12年3月) |
| 平成13年3月 銀行の保険子会社を解禁 | (平成12年3月) |
| 銀行による保険商品の販売を一部解禁 | |
| <借金時計> | |
| 行政書士業務における電子化対策について |
| 行政書士業務におけるデジタル文書送信技術とセキュリティについて |
| 行政書士よデジタル派になれ! |
| 高度情報通信社会への対応・私が常日頃から思うこと。 行政書士よデジタル派になれ! |
| 平和は研究所で「研究するもの?」だったのか!? |
| そして、所長の空席は何を意味するのだろうか? |
| あなたが推薦する所長は? |
| 広島平和研究所の二代目所長にふさわしい方は平山郁夫画伯だと思います。被爆者として世界の平和を希求し、そして広島から世界へ平和祈願のメッセージを発信できる広島人としてはこの方くらいふさわしい方はいないのではないでしょうか。平和を祈ることは万国民共通の人を愛する心だと思います。全国の皆さん、そして広島の皆さん、明石さんの後継者には是非、平山画伯を推薦しようではありませんか。 |
| = 関連意見 = |
| 平成11年3月23日 |
| 今朝の中国新聞記事『明石氏の後任の(平和研究所長)の人選に関する意見に関して』(平成11年4月23日)を見て思うこと!一言、言わせていただきます。 相変わらず被爆都市としての主張である『核廃絶運動』との絡みが意見の中心である。核を作っているのは政治家に従う科学者であり、その政治家や科学者を育てたのは地球社会の教育システムであり、 その原因は人々の心のうちに潜む他国より自国が正しい、他人よりも自分が正しいという人間同志の自己過信の現われではあるまいか。 どうして、核を持たせるようになったのか、どうして防げなかったのかを問うことなく、凶器はいけない、刃物はいけないと言っているようなことである。 歴史を振返り、清算することなく、ただ、被害者意識だけで、『平和だ!』、『平和を取り戻せ!』と言ってもなかなか世界は変わらないであろう。 『平和運動』は尊いことに違いないが、もっと身近なところに目を向け、もっと足元のことから出来る人を人選するべきではあるまいか。 その意味では『平和』は研究するというものではなく、全市民が家庭や職場で、組織や社会で、日々、実践すべきものではなかろうか。 子供達の世界でもいじめが無くなるようにすることの方が先に解決されねばなるまい。その心は先ず、人々が被害者意識を捨てることの寛容さが大切であることを知ることであり、また、自らの罪を悔いることであり、まさにそれは神のなすところを受け容れる心の持ち方ではあるまいか。 そのことが交流となり、外交政治へと繋がり、我々日本人の心を真に理解してもらえるようにすることではなかろうか。日頃、宗教心のない私がこのように思うわけです。 平成11年4月23日 新聞記事に関して、 = 平和研所長の人選 「人物像」に注文続出 = |
| 教育についてはど素人の私が不思議に思うこと。 根角香織 平成11年8月10日 |
| 過日、国歌国旗法案が成立した際、民主党のフォーラム『1、こども・学校・教育 』の会議室で素人の思い付き発言したら、もっともらしい反論を二発食ってしまいました。皆さんの中でご関心のある方はピンチヒッターをお願いしたいのですが、ここのフォーラムは結構おもしろいと思いますよ! SOS発信者 根角香織 会議室:「こども・学校・教育」 子供が選べる学校の種類を! 発言者:根角香織(男性) (Date: 1999年 8月 10日 火曜日 8:05:43 AM) 教育についてはど素人の私が不思議に思うこと。 国歌・国旗法が成立した。ただし強制ではないと言う。 ところが、教員に対しては公務員法により指導要綱を通じて強制されるとのこと。 これで左翼系の学生が教員になりにくくなるかも。これで右翼系の学生が教員になりやすくなるかも。 学校の共産主義主義化は困るが、右翼集団化も困る。どっちでも、偏りすぎては困る。それではどうすれば良いのだろう。 司法、行政、立法、教育の四権分立の確立?これも権力機構が増えすぎて困る。それとも、すべての学校を民営化したらどうだろう。 国鉄も電電も民営化して良くなってきたことを考えれば、国の根幹をなす教育こそ一番先に民営化するべきではなかったのではなかろうか。 しかし、今となっては経済論理優先の経営者の教育が最も危険極まりないという声がでるかも。 どうしたわけか、日本の国はうまく行かない。そもそも、学校が教育の場所ではなく、記憶マシン製造 工場になったことが最大の要因かも知れない。 その昔、江戸時代の末期頃まで学問とは生徒の方が師を訪ねて(選んで)門を叩くことではなかったのではなかろうか。 これからは、せめて子供達や(親が)選択できるよう学校の種類を用意して見てはどうだろうか。 一つの学校で君が代を歌うか歌わないかで揉めれば子供の想像力や感受性を損ねるだけである。 広島市安佐南区 行政書士 教育についてはど素人である根角香織 |
