三重塔建設進捗だより
発願(ほつがん)
お釈迦様は、すべての生きとし生ける物は共に生きていく存在であること、人間においては生まれや男女の性差によって差別されないことを教えられて、みずからも仏教教団の行動の基本とされました。
その精神はやがて世界各地へと伝わり、日本においては仏教を厚く信仰された聖徳太子が憲法十七条のなかにおいて、仏教を尊び三宝(仏・法・僧伽)を敬うという和の精神(中道の精神)をもって国の基本となすと高揚されたのでした。
しかし乍ら、お釈迦さまの時代から二千五百年を経た今日、東西の冷戦という緊張状態は終焉したものの、世界各地において地域間民族間の激しい対立が新たな紛争の火種となって争いは止むことがありません。
日本においても出身や性による差別が依然として残っています。
すべての生きとし生ける存在が対立するのではなく、共に生きていく世界を実現していくことが人類共通の願いとして、今こそ望まれるのではないでしょうか。
仏塔は、そのようなお釈迦様の精神を形に顕した建造物です。私は、これからの世界の歩むべき精神の道標となることを願って、ここ東京に飛鳥時代様式の三重塔建立を発願しました。
清林寺住職
難波光定
千三百年の技術を伝える
寺院大工
コーンコーンと小槌の音が境内に響きわたります。
清林寺の飛鳥時代様式三重塔は高さ24m。鉄骨など一切使わずに木材だけで組みあげていきます。木組と和釘のみで立ち上げていくので、単純にしてしかもガッシリとした美しさに最大の魅力があります。
しかし、それだけに寺院建築としては大変難しく、現代の建築工学をもってしても解明できない部分が数多くあるといわれています。まさに飛鳥の匠ならではの知られざる英知と技によってのみできる世界です。
この三重塔を建てているのは、今野数丸棟梁をはじめとする大工方です。
今野棟梁は、法隆寺大工棟梁である西岡常一師の
弟子です。師匠は法輪寺三重塔、法隆寺、薬師寺の再建に携わってきた名匠です。
現代に息づく匠のわざ
木挽職人
一昔前まで全国どこにでも見受けられた木挽職人さんですが、現代では「コビキ」って何のことと問われかねないほどにその姿を見かけなくなってしまいました。それもそのはずで、今や木挽職人さんは日本で二人だけになってしまいました。
木挽さんを今風にいうと製材業者のことですが、これが生半可な仕事ではありません。大人が二抱えもするような大木を、刃渡り1メートルもある「おが」と呼ばれる大ノコで何日もかけて挽いていきますから忍耐強くないとできない仕事です。しかも「おが」を含めて三十数種のノコギリを自在に扱い、また木の性質を読めるようになって一人前になる、職人さんの世界は厳しいのです。この木挽職人さんの仕事も少くなって今では二人だけです。機械製材のみに頼っている現代ですが、機械による製材は時間的に早い反面、刃振れを起すために、振れた分だけ材木を多く削ってしまいます。その点、木挽職人さんはノコギリの刃の厚み分だけで切っていきますから無駄がありません。たとえ数ミリの刃振れでも長さ10メートルの木になればクズにしてしまう量は相当なものです。資源を生かすのも木挽さんの技ですので今、この技を後世に伝えていくぎりぎりのところにきています。
〔和釘師・白鷹幸伯(しらたかゆきのリ)師を訪ねて〕
萬民豊楽(ばんみんほうらく) 荘厳国土(しょうごんこくど)を願いとして
文 難波光定
清林寺では二十年ほど前から木造飛鳥時代様式の三重塔建立をすすめています。
仏塔はお釈迦さまのご遺骨を奉安した仏舎利塔にその起源があるように、お釈迦さまご自身とその説かれた教えを象徴するものです。
当寺では、あえてこの仏塔を飛鳥時代様式といわれる約千三百年前の工法によって建立しております。
それは、飛鳥時代の工人は、ものすべてに生命が宿るという仏教の教えを、体験を通してよく理解していたと思われるからです。
工人達はまず建築に使われる材料の木材や瓦、釘、土台岩の一つ一つがどのような形でもって、どのような位置で使われたいと願っているのかを聞くことから仕事をはじめました。
そのうえで、工人としての技術を駆使して建てていくのです。
ですから出来あがった建物は、千年の風雪にも十分に耐えることが可能なほど強靱になります。
清林寺の三重塔もこの飛鳥人の工人の技術と工人の心を受け継いで、使用される釘一本から特別な和釘が使われます。
今回は、この和釘を打ち続ける現代の名匠白鷹幸伯師を四国の松山へと訪ねました。
白鷹師との出会いは、奈良・薬師寺棟梁の西岡常一師とそのお弟子の近野数丸棟梁と当寺が出会った時にまで遡ります。
薬師寺は現在も昭和・平成の大復興を推進していますが、その再建棟梁が西岡常一師でした。西岡師は東京に飛鳥時代様式の仏塔を建てたいという当方の(気持ちをお聞き入れ下さり、特別に当寺の塔建立監修をお引き受け頂けました。
そのような縁がもとになって、すでに薬師寺にて使われていた白鷹師の和釘が、当寺へも納入される運びとなったわけです。
