道場通信

 


目 次
道場長きままごと (令和6年1月)
道場長きままごと (10月1日)
道場長きままごと (合氣道稽古考)
道場長きままごと (令和2年12月)
道場長きままごと (令和2年8月)
道場長きままごと(7) 令和2年8月
道場長きままごと(6) 令和2年1月
道場長きままごと(5) 令和元年7月
道場長きままごと(4)
道場長きままごと(3)
道場長きままごと(2)
道場長きままごと(1)

 

 

1.令和5年を振返って(令和6年1月)

 年齢とともに一年が過ぎ去るのが本当に早く感じます。早や、令和6年を迎えました。令和5年を振返ってみたいと思います。
  2月に橋本道場の会員五名と他道場からの12名を加え、台湾へ40周年記念合宿として行ってきました。令和元年以来の台湾であり海外でした。大歓迎を受け楽しい海外合宿でしたが、平均年齢70歳の橋本道場参加者一同には台湾4都市を新幹線、バスで移動の上、4回の稽古は少しきつすぎたようです。次回の台湾は、少しゆったりの日程で温泉地での宿泊も考えています。
  5月下旬には、道場長を始め五十嵐道場会員、記念行事のために来日した海外からの参加者一同で「第60回全日本合気道演武大会」に出場し演武をいたしました。その翌日開催の「創立40周年・道歴60年記念祝賀会」は、道主植芝守央先生ご夫妻、小林保雄先生を始め国内外から230名のご出席をいただきました。また、その一週間後の山中湖合宿にも国内外から120名の参加をいただきました。
 7月には、昨年の狭心症の経過観察のため4日間、協同病院に検査入院をしました。結果は良好、心臓には問題なし、ひと安心しました。
 9月初旬には、6年ぶりに「第29回大韓合気道会演武大会・講習会」のため韓国を、妻まち子と訪問しました。久々とあり大歓迎を受けました。行事には、韓国全土、日本、中国から総勢160名が参加しました。演武大会でも、講習会でも問題なく元気にやり遂げることができました。大好物の焼肉とキムチを腹いっぱい食べました。
 9月24日は、久々に8級から四段までの8名が昇級昇段審査に挑戦しました。見事全員合格、反省会は橋本駅前の居酒屋「大庄水産」。反省会という飲み会は令和2年以降、3年ぶりの開催とあって23名が参加し大盛り上がりでした。
 10月7日には、コロナ禍で3年間、開催できなかった「相模原市合気道連盟演武大会」を橋本駅近くの「HKラウンジ」で連盟会長本村賢太郎相模原市長のご出席をいただき開催しました。演武大会には多くの相模原市在住の合気道会員、神奈川県合気道連盟の諸先生のご参加もあり、総勢100名で行いました。私も元気に演武いたしました。
 10月下旬に海外指導ハワイが控えていました。しかし残念ながら、演武大会を終えたばかりの12日早朝、大腸から出血があり協同病院に緊急入院、手術を受けました。退院まで二週間、私にとりまして初の長期入院となりました。このところ毎年のように入院・手術を経験しています。退院の度毎に「生かされていること」を実感して帰宅しています。もちろんハワイはキャンセルしました。
 この間、会員の皆様に大いにご迷惑とご心配をお返しましたことをお詫びいたします。また入院期間中、退院後も指導を担当してくださった皆様にも厚く御礼申し上げます。 12月17日(日)は、稽古の後に大掃除・忘年会が行われました。忘年会には、32名が参加し大盛り上がりでした。二次会は会場を駅前の「まねき猫」に移しカラオケ大会。こちらも大盛り上がりでした。
 私にとりまして「40周年・道歴60年祝賀会」の開催は、一大イヴェントでした。体調不良の中、滞りなく乗り切れたことは最大の喜びであり、会員の皆様へは感謝・感謝です。
 次の私の大きな目標は、令和15年に米寿で迎える「創立50周年・道歴70年」です。目標があることは長生きの最高の良薬、秘薬と言えます。それまでは、私の使命であり修行と思っています。ぜひ、会員諸氏のお力で「元気に生かさせてください!」。
 令和6年も、会員諸氏のご支援・ご協力を何卒よろしくお願いいたします。 

2.橋本道場の今(令和6年1月)
 11月のある日曜日の稽古。参加者が、珍しく少なく13名。何気なく観察してみると、若者が少ない!10代が、1名。20代〜40代がゼロ名、50台が4名、60代後半が4名、70代が4名。今日の稽古は、正に高齢者道場です。でも、どうしてシニアの皆さんは元気なのでしょうか?
 橋本道場の年代層をチェックしてみました。現在の実動会員は37名です。10代2名、20代ゼロ、30代4名、40代6名、50代10名、60代6名、70代9名になります。創立40周年になりますので、もちろん高段者が多く五段以上が半分です。級の会員は4級のフラネック君だけ、無級の会員は13歳の天明君と、52歳の新人の松本さんだけになります。
 親睦会長の橋本春男さんの言によると「リタイア生活の老人には、行く場所が少なくなり、道場は最高・最適な場所!」とのこと。
 有名な老化研究家の小林武彦先生の言葉に「ヒトは老いて、人になる」があります。先生によると、野生の動物には老後はない。老いは進化の過程で、生物としてのヒトが手にした特権であり、誰もが元気に活躍を続けられるわけではない。病気もあるし、やりすぎれば「老害」と嫌われる。だからと言って隠居を急ぐ必要はあるまい。「いかに人らしく生きるかは、老後をどう過ごすかにかかっていると思います」と。
 経営コンサルタントの船井幸雄先生が「人間にとって非常に大事なことは学び、覚えることで、生涯続けなければなりません。学ぶことをやめた途端に人は老い始めます。学んでいる間は若々しいのです」と、また上手に生きるコツとして「興味、好き、確信」の三条件をあげています。
 これらの言葉は、孔子の「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」に通じるところがあります。興味があるから好きになり、好きだからこそ確信できるまで努力します。 }
 私は、77歳の後期高齢者、もうドタンバタンとした稽古や指導はできませんが、身体操法・術理を中心に説明稽古を行います。
 道場の70歳以上の中期・後期高齢者の皆さんは、いたって元気です。老人一同、老害と言われないよう、またパワハラにならない程度に、これからも若者(50代も含)をドシドシと引っ張っていきます。  

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道場長きままごと (10月1日)

 新型コロナウイルスの新規感染者は、8月には東京都では5千人、神奈川県でも連日2千人を超える新規感染者を出しました。 地元・相模原市でも2百名に迫る新規感染者を数えビックリしました。
 9月に入り新規感染者は減少傾向にありますが、重症者が増加し各地で入院病床の確保が厳しい現状には変わりがありません。
 しかし今、気を緩める時ではありません。
 今まで以上に各自一人一人が気を引き締めて対応に当たる時といえます。また感染拡大して、昨年の春のよう、道場閉鎖により長期にわたり稽古ができなくなるのは避けなければなりません。
 今後も稽古マニュアル・エチケットを遵守の上、さらなるご協力をお願い致します。

オリンピック考
 私が合気道を始めたのは、昭和39年(1964)の第一回東京オリンピック開催の年で18歳でした。
 生涯で夏期オリンピックを2回も見ることができたことに感激しています。
 冬季オリンピックも札幌、長野と見させていただきました。
 第二回東京オリンピックは206ヵ国が参加、7月下旬から始まりました。
 競技は33競技・339種目が行われました。
 テレビで観戦し大いに興奮しました。
 今回は新しい種目も多く、特に女子スケートボード・ストリート競技で日本人の13歳が金メダル、16歳が銅メダルを、また銀メダルはブラジルの13歳が取った事には驚きました。特に金メダルを取った西矢さんは、本当に楽しそうに果敢に難しい技に挑戦する笑顔は、こちらもつい笑顔になってしまいました。
 後期高齢者にとって日本を背負って戦う柔道を始め各競技の選手の姿に、もちろん大きな感銘を受けます。
しかし、このように若い選手も国を背負って戦うと気持ちもあるのでしょうが、気負いも少なく自分の好きな競技を楽しんでいるような清々しさも感じます。若いことは良いことですね!
 8月24日から始まりましたパラリンピックも9月5日に無事に閉幕となりました。身体に障害を抱えながら頑張る選手からは「勇気と希望」を大いにもらいました。自宅でテレビ観戦、つい熱戦に大声を上げることもしばしばありました。
 パラオリンピックには、161ヵ国が参加、22競技・539競技で開催されました。オリンピックとは、また違った大きな感動と驚きをいただきました。
 1996年米国アタランタ大会への初出場から6大会を泳ぎ切った「女子競泳・水の女王」と呼ばれる成田選手(51歳)は、過去の5大会では15個の金メダルを獲得しています。
 今大会では残念ながらメダルの獲得は叶いませんでしたが、見事に50メートル背泳ぎで6位に入賞しました。成田選手が目をかけてきた日本選手団最年少で初出場の14歳の山田選手が競泳背泳ぎ100メートルで、今大会の日本人初のメダル・銀を獲得しました。
 また彼女は、その後の50メートルでも銀メダルを獲得しました。
 不自由な足だけのキックで泳ぎ切る姿にはただ感動です。私はやっと25メートルを泳げるだけですから。
 また、銅メダルに輝いた車椅子ラクビーの迫力には驚きました。女性も入っているのには、これまたビックリです。
 車椅子同士で激しくぶつかりあう迫力には、フルコンタクトの格闘技以上の衝撃を覚えました。
 もちろん怪我も多いのでしょうが、果敢に攻める姿には感動を覚えます。女性選手の一言「海外男性選手の車椅子に思いっきりぶつかって試合のアシストができるのは快感です!」。
 王者アメリカには僅差で負けましたが、銀メダルとなった男性バスケットもそうでした。
 ぶつかりながら、上手にかわしながらのパス運びは見事でした選手の見事な車椅子操作と華麗な3ポイントシュートには、これまたラクビーとは違った見事さに驚きです。次回のパリパラに多いに期待です。
 また、女子自転車で2つの金メダルを獲得した杉浦選手は50歳です。最終日に行われた女子マラソンで金メダルに輝いた44歳の道下選手、5位になった56歳の藤井選手、8位に入賞した今大会最高齢者66歳の西島選手。見事なベテラン女性選手の活躍に驚いています。5日の閉会式は最後までテレビで見ました。
 健常者のオリンピック・障害者のパラリンピックの分け方にも少し疑問を持った大会でもありました。
 「心身共に常に健やかな人」を、健常者と言う。
 常に完全に健やかな人っているのでしょうか?私は、パラリンピックの選手の皆さんに「心の健やかさ・優しさ」を、とても多く感じることができました。そして両大会で多くの素晴らしい笑顔を見ることがきました。
 そんな時、通院先の病院の待合室で「笑いは副作用のない良薬」という最高の言葉を見つけました。
 今回でパラリンピックの大ファンになりました。今回の大会を通じ、聴覚障害者のオリンピック「デフリンピック」の存在を初めて知りました。
 競技は一見、健聴者の大会と変わらないように見えますが、例えば陸上でのスタートは号砲と連動して光で知らせる「スタートランプ」が使われ、選手と審判は手話でやりとりします。聴覚障害のある選手にとってデフリンピックは最大の国際大会です。次回の大会は、やはり延期となり来年5月にブラジルで開催されます。テレビ中継があることを期待しています。
 五体満足で稽古を楽しんでいる私達には、考えも及ばない現実があります。オリンピック・パラリンピックを見て、とても素直な気持ちを持った人間になれたようです。スポーツは、すごい力を持っているのですね。(もちろん武道・合氣道も)
 お互いに感謝の気持ちを忘れずに、これからも楽しく仲良く稽古して参りましょう。

稽古考(その1)
 思い出してみますと、令和1年、2年と、私の体調管理不足から数度の入院・手術を繰返し、道場の皆様そして家族のみんなに心配をかけてしまいました。
 「運命のなかに偶然はない・人生に偶然はない!」と言われています。ということは、私の闘病生活も直近のコロナ禍も天から与えられた必然的・当然的なことだったのでしょうか?!
 昨年3月下旬、新型コロナウイルスまん延防止のため政府より緊急事態宣言が5月末まで発令され、2か月間道場は閉鎖となりました。6月の稽古を再開してからは、三密(密閉・密集・密接)を避けながら単独基本動作(合氣体操、他)、間合いのある剣・杖技を主体とした稽古を行いました。合氣道では、体術と武器技は両輪であり、どちらが欠けても合氣道とは言えないと言われています。また、合氣道開祖植芝盛平翁先生も合氣の技は剣の捌きからきていると言っていらっしゃいます。
 私の身体の中・頭の中に、開祖・盛平翁先生、吉祥丸二代道主、守央現道主、恩師・小林保雄先生始め、多くの先達の先生方から見取った技、教えていただいた合気道が多く残っています。また、合気道のためにと学んだ空手や剣術、中国武術の中にも、合気道に共通する素晴らしい術理があります。
 この3月に75歳の誕生日を迎え、多くの先達の先生方から学んできたことを、よりハッキリと「示したい、訴えたい」と、「やむにやまれぬ事情や気持ち」が強くなり、稽古考として思いつくままに「教えや言葉」を書き出し、皆様に見ていただきました。
 稽古を続けていくと、「続ければ続けるほど独り善がり」になりがちになります。今の私を振返ってみると「独り善がり」のところが多々あるように思っています。しかし、その想いの中、“五十嵐道場としての合氣道、五十嵐らしい合氣道”を理解していただけるよう稽古・指導をしてまいります。
 最近は、稽古中・指導中に頭の中や身体の中に教わった事や、学んだことが?ヒョッ″と浮かび、?アッ・そうか、そうだったのか″と思い出すことが多くなってきました。そんなことで、昨日に指導していたことが、今日には違った解釈で指導している自分がいます。私は、まだまだ発展途上、先が長そうです。

稽古考(その2)
 経営コンサルタントの船井幸雄先生が著書に「人間にとって非常に大事なことは、学び、覚えることです。この両方を合わせて『学ぶ』と言いましょう」と。更に「これは生涯続けなければなりません。学ぶことをやめた途端に、人は老いはじめます。学んでいる間は若々しいのです。これは脳細胞の働きからも証明できます」と記しています。
 「高齢者になっても『学ぶ』ことへの挑戦と代価を惜しんでは、いけない」と、他の教育評論家の言葉もあります。私もコロナ禍が終息を迎えたら、以前から習おうと決めていた英会話・ピアノのレッスンを始めようと思っています。残された人生で『学ぶ』ことをやめたくはありません。
 私にとって理解不能な事ですが、物理学の本によると自然界には「重力・電磁気力・原子核をまとめている強い力・ベータ崩壊で粒子が離れていく時の弱い力」の4つの力があるそうです。識者・研究者のお話ですと【氣】は第5の力であると。また【祈力・愛力】も科学では実証できない領域と言われています。
 合気道開祖・植芝盛平翁先生は?武は愛なり″と説いています。また「合気は技術である」という先達の教えもあります。難しいです。でも楽しい課題ですね!  パラリンピックの選手とは比較もできませんが、片目と両肩が不自由な私と、もうしばらくの間お付き合いをお願い致します。