| くぷくぷ さんからのコメント ( Date: 1999年 8月 13日 金曜日 4:22:21 PM) どの子供にも学校が必要とは思われない。塾だけでいい子、フリースクールの方がいい子、いろいろいる。教育を受ける機会の少なかった昔と違って、いまはいろいろな機関がある。学校を信仰したり、学校に過度な期待をよせないほうがいいと思う。どこで学んだか、ではなく、何をなんのためにどれだけ学んだかを大事にしたいと思う。 |
| 平社員 さんからのコメント ( Date: 1999年 8月 14日 土曜日 1:00:48 AM) こんにちは、 学校とは教育の場であるということは理解できますが、学問だけの教育と勘違いされていませんでしょうか。 義務教育の場では、学問の知識以外にも集団生活におけるルールという教育が含まれるのではないでしょうか。 個人の立場も重要ですが、集団生活(社会生活)をするには相手の立場を考える、また、みんなで協力しあうという当たり前のことを身につけなければなりません。 多数の人がやろうと決めたことに、反対意見はあっても、従ってみるという姿勢は必要だと思います。そうしないと先日のハイジャック事件のように「自分が操縦したいから、機長が操縦させないから・・」という理由で殺人を犯してしまう、自分本位の考えを押し通すことが当たり前の世の中になってしまうのではないでしょうか・・・ 少し、例えが極端に感じられるでしょうが・・・現在、子供達は遊ぶ場所も少なくなり、ゲームという、機械相手の遊びばかりで、人と人とのコミュニケーションが少なくなっています。 国旗、国歌は右翼、左翼というような考えはとりあえずおいといて、集団で動く時は動くべし、と考えてはどうでしょうか。 このような話をすると、個人の自由を束縛するななどの意見が出そうですが、個人の自由を束縛するという物ではありません。 その、みんなが揃うべきところでは従うべきだといいたいのです。それ以外のときは自由なのですから・・ 義務教育においては、学問も含まれますが、姿勢、態度、などの社会生活への教育として、選ぶものではなく、統一されたものであるのが望ましいのではないかと私は考えます。 |
根角香織 さんからのコメント(再度私からのコメント) ( Date: 1999年 8月 19日 木曜日 7:25:04 AM) くぶくぶさん、平社員さん、私の意見に対して論点を明確にして頂いてありがとうございました。 学んだことを実行するためには(理想らしきものを求めようとすれば、)教育について理想とする理論を構築(確立)することも大切だと思いますが、私が述べたことは、出来得る限り実験的な試みがあっても良いのではないかと思い、単純な思い付きによるものでした。 それがたとえ思考錯誤であっても!また言論のみが先行しがちな自由社会において賛成、反対、様々な意見が淘汰されながらも、その果実を得るということは、すべては人々の実践にかかっていることだと思ったからです。 それで、教育についてはど素人である私も発言させて頂いたわけですが、元々大した持論もない私は皆さんのご意見に異論を唱えたくても、改めて意見を述べるには力不足であり、またご指摘を頂くようなことになると思いますが、先の私の意見について再度、補足させて頂きます。 『子供が選べる学校の種類を』と題して述べたことは、それは行詰った感のある現在の教育問題については、今一度、過去の歴史に学び、取り入れるべきものは再び取り入れ、可能な限り再現化に努め、実験して見るのも良いのではないかと思ったわけです。 また『学問』の意義に関しては、私達の先輩は儒教など東洋思想や西欧の様々な近代民主主義思想に学び進歩してきた歴史があります。そのような意味での学問は人の生き方を左右する精神性については、少なくとも多くの先人に学び、良いことは真似をしてでも形から入り、取り入れ、それを実践することであったように思えます。 