さくらさんのエッセイ



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感劇記

先日、数多くのミュージカルで活躍中の俳優、石川禅さんの”語り“に出かけ た。演目は、太宰治の「カチカチ山」と立原えりかの「ピアノのおけいこ」。百 人ほどが収容できる小さな会場で、マイクを使わずにじっくりと聞かせる。一人 ですべての登場人物及び、ナレーションもこなす、朗読と一人芝居を掛け合わせ たようなものだった。

”語り“とは、”朗読“とは別物であるらしい。”朗読“に語り手の解釈がプ ラスアルファされたものが”語り“だと石川さんは言う。 つまり、そこには語り手の数だけ作品が存在する。

平安時代、貴族の子女たちは、自らは絵を眺めつつ、女房に物語を読ませると いうことをしていた。しかし、はたして、そこに女房の解釈は含まれていたのだ ろうか。

玉上琢彌氏は『源氏物語研究 源氏物語評釈 別巻一』「源氏物語の読者―物 語音読論―」の中で、「『源氏物語』以前の物語、昔物語は男、文字の管理者、 漢学者、の手によって作られたものと思う。そして冊子絵が整えられて、真の享 受者、上流の姫君に進められる。姫君は絵を見ながら、女房に詞書を読ませて聞 く。本文を作ったのは男だが、それを女房が読み上げて、はじめて、物語となる のであり、読みあげるときは本文をそのままに読むのでなく、適宜敷衍したり表 現を変えたりする自由が、女房達には与えられていた」と言っている。また、 「物語は言語芸術なのであって、文字芸術では本来なく、したがって作り手(本 文筆作者)のほかに、読み手(本文朗読者)があり、前者を作者と呼び後者を演 者とすれば、後者に与えられた自由は、現代の演出家や演技者以上のものであっ た」とも言う。

そもそも、「ある事について、また、ある人についてのお話し、それがすべて 「ものがたり」であった」という訳である。

作品は語り手によって言葉にされる時点で、語り手のものとなる。今回の石川 さんの公演は、実にそれを強く感じることの出来るものであった。作品をそのま まの形で”朗読“するのではなく、吟味し、耳で追うだけの享受者=観客のため に、ある程度のデフォルメ、あるいはカットがなされ、状況によってはアドリブ が加えられる。文字を目で追い生まれてくる情景とは、比にならないリアルな世 界、生々しい登場人物達が浮かび上がってくるのである。

「カチカチ山」はご存知のとおり、「むかしむかし」で始まる、あの兎と狸の 物語である。太宰治はそこに少女と男、それも16のアルテミス型美少女と37の愚 鈍大食野暮天男という命を与えた。石川さんは男性であるし、作品自体が太宰の 語りというような形で描かれているので、狸がなんともかわいそうに情けなく見 えてしまった。16の兎が悪者か?憎たらしくもかわいい、チェックのスカートと ルーズソックスを身につけた兎が頭から離れない。

ここにおいて、太宰・語り手である石川さん・観客としての私に、作り手であ る漢学者・自由におおらかに語る女房・あふれる言葉に身をゆだねた姫君を重ね たのは私だけか……。ああいった公演を、ファンの集いのような場所ではないと ころでもぜひ、聞いてみたい。


石川禅 愛言葉 ―「カチカチ山」「ピアノのおけいこ」
10月2日 代々木上原「MUSICASA」にて

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