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道場長きままごと (合氣道稽古考)
 これまで、小林保雄先生を始め多くの先生方に学んでまいりました。その教えが、今も心の中、頭の中、身体の中で多くが模索中です。以下に書き出してみると・・・・
 合氣道の稽古を始めて、初めての合氣道的な言葉は大学の稽古で先輩に言われた「合氣道は氣を合わせる道」「氣が出ていないぞ!」「氣が入っていないぞ!」と言う「氣」という文字の入ったフレーズでした。
その後、
「氣が身体を動かす」
「力は出すものであって入れるものではない」
「曲がらない手、持ち上がらない身体」
「統一体、重心は最下部にある」
「合氣は渦である」
「一点に氣は置くが囚われるな」
「一気に心も身体も沈めろ」
「小指側を上に向けろ」
「親指は下に向けろ」
「合氣の技はテコの原理」
「反対側を使え」
「接点を大事にするが囚われるな」
「間合いは膝にある」
「臍下丹田に氣を沈めろ」
「氣海・丹田はどこにあるか知っているか?」
「心の発動をとらえろ」
「肩甲骨をもう少し柔らく上手に使え」
「身体の中心を意識して攻めろ」
「正中線を攻めろ」
「自分の正中線は崩すな」
「相手の力がどこから出ているか考えろ」
「身体の関節はいくつあるか知っているか」
「肩甲骨・骨盤を閉めろ、緩めろ」
「肩甲骨を開くことによって胸を閉めろ」
「肩甲骨を閉めれば胸は開くだろう」
「下半身をもっと柔らかく使え」
「稽古は固い稽古から始めろ」
「稽古相手は刀と砥石のようなものだ」
「先ずは相手の目を見ろ」
「相手の目に心をとらわれるな」
「技は上半身の力を抜き、下半身で」
「もう少し膝を柔らかく使え」
「伸筋・屈筋を上手く使え分けろ」
「身体・関節・筋肉の内転・外転力を使え」
「技は緩急をつけて」
「深呼吸と呼吸法は違う」
「天・地・人・和の意味」
「息は意・氣であり生(イキ)である」
「心技体と氣心体の違い」
「何も考えず稽古しろ」
「稽古は考えてするものだ」
「理屈は後からついてくるものだ」
「技は理から入れ」
「屁理屈を言うな」
「まずは稽古しろ」
「合氣道は〇△□」
「丸くさばいて三角に崩し四角でおさめろ」
「合氣道の松竹梅」
「舞い上がり舞い降りる」
「どこまでも進め」
「押し氣味・捻じり氣味に丸く」
「腹と腹を結べ」
「目は心の窓、目で相手の起こりを見ろ」
「力の方向性を合わせる」
「私たちの使っている力は氷山の一角にしか過ぎない」
「火事場のバカ力とは」
「顕在意識・潜在意識とは」
「背中で回れ」
「胸で回れ」
「喧嘩腰をつくれ」
「三教は自分の手の甲を見ろ」
「二教の裏は、小指を相手の鼻面に向けろ」
「位は遠山を見るように」
「稽古は3年後の稽古を」、……… 他。
また、海外の合氣道家から教わった「Slow is Smooth, Smooth is Fast」の言葉が大好きです。同じような教え、相反するような教えもあります。よく表裏一体と言われています。どれも興味が尽きない教えです。
 「百聞は一見に如かず」と言われています。また私は「百見・百聞は一触に如かず」と言う言葉もあるのではと思っています。やはり「見る・聞く」も大切ですが、先達の先生方に直接手を取っていただいた教え「触れ合い」は別格と思っています。その時の感触を忘れないように稽古することは大切だと思っています。
 群馬県の荒井俊幸先生とお話をする時、よく「翁先生の香りを知る先生方が少なくなった!」と、お話しされます。さすが翁先生の薫陶を受けた先生のお言葉です。香りもあるのだなと思いました。
 また「あの先生の技を味わったことがある」と言う表現もあります。稽古は五感(見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる)が大事なのだなと思います。そして年齢を重ねるとともに失われていく第六感の養成が武道・武術修行の上、最も大切とも思います。
 上記の教えで、まだ全然理解できていない言葉、体現できていない言葉が多くあります。その教えを1つ1つ引出しながら、そして1つずつ身体に浸み込ませていくのが稽古だと思っています。
 あと何年、皆様と稽古を楽しむことが出来るか分かりませんが、楽しい課題で一杯です。ぜひ私とともに末永く楽しんでください!

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道場長きままごと (令和2年12月)

---- 闘病とコロナ禍の中で -----

私の合気道と人生 (その2)

合気会本部道場の先生方の思い出
(小林道場内弟子時代/1973年~)

 小林道場内弟子時代、小林先生の助言により火・木曜日の朝稽古に本部道場に通っていました。
朝の一番稽古指導は吉祥丸先生。火曜日の二番稽古は山口清吾先生。木曜日の二番稽古は大澤喜三郎先生のご指導でした。
また当時は将来、プロとして生活するには必修で小林道場内弟子は、1~2ヵ月間本部道場に住込み稽古するという「本部道場内弟子制度」がありました。これは将来、私たちのように合気道のプロになるための必修課題として「吉祥丸先生始め多くの先生方の稽古・指導を受ける、顔を覚えてもらう!」という素晴らしい制度です。私は30歳春の1か月間、住込み稽古しました。当時、4階稽古衣置き場の裏に小部屋があり、そこに寝泊まりしました。
4階小道場の裏の小部屋には、現在アメリカで指導されている柴田一郎先生が、1階の内弟子部屋には宮本鶴蔵先生が住み込んでいました。当時、私は本部道場近くの新宿鬼王神社近くの「東洋鍼灸専門学校」に通学、授業が午前10時から午後3時までありました。
本部道場の稽古は、授業と重ならない朝稽古2回、夕方の2回の稽古に参加しました。稽古を始めてからしばらくたつと、顔と名前を憶えていただくようになると吉祥丸先生始め、指導の先生方の受けを取らせていただく機会が増え、とても緊張したことが記憶に残っています。
学生現役時代の若手の先生方は、すでに多くが海外に派遣されていました。当時の先生方は、大澤喜三郎先生、多田宏先生、山口清吾先生、渡辺信之先生、佐々木将人先生、増田誠寿郎先生、市橋紀彦先生、遠藤征四郎先生、柴田一郎先生。若手の先生では関昭二先生、宮本鶴蔵先生、横田愛明先生、大澤勇人先生、等、今では本部道場指導者の重鎮の先生方です。
当時の先生方は基本の指導は同じなのですが、技の指導・説明方法が先生方によって多少違うところがあり、とても勉強になりました。ご指導いただいた全ての先生方の記憶と記録をご紹介したいのですが、ここでも一部の先生方について記述していきたいと思います。


三代道主 植芝守央先生  1997年のワールドゲーム・フィンランド大会、その後もノルウェー合気会記念行事、台湾協進会の記念行事の際に、守央先生のお供をさせていただきました。プライベートな時間に親しくお話しさせていただいたのが記憶に残っています。特にノルウェー・オスロでは、中型ヨットでオスロ湖周辺を航海、また宿舎のホテル・プールで泳いだことなど楽しい時間もありました。
 他道場の周年行事の祝宴の折、道主守央先生の「道統を守る強いご決意」をお聞きしたことがあります。先生のご心情をお聞きして「植芝家、合気会」のますますの充実・繁栄を確信しました。守央先生がまだ若先生と呼ばれていた頃、朝稽古に行った時に藤田昌武先生に「今日は、守央先生と稽古してください」と言われ、1時間お相手をさせていただきました。


本部道場長 植芝充央先生
 韓国ソウルで「大韓合気道連盟20周年」が開催された時、充央若先生のお伴をさせていただきました。若先生のご指導の講習会で、愛知の滝本清三先生と一緒に、若先生の受けを取らせていただきました。技は「片手両手取り十字がらみ投げ」でした。見事に二人とも飛び受身ができました。後で“飛び受身は久し振りだったね!”と二人で笑いあったものでした。
 韓国料理のお店で、若先生が辛いトーガラシを平然として食されていたのには驚いた。お供のお二人の指導員に、茶目っ気たっぷりに無理(?)に食べさせていたのも面白かった。もちろん若い指導員の二人は、辛さに飛び上がるような目をしていました。 また、2015年のフィンランド合気会創立45周年の際も5日間お供をさせていただきました。ヘルシンキの滞在ホテルは同じでしたので、ほぼ一日中ご一緒させていただきました。私は、40年以上にわたってフィンランド合気会の指導を担当してまいりました。若先生から、心のこもった労いのお言葉をいただき感激したことを覚えています。
 サウナにも入りました。湖にも入りました。若先生の裸を見るのは初めてでした。とても立派なお身体でした。とても柔らかい筋肉のように思われたので「トレーニングを何かしているのですか?」とお聞きしたら、先生は「私は肩が外れ易いので、ウエイト・トレーニングは出来ないので、ゴムチューブを使ってトレーニングをしています」と答えてくださった。
 二代道主吉祥丸先生、三代道主守央先生、充央先生の三代にわたって、親しくお声を掛けていただいたこと、受けを取らせていただいたことは大変名誉なことだと思っています


本部道場長 大澤喜三郎先生(1910~1991)
 大澤先生は、「力を抜きなさい。こんな年寄りに力を入れてどうするの!」と、やさしいお爺ちゃんという感じで指導してくださいました。流れるような動きと、何とも言い難い和やかで温かな雰囲気が何とも言えないものでした。
 ご子息の勇人さんが、本部道場の内弟子になられたばかりの時、先生から「五十嵐さんは、小林道場の番頭さんだから、稽古してもらいなさい。」と言われ稽古の相手を務めさせていただきました。
 喜三郎先生は、本部の大番頭として吉祥丸先生を支えられた先生でした。亡くなられた時に、十段位に列せられました。今は、勇人先生が大番頭として三代道主守央先生を支えていらっしゃいます。
 喜三郎先生は昭和58年2月の橋本道場開きに、合気会本部道場を代表して出席してくださいました。有難うございました。


山口清吾先生(1924~1996)
 柔の稽古で目立ったのが山口清吾先生です。稽古に通うようになり顔を覚えていただくようになると受けに使っていただくようになりました。
見るのと受けを取るのと大違い!身体全身をしなやかなバネのように使い中心を崩されて投げられて驚いたことが数多くありました。
 稽古後に、先生の袴をたたませていただくようになり、袴を高段者更衣室にお届けすると色々とお話をさせていただきました。
 また、稽古後に先生は本部近くの喫茶店でコーヒーを飲まれるのが日課となっており、時々ご一緒させていただきました。その時にも、技はこうやると良いよ、とか。「最近、一教で抑える時に、小指の方を上に向けると良いのかな、と考えているんだ。」と、私のような若いものにも手ぶり身振りで教えてくださいました。もちろん、毎回のコーヒー代は、先生のおごりでした。有難うございました。


多田 宏先生(1929~)
 先生は、早稲田大学空手部のご出身で、私の現役時代はすでにイタリアに派遣されており、直接の指導は受けたことはありません。
しかし、小林道場の内弟子時代に、多田先生がイタリアに指導に行かれた留守の間の1ヵ月間、吉祥寺の月窓寺道場の指導をしました。その時、事前に月窓寺道場で多田先生から指導方法、呼吸法など2回ほど特別に講習を受けました。
そして本部道場の多田先生の指導時間に1日、先生の受けを取らせていただきました。
呼吸を大事にされる先生でした。この時に教わった呼吸法が、この後に北欧に派遣された時、そして今も役に立っています。
とにかく力の強い先生でした。私の師である小林保雄先生は柔道出身者です。小林先生の技は、うさぎ跳びやマラソンで鍛えた下半身から繰り出される大きな捌きが特徴です。
しかし、多田先生の技は上半身から繰り出されるとてつもないパワーで吹っ飛ばされるという感じでした。小林先生のお話でも、本部道場にある太い素振り用木刀を思うままに振りピタッと止めていたのは多田先生だけだったと言われていました。また、ドイツの浅井勝昭先生が、「正面打第一教の表で頭から落とされたのは、多田先生だけだった。」と言っていました。
先生に「袴をたたませてください。」と言っても「私がたたみます。」との返事。また、「カバンを持ちます。」と言っても「これは私が持ちます。」との返事。
キッチリしていらっしゃる先生でした。カバンを持つ時もトレーニングを兼ねるようにカバンを身体から離して持って歩くという徹底ぶりに驚きとともに感心しました。
現在は90歳。まだまだ現役の先生です。現道主も「多田先生は別格。バケモノだ!」と言っていました。私も、多田先生のように90歳を過ぎても合気道を楽しめたら良いなと思っています。


岩間道場 斎藤守弘先生(1928~2012)
 「岩間スタイル・斎藤流」で有名な斎藤先生のことは、現役時代はよく知りませんでした。斎藤先生は昭和30年代に本部道場の日曜稽古を指導していました。小林先生は、本部道場で、また開祖盛平先生のお供で岩間を訪れた時に、斎藤先生のご指導を受けたと聞いています。大学の現役時代、小林先生も剣・杖技を時々ですが指導してくださいました。
 そして昭和44年、菅原鉄孝先生(後述の“私の合気道の師”で紹介)の指導を受けるようになり、二泊三日の岩間合宿に誘っていただき岩間道場で初めて稽古しました。斎藤先生はまだ40代前半で身体も大きく元気な斎藤先生の豪快な基本体術稽古、剣・杖を使った技、組太刀・組杖のご指導に感銘を受けました。先生のご指導は、始めに片手取り転換、片手両手取り(諸手取り)呼吸法から入ります。この2つの技の指導の時は、必ず参加者の一人ずつの手を取って教えてくださいました。岩間道場では持技・取技はしっかり、力いっぱい持って行います。また、打突技は正確に力強く打つ、というように「固い稽古」が中心です。かつ、技はゆっくりと行います。斉藤先生は、触れずに相手を転がすといった技は決してしませんでした。あくまでも、初心者が学ぶような基本の技で相手を投げる、制する指導を中心に行っていました。「Slow is smooth, smooth is fast」の言葉取りのご指導でした。
 私の初となった海外指導(北欧)の時、小林先生の教えはもちろんのことですが、斎藤先生の教え方がとても参考になりました。  ≪最近、合気道本部道場から全日本合気道演武大会では、剣・杖を使った演武を遠慮するようにという通達があるようになりました。以前、吉祥丸先生が全日本演武大会で、守央先生を受けに「組太刀」を演武されました。吉祥丸先生がまだ小学生の時、盛平翁先生が鹿島神刀流の吉川宗家をお招きして特別稽古をしたと記録が残っています。鹿島神刀流の組太刀に翁先生が合気を取入れたとあります。また、吉祥丸先生の合気道教本にも「組剣」として紹介されています。以前より「合気道の動きは剣の捌きからきている!」と、よく聞きますが、最近は剣・杖技をご指導くださる先生方が少なくなったのは大変残念です。≫


白田林二郎先生(1912~1993)
 白田先生は、開祖盛平先生の戦前のお弟子さんのお一人で、全日本合気道演武大会でのお姿しか見たことがありませんでした。が、30年ほど前だと思いますが、明大合気道部後輩の追分拓哉君(福島武道館館長・現七段)から「五十嵐先輩が、前から指導を受けたいと言っていた白田先生の講習会を福島でやりますから参加しませんか?」という連絡をもらいました。憧れの先生のお一人です。喜んで参加させてもらいました。
 土・日曜日の二日間の講習会でした。追分君が「小林先生のお弟子さんです。」と、先生に紹介してくれました。
 私のような若輩者にも「小林先生は素晴らしい先生です。先生のもとでしっかりと稽古をしてください。」と、丁寧なご挨拶をいただき、かえって恐縮したことを思いだします。
 講習会では基本技の指導が中心でしたが、「これが翁先生の技か!」と思わせる力強くかつ流れるような技を見せてくださいました。
また、年齢を感じさせない動きと立ち姿に感動を覚えました。稽古後、宿泊先の温泉旅館でご一緒に露天風呂に入りました。80歳近くとは思えないほど筋骨隆々、特に太ももがしっかりと締まっているのにびっくりしました。お酒を飲みながらとても楽しい時間を過ごしました。
 白田林二郎先生の存在と人柄があってこそ、東北の合気道が一つにまとまり発展したと追分君から聞きました。
 私も、それを聞き大いに納得したものでした。それから数年後に他界されました。素晴らしいチャンスをくれた追分君には今でも感謝しています。以下に、白田先生のエピソードを紹介します。
 ≪若い時は、太い首とがっちりした肩幅を持つ偉丈夫である。米俵(一俵=60kg)を両手に一つずつ持ち、拍子木のように打ち付けることが出来たという話もある。素性の分からない道場破りが来ると必ず白田が応対し、相手を徹底的にたたき伏せるのが常であったという。開祖について各地の指導にあたる。『皇武館の麒麟児』の異名をとった。≫


磯山 博先生(1937~)
 磯山先生には直接ご指導を受けたことはありませんが、数度お話しさせていただく機会がありました。
 全日本合気道演武大会で、肩まで担ぎ上げ豪快に畳に投げ落とす“岩石落とし”は先生の定番の技、80歳を超えた今も見せてくれます。
 先生と親しくお話しさせていただいたのは、1997年8月にフィンランド・ラハティ市で開催されたワールドゲームの時でした。
 道主植芝守央先生、磯山博先生、道主のお供は入江嘉信師範でした。大会前、ヘルシンキに到着された時に同じホテルに宿泊させていただきました。
 歓迎の夕食後、磯山先生からヘルシンキの案内を頼まれ、海岸の方にご案内し軽く一杯いただきました。
 石畳の道を、先生は下駄ばきでした。私の北欧での20年近い指導に、先生から感謝と褒めのお言葉をいただき感激したのを覚えています。
 また先生は「家にはテレビも置かない生活をしている」と愉快そうに日常生活を話してくれました。
 また近年ですが、国内のある地方の道場の記念行事に、植芝充央若先生が招かれ講習会・祝賀会が行われました。その時、若先生のお供で本部から若い指導員が2名同行していました。彼ら2名を加えて二次会を楽しんでいる時、磯山先生が、彼らに「君たちは本部道場の看板をしっかりとお護りしているか? 若先生をお護りしているか?」と、突然質問しました。もちろん彼らの答えは「しっかりとお護りしています!」でした。このような質問ができるのも、翁先生の教えを受けた先生ならではと感じました。