そのような歴史から私達も学問を通じて正しい人の生き方を学び、より良き時代を目指してきたのではないかと思います。 私はそのような意味合いで先人に学び、『学問とは師を訪ねて(選んで)門を叩くことではなかったのではなかろうか』という過去のスタイルに思いを馳せたわけです。 このような視点で現在の社会における義務教育を含めた教育全般の問題を語るとき、学校は『知識だけの学問』ではなく、『人としてあるべき姿』を問い、学ぶという学問の場でなければならないと思いますが。 歴史の過程における社会の様々な歪は人々の精神性の歪として現れます。現在の社会において派生する教育問題も、それは現在の社会の歪から来る特有の現象として捉まえることではありますが、それは、むしろ我々が常に新しい発見を求めてきた結果であり、いわば新しい実験が行詰ったということであり、(過去に戻ろうとしないことであり)その是正については、さらに新しい発見による解決策を模索するにせよ、現状を打破することができない場合、それは、一旦は過去を振りかえり、ある時点まで逆戻りすることこそが新しい発見になるのではないかと思います。 戦後教育の中で様々な問題に関して自由、個性、平等、コミュニケーションによる社会の和、公共の福祉などと言われ続けていますが、それらのことを直接個人としては主張せず、自らはできるだけ求めず、ただひたすらに人々の幸福を願い、できるだけ個人の権利を主張せず、公共の福祉を重んじ、元々そのような生き方を生き甲斐にしている人々は何時の時代でも大勢います。 とかく日本人の民族性は物言わない、主張しない、主体性がないと言われることがありますが、それはまた『無責任』という見方がされがちですが、それは人によっては他人に対しては『求めない、欲しない』という心の持ち主であると同時に、理想を唱える人を作家に喩えるならば、自ら唱えない人は読者として学んでいる段階であることも多いのではないかと思います。 このような意味合いで私は未だに読者の立場であり、この場で発言するにはあまりにも未熟であったように思いますが。 かつて私達の父母の時代においては教育問題よりも日々生きるための(食べるための)生活の方が問題でした。 ところが物資の豊富な時代になってからというものは親達も変わり、教育問題について論じるようになり、それがかつての生活問題を優先する教育となり、そして子供達に『求める』ことを教えるのが当たり前のようになりました。 それは『教育を受けさせる、与える』と言う『義務教育』の考え方においてその核心となす部分が結果として何時の間にか『漠然として、あるものを求めるためだけの教育』と大きく変わったきたのではないかと思います。それは単に経済的豊かさを求めることであったり、そのために他人より高い地位に就きたいという、社会を単に優勝劣敗の競争社会としてしか見ないようになったからではないかと思います。 そのような競争社会が長く続くと、学校自体も子供達にとっては競争社会に入るための前段階の競争社会であり、学問の捉え方についても、そのためだけのものとして考えるようになったのではないかと思います。 このように社会が経済的豊かさを求める方向へと偏ってきた中で、今頃の子供達は学校で集団生活や社会生活の大切さを言われても、それ自体が『求めるためだけの競争社会での共生』を強いられることのように感じ取っていることもあり、そのような社会の中での生き方に疲れ果てているのではないでしょうか。 それはあたかも学校や職場がかならずしも『真の共生のための集団や社会』になっていないことを親から早い時期に学んでいるからだと思います。 子供達は社会での生き方について社会経験に乏しい学校の先生よりも社会経験豊富な親に学ぶことで、『生き方』を学ぶことについては学校の先生には期待しなくなっているのではないかと思います。 このことは、まさに今の時代は親が学校の先生のようなことであり、それが統一化されていない教育の形であり、また、これから台頭してくることであろう学校不要論の背景になるのではない かと思います。 以上、取留めのない意見になりましたが、またご指摘下さいますよう。 教育についてはど素人の根角香織 |
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| 【 更新日=2007/10/29 月曜日 】 |