白鷹師の和釘は西岡師をして「千年の風雪に耐える釘」と太鼓判を押さしめるものですが、そこにいたるまでには白鷹師の長い試作の日々がありました。それは、和釘をはじめ鉄を原料とするものに起きる腐食の問題です。釘の腐食は建物の歪や部材そのものの劣化へと繋がって、耐久性を著しく損ないます。
そこで白鷹師は、なんとか腐食を最大限に抑えて錆びない釘ができないものかと研究を積み重ねてきたのです。
そのようにして出来あがった和釘が、はたしてどのようにして作られているのか、今回この目で見ることを楽しみに伺いました。
松山市に到着すると、まずは住所を頼りに白鷹師の仕事場を探しましたが、いくら番地の近くを歩いても表札が見つかりません。通りがかりの女性に尋ねますと、目の前を指さします。
そこはオートバイや洗濯機、冷蔵庫などが山のように積みあげられて、先ほどから廃品回収業者の集積所とばかりに思っていた所でした。
すき間から声をかけますと、「やあ、遠方よく来られましたねえ」と奥から精惇な顔をした白鷹師が出てこられます。あいさつもそこそこに気になっていたこれら廃品のことを問いますと、
「鍛冶屋の仕事は、もともと生命ある鉄を人間が必要とするものの形に作り変えて、あらたな生命を吹きこむことなんですよ。だから、目的を終えていらなくなった鉄であっても、また再生して新しい魂を吹き込むこともできます。この山の廃品は、人によってはクズにしか見えないかもしれませんが、また再生できるし、生命あるものばかりなんですよ。」
あらためて廃品の山に目をやりながら、そういえば百数十年前の江戸時代までは、不用になった鉄物はすべて業者によって回収され、再利用するか再生されていたこと、錆びて再生できなくなってしまった釘でさえ、すべて土へ埋めもどされ、今でいうリサイクルが当り前だったことを思いおこしていました。
「今の人達は、目的を終えると捨てて顧みませんが、もっと物の生命を考えませんとね。」という白鷹師の言葉に頷きつつ、仕事場へと案内され、まず目に入ったのは千本近くもあろうかと思われる、たいへんな数の和釘です。
見事な釘なので、手にとって眺めていると、
「ああ、そこにあるのは全部息子の打った失敗作ですよ。釘を一人前に作れるまでには、鉄棒を吹子から取り出すタイミング、次に熱せられた鉄棒を打つ呼吸、さらに水に入れて締める瞬間の判断など頭で考えるのではなく、勘が働かなければできません。」
それでは試しに打ってみましょうかと、さっそく丸首シャツにステテコ姿となって、その上に厚手の前掛けを付け、下腹を紐でクイと結びます。
随分と薄着のようですが、私が訪ねた八月は仕車場の室温は四十度を超えています。炉のそばは、さらに温度が上がりますから、一日中その中で仕事をすることはかなり過酷な労働です。
白鷹師は、まず太筆ほどの大きさの鉄棒を吹子の中に入れ焼きつけます。この鉄棒が釘の原形で、鉄の純度九十九・九パーセントでできています。この純度が錆びない釘を作り出しているのです。鉄枠が真赤に焼けてくると頃合いを見て取り出し、次に鉄打機で打ちつけます。鉄打機は昔の足踏式のミシンに似ていて、片方の手で焼けた鉄棒を扱い、もう片方は鉄打機の動力を扱います。この動力の強弱の加減で、少しずつ和釘の形へと整えていくのです。
片わらで見ていると、いとも簡単に扱っているようですが、この整形は熟練したプロの仕事です。
私もせっかく来られたのですから試して下さいとすすめられて、一連の工程を体験しましたが、最後の鉄打機はなかなか思うようにいかずに、正直なところ白鷹師の助けを得てなんとか和釘のような形にまで仕上がることができました。
その記念の釘に、白鷹師は、
「願奉 萬民豊楽 荘厳国土」と刻印を入れて下さいました。実は、この刻印の文字には理由があるのです。
日帰りの私を松山港まで見送って下さった白鷹師は、港でその理由を語って下さいました。
松山港は、小さな港ながら昔から広島と松山を結ぶ重要な港で、白鷹師は子供の頃、この港を遊び場にしていたそうです。戦後のこと、広島から船が到着する時刻になると、どこからともなくたくさんの婦人達が集まってきました。それは、戦地から帰ってくる夫や息子を迎えるために集まった妻や母親の姿でした。到着した船に待ちわびる人の姿が見えないと、皆一様に肩を落として、また家路へと帰っていったそうです。その光景は毎日続き、たとえ波が高く船が欠航するとわかっていても、港には、雨に打たれて立ちつくす婦人達の姿がありました。
時には、白木の箱に追いすがって泣きくずれる母親の姿、またぼろぼろの軍服を着て降りたった身内を見つけて互いに泣き合う姿など、少年の白鷹師にはそれらが強烈な印象として残ったのです。
「私が自分の打った釘に、願奉 萬民豊楽……と刻印していくのは、あの少年の日のことが忘れられないからです。はたして生きて帰ってくるのか分からない夫や息子さんを待ちわびた婦人達の心はどんな思いだったでしょう。もうあのような悲しい姿が、この港だけではなく、どこにも起きないようにと願って刻印しているのです。」
白鷹師の打つ釘の一本一本には、そのような熱い願いが込められていることを知り、その和釘が当寺の塔にも使われていくことに深い感銘を受けて松山港をあとにしました。