西尾昭二先生(1927~2005)
 私の現役時代は、西尾先生のご指導は受けたことはありません。日比谷公会堂での全日本演武大会では毎回、真剣を使っての演武を見せていただきました。若い私にとっては、時代劇を見るようでとってもかっこ良く感じました。それが、上級生になって真剣を使っての演武につながりました。同期の主将の飯森君と明治大学主催の演武大会で二回ほど太刀取りを行いました。その内の一回は、何と日本武道館の大舞台で行われた「明治大学入学式」での運動部紹介の時でした。緊張のため納刀の時、左人差し指の付け根を少し切ってしまいました。素晴らしい思い出と恥ずかしい思い出になっています。
 小林道場の内弟子になる前は、横浜市の京急線「井土ヶ谷駅」近くの実家に住んでいました。昭和45年(1970)の秋、合気道を近場で始めようと思い、本部道場の直轄道場を調べてみると横浜駅西口から徒歩10分ほどのところに「合気道横浜支部」がありました。早速、地図を見ながら行きました。道場は歴史を感じさせるもので「松尾剣風道場」とありました。松尾先生は各種の武道・武術を収め、すべての武道の段を加えると百段以上になるすごい先生です。訪れた時は、ちょうど稽古の無い日で先生がお一人でいらっしゃいました。とてもやさしい先生で突然の訪問にもかかわらずお茶を入れてくださり、色々と武道のお話をして下さいました。また、テレビに出演された時の写真や、真剣も見せてくださいました。後に知ったことですが、抜刀道の中村泰三郎先生、北欧でお会いした居合道の眦蔦榮酸萓犬肋照先生のお弟子さんでした。縁があったのですね!
 松尾先生からは、「合気道は合気道本部から西尾先生が指導に来ています」と、お聞きしました。
 そして翌週から、稽古に通い始めました。しかし初めの数回は、西尾先生はお見えになりませんでした。その間は、お弟子さんの五段の方が指導してくださいました。
 そして、やっと西尾先生のご指導を受けることができました。明治大学合気道部ОBの壷内先輩,松村先輩が、西尾先生ご指導の埼玉県の支部道場で稽古をしています。先生は青森県のご出身で、方言丸出しで上記のお二人のお名前を出しながら気安くお話ししてくださいました。
 西尾先生の指導法は、剣・杖を使って体術との理合いの指導がとても興味のあるものでした。
 残念ながら、徐々に仕事が忙しくなり稽古も3ヵ月ほどで通えなくなりました。北欧の市村俊和先生が、西尾先生のお弟子さんです。北欧から帰国後、親しくお声を掛けていただくようになりました。
 また、お亡くなりになる数年前、合気会本部道場賀詞交歓会が行われた京王プラザホテルでお会いした時に、橋本道場での特別指導をお願いしました。先生からは「良いですよ!」とお返事をいただきながら実現できなかったことが大変残念です。


野呂昌道先生(1935~2013)
 1961年、先生はすでにフランスに派遣されており、本部道場では指導を受けたことはありません。フランスで大きな交通事故に遭い、激しい動きの合気道から、より感覚的に身体を捉え、内面を大切にする「気の道」という独自の団体を作り合気会を離れていました。
 1979年、北欧での指導を終え帰国する時に、ドイツの浅井先生の勧めもあり、一度だけパリの野呂先生の北道場を訪問し指導を受ける機会がありました。
 浅井先生の言によると、本部道場の若手の内弟子の中で、とにかく腕力があり合気道も強く、かつユニークな先生だったそうです。
 道場は60畳ほどと記憶しています。道場を4コーナーに分かれ、1.初心者、2.中級者、3.上級者、4.有段者で何をしてもよいクラスの4つのクラスがありました。
 もちろん当然のように、私は4のクラスに入れられました。技が効かなければ受身は取らなくてよいクラスです。また、互いの中心に技がつながらないと受身は取らなくてよいのです。
 当時は、私も関節を取る技は、ほぼ痛くないまで鍛えてありました。しかし四方投げだけは我慢ができず残念ながら手をたたきました。座技正面打第一教の時、野呂先生がそばまで来て「動きが、小林さんにそっくりだね!」と嬉しい言葉をかけてくださいました。
 そして更に「その動きは、下半身がしっかりしている小林さんだけができるもので、五十嵐君は基本通りこの様にやった方が良いよ!」と言って教えてくださいました。
 確かに、今までの動きは小林先生の真似でした。今は、野呂先生から教えていただいた修正点を大事にしながら一教をしています。


若手の師範・指導員の先生方
 五十嵐道場では毎年、合宿を創立時より平成30年(2018)の「合気道五十嵐道場創立35周年記念合宿」行ってきました。
合宿地は、千葉県岩井海岸、河口湖、山中湖と場所を変えていましたが、直近の20年は山中湖「至誠荘」で行っています。
 合宿には、以前から小林保雄先生、群馬の荒井俊幸先生をお招きして開催していました。
 そして、2003年の五十嵐道場20周年記念合宿から、本部の先生方を特別講師としてお招きするようになりました。
 20周年には宮本鶴蔵先生。25周年には横田愛明先生。28周年には大澤勇人先生。30周年(2013)は小林幸光先生、鈴木俊雄先生。平成31年からは4年間、櫻井寛幸先生に。
 35周年(2018)には、菅原繁先生をお呼びして開催いたしました。先生方の指導法はもちろん個性豊かで興味深く、とても参考になりました。そしてお酒を飲みながら、お話をしてみると先生方に共通しているのは「本部道場の看板を背負っていること、植芝家を大切にしていること」への強い想いがヒシヒシと伝わってきます。
 先生方の育った年代にもよりますが、二代道主吉祥丸先生、現道主守央先生への親愛なる情です。ある先生が語る言葉には、道主先生を語る言葉に自分の親以上の感情が移入されていました。

………………………… つづく …………………………

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道場長きままご
 (令和2年8月)

---- 闘病とコロナ禍の中で -----

 私の合気道と人生 (その1)

 昨年(令和元年・2019)は、「合気道八段位昇段祝賀会」開催後の5月下旬の右目の失明、
11月の急性大腸炎での入院、そして今年1月の右肩腱板断裂の手術・入院。さらに2月末の左目の白内障手術・入院、そして今は、古傷の左膝の痛みが再発し正座・座技が厳しい状態です。「何か悪いことをし過ぎたのか?」と、過去を振返る一年でした。「運命のなかに偶然はない・人生に偶然はない!」と言われています。ということは、コロナ禍も私の闘病生活も天から与えられた必然的なことか?!
これも天から・ご先祖様から授かった命に感謝の心を忘れ大切に使っていなかったことへの報いかと、今後は残り少ない人生を悔いが残らないよう大切にしていきたいと強く思っています。
「天から、ご先祖様から、少しは休めという有難いお言葉」と皆様に甘え、稽古・指導を長い間休ませていただきました。その後、4月からは少しずつ稽古指導の復帰を考えていましたが政府からの「緊急事態宣言」の発令、また5月の「第2次緊急事態宣言」の発令により、3月下旬から5月末日まで道場を閉鎖せざるを得なくなりました。「神様、ご先祖様有難うございます。」と言いたいところですが、お休みが少し長すぎたようで、非常事態が恐ろしいことに平常のように感じるようになっています。シェークスピアの「逆境も考え方によっては素晴らしいもの!」という言葉にあるように、これも一つのチャンスと捉え精進し、さらなる上を目指したいものと考えています。
昨年末から稽古指導を休ませていただいた事で、合気道の稽古や、武道関係書籍から学んだことなどの整理が少しできました。また自身の辿った道(人生)を振返る時間を持つことができました。文章の大半は、私の記憶が飛んで行ってしまわない内に書留めた自分史を兼ねています。これを読む家族には「お父さんはこんな人だったのか!」、またお読みになる合気道関係者の方にはご迷惑でしょうが、多少でも私を知っていただければ幸いです。思いつくまま順不同・適当・勝手に記述してあります。
ご了承の上、ご笑読お願いいたします。(合掌)

   ---------------- 闘病とコロナ禍の中で ---------------

 北里大学病院での右肩腱板断裂手術後の主治医の定期健診、リハビリは今も続いています。4月上旬に北里大学病院で術後3か月のМRIを撮り主治医の診察を受けました。
診察の結果、経過も良く主治医からは「まだ右肩の可動域の制限があるので、注意しながら痛みがない程度で稽古・指導はしても大丈夫ですよ!さらにリハビリに励めば、秋には右肩を心配しない程度の稽古ができるでしょう!」と、言っていただいています。
左目白内障手術後、悪くなる前よりハッキリ・クッキリと全ての色が鮮やかに見えるようになり現代医学の素晴らしさに驚きました。5月末に術後3ヵ月の診察を受けました。「良好ですよ!もう通院は必要ありません。」という有難いお言葉をいただきました。その時に、望みをかけて主侍医に「見えない右目は手術をすると治りますか?」と聞いてみました。速攻で「治りません!」の返事。まだまだ現代医学は残念ながら、そこまで進んでいないようです!? 右目失明後、一年が経ちましたが、階段や少しでも段差・クボミのある場所・暗がりを歩く時、そして人とすれ違う時など少し不安があります。また稽古では相手との距離感・間合いをつかむことが難しいという状態です。
「サーやるぞ!」と心も明るくなった途端に「新型コロナウイルス拡大に伴う緊急事態宣言」が発動され、五十嵐道場でも3月下旬から5月31日まで政府からの自粛要請により道場を閉鎖いたしました。また、世界中の道場・体育施設が閉鎖されました。私の人生においても初めての経験です。橋本に道場を創立して37年ですが、2ヵ月以上も道場を閉鎖したことは初めてです。
政府からの外出自粛要請により、家族とも正月以来会えない日が続いています。また、会員の皆さんも一日も早く稽古をしたいお気持ちで一杯だったと思います。5月下旬の日めくりカレンダーに「青春とは人生のある時期ではなく心の持ち方を言う」と米国の実業家の言葉が載っていました。たとえマスクを着用とはいえ稽古を楽しめる時が、私たちの青春です。5月下旬には「緊急事態宣言」が解除されました。それに伴って道場内での感染防止策としてマスク着用義務を始め稽古マニュアル・エチケットの順守と徹底の上、6月初めから稽古再開となりました。
そして、6月中旬には他県への移動自粛が解除されました。しかし7月に入ると、各都道府県で新型コロナ感染者が増加傾向をみせています。特に神奈川県、東京都の感染者の日々の増加には驚きを感じています。神奈川県では「神奈川県警戒アラート」を、東京都は「感染拡大警報第4レベル」を発令、再度の自粛の要請を行っています。
また、7月23日から政府の発案による「ゴートゥートラベル[go to travel]キャンペーン」が始まりました。コロナで不況に陥っている観光業界を救う目的で「国民が国内を旅行する時、約半額を政府が補助する」という巨額な税金を使っての政策です。安倍首相が国会答弁で思わず「ゴートー(強盗)・トラベル」と誤って発音し大きなヤジと笑いが起こりました。キャンペーンが始まった当日の23日、国内全体では約1000名、東京都366名、神奈川県64名と、それぞれコロナ感染者最大の人数となりました。これからは、さらに第2波・第3波が予想されています。
*参考(7/29現在):世界の感染者数16,495,309人・死者654,327人、日本国内の感染者数32,312人・死者1,002人(7/29、国内の感染者数は1日で1,000名を超えました)
もうこのような未曾有な事態を「これから何十年とは無いであろう私の短い人生の中で、もう二度と経験したくはない!」と強く言いたいです。新型コロナウイルスの特効薬・ワクチンは近い将来には開発されるでしょう。あと数年、数十年たった時、東京オリンピックが延期になった令和2年(2020)に、中国の武漢市から発症した「新型コロナウイルス」があっという間に世界中に蔓延して「合気道の道場が2ヵ月も閉鎖することになって大変だったんだよ!また、あっという間に日本中のすべての薬局からマスク、消毒薬が消えてしまったんだ!そして3月下旬、当時の総理大臣から少し(すごく)小さめな通称“アベノマスク”というマスクが一家庭2枚ずつ配られたんだ!」と、しかし実際、我が家に届いたのは6月に入ったころだった。政府の失策を笑い話にして思い出を語ることができる日が来ることを楽しみにしています。
新型コロナウイルス感染の怖さは、志村けんさん始め有名人が亡くなり、報道などで知ることになった「治療中にも会えない!」、そして亡くなった後でも「死に目にも会えない、葬儀も行えない!」など、とても悲しい思いをすることです。その寂しさ・つらさ・悔しさに「ウイルスに掛かってもいけない!移してもいけない!」と強く思いました。親に対して家族に対してこれほど非情な不幸はないと思いました。
先日のNНK報道番組で「老人介護施設での変化」という内容の放送がありました。コロナ禍以前は、本人・家族を含め「延命治療は受けない!」という申し出が多かったそうです。しかし最近、コロナ感染が拡大するにともない「延命治療を受けたい!」という本人・家族からの申し出が増えているそうです。「延命治療を受け、コロナ感染から完治し、死を迎えるまで家族に会いたい、みんなに見守られながら逝きたい!」という切実な訴えです。
また最近、友人から聞いたことですが、関東近県で新型コロナ感染者に対して非道なる誹謗・中傷があった事件です。そのコロナ感染者の家に落書きを始め、窓に石を投げ込みガラスを割るなどの、昔でいえば「村八分」状態になり夜逃げ同様に町を出て行ってしまい、今は空き家になっているという事実です。また、テレビワイドショー番組で若者に対してコロナについてのインタビューで「掛かりたくない奴は、家にいればいい。俺のことを心配する奴などいない!」と平気で答えている若者が一人だけではないことです。テレビ報道番組にコメンテーターで出演している医師が「私たちは、どういう環境の下でコロナに感染しても、感染者を分け隔てなく一生懸命に治療に取りくんでいます」と、強い思いを述べています。

   ---------------- コロナ禍の中での稽古 ---------------

 稽古を再開してからは、三密(密閉・密集・密接)を避けながら単独基本動作(合気体操、他)、間合いのある剣・杖技を主体とした稽古を中心に行っています。合気道では、体術と武器技は両輪であり、どちらが欠けても合気道とは言えないと言われています。また、合気道開祖植芝盛平翁先生も合気の技は剣の捌きからきていると言っていらっしゃいます。この機に、しっかりと身につけてまいりましょう。
この稽古状況は、残念ながら秋ごろまで続くと思われます。ご面倒でも道場内での感染防止策としてマスク着用義務を始め稽古マニュアル・エチケットの順守と徹底について、気を緩めることなくコロナ禍が終息を迎えるまで「新型コロナウイルスに掛かってもいけない!移してもいけない!」を心がけ進んで参りましょう。
道主植芝守央先生が、4月1日に「新型コロナウイルスの拡がりを憂いて」と、5月28日に「日常を取り戻すということ」を、合気会ホームページに掲載されました。とても感慨深く、また重いお言葉です。五十嵐道場の皆様にも熟読していただきたく転載いたします。


   ………………………………………………………………

       新型コロナウイルスの拡がりを憂いて

合気道道主
植芝 守央

 世界中に新型コロナウイルスが感染拡大しております。感染してしまわれた方々の一日も早いご快癒を願い、お亡くなりになられた方々とそのご家族に対し心からの哀悼の意を表します。
現在、 新型コロナウイルス COVID 19 が世界中に広まる中、感染防止対策として様々なことが縮小・中止となり、社会がすっかりどんよりとした曇り空と化してしまっています。
合気道に関しましても各地域で行事は取りやめ、施設閉館により通常の稽古すら行うことが出来なくなっております。やむを得ない事とはいえ大変残念に思います。
確かに新型コロナウイルス感染防止と自己防衛は大切なことですが、それにより不自由な生活に心まで疲弊してしまっていないでしょうか。人としての思いやり、優しさを失っていないでしょうか。今この新型コロナウイルスによって人としての心のありようが試されているような気がします。
「合気道の心の体現である丸い捌き、和合の心」は人として最も大切にしなければならない事だと思います。今、このような時こそ、和合の心を大切に、新型コロナウイルスを恐れても人としての道徳心を失わず、恐れる余りに争い、差別などが起こらぬように、皆が心穏やかに和やか(なごやか)になっていたいと思います。
この感染が終息し、合気道の日々の稽古を取り戻せる時まで、「和合の精神」を忘れることなく、日々の稽古を行える時に備え、歩んでいただきたいと願っております。

