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眠狂四郎と言う名前を聞いただけで いろんなイメージが浮かんでくる。 虚無、厭世的な面差し、世捨て人的生き方、 転びバテレンの子ゆえの世に背を向けた後ろ姿。 柴田錬三郎の小説といえば、男っぽさと艶めかしさのイメージがある。 次々に読み継がせてしまう小説の面白さ。 どんな長編でも一気に読ませてしまう。 眠狂四郎は「市川雷蔵」の二枚目で虚無で艶めかしいイメージがある。 舟木狂四郎もやはり、二枚目で虚無で艶めかしかった。 |
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| 脚本的に言えば、眠狂四郎無頼控のTの最初のあたりを使って欲しかった思いがある。 転びバテレンの子供に生れたいきさつ。 世にすねる男の後ろ姿。 そして、女性から一途に思われながら冷めた関わり方しかできない狂四郎の心。 転びバテレンの父を自分で切るしかない狂四郎の哀しさ。 そんな姿を知った上で芝居の構成ができていたら・・なぜ、虚無的なのか、女性に対して冷たく生きようとするのか、人間の関わりの脆さを感じるのか等など、深い思いで芝居を見ることができたと思うけれど、しかし、1時間半の芝居の中に含めることはやはり不可能なのだろうか・・。 芝居は十分に狂四郎のニヒルさが出ていた。 柴錬の本を何冊も読んでる方は、柴錬の書く人間は決して冷たい存在でなく、常に熱いものを心に秘めているという存在であると分かっていると思う。 そして、その人の生れてきた状況や環境によって出来上がってくる人の姿をいろんな形で書き上げているのをよく理解出来ると思う。 だから、狂四郎も決して虚無と冷たいだけの人間ではない。 本当は愛情にあふれた生き方がしたいのだが、今までの生きてきた中でそれに出会っていない。 かえって、出会うことを恐れ、避けようとする。 そして、虚無の中に自己の存在を認めるような淋しさがある。 舟木狂四郎もそうだった。 虚無の中にいる狂四郎を十分に現出していた。 孤独の中の狂四郎。 しかし、この芝居の中で、仇討ちをしようする姉弟にまさに、狂四郎的関わりかたで関わっていく。 狂四郎的関わりかたというものを見るだけでも「眠狂四郎」の芝居を見た気がする。 でも、濡れ場で言うと少し不満がある。 あの濡れ場は大菩薩峠の「机龍之介」を想像させる。 狂四郎は自分からそういう状況を避けたいと思い、そういう状況を作ってしまう罪を感じる人である。 転びバテレンの父を嫌い、その母に同情と愛情を感じる、素の顔は誠実な青年なのだから。 そして、狂四郎は非情な人ではない。 人との関わりを大切にする。 相手が悪ならば、非情になれる。 柴錬は非情な人間を描かない。 どこか、常に愛情を求める弱い部分を持つ人間を描いている。 だから、最後の場面で一人っきりになった姉に優しい言葉をかけるまでもいかないまでも、振り返って哀れみの情を見せる場面がほしかったなぁと思う。 小太郎くんの切られる場は、独り舞台の「一場座長」と言う感じで、得な役をしてるなと思った。 殺陣の演技の中で、切られる演技の中にすごく「小太郎」と言う役者を印象付けたと思う。 |
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