          日常を取り戻すということ

合気道道主
植芝 守央

 合気道本部道場が令和2年4月8日からすべての稽古を自粛し、事務局ともに閉じ、全くに人の気配がなくなってから1か月が経ち、緊急事態宣言が延長されたことにより引き続き稽古を自粛せざるを得なくなり、覚悟はしていたものの無念な気持ちでいっぱいでした。
この間、1日に一度は窓を開け、空気を流すために道場へと足を運びました。シーンと静まり返っている道場、105枚の畳、板張りのヘリを合わせて120畳の道場がより一層広く感じます。正面の開祖植芝盛平翁と吉祥丸二代道主のお二人のお写真が、現在の状況にも動ぜずじっとご覧になっています。
昭和6年に開祖が私財を寄付して建てた合気道専門道場「皇武館」。東京への度重なる大空襲で道場のある若松町も燃えつくされる状況下で、「開祖から留守を任された大切な道場を燃やされてはならない 」との思いで、植芝吉祥丸二代道主は飛び来る火の粉を振り払い、必死に道場を守り抜いたのです。焼け野原の中に一つ道場が戦火を免れた事が終戦後の合気道再興を促す思し召しだったに違いありません。当然戦時下は稽古をすることは出来ず、終戦後も避難所として開放されていたのでした。建物は建て替えられましたが、お二人の魂がこもった道場であることに変わりはありません。
新型コロナウイルス感染拡大により、世界中で合気道の稽古を自粛しなければならず、公益財団法人合気会としても非常に苦しい時であり、今はじっと耐えるほか術はありません。
5月26日より、日本では東京も含め緊急事態宣言が解除されましたが、コロナが完全終息したわけでなく、ほんのわずかな気の緩みで再び感染拡大が起こるかもしれません。
合気道本部道場では6月1日より、いよいよ稽古が再開されることとなりました。しかしHPでお示ししているように、これまでと同じようには出来ません。コロナ対策を徹底し、3密にならないように細心の注意と工夫が必要とされます。コロナ禍が終息する日まで、皆様のご協力と他への思いやりの心で道場の新しい日常を作っていかなければなりません。
嘗かつて、植芝吉祥丸二代道主が戦後、「今こそ合気道が必要だ」と思われたのと同様、このような時こそ、世界中の合気道の同胞が一つとなって乗り越えていかなければと思います。そして、開祖植芝盛平翁、吉祥丸二代道主お二人の思いを道場で感じながら何としても切り抜けていこうと強く思っています。


   ………………………………………………………………………

 道主の強い決意が感じられるお言葉と言えます。五十嵐道場でも2ヵ月以上にわたって道場を閉鎖したことは、もちろん経験したことはありません。私も毎朝、道場の窓を開け換気に心がけ掃除をしています。橋本道場でも正面の開祖植芝盛平翁先生、二代道主吉祥丸先生、現道主守央先生のお写真が現在の状況にも動ぜず、じっと道場を見守ってくださっています。
昨年、病との出会いがあってからは「生きているのではなく、生かされているのだ!」と、強く思えるようになりました。それまでは、真摯な気持ちで仏壇・仏様に向かうことは少なかったと言えます。また、道場の神棚に向かう心も雑なものだったと思っています。右目が失明してからは毎朝、仏様へお線香をあげ、しっかりとご先祖様に感謝の言葉を述べるようになりました。また道場でも掃除が終わった後、神棚のお水の交換、お榊の水の交換、そして朝のご挨拶と、一日も早いコロナの終息を祈ってお灯明をあげるようになりました。そして夜の就寝前にもお参りし一日の無事に感謝するようになりました。でも今でも困っているのが、お線香とロウソクに火をつける時です。両目が見えていた時には不自由を感じなかったことですが、片目だと距離感・立体感がつかめずロウソクの芯、お線香の先端とライターの炎を合わせることが難しく何回もやることになり、ライターのオイルがすぐに無くなってしまうことです。
また、3月からのコロナ禍を迎え、外出自粛となり日課として、家の近くに流れる境川沿いを毎朝ゆっくりと散歩しています。愛犬の甲斐犬モコ(本名:百虎竜)が生存中は、毎朝・毎夕に境川沿いを散歩するのが日常でした。しかし4年ほど前に亡くなり、散歩に出かけることも残念ながらなくなりました。まず初めに玄関横の山椒の葉の一片を摘まみ匂いを嗅ぎ「嗅覚に異常がないか確認します」。川沿いを歩きながら鳥の声を聞き、そして川で泳ぐ数匹の鯉を見るのが楽しみの一つになっています。鯉を発見できない日は、なぜか寂しい思いを感じます。そして川沿いにそびえ立つ樹齢100年以上と思われる木々に触れるのも楽しみの一つになっています。境川は、名前のごとく神奈川県と東京都の境界を流れる川です。毎日、神奈川県と東京都を往復しています。
さらに、自慢話にもなりませんが、コロナ禍を迎えた3月から食後の食器を洗うようになったことです。結婚して40数年の間に少しだけやったことがある程度です。
近い将来に「新型コロナウイルス」が話題に上がることもあろうと思います。その話の中に下記の「道場エチケット」も貴重な話題となるでしょうから記録に留めておきます。皆様の記憶にも納めておいてください。


   ………………………………………………………………………

             道場エチケット

1.感染予防の為、入退場時、稽古中はマスク着用をお願いいたします。
  マスクなしでは入場できません。また玄関の消毒薬で必ず手・指の消
  毒をお願いいたします。また更衣室では稽古前後のウガイ、石鹸での
  手洗いの励行をお願いいたします。熱中症にも注意し適時、水分補給
  ・休憩をしながら稽古してください。
2.体温が高い(37度以上)、咳が出るなど体調がすぐれない時は稽古を
  お休み願います。なお、コロナ禍が収束を見せるまで、当分の間は
  稽古時間を各1時間といたします。また同様に稽古後の自習稽古と、
  お茶の時間は休止とします。
3.道場内および稽古中、大声(気合を含む)をあげること、不要・不急の
  会話の自粛をお願いいたします。また、稽古中の礼は目礼・無声でお
  願いいたします。
4.三密(密閉・密集・密接)を避けるため、道場内では一人2畳を目安
  にし、15名の定員を基準にします。また、更衣室が混み合うことが
  予想されます。お車の方は可能でしたら稽古衣着用で来場をお願いい
  たします。また、感染が心配の方は、剣・杖の持参をお勧めいたしま
  す。
5.五十嵐道場では感染防止に努めますが、リスクを安全に避けることは
  できません。万が一、感染した場合にも、その責任が各個人にあるこ
  とをご了承ください。ご家族・関係者の同意の上でのご参加をお願い
  いたします。


   ………………………… 私と合気道 …………………………

 稽古は再開となりましたが、私にとりまして今までのような筋力に頼った稽古指導はできません。開祖・盛平翁先生、吉祥丸二代道主、守央現道主、恩師・小林保雄先生始め、多くの先達の先生方から見取った技、教えていただいた合気道が、まだまだ多くあります。また、合気道のためにと学んだ空手や剣術、中国武術の中にも、合気道に共通する素晴らしい術理があります。そのようなことも含めて、今後も楽しく稽古をして参りたいと思っています。


合気会本部道場の先生方の思い出
(明治大学合気道部現役時代/1964~1968年)

 東京オリンピック開催の昭和39年、1年生の夏合宿後から2か月間、大学の柔道場がオリンピック海外参加国の練習場として貸し出され使えなくなりました。その間、本部道場での稽古、大塚道場(山手線大塚駅)での稽古となりました。当時の本部の先生方は、植芝吉祥丸先生、師範部長・藤平光一先生、古参師範の大澤喜三郎先生、師範の山口清吾先生、有川定輝先生。そして若手指導員の小林保雄先生、五月女貢先生、千葉和雄先生、金井満也先生、藤平明先生、など戦後の本部道場を盛立てた一騎当千、それぞれ個性豊かでカリスマ性のある先生方と言えます。また、当時の若手の先生方のほとんどは、昭和40年前半には海外指導に派遣された方々でした。学生時代は大学での稽古が無い時や、小林先生の指導日に本部道場で稽古しました。本部道場の稽古法は、今でもそうですが1時間の間、稽古相手を替えないで行います。良い人に当たった時は「幸運・ラッキー」の1時間。強い人や乱暴な人に当たったら「不運・アンラッキー」の1時間、地獄のようなものでした。でも、どちらも良い稽古にはなりました。しかし当時から小林先生の指導時間は、できるだけ技が替わる度に、稽古相手を替える指導法を取っていました。それが本部道場の若手指導員の中でも、小林先生の人気があった理由の一つだったと思います。すべての先生方の記憶と記録をご紹介したいのですが、ここでは一部の先生方について記述していきたいと思います。


開祖 植芝盛平先生(1883~1969)

 私の合気道部現役のころは、日比谷公会堂の全日本演武大会や学生演武大会などで、植芝盛平翁先生の演武は拝見していました。第一印象は「神様だ!」という思いだけでした。本部道場に稽古に行くと時々は翁先生が道場にお見えになりました。「翁先生がお見えになりますので、正座をお願いいたします」と、指導の先生の声で全員が正座して翁先生をお迎えします。道場では、指導の先生を受けとして「合気道の神髄」を見せてくださいました。そして古事記とか神様のお話をよくしてくださいましたが、内容が難しく正直なところ覚えていません。また、その頃には足もしびれていたことだけはよく覚えています。もったいないことをしたと今は思っています。


二代道主 植芝吉祥丸先生(1921~1999)

当時の本部道場長の植芝吉祥丸先生は、細見の身体ながら優雅に力強く捌かれる姿は別格でした。当時は植芝盛平先生のことは大先生と、吉祥丸先生のことは若先生と呼んでいました。明治大学合気道部の段審査は、本部道場で吉祥丸先生が審査長で、小林保雄先生が出題する審査員でした。審査後に吉祥丸先生から「気合は必要ない。もう少し静かにやりなさい!」と注意を受けたことを鮮明に覚えています。大学の稽古では、「声が小さい!気が出ていない!気合が小さい!」と上級生に指導されていたので、攻撃する時、技をかける時、投げる時など自然(ある時は不自然)に大きな声で気合を入れていました。その後、小林先生から本部での審査の時は、声を出さないようにと言われました。
吉祥丸先生のご指導は、家元・宗家としてオーソドックスで基本に忠実な技が中心です。演武会での演武を拝見していると何かホッとし温かい気持ちになります。小林道場の内弟子のころ朝稽古に行った時に、帰り際に「五十嵐君、こっちに入りなさい。美味しい梅干しがあるから食べて行きなさい。」と、声をかけていただいたことがありました。有名な紀州の南高梅で一粒がとても大きくて美味しかったことを思い出します。また「五十嵐君、頑張っているね!合気道の面白さが分かるのは60歳過ぎからだよ!」との言葉もいただいたのもその頃だったと思います。とてもおいしい梅干しと有難いお言葉を有難うございました。
また、橋本に「五十嵐道場」の開設のおり、「合気道」の揮毫をいただきました。道場開きには額装し、道場正面に掲げさせていただきました。
植芝家という家元・宗家の言動は特別のことで、そこに伝統・歴史の重みを感じます。現道主守央先生、そして本部道場長充央先生の演武を見ると、やはりホッとするものを感じるのは私だけではないと思います。
守央先生がまだ若先生と呼ばれていた頃、朝稽古に行った時に藤田昌武先生に「今日は、守央先生と稽古してください」と言われ、1時間お相手をさせていただきました。また5年ほど前、韓国ソウルで「大韓合気道連盟20周年」が開催された時、本部道場長の充央若先生のお伴をさせていただきました。若先生のご指導の講習会で、愛知の滝本清三先生と一緒に、若先生の受けを取らせていただきました。技は「片手両手取り十字がらみ投げ」でした。見事に二人とも飛び受身ができました。後で “飛び受身は久し振りだったね!”と二人で笑いあったものでした。二代道主吉祥丸先生、三代道主守央先生、充央先生の三代にわたって受けを取らせていただいたことは大変名誉なことだと思っています。


師範部長 藤平光一先生(1920~2011)

藤平先生は、小柄でズングリ・ムックリ、太い手首から肘を通り越していきなり肩と感じるほど、手の長さが短く感じられるくらい太くて持つと手が回らないくらいありました。「気が身体を動かす」という指導理念で、気を重視した分かりやすい説明ですが、分かったつもりでも実際には難しいものでした。「曲がらない腕」「持ち上がらない身体」など、気の入った統一体の強さを指導していました。「曲がらない腕」は、最も記憶に残っているもので、先生の説明では「消防ホースは、放水しないときは伸ばして丸めてしまっておくだろう!しかし、いざ火事となりホースから水が一気に放水されると、そのホースは固くなり踏んでも潰れないだろう!その水の勢いが《氣》だ!」と言って、稽古人同士でよく実験したものでした。先生の腕は太くて短くて、さらに気の充満しているカチンカチンの腕は二人が掛かって曲げようとしてもびくりともしません。そしてまた、先生が「今度は気を抜くから、曲げてみろ!」と言われるので、先生の腕に触ってみると柔らかい筋肉に変わっていました。曲げてみると確かに曲がりました。でもその当時の私は、不思議さとともに「わざと曲げさせてくれた」と思ったものでした。
この「曲がらない腕」について面白いエピソードがあります。後述のドイツの浅井勝昭先生のところに初めて伺った時にお話してくださった事です。内緒で紹介します。

≪浅井先生:藤平先生の「曲がらない腕」は、初めて合気道を紹介するときに大いに役立った。ほぼ全員が興味を持ち、さらに試させてみると「気」が入った状態と、入っていない時の違いに関心を示し、合気道を理解してもらう一助となった。しかし、ある時に「私にも先生の腕を曲げさせてください!」と言って熊のような大男が現れ「曲がらない腕」に挑戦してきたそうです。先生は、もちろん自信満々「はい、どうぞ」。しかし、その大男の力は想像を絶するもので、先生の肘が悲鳴を上げ始めましたが、どうにか持ちこたえたそうです。しかし、その後に肘を見てみると骨がずれて少し出っ張っていたそうです。先生が、その男のことを知人に聞いてみると、五寸釘や細めの鉄棒を簡単に曲げたり・伸ばしたりすることができる大力持ちだったそうです。その肘を見せてもらいました。確かに骨が肘の外側に少し出ていました。そして、その後の一言が印象に残っています。『五十嵐も説明の時にやるだろうが、今度やる時には「曲がらない腕」ではなく、「曲がりづらい腕」と言った方が良いぞ!』と有難い助言をいただきました。≫

藤平先生から教わった気の使い方、気のおき方など、今になって大きな力となっています。アメリカで、プロレスラーや柔道チャンピオンと闘ったこともあり、また一時、プロレスの力道山と闘わせるという話も出ていたぐらいの強い先生でした。翁先生が亡くなられて、しばらくして「心身統一合気道(気の研究会)」を創立し独立されました。最も合気道の技で影響を受けた先生のお一人です。
「曲がらない手」について記している時に、どう出版発行の季刊誌「道(以前の誌名・合気ニュース)」2018年4月春号に、宇城憲治先生「連載42回・身体の時間を変化させよ−−そして、人間に秘められた神秘力を引き出せ−−」の中に、藤平先生が指導されていた「曲がらない手」に通じる面白い内容がありましたので下記に紹介します。宇城先生が執筆される「気」についての多くの書が、どう出版から出版されています。興味のある方は是非お読みください。

≪宇城先生:水道ホースを引いて蛇口をひねったらどうでしょうか。蛇口をひねって水が反対側から出るまでに相当な時間がかかります。しかしこの水道ホースの中が水で満たされていたら、瞬時に水は出てきます。このホースに水が入っていない状態を「身体の呼吸が止まっている状態」と言っています。逆に満たされている状態を「呼吸ができている状態」すなわち、身体が気で満たされている状態です。身体の呼吸が止まっている状態とは身体の呼吸が通っている状態とでは人間の活力やスピードが違ってきます。水道ホースに水がつまっていたら、すなわち「気」が満ちていたら、即「今」が出口に伝わるということです。しかしホースに水が入っていなければ時間がかかり「今」は変わりません。≫

藤平先生は、ホースの水が一気に放水される強い状態を「気が出ていると表現されています」。宇城先生は、ホースの中に水が入っていない時、満ちている時、出ていく時を時間差で表現されています。とても興味深い内容です。先達の先生方は、立っている姿がとても大きく感じました。また、私たちが先生方の手を持とうとした時、正面打・横面打で攻撃しようとする瞬間には、先生方はすでに統一体が出来上がっている状態になっており、攻撃する者はすでにコントロールされた状態だったのだろうと思います。


有川定輝先生(1930~2003)

また当時の代表的な師範のお一人の有川先生は、空手上がりで肩を丸めモッソリした感じの先生で、歩き方も上体をゆすって歩く姿は怖く感じたものでした。また、技の説明の時、内容が聞き取れないぐらい「ボソボソ」とお話しされます。とても聞き返すことなどできる雰囲気の先生ではなかったです。本部師範の中では、怖がられた先生でした。現役時代、同期と「明治大学の師範でなくてよかったね!」と話したものでした。先生には、本部道場での稽古中「オウ明治の学生か!二教の裏はこうやるのだ!」と教えていただきました。肘はボキッと音がしました。その時には、先生は何事もなかったように離れていきました。でも数年後、小林道場内弟子の時の新年会に、有川先生が出席された時に少しお話する機会がありました。武道に関する造詣が深く、質問にはよく答えてくださいました。一教、四方投げ、入身投げなどに特徴があり、有川先生のお弟子さんはすぐわかります。また、有川先生がご指導された7大学合気道部ОBが合同して、今も先生のお墓参りをしていると聞いています。先生のお人柄がうかがわれる素晴らしいお話だと思っています。「師への感謝」の心を教えていただきました。


小林保雄先生(1936~)

私は、第1回東京オリンピックが開催された昭和39年(1964)春、明治大学合気道部で稽古を始めました。指導責任者は合気会本部道場師範(当時は指導部員・五段)の小林保雄先生でした。当時、本部道場の若手指導員の中でも稽古が結構荒く「本部の荒法師」と言われたこともあったと聞きます。また、数回の救急車騒ぎや、出稽古先から吉祥丸先生へ指導員の交代の要請もあったそうです。今の先生からは想像もできないことです。その年から合気道のみならず、現在まで公私ともにご指導いただいています。
現在、合気道を職業として生活できることは先生のおかげと感謝しかありません。私にとりまして恩師であり人生の恩人であります。でも、私よりちょうど10歳上のお兄さんという感じの先生です。
小林先生は、小学生の時から講道館で柔道を始め、明治大学入学とともに合気道本部道場で開祖植芝盛平先生、吉祥丸先生ご指導のもと合気道の稽古を始められました。その後、本部内弟子と同様の稽古を続け、大学卒業後は就職することなく本部道場の指導者になりました。当時の若手の内弟子は、後年に海外に派遣され大いに合気道を世界に広めた先生方と言えます。
小林先生は、植芝盛平先生が亡くなられた昭和44年春(1969)に、東京小平市に「小林道場」を開設しました。昭和47年秋に、埼玉所沢市に「所沢小林道場」を開設しました。(小林先生については、次回「私の合気道の師」の項で、より詳細をお話させていただきます)

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道場長きままごと
(7) 令和2年8月
“変わりダネ日本人 [植芝盛平]”

 今年の1月に、「変わりダネ日本人・植芝盛平」その1、2を掲載いたしましたが、全文の準備ができましたので、その1から13まで一挙に掲載いたします。

 令和元年末、断捨離で本棚を整理していた時に、東京タイムス(昭和38年頃)に?変わりダネ日本人[植芝盛平]″というタイトルで連載されていた「開祖植芝盛平翁先生」のインタビュー記事のコピーを発見しました。きっと以前に、小林保雄先生より頂いたものと思います。すべてが揃っていませんが、興味ある内容でしたのでご紹介いたします。なお、なにぶんにもコピーといっても昔の青焼きコピーの関係で不鮮明で読み取れない部分、また記述内容・言葉使いが令和の時代にそぐわないところは勝手ながら修正およびカットしてあります。ご容赦のほどお願いいたします。(インタビュアー 池田一彦)


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その1
合気の試合やめる
他流の巨漢を不具にして

 いく通りかの合気の型を見せて、道場からもとの座敷に戻った翁は、「わしは50歳からこっち、試合というもんを一切いたしまへん。他流試合はもちろん、合気同士の試合でも、必ず相手を傷つけることになりますさかい。」
 のちになってわかったのはこういう話だ。翁が50歳をすぎたころ、ある日、道場へ身のたけ6尺、体重30貫、腕は鉄のごとく、腰は大石臼のごとき巨漢があらわれ、「わしは鹿島神刀流免許皆伝の者じゃ」と試合を申しこんだ。
 その男はいかにも強そうであった。鹿島神刀流といえば、3尺の長剣をふるってまっこう正面から切りこむ一刀が、電光石火、目にもとまらぬ技がもはや人間業ではなく、文字どおりの神刀だといわれていた。
 そんな、魔剣の正面に立った植芝翁は、「よろし」。試合開始の掛け声とともに、ツツーと進んで、相手が大上段にふりかぶった木刀の剣先に進んだ。そうすれば間合いが詰まって、相手の打ちこんでくる力がかえってにぶる。はなれているほど、向こうの打撃力は強くなる。つまり加速度の原理だ。
 「えーいッ!!」
 ものすごい叫び声もろとも、もろ腕の力かぎり、敵は木刀を打ちこんだ。巨体で突進してきて、同時に体あたりの戦法であった。これでは小男の植芝は、脳天を打ち砕かれたうえ、道場のすみっこに、雑巾のごとく横死させられる!。
 非常に危険な、とうてい道場での試合とは思えぬ殺人剣であった。
 「うむ!」と、一切をさとった植芝は、とびのきもかわしもせず、そこに突っ立ったまま、スッと斜めに身をひらいた。
 植芝には、相手の打ちおろしてきた木刀の先端が弧を描く、その「弾道」がみえていた。「弾道」のわずかに7、8寸の外側へ、自分の体をかわしたのである。
 「かわすという技法は、3尺も5尺もとびのくのは下で、わずかにスレスレに身をかわすのが中、もとの位置にいて、相手が勝ったと思うくらい、ほんの5寸だけ剣の落ちてくる外側へ身をひらき、その剣に空を打たすのが上」
 とは、これまたのちにきいたところだが、この時がそうであった。その男の目には、とびのかない植芝の体がみえ、「打った」と思い、満身の力で植芝の体にぶつかった。もし、その男の予期したとおりであれば、植芝盛平は鹿島神刀流のために殺されていたであろう。
 しかし、ぶつかったと思う植芝のからだのそばをスーッと通り抜けて、男の巨体は、恐ろしい勢いで道場の羽目板にぶつかっていった。そしてそのまま気絶した。
 手当を加えたが、右肩が砕けていてもとのからだにはならず、武道廃業のほかはなかった。
 「あの人も、自分の力で大けがをしたんやが、わしがチョイと手出しして、途中で止めて倒してやれば、羽目板まで行かずにすんだのにと、つくづく考えこんでしまいました。
それ以来、合気では試合をやめましてん。」


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その2
女性まじえはげしい修行
“力にたよれば必ず負ける”

 それ以来、合気では道主植芝翁自身だけでなく「一切の試合」を禁じた。したがって道場での技は型を見せるだけとなった。しかしそれにも相手がいる。
そして道主の相手になるのは、よほど練達したものでないと勤まらない。
 翁のはげしい声に向かって、サッと木刀を打ちこんでいくと、翁のからだはわずかに横にひらいて相手を手もとにひきつけ、トトトと泳ぐのを、「ソーラ」と、かるく技をかける。すると、羽目板まで行かず、相手は途中でラセン形にまわってたおれる。
 「止めてやるのが合気です。けがをするのは自力です。合気は“愛気”で、相手を愛して、そうら、そんなに力を出すと、負けるよ、ということを実地に教えるのです。しかし他から教わるだけではいけません。“愛される”だけではいかん。師範と対等に“気を合して”まず自力に打ちかつ、という修業が初伝です。それを“アガツ”といいます。」
 と道場長吉祥丸さんの説明。「アガツって何ですか?」
「“吾勝”と書きます。吾に勝つ、という境地です」。かたわらから翁がいうには、「人の力には、いくら強いといったって限りがあります。その力で行こうとすれば、必ずやぶれます。日本のやった大戦争がそれでした。日本の武道も力わざである限りは、邪道のものです。
 しかし、武道において力を否定すれば、一見武道を否定しているようにみえる。
力を否定する武道というものがあるのだろうか。大東亜戦争の始末をみて、わしは深い悩みにとらわれ、岩間の奥ノ院にこもって3年間、思い悩みました。修業をしなおしました。そして、やっと戈(ほこ)を?止″めるのが、?武″であるゆえんを悟りました。これが吾勝の境地です。
 吾勝を越えた合気の修行者は、相手のいかなる暴力をも、かるく止めてしまう技を身につけます。こちらから相手を打ち倒すのではないから、もはや武器はいりません。無手です。無手で相手の剣に対し、切りこんでくれば、かるくかわして、相手の力を去(い)なし、そのあとで、?そうら″自分の力でたおれるんだぞ、と相手をたおします。
 むろん、それは相手の剣をいなした時にちょっと技をかけて、それで相手がたおれ、その力が無になるようにします」
 話はカンタンだが、これが合気の初伝の真ずいである。ただ、相手の打ちこんでくる剣を「かるくいなし」といったって、やり損じれば、切られてしまう。
 相手に「きった」と思わせるくらいわずかにかわして、相手をそばに引きよせ、「タッ」という一瞬間にその手首を打つとか、ひねるかして、加わったその力で、相手がたおれ、ないしは自分の力を失ってしまう。
 そういうふうに仕向けるには、こちらによほどの技の修練がなくてはならぬ。
若松町の道場では、一日に300人ぐらいが必死になって、そうした練習にはげんでいる。その中には女性もまじっている。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その3
悲願の岩間隠せい
修業のやり直しに専念

 植芝翁やその他の人々が「岩間の奥ノ院」というのは、茨城県岩間町にある盛平翁の住居である。翁がここに千坪あまり原野を買って、その松林の中に、はじめ仮小屋のような家を建てたのは昭和15、16年であったが、そこへこもって修行のやり直しに専念したのは日本敗戦の年であった。
 その時から「力にほこる者はほろぶ」「合気道は戈(ほこ)を止める道だ」「その道を完成しよう」との大悲願を立てて一心不乱の幾年となった。
 したがって、岩間時代の初期には、翁は至って悲観的で、自分のそれまでの合気をほとんど否定し、新しい道を模索していた。
 だから門弟の塩田剛三などがたまたま岩間を訪れて、「先生は高齢で衰弱し、隠居してしまった。合気道の二代目はオレだ」とばかり、都民銀行の工藤昭四郎や国策パルプの南喜市の後援で、新宿区築土町に養神館道場を建て、合気の元祖のような態度で多くの門弟をあつめた。
 塩田は植芝子飼いの男で、道場長吉祥丸などと一緒に育った男だが、翁の真の精神を体得したとは言いがたい。
 若松町の本部道場が吉祥丸や藤平光一の渾身の努力で、隆々と発展してくると、塩田のパトロンの南喜市が「本部道場と養神館を対等にしてくれ」「塩田に十段の段位をくれ」と申し入れてきたのに、「おう、おう、好きなようにさしたる。十段でも百段でもやる」と笑って答える翁であった。あとで翁は筆者に語った。
 「合気は段位でも道場の格でもない。そないなもんとはおよそ無関係や。南はんはシロウトやさかいしょうがないが、塩田が、そないな世間のミエにこだわっていたかと思うと、かわいそうでならん。ハダカ一貫になってわしのところにかえり、もう一ぺん修業をやりなおしたらええのやけど、あきまへんかなあ」
 しかし、岩間隠せいの(?)初期の翁を見あやまったのは塩田だけではない。静岡で大道場を開いている望月稔八段も同様であった。
 それらの側近の高弟たちがそうであったのだから、森の中の小さな家に住みついた小柄なじいさんの正体を、村ではもちろん誰もが知らない。
 ただ近くに住む国鉄職員の斎藤青年が、2,3人の仲間を連れ、翁のところへ、「合気をおしえてください」と、どこからか植芝盛平の名前を知って入門してきた。その頃は道場もないので、森の中でけいこした。
 ある日、斎藤の仲間の一人が、村の無頼漢たちに襲われた。森の中の、へんなじいさんのところへ何やら習いに行っているというのが理由だ。
 ところが、その一人が無頼漢5人をなげとばした。なげとばされたうちの一人が腕を折った。それから、大変なことになってきた。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その4
暴れ者が真人間に
道場で心身鍛える

 無頼漢の4人を道場に連れて帰って、翁は懇々とさとした。
「おのれの力で相手に勝とうとすれば、たいてい相手にやられる。それはおまえらが味わったとおりや。それを村のヨタモンだけのことやと思ったらまちがいじゃ。日本が戦争に負けたんも、おのれの力で相手を征服しようという邪心のためじゃ。本当に勝つには、自分の力を正しく使わなければアカん。力を正しく使えばおまえらに切れない雑木の束が、67歳のじじいにでも切れる。
 力の正しい使い方によっては、5人や7人、いや10人でも15人でも一ぺんにたおしてしまえる。それがきのう斎藤の使うた合気の手じゃ。
おのれの力を正しく使うということは、技(わざ)であると同時に心だ。心が正しくないと技は身につかん。
 心を正しくするとは、第一に人と争わんことじゃ。だから合気ではこっちから仕掛けて行くということは決してしない」
そのとき、一人の男が言った。「それではまるで武術にならんのと違いますか」。「そうじゃ。いわゆる武芸、武術は、勝とう勝とうとして編み出されとる。武術の神ずいは敵を殺すのではのうて、敵をなくすことじゃ。相手の力を止めることじゃ。合気は敵の力をうばい、戈(ほこ)を止める術じゃ。だからもし敵がかかってこなければそれでええ。何もない。世の中は平和じゃ。そういう平和な世界となれば武術などいらん。一切の武術を廃止するために、どんな武術で攻めてきても、その力をうばい、刀をうばうのが合気じゃ。世界平和ということが合気の大目的じゃ」
 それは終戦後、岩間にこもって、このごろ(昭和25、26年)やっと植芝盛平の心に芽生えてきた新しい武道、合気の目的、理想であった。
長い苦悩をへて、やっと開眼のよろこびを翁は語っているのであったが、相手が町内のヨタ者ではたよりないことおびただしい。
 とにかく、この連中はそれから植芝翁に合気の入身、捌き、受身、片手取り回転、両手取り回転、連続回転などの技を教えてもらった。
しかし、そのため心を正しく持て、ということの実践として、水くみ、掃除、翁の肩もみなど、あらゆる雑用にコキ使われて心をきたえられた。
 折れた腕のなおった兄貴分の男も入門してきて、あるとき翁の肩をもみつつ、“スキをねらって後ろから一ぺんひっくり返してやろうか”と、ふと思った。
「えーい!」翁の掛け声もろとも、その瞬間に、男は肩ごしに前方5メートルぐらいのところへ投げとばされた。恐れ入って、「どうして先生は、わしがそう考えたのがわかったんですか」「気じゃ。なんとなくわかる。肩をもむおまえの手が止まったのでナ・・・」
 以来、かれらは「先生、先生」と翁に師事して、村でもアバレたりしなくなったので、「先生のおかげで町が静かになりました」と、警察の警部補が礼をいいにきた。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その5
生まれは未熟児
父の鍛錬で今日の翁に

 しかし植芝盛平翁が岩間にこもったのは、村のヨタ者を教化するためなどではない。
 合気道に新生面を与える大悲願のためであった。
 そもそも植芝翁が合気道という武道を創始したのは、いつ、どこで、何のためであったか?
 合気道は、天皇何十何代の何天皇の時に、何とやらのミコトが・・・といった由来を、塩田剛三の養神館道場で説き、あるところでの講演で工藤昭四郎がその通り喋っているのを聞いたことがあるが、およそデタラメである。
 植芝翁が、そんな誤解を与えるような言い方を塩田にむかってしたことはあるが、弟子として、もっと正しく聞くべきであった。
 合気は前人未発、全く植芝盛平の創始した武道である。
その神ずいは、身に寸鉄をおびずに、多数の敵をたおす、というのが創始当時の合気道であった。
 みごとにそういう合気道をつくり出した植芝盛平は、大本の出口王仁三郎が、「植芝はんのような人は、百年に一ぺんしかあらわれん奇跡のお人や」という通り、日本武道史上にかつてない新しい武道を編み出した一大天才で、宮本武蔵などよりも、はるかに高い武道精神の顕現者といえよう。
 筆者は、もうかれこれ20年、翁の側近にあって、その過去の経歴と、精神の固成過程をきき、翁の伝記を編もうとしているのだが、80歳を過ぎても翁の精神はすすみ、それにつれて技も発展するのをみて、目をみはっている。翁は「古武道」というものをアタマから否定する。
「古武道とは、武道のヌケガラだす。それを保存して何になる。真の武道は一日も停滞せず、変化し、発展する。合気でも、私はいままでに三千以上の技(わざ)をつくり出したけど、それは合気の発達の歴史みたいなもんで、大部分はヌケガラだす。だから道士が一つの技に執着し、停滞していると、どんどんおくれてしまう。日に新たに、また日に新たなり、の精神が肝心だす。」
 この植芝盛平は、紀州田辺の生まれである。八か月で生まれて五、六百匁しかなく、父の手のひらに軽くのるような赤ん坊で、「この子は育たない」と、人に言われた。それを父が大事にして、「何としても、育ててみせる」と、がんばった。そのためにむやみにかわいがったというのではない。三歳ごろから、盛平のからだをきたえるために、海につけ、磯を走らせ、山伝いをさせ、10歳、12歳と長ずるにつれて、ありとあらゆる荒行(あらぎょう)をさせたのである。
 盛平自身も、幸いにおとなしいけれど負けん気のコドモだったので、自己鍛錬にはげみ、その間の逸話は山のようにあるが、15、16歳になったころには、小柄だが骨の太い非常に力の青年となり、体重も20貫ちかくあった。それでいて、一日20里ずつ毎日山道をまるで飛ぶように走るのだから、目にも止まらず、
「アレ、また植芝の天狗がとおりよる」と町の人々にいわれたものだった。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その6
鬼軍曹もネをあげる
超人的な体躯の持ち主

 徴兵適齢の満二十歳になった時の植芝は、超人的な体躯(く)を持っていた。
腕っぷしや足腰の強いのはふつうだが、頭が石より堅かった。人とけんかすると、頭でなぐる、ということをあえてした。植芝に「頭突き」をかまされたら、肋骨を折るとか、腕がはずれるとか、相手は大けがをした。
 しかし植芝がわれから好んで暴力をふるうということはなかった。そのうち、かれは大阪の連隊に入営した。
 岩上軍曹というのが新兵の教育係で、鬼の岩上というくらい、厳しい男であった。小柄なため、最下位に並んでいる植芝が、ひどく情弱な男に見えた。
「きさま、植芝か?」
「ハイ、植芝二等卒でございます」
「ございますとは何だ。やり直せ」
「やり直します。陸軍歩兵二等卒植芝盛平!」
「ウム、よし、一歩前へ!」
岩上軍曹は一歩前へ出た植芝の頭を、
「活を入れてやる」と力かぎりのげんこで、なぐった。その瞬間「痛ッ!」と、その手を思わず左でかかえた。
「きさまの頭は石か?」
「いえ、ただの頭であります」
「よし、もう一ぺん、気をつけッ!」
岩上は植芝を直立不動の姿勢にさせておいて前よりも力をこめてその頭をなぐった。
自分のこぶしが砕けたかと思うくらいの激痛であった。なぐられた植芝の方は微動もせず、そこに立っていた。
「おい、きさま、痛くなかったのか?」
「痛くありません」
「不思議な頭だな」
「ただの頭であります」
「どうして痛くないのだ」「どういうふうに鍛練したのか」
「一日に百ぺん、石の柱に頭突きをして、七年つづけました」
「フーム」これには岩上もおどろいて、「なぜ、そんなことをしたのか」
「ハイ、私はこのとおり、からだが小さいので、小さくても強くなり、お国のため役立ちたいと思って!」
「そうか、剣道はやったか」
「ハイ、柳生流免許皆伝であります」
「槍術は?」
「大島流免許皆伝であります」
「柔術は?」
「磯流五段です」
「水泳は?」
「軍曹どの、私は熊野灘に面した田辺の生まれで、小さい時から、わが家のふとんの中でねるほかは、海の中でくらした人間です」
「フーン、そうか、そのほかおまえのじょうずにやれるものは何か」
「肩もみであります」
意外な返事であった。が、その夜、下士官室へよばれた植芝は、岩上軍曹の肩をもみながら「軍曹どの、このつぎ私の頭をなぐる時は気をつけてください。軍曹どのの手が砕けますから」


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その7
敵の砲弾をかわす
日露戦争も無傷で凱旋

 日露戦争がはじまると、「この時」とばかり植芝は出征した。一年半ほど戦地にあって、タマ1つあたらなかった。というのも、大砲のとんでくるのが植芝には「よく見えた」からである。
「あぶない」とみてとると、砲弾が着地、爆発するまでに、植芝は一町ぐらい走って逃げた。
「実際、わしの走るのは大砲よりも早かった」と翁はいう。そして、こんなことがあった。何かの都合で植芝の部隊が大連守備中、二人の下士官が繁華街へ飲みに出かけた。
 酔っぱらって戻ってくる下士官に、植芝は途中で会い、敬礼したが、それが相手には見えなかった。
「上官に敬礼しなかったら、どんなことになるか、わかっているか」
二人は軍曹と曹長であった。
 目の前に植芝を立たせておいて、とびかかって頭をなぐった。倒れたのは二人の下士官であった。二人とも手をけがしていた。
「こら、きさま、上官をなぐったな」
「いえ、なぐったのは軍曹どのと、曹長どのであります。もし、おうたがいなら、もう一ぺんなぐってみてください」
 二人の下士官は、改めて植芝をなぐろうとしたが、めいめい手の指の骨が折れていて、それどころではなかった。営舎に帰り、自分の中隊長にこのことを報告した。やがて植芝は二人の下士官とも軍法会議によび出された。
「なぐったのではない、なぐられたのだ」
という植芝の供述を証拠立てるため、もう一度なぐってみることを命ぜられたのは、植芝の所属中隊の岩上曹長であった。岩上はもう曹長に昇進していたが、法廷で植芝の顔を見るなり、
「この男の頭なら、なぐった方がけがをします」と、いきなり証言した。
以来、「石頭」が「鉄頭」という異名になった。
 植芝盛平のこの様な逸話は一冊の本になるくらいはある。しかし、これが合気に直接があるとはいえない。
 植芝が合気を開眼したのは明治42年、かれが北海道開拓に志し、55人の田辺近傍の同志とともに、北見の国白滝村に入植したころである。
白滝村(現・白滝町)の二股という村はずれの部落に定住した植芝は、55人のかしらとして開墾の先頭に立ち、立木を切り、巨石をたおすなどの怪力をふるったので、いつしか彼には「白滝王」という異名がついた。
 白滝王の支配区域は、上湧別村の十里四方に及んだが、ある時、遠軽(えんがる)町まで用に出かけ、そこの久田旅館というのに泊まっている時、一人の強面の人相をした武芸家と出会い、「わしは武田惣角というものじゃ。おまえは見所がある。わしのあとつぎになれる。極意を教えてやるから弟子になれ」といわれて、霊感でもあったのか、植芝は直ちに入門して、武田を白滝のわが家に連れ帰った。
 これが植芝の一生を決定した合気道開眼の機縁となったのである。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その8
武田惣角に師事、仕えて大東流を体得
帰郷直前に父が他界

 武田惣角にめぐり会った植芝は、27歳の血気ざかりであった。
ところで、武田惣角の生まれ山梨県であって、武田家の末えいとも、遺臣とも自ら称したが、大東流という武芸の達人であった。
 大東流は会津藩のお留技と言われ、明治になっても一般にひろまらないで、、代々一子相伝の秘儀として伝わっていた。武田は、その十何代目とか、これまた自ら称していた。
 ずっとあとになって、東京で植芝門下の望月稔が師の道場を訪れ、ガラリと表戸をあけると、サッと木刀がひらめいて、
 「何者だ」と、大かつ一声。
 見ると、そこに立っているのは武田惣角と、あとでわかった。
「まるで、かたき持ちが、そのかたきに襲われたようなその時の顔を忘れられません。のみならず、入来者が植芝の弟子とわかってからの武田先生の態度が論外なのです」
 武田はその時、放浪の旅路から東京にたどり着き、植芝の道場に立ち寄っていたのである。世は大正の御代だから、かたき討ちでもあるまいのに、入ってきた者をいきなり木刀で打ち下ろすというのも非常識である」
 もし望月に合気の心得がなかったら、その時に大けがをさせられていたかもしれない。望月は鹿島神刀流三段、講道館柔道三段、合気三段(いずれも当時)であり、その時は「いきなり足の一本もへし折ってやろうと思いました」と。
 しかし、この武田が自分の恩師の植芝盛平の使える師匠であって、植芝は武田からのどんな難題を言われても絶対に反抗しなかった、と聞いているので、
 「わが師に見習って、がまんしました」と述べた。
 事実、白滝村の植芝の家に滞在中は、武田の着るもの、ふとんの上げ下ろし、風呂たきなど、みんな自分の手でやって忠実に使えた。
 植芝は、武田の世話をやく合い間合い間に、大東流の武術を教わった。大東流には剣術と体術の二つがあって、剣術は電光石火の居合抜き、切り返しのような鋭い技が主で、体術となると、逆手術が大部分であった。
 植芝は数字の天分が豊かであったので、大東流の体術の逆手どりが、非常に数学上からも合理的なのをみてとった。それがのちに合気道となるのである。
武田惣角の大東流にめぐり会った植芝は
「これこそ真の武道ではあるまいか」と思った。天啓のごとく、そんな思いにいたった。
 まもなく、大正7年、植芝の父危篤の知らせが来た。そのことが植芝に天の啓示となってひらめいた。
「先生、お別れいたします。私の家も、土地も一切先生に差し上げます」
武田の前に手をついて別れをつげ、身に一物も持たない裸一貫で、植芝は北海道を去った。
その帰国の汽車の中で、人からこういうことをいわれた。
「あんたのお父さんの病気は、医者でも治らん。それには丹波の綾部に出口という人がいる。その人にたよれば、あんたのお父さんもあんたも救われる」
植芝は、まっすぐ綾部におもむき、初めて出口王仁三郎に会い、父の病気平癒祈願をしてもらってから、田辺に帰ってくると、父植芝与六はもう他界してしまっていた。

五十嵐追記)
次号のコピーが欠落していますので、植芝盛平先生伝から下記を引用し、(その9)に続けていきますことをお断りいたします。
引用)帰郷途中の汽車内で宗教団体大本の実質的教祖であった出口王仁三郎の噂を聞き、与六平癒の祈祷を依頼するため京都府綾部に立ち寄り王仁三郎に邂逅、その人物に深く魅せられる。この間に与六死去(享年76)、物心両面の庇護者であった父を失い憔悴した盛平は1920年(大正9年)37歳、一家を率い綾部に移住、大本に入信する。
王仁三郎はこれを喜び、盛平を自らの近侍とし「武道を天職とせよ」と諭した。
盛平は王仁三郎の下で各種の霊法修行に努める。同年秋頃、王仁三郎の勧めで自宅に「植芝塾」道場を開設。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その9
「大東流合気術」が誕生
武田惣角の来訪を契機に

 そんなことから、王仁三郎の言いつけで、植芝は道場をひらいて信者の中の希望者に大東流の柔術や、武田惣角以前に東京で修業して免許皆伝の免状をとった新影流の剣術などを教えた。
 夜にはいると、王仁三郎がいつもよびにくるので、聖王とあがめられている王仁三郎の居室に行って、すぐそばに寝た。王仁三郎の身辺の警護のためであった。
 その間に、植芝は王仁三郎から宗教的感化を非常に多く受け、武道一方の頭に、以来宗教的な物の考え方が加わった。といっても、やはり大本の教義そのままを信じたのではなく、王仁三郎の口からもれる片言隻語が植芝の独自の宗教心を刺激したのである。
 二年もたつと、綾部の大東流道場には、四、五百人の門人が名を連ねた。植芝はその一人一人に手を取って教えるうち、大東流の技(わざ)から自分流のくふうをした新手をつぎつぎに試みた。
 そこへ、ひょっこりと北海道からやってきたのは、武田惣角であった。それが大正11年の末か12年のはじめで、大正8年の第一次大本事件の後であった。そして、植芝の教えている道場へもやってきて、稽古ぶりをみていたが、
「大東流とずいぶん違うじゃないか」
と目に角立てて怒り出した。
「ハイ、私のくふうを加えたもので!」
「では大東流ということは許さん」
植芝もとうとうカンニン袋の緒が切れて、
「ではあす道場をたたんで国に帰り、百姓をします。先生もどうか北海道にお帰りください」
武田は植芝の雲行きが変わったので、
「それなら大東流合気術としたらどうじゃ」
というので合気道は「大東流合気術」という名で、この世に誕生した。原型になったのは大東流だが、
「起倒流も磯流も、また陰流の精神もはいっています」と、翁はいう。要するに翁の独創である。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その10
王仁三郎と蒙古へ脱出
パインタラで捕わる

 大正12年の11月末、当時大阪で大正日日新聞という新聞を出して、そこの社長をもかねていた王仁三郎は、綾部に帰ってくる「植芝はん、あんたに災難がふりかかってきた。わてといっしょに逃げまひょ」と言い出した」
「仰せにしたがいます。しかし聖王はん、いったいどこへ逃げるのです」
「蒙古だす」
蒙古とは意外千万であった。しかもそれは王仁三郎側近の松村と名田という二人のほかは誰も知らない。植芝は王仁三郎護衛の金神さんとしてついて行く、かねて自分にふりかかっている災難からのがれる、という話である。
 この時の出口王仁三郎の蒙古行きについては、たくさんな話があって、それほどカンタンなものではないが、それをすべてはしょっていうと、大正13年2月13日、王仁三郎は松村真澄とただ二人で、綾部を抜け出した。午前3時の綾部発の列車に乗ったので、だれも知らなかった。
 その列車が亀岡につくと、植芝と名田の二人が待ち受けていた。一行4人の姿は、13日夜8時には下関にあらわれ、関釜連絡船「昌慶丸」に乗りこんだ。
 翌14日朝、釜山上陸、奉天に直行、午後6時半には奉天平安通りの三也商会というのに落ち着いた。
 王仁三郎は植芝に「あんたの災難を免れるために逃げましょう」といって奉天まで来てしまったのだが、彼は大阪で近く大本に第二次検挙の手がくだるとの情報を入手して、国外へ逃亡したのであった。
 しかし「国外逃亡」とよぶのは新聞記者的見方で、王仁三郎の大目的は「諸宗を統一して世界大宗教を打ち出せ」「その聖地は蒙古である」との神示をこうむって出てきたのだ、と松村に語っており、松村はそのための相談役であった。
 もう一つ言えば、日本の政府が大本を不敬罪だの治安維持法だので弾圧して禁止してしまおうとするならば、大本の本部を蒙古に移して、世界人類の救済にのり出し、もって日本政府のハナをあかしてやろうとの抵抗心が王仁三郎にあっての行動であったように思う。
 それはともかく、奉天に着くなり、王仁三郎は東三省陸軍中将盧占魁という元馬賊の頭目で、その時は張作霖の客分となっている将軍に会見し、両者意気投合して、蒙古独立をはかることになった。
 蒙古国ができたら、大本ラマ教と名乗って、蒙古一円に大本の教義をひろめようということになった。
3月3日、王仁三郎一行は奉天を出発して、自動車で開原着、そのまま昌図まで行って、そこで一泊。
 3月8日にはトウ南着。
 26日には王爺廟着。さらに公爺府に進み、後から200人の手兵を連れてやってきた盧占魁とともに、独立の旗上げをする画策中、状況が変わってきて王仁三郎はパインタラで張作霖の出先の軍に捕えられ、通遼の牢屋になげこまれてしまった。
「結局、出口王仁三郎先生とともに地獄いきじゃ」植芝もともに牢屋に入れられ、最後の覚悟をした。王仁三郎も植芝も手カセ、足カセをはめられて、死刑囚の扱いであった。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その11
大将も投げとばす
大東流を捨て独特の武術

 「出口先生とともに地獄行きじゃ」
と、植芝が覚悟したとおり、通遼監獄の中は文字どおりの地獄であった。
 食事といえば一日一食、犬の食うようなきたないお椀に、高粱飯を盛り、ノドのひきつれるような味噌汁が一杯。それを食べるのに、手カセをはずしてくれはしない。足にもカセがはまっているので、うつ伏せにころがって、ようやくお椀の中の高粱飯を一口、それを何十回もかんで、辛うじてのみこむと、次には味噌汁のお椀のふちに口をつけ、、そのふちを唇で傾けて一口のむ。
 牢屋に入れられるとき、荷物はもちろん、身につけたものは全部はぎとられて、王仁三郎も植芝も、ふんどし一つの丸裸である。
 便意を訴えると、入口の戸をあけて外へ出したが、剣つき鉄砲を後ろから突きつけて衛兵がついてくる。だから用便をすましても、尻をふくことも手を洗うこともできない。
 一週間もすると、王仁三郎一行の捕らわれていることが日本側に知れたらしく、おいしい弁当や着物が差し入れられたらしいが、衛兵が横取りしていうのである。
 「どうせおまえらは、明日にも銃殺されるのだから、持ち物や着物はあらかじめ俺たちがもらっておいた。弁当も少し分けてやろう」
 自分の弁当を泥棒衛兵からおすそ分けしてもらうのである。こうした地獄の牢獄生活は、丸十日つづいた。
 十日目に王仁三郎も植芝も牢屋から引き出されて、手カセははずされたが、足カセのまま営庭のような場所に並べられた。
 「いよいよ銃殺だ」
 植芝もここで自分の一生が終わるのかと覚悟して目をつぶった。
 ところがそれは、支那側でめいめいの写真をとるためであった。
 7月5日、一行は無事に鄭家屯の日本領事館に引き渡された。この事件は王仁三郎一行の蒙古独立の挙兵計画というのが支那官憲ににらまれたためであった。
 植芝が王仁三郎をまもって日本に帰ってきたのは、7月25日である。
 しばらく大阪にとどまって、大阪府警察本部の求めに応じ、大東流合気術をおしえたりしていたが、大正14、15年ごろは全国を武者修行をして歩いた。
 大正15年、植芝の合気術は、竹下勇海軍大将に知られ、その援助で東京にきて道場をひらき、大東流を除いて「合気術道場」の看板を出した。
 そこでは大東流をすてて植芝独創の剣術、槍術をも教えたが、ある日に山本権兵衛元帥がやってきて、槍術の試合を見た。
 植芝の電光石火の槍法は、大島流や宝蔵院流の比ではなかった。すっかり感服した山本は「わしが後援者になるからおおいにやりなさい」
 と、芝白金猿町の島津邸内の一戸を借りてくれ、そこに移って道場をひらいたのが昭和2年。
 ここへ竹下大将、山本(英輔)大将、下条海軍中佐、香下慶大教授などが習いにきたが、みな一回の練習に何十回か投げられた。下条中佐などは、道場片すみのイスに腰をかけていて、竹刀で頭をぶんなぐられた。
 山本権兵衛元帥は老齢であったが、孫にあたる令嬢を入門させて植芝武術を学ばせた。
 そのころから、合気術といって無手の武術を教えはじめたが、まだ合気道とはいわなかった。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その12
アメリカにも普及
高弟・藤平九段が中心に

 竹下大将や山本元帥の関係で、植芝道場へは海軍の少壮将校がたくさん入門してきた。
その軍人たちは、政党政治の腐敗を難じて、皇道政治を振起しなければならぬという気風がみなぎっていた。
 高橋三吉大将、百武、蓮沼両大将のほか、西園寺八郎、鮫島恭子などの名も門人長に残っている。
 昭和5年、嘉納治五郎がたずねてきて、「自分は江戸時代の体術を柔道に創案して大衆に普及したが、これは武術をスポーツ化したもので、一方において武術そのものの保存発展が不可欠と考える。合気をみると、これこそ真の武道とわかった。ついては講道館の前途有望の者を両三名預けるから、合気道を仕込んでくださらぬか」というので、講道館からやってきて入門したのが望月稔ほか2名(永岡、武田)で、あとから富木謙治もきた。
 昭和7年、現在の若松町に移り、はじめて「合気道本部道場」と名乗り、30人ぐらいの内弟子を置いた。その中に、戦後、合気道養神会道場をひらいた塩田剛三もいた。
 塩田を十段と前に書いたのはまちがいで、現在九段である。(本部道場の主任師範藤平光一も九段)
 また塩田が養神会道場をひらくまでに「俺こそ合気道二代目だ」と名乗ったことなどは決してない、と本人からの申し入れなので、筆者のまちがいとして訂正しておく。
 塩田は戦後、植芝翁が岩間に引きこもって、合気道の将来の新使命探索に没頭しているころ、東京で合気道をひろめ、工藤昭四郎や南喜一のような有力な後援者を組織したので、中興の功労者といえる。けっして養神流とでもいう別派をつくったのではない。
 塩田の合気は、植芝直伝の正統合気だが、翁にいわせると
「まだまだ修練が足らん。年とともに進みゆく最近の合気の技をもっと身につけることが必要である」との評である。
 ついでに他の高弟にふれると、八段富木謙治は合気を以て早大教授となり早大の学生に合気を教えているが、
「自分のは合気をとり入れた柔道だ」ともいっているようだ。安井早大体育局長は筆者と長年の友人だが、
「なにぶん大学生に教えるのだから、理論的に説明できる範囲の合気のようだが、大学当局としては、まあそれでもいいと思っている」との意見である。
 合気道のもっとも本道を行っているのは、嗣子吉祥丸は二代目道主に指名されている人だからいうまでもないが、主任師範の九段藤平光一が第一の立役者である。
 彼は栃木県の名門の子だが、早くから植芝翁の門にはいり、五段でハワイにわたり、同地で道場をひらいて数千人のハワイ人に合気をひろめ、ハワイ群島内に数多くの支部を作った功労者である。
 ハワイからアメリカ本土にも合気をひろめたが、二年前(昭和36年・1961)には道主盛平翁をハワイに案内して同地の多くの門弟に道主の元気で猛烈な演武を見せて、非常な感激を与えた。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その13
合気道は“大和の精神”
人を愛する根性の錬磨

 合気道なり、植芝盛平のすべてを語ろうとすれば、ぼう大な一冊の本ができるだろう。
筆者は、その伝記を編さん中だが、植芝翁のことを一言にして評すれば「奇跡の人」ということに尽きる。
 特に筆者が翁と知りあった戦後の岩間沈潜時代に、翁は合気道についてこういわれた。
「この宇宙は闘争の世界でなく、和の世界である。それなのに人類が互いにせめぎ合って流血をこととしているのは、今だ和の大精神が発現していないからである。この植芝は、その大和(だいわ)の理想を地上に発現させる使命をおび、合気という武技をその道具として生まれてきた人間である。私は神の使命によってこの道を行うものである」
またこうもいわれた。「合気道は、この大和の精神をきたえる方便で、技(わざ)だけにとらわれるのは邪道である。また大和の精神を堅持すれば、技はおのずから進む」
そして翁のいう和の精神とは「人と争わない魂」「人を容(い)れ、人を愛することのできる根性」であり、いたずらに人に勝とう、人をくじこうという闘争心にわき立つ相手には、その相手の力を利用してたおしてみせ、「お前のそのみじめな敗北の姿は、おまえ自身の力がつくり出した結果だ」とおしえてやる。
 したがって、あらゆる流儀の武芸家の技をも克服できる技を合気道では工夫し、それが三千手をこえたが、実際に用いられているのは、三百手ぐらい、日常的には三、四十手で足りる。その技はすべて受け身の技であった、合気ではこちらからいどんでゆく手はない。
「それでは試合にも決戦にもならんではありませんか」
うっかり聞いた時、翁は言った。
「もし、こんど人類が試合(戦争)をし、決戦したら、地上の人類は滅んでしまいますよ。今は原爆の時代ですからネ。決戦にならないよう、合気は敵に仕掛けていきません。しかし敵の四十八手は、今いう敵自身の力を返上する技でたおします。だから敵は一人相撲を取って一人で倒れるようなものです。合気には敵というものはありません。相手がかかってこなければ、それこそけっこう、それこそ和の世界です。そうありたいものです」
 世界平和七人委員の下中弥三郎が、植芝翁のこの思想を非常に珍重し、翁の道話を聞く会を毎月大田区の自邸でひらいたのは語り草である。
 翁は岩間で3年沈潜して、このような合気道をひらいた。はじめ小さな祠(ほこら)をたてて、スサノオノ命をまつり「合気神社」と名づけたのも、二代、三代と、翁の説く大和の精神のよりどころとするためである。(最近、合気神社は立派に建てかえられた)
 この合気神社のある岩間を合気道の奥の院と称し、本部を東京都新宿区若松町におき、多くの有志の協力で、道場の新築がはじめられている。元来、闘争の具であった武術を、このような平和世界実現の理想に切りかえ、それが単なる形而(じ)上の言葉だけでなく、形のある武技であらわされるというのは、世界にも類のないものということができよう。
 (おわり)

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道場長きままごと(6) 令和2年1月

令和元年12月10日、合氣道五十嵐道場新聞の令和2年1月発行号のための取材を受けました。新聞では掲載紙面の都合上、省略された部分がありました。こちらには、インタビューの全文を掲載いたします。記事中にもありますが、平成31年は、私にとりまして合気道最高位八段昇段という最高な幕開けを迎えることができました。そして令和元年を迎え、八段昇段祝賀会後の5月下旬には右目の失明、11月初旬には右肩腱板断裂、そして急性大腸炎、さらに左眼の白内障と、今までの生活を一変するような年となりました。

今年は、三が日明けの1月4日(土)、相模原市の北里大学病院整形外科に入院、6日(月)に右肩の断裂した腱を繋ぐ手術となりました。入院期間は約2週間で、主治医は種々のスポーツ・チームのドクターを務める見目智紀先生です。手術後は約1ヶ月、肩固定サポートを装着します。サポートが取れるとリハビリです。リハビリ期間は回復状態によりますが、2~3ヵ月は必要と言われています。見目ドクターからは「リハビリは手術後の骨・腱・筋肉を調整するため、とても痛いですよ!」「またリハビリを途中で止めると完全回復は見込めません!」「リハビリは終わりです、と私が言うまでは辛抱して続けてください!」とも言われています。左眼の白内障は、やはり北里大学病院の眼科で2月27日(木)に入院、翌28日(金)が手術、29日(土)が退院の予定です。白内障の手術は、本来ですと日帰りでも可能ですが、右目が失明しているので大事を取って2泊3日となりました。

その様な事で、桜の開花時期を迎える3月下旬まで、稽古・指導はお休みさせていただく予定です。4月には、完全復帰を目指しています。
よろしくお願いいたします。
以下にインタビュー記事を掲載いたします。

道場長に聞く!!
「平成から令和へ」
インタビュアー 八木一光(合気道漸進会代表)

八段位について
――― 暮れも押し迫って、ご多用の中よろしくお願いいたします。
五十嵐 こちらこそよろしくお願いいたします。

――― インタビューを始める前に、先ずは「五十嵐先生、八段のご昇段おめでとうございます。今のご心境をお聞かせください。
五十嵐 今年は、私にとって合気道の稽古を始めて55年という節目の年になります。私の合気道人生において、昭和・平成・令和と時代が代わっていく中、開祖盛平翁先生、二代道主吉祥丸先生に。そして今は三代道主植芝守央先生、合気道本部道場長植芝充央先生にご指導をいただいています。四代にわたってご指導をいただける時代に稽古できることに強い幸せと喜びを感じています。

――― そうですね。今や、開祖盛平先生、二代道主吉祥丸先生のご指導を受けたことがある人達は少ないと言えますね。
失礼な質問かもしれませんが、八段の推薦をお決めになるのは、どなたで何時頃決まるのですか? お答えできないようでしたら結構です。
五十嵐 はい、大丈夫ですよ。ご存じのように七段までは、それぞれの指導の先生が、合気会本部に推薦いたします。私なら小林保雄先生です。八木さんなら、私になります。しかし、八段位は合気道道主植芝守央先生だけの専権事項と聞いています。平成30年12月中旬に、合気会本部の推薦昇段担当師範から「本日、五十嵐師範の八段推薦が決まりました。」と電話があり、驚きと嬉しさで一杯になりました。「有難うございました。」とお答えし電話をおきました。その後、直ぐに小林保雄先生に「本部道場から今、来年1月の合気会鏡開き式で八段の昇段が決まりましたとの電話がありました。小林先生、長い間のご指導を有難うございます。」と報告と感謝の電話をいたしました。

――― 小林先生は、どうお答えになりましたか?
五十嵐 もちろん、先生は「おめでとう!」と言って本当に喜んでくださいました。小林先生門下で初めての八段になります。私にとっても大きな喜びであり、小林先生への恩返しでもあります。

――― そうですね。素晴らしい恩返しと言えると思います。でも、それは、新年鏡開き式まではシークレットなんですよね!秘密を守るのは大変だったのではないですか!
五十嵐 はい、そうでした。年賀状に八段昇段の件は触れることはできません。でも秘密って、ついしゃべりたくなるのですね。23日(日)の橋本道場稽古納め・忘年会の席上で「まだ内緒ですが、来年の本部鏡開きで八段に昇段が決まりました。」と、道場会員には小さな声で伝えました。皆から温かい祝福の拍手をいただきました。

――― その席に私もいたかったですね。先生は、いつ七段に昇段されたのですか?
五十嵐 私が、小林先生の推薦をいただき七段に昇段したのは、ちょうど2000年(平成12年)でした。七段をいただいてから19年になります。八段への昇段は、合気会本部の規定では七段から15年を要すとなっています。しかし実際は、20年は必要と聞いていましたので1年早かったので嬉しかったですね!
――― では合気会本部での鏡開き式・推薦昇段者発表の様子をお聞かせいただけますか。

五十嵐 鏡開き式は、1月13日(日)午後2時より、3階大道場を埋め尽くした国内外からの一千名が見守る中、道主による奉納演武から始まりました。
その後、今年度の推薦昇段者の初段6名、弐段3名、参段16名、四段17名、五段434名、六段198名、七段63名、八段7名、総勢744名の発表がありました。昇段者の名簿を見ると約半数が海外からであり、合気道の世界への広がりを感じました。各段昇段者代表1名と八段昇段者全員が最前列に正座して、道主、道場長の入場をお待ちします。初段から八段まで順番に、道主から直接に証状が授与されます。八段の証状は、私が最初にいただきました。合気会理事の林典夫先生から、「五十嵐さん、一番目の授与者は名誉のあることですよ!」と嬉しい言葉をかけてくださいました。正直な話をしますと、このところ左膝の具合がよくないので授与まで正座ができるか、足がしびれないか、そして膝行で道主の前まで進めるか心配でした。どうにか膝行で前に進み、証状をいただき膝行で戻ることができホッとしたものでした。
鏡開き式での推薦昇段者への証状授与を長年にわたり見てきましたが、やはり八段位となると高齢の先生方が多く、正座や膝行が難しい先生がいらっしゃいます。そんな事で正直な話、正座も膝行もできるうちに昇段させていただけると嬉しいなと、ひそかに思っていました(笑い)。元の席に戻った時、緊張が取れてどっと汗が噴き出しました。
翌日の14日(月)に、合気道小林道場の新年会があり、恩師の小林保雄先生から直接に八段の証状をいただくために出席しました。小林先生から証状をいただいたこと、小林道場内弟子時代の稽古仲間の石村さん、谷村さん、沢田さん、忍山さん、上野さん達からのお祝いの言葉が本当に嬉しかったです。

――― とても貴重なお話を有難うございます。

八段昇段祝賀会を開催

――― 八段昇段記念祝賀会についてもお聞かせください。
五十嵐 昨年5月に「合氣道五十嵐道場創立35周年祝賀会」を開催した東京町田「ベストウエスタン・レンブラントホテル」に電話を入れ、全日本合気道演武大会の翌日の5月26日(日)で予約を入れました。

――― 私も出席させていただきましたが、昨年開催の「五十嵐道場創立35周年記念祝賀会」にも勝る素晴らしい会だったと思います。準備が大変だったでしょうね。
五十嵐 はい。昨年に祝賀会開催の経験がありましたので、会員の皆さん、そして海外担当のフィンランドのヨーン・テルバカリ四段(絆の会代表)にお手伝いを願い準備に入りました。その折は、クボタ印刷社長としての八木さんには、案内状やパンフレットの印刷、記念品の制作などで本当にお世話になりました。有難うございました。

――― とんでもありません。お役にたって何よりです。先生の合宿に参加した時や、祝賀会に出席の時に思うのですが、いつも海外からの出席者が多いですね。今回も半分が海外からの参加者で埋め尽くされていたようですが?
五十嵐 今回は、台湾、韓国、ロシア、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、ポーランド、ハンガリー、カナダ、アメリカの10ヵ国から98名が参加してくれました。総勢が310名でしたから、約3分の1ですね。有難いことです。

――― 彼らは、みんな大きいからもっとたくさんいたように感じました(笑い)。先生は今まで何ヶ国で稽古・指導されたのですか?
五十嵐 そうですね。私が初めて海外に出たのが、1978年です。40年以上前ですね。上記の国以外でいうと、アジアではフィリピン、ベトナム、シンガポール、タイランド、そしてオーストラリア。ヨーロッパでは、イギリス、フランス、デンマーク、ドイツ、ギリシャ、アイスランド、エストニア、ラトビア。アメリカ大陸では、メキシコ、ブラジル、アルゼンチンになります。“アッ”忘れていました。アフリカ大陸のエジプト・カイロで一度だけ指導したことがありました。5大陸すべてで稽古したことになりますね!
何ヶ国になりますかね?

――― ちょっと待ってください。数えてみます。・・・
全部で27ヵ国です。すごいですね、尊敬します。
五十嵐 ただ長くやってきた結果です。育ててくださった小林先生、丈夫な身体を授けてくれた両親のお蔭です。そして、何も文句を言わないで海外に送り出してくれた家内まち子と、道場の皆様の大きな力です。とても感謝しています。

体調と近況について

――― 丈夫な身体と言われましたが、5月の祝賀会後に右目の失明という大病を患われましたが、今は如何ですか?
五十嵐 そうなんです。長年にわたって体力には自信満々だったのですが、5月の初めから右目の一部に幕が張ったような視力障害があり、北里病院眼科で治療していました。しかし、26日に開催した祝賀会の後、張りつめていた気が一気に抜けたのでしょうね。翌日27日(月)朝には、右目が完全に見えなくなっていました。直ぐに北里病院の診察を受けました。そして、北里病院では処置が無理といわれ、眼科で優秀な聖マリアンナ病院を紹介され転院しました。精密検査の結果、右頸動脈に詰まったプラーク(油の塊り)が、右眼動脈に血栓を起こした結果と言われました。そしてドクターから「もし、そのプラークが脳に行っていたら腦血栓となり、もっと大変なことになっていましたよ!」と、慰めと励ましの言葉をいただきました。そしてドクターから「もう右目の回復は望めません。」と言われ退院しました。これも長年にわたっての暴飲・暴食がもたらしたものと自戒しています。また、加齢をかえりみることなく無理を重ねた結果と反省しています。

――― その後、先生とは何回もお会いしていますが、片目なのに少しも憔悴している感じがしないのですが、どうなのですか?
五十嵐 もちろん、本当のところ心身的にも大いに気落ちはしていますよ。73年間、両目で生活していましたので、急には片目での生活、片目での合気道の稽古が上手くいくわけはありません。今、片目になって半年が過ぎましたが、距離感や段差など、道を歩いていても稽古していても不安感があり疲れます。日常生活の中で特に不便を感じていることは、神棚のロウソク、仏壇の線香にライターで火をつける時に距離感がつかめず、なかなか火をつけることができません。ライターのオイルがすぐなくなります(笑い)。また、手紙を書く時に万年筆を使うのですが、書いた後にキャップをはめる時に上手く入れることが難しいです。合気道の稽古では、体術はそうでもないですが、剣や杖を使う時は、間合いをはかるのが難しいといえます。平面で見るのと立体で見る違いに驚きます。
ご存じのように、大相撲の大横綱双葉山関は右目が、また合気道の佐々木将人先生は左目が見えませんでした。でも、それを感じさせることなく大活躍されました。お二人とも、私とは比べようもないほど偉大な方々ですが、お二人の存在が今、私の大きな支えになっています。八木さん、片目なんてたいした障害ではないですよ!
2020年開催のパラオリンピック出場者の皆さんをテレビの映像などで見ると、あれだけの傷害を持ちながら競技に掛けるモチベーションと笑顔は想像できないほど大きく感じます。まだ私は、大好きな合気道の稽古ができます。これほど幸せな事はありません。

――― 先生はお強いですね!
五十嵐 強くはないですよ。いい加減と言うか、諦めが早いだけです(笑い)。そして、家族を始め周りの人に恵まれていると強く感じています。たとえば、目の前の八木さんのような存在が(笑い)。

――― 有難うございます。10月31日から11月4日まで、先生の台湾指導に同行、先生の長年にわたる指導と交流を拝見して、すごく感激しました。素晴らしい機会を有難うございました。
五十嵐 台湾には、1978年に初めて訪問しました。私にとって初めての海外でした。もう41年になりますね。長い付き合いです。

――― また、帰国後に体調を悪くされたと聞きましたが、今は如何ですか?
五十嵐 そうなんです。帰国後の翌日、以前から痛めていた右肩が上がらなくなったのです。近所の整形外科に行って診断を受けたところ「右肩腱板断裂」と言われ、様子を見て手術が必要と言われました。その後、12月中旬にMRI検査の結果が出て、完全に一番太い腱板が断裂していることが分かり手術が必要と言われました。スポーツ外来で優れている北里病院を紹介していただき年内か年初めに手術となりそうです。入院が2週間ほど、リハビリに2~3ヵ月は要するとの説明でした。今は、とにかく「右肩では箸を持つ、鉛筆を持つ程度にするように!」とも言われました。とにかく安静だそうです。
そして週末に、多量の下血があり近くの協同病院に緊急入院となりました。色々な検査をしました。極め付きは大腸の内視鏡検査です。

――― それにしても、それは大病ですよ!
五十嵐 病院によっては、麻酔をしてくれるそうですが、協同病院は麻酔なしでした。とても痛く・苦しくて二度とやりたくない検査でした。“痛い!痛い”と言って男性の看護助士の手を何回も強く握り締めました(笑い)。

――― 先生、笑い話ではないですよ! 今はどうなのですか?
五十嵐 検査の結果、大腸憩室症と診断されました。急性大腸炎のようなものです。ポリープも無くガンでなかったのでホッとしました。医師からは、片目での生活、右肩の痛みなどがストレスになったのだろうという説明でした。その後の出血も無く、しばらく自宅で安静にするように言われ1泊で退院しました。2週間後の再診時に、大腸内視鏡検査の痛さを話すと、なんと「希望したら出来ますョ!」と軽い返事。思わず、「そりゃーないでしょう、早く言ってョ!」と強く思いました。もう少し患者のことを考えてほしいものです。特に私のような高齢者には(笑い)!
やはり、台湾への出張が負担になったのだとも思います。当分は、海外指導は無理だなと痛感しました。今は、道場会員の皆様に甘えて稽古指導は休ませていただいています。

今後の抱負について

――― 先生には、いつまでもお元気で、私たちを引張ってもらわなければなりません。先生の今後の抱負を聞かせてください。
五十嵐 霊能者の知人から「今は、多くの守護霊・指導霊が五十嵐先生を護っているが、これ以上無理を続けると離れていきますよ!」という厳しい忠告を受けています。病気や怪我は“神様から与えられた休暇”と、今は感謝しています。先ずは安静にして健康の回復をはかり、道場での指導に復帰することです。そして、道場での指導ができるようになったら、次は海外指導への挑戦です。次の次は、私が喜寿を迎える令和5年の「五十嵐道場創立40周年・道歴60年」を元気に迎えることです。
昨年の春に、道主植芝守央先生をお訪ねした時に『各地の道場・団体では、地域の環境も稽古に通う人達にも大きな変化があります。その変化に対応するには、10年ごとに大きな会を、5年ごとに小さな会を行うことは、道場の維持・発展には大切な事です。合気会では10年ごとに本部道場創建記念を開催しています。そして、私が80歳を迎える2031年に開催予定の「合気道本部道場創建100周年記念」を道主として迎えたいと思っています。』と、強くお話し下さったことを今、思い出します。
記念行事開催は、もちろん道場の維持・発展にとって大切な事ですが、今の私には1つの目標であり、長生きの秘薬みたいなものに感じています。
先ずは、道場での指導に復帰できましたら、今年10月のロシア心和会創立25周年への出席すること。そして、2021年6月に本部道場長・植芝充央先生をお招きして開催予定の「カナダ・カルガリー合気会創立40周年」に、ご一緒すること。次に2023年の五十嵐道場の40周年開催。次の次は、2027年に開通予定のリニア新幹線に乗って橋本駅から品川駅まで行くこと。そして、叶う事なら2031年の「合気道本部道場創建100周年記念」を、お祝いするまで頑張ろうと強く思いました。2031年は、85歳ですね!大丈夫かな(笑い)?

――― もちろん先生なら大丈夫です。
カナダも、40周年も、リニアも、合気道本部道場創建100周年も! 
先生、もう少し欲張って頑張りましょう!
2033年は五十嵐道場50周年です。お手伝いさせていただきます。
本日は、暮れのお忙しい中、また体調のすぐれない時に長時間にわたり有難うございました。
五十嵐 私こそ、たくさんの元気をいただきました。有難うございました。

取材日 令和元年12月10日(於:橋本道場)

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道場長きままごと(5) 令和元年7月

 今年に入り、国内行事・海外指導など、いつものように忙しい生活を過ごしていました。しかし4月下旬にヨーロッパでの2週間の指導を終え、帰国したころから妙な疲労をかんじていました。
そんな生活の中、5月初旬に急に右目に異変が生じ目の半分に黒い幕が張ったようになり、右目の半分の視力を失いました。病院通いを続け、5月下旬の全日本合気道演武大会、八段昇段祝賀会も無事に終えホッとしました。

 そんな私の体調を心配して、国内外の多くの皆様から電話、メール、お手紙をいただきました。有難うございます。ご心配をお掛けし申し訳ありません。現在の健康状態をお知らせいたします。
 実は、3年ほど前から「右頸動脈狭窄症」と診断され、薬による治療を続けてきました。しかし、5月下旬「八段昇段祝賀会」の開催後に、さらに悪化し頸動脈を詰まらせていたプラーク(油の塊り)が右目の眼動脈血栓となり、血液の流れを止め視力を失いました。もし、プラークが脳に行くと「脳血栓」となり、もっと大変なことになりました。そう考えればラッキーと言えます。
 医師の診断により、今後の治療は血液をサラサラにする薬と、血液中のコレステロールの量を減らす薬の服用で様子を見ることになりました。医師からは、更に悪化するようなら、頸動脈のプラークを取除く手術が必要と言われています。
 いずれにしても、医師から年内(2019年)は、安静にすること、禁酒、食事の制限はもちろんの事、そして長時間のフライトが必要な海外指導は控えた方が良いと言われました。
 その様な事で、今年度中の海外指導は残念ながら全てお断りしました。そして、お断りした国の皆様からは回復したら、ぜひ来年は来てくださいという返事をいただきました。有難うございます。
 今は体調が回復し、片目でも道場で稽古できるように安静に努めています。そして長時間のフライトに耐えられるようになりましたら、海外の指導にも出かけたいと強く思っています。

 合気道の友人で霊能者でもあるK氏に、現状を相談したところ「長年にわたる身体的・精神的な無理に身体が悲鳴をあげた結果である。」、そして「少し休みなさい!」という神の啓示でもあると言って下さいました。
また「五十嵐先生には、護ってくださる多くの守護霊、指導霊、ご先祖様がいらっしゃいますので、あと15年は合気道ができます。」と言ってくださいました。とても嬉しい励ましの言葉でした。
 あと15年と言うと、私は88歳です。ちょうど米寿を迎え、合気道歴も70年です。そして五十嵐道場も50周年です。大きな目標となりました。
しかし今は、片目での生活に慣れないため目が疲れ、また後頭部がいつも重くイライラ状態が続いています。
 お付合いのある医師に聞いたら「73年間、両目で生活してきたのに、突然片目になったことに腦が動揺して“片目で見なさい”という命令がまだ上手にできていない。」「人間には自然治癒力があります。脳が“君は左目だけで見るのだよ”と指令してくれるまで時間がかかるのは当然!待ちなさい。」というお答えをいただきました。

 パラオリンピックが2020年に東京で開催されます。片目が見えなくても小さなことです。もっと重いハンディキャップを持つ人たちが記録に挑戦しています。
 私は、この大病を1つの契機とし、これからは合気道の更なる境地を目指し、日々の稽古を大切にし、また指導にも努力し続けたいと強く思っています。今後ともご指導・ご支援をよろしくお願いいたします。

6月22日(土)、見舞いに来てくれた孫3人にパワーをもらい、1カ月ぶりに稽古衣を着て稽古に参加しました。しかし15分ほどで孫パワーに負けギブアップしました。
孫のためにも88歳(?)まで頑張ります。

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道場長きままごと(4)

五十嵐道場長
旭中学校区小中合同夏期研修会において講演!

 
テーマ「心のバランスと身体のバランス」
~子どもの持っている可能性を引き出すには~


 五十嵐道場長は、8月24日(水)10時~11時30分まで、相模原市橋本駅前の「ソレイユ・セミナールーム」において、上記のテーマで講演を行った。旭中学校区とは、相模原市立旭中学校と、同校に入学する、3校の小学校(旭小学校、宮上小学校、橋本小学校)の組織です。旭小学校は、五十嵐道場から徒歩4分ほどのところにあり、道場長の3人の子ども達も、旭小学校、旭中学校の卒業生です。
道場長は、まず始めに、8月初旬の朝日新聞に掲載された、中学校の部活についてのアンケートに触れ、以下の話から講演会に入りました。

 学校側の思い入れ、顧問先生の思い入れ、保護者の思い入れ、そして生徒の思い入れ、お互いの思いが一致する難しさがあります。海外、特にヨーロッパでは小中学校での部活などの話はあまり聞いてことがありません。ヨーロッパ、とくに北欧ではコミュニティーが発達しており、地域ごとに立派な文化・スポーツ施設が充実しており、いろいろな種目で子供たちが充実した余暇を楽しんでいます。日本では、勉強、進路、放課後の部活、など、何から何まで先生任せで、アンケート結果では、小・中学校の先生方の忙しさは、世界一とあります。また、同新聞に「学校のトイレに行けない小学生」の記事が載っていました。和式、洋式のトイレ、そして個室の設置など興味深い内容でした。運動能力から言うと、各家庭のトイレが和式から、洋式に変わったことが、子供たちの足腰の弱さにつながっていることは確かかと、私は思っています。学校で、トイレに行くことを我慢している子が多いとは、驚きです。先生方のご心労は大変なものだと感じました。
 これからは、合気道生活を通じ学んだこと。武道を通じ、多くの先生から学んだこと。また今までに読んだ本から学んだことなどを含めまして、少し話させていただきます。

道場の子供クラス
 道場では、4歳から小学校6年生までを子供クラスとして稽古しています。子供の運動感覚は、4~5歳から、にわかに発達してきます。また、精神的にも発達する大切な時期であり、幼稚園から小学生までの教育・経験というものが、その子の一生を左右するとも言われています。運動神経の鈍い子、内気な子、またいろいろな性格を形づくるのが、この時期であり、幼児期までの生活環境によります。橋本地区はまだまだ恵まれていますが、近年は、子供たちがのびのびと飛び回ることのできる広場も少なくなっています。さらに、デジタルの社会が広がってきて、部屋の中に閉じこもる子供たちも多くなり、ますます外に出かける機会が少なくなってきています。また、外に出てもスマホをいじるだけ、友達との会話もスマホ、ラインという嘆かわしい時代になり、子供たちの運動能力、コミュニケーション能力がますます落ちてきています。
 自然に触れ、外気に触れ、身体・心を使って五感を鋭くする、五感を研ぎ澄ませる機会がますますせばめられています。五感は、思考能力、判断力、危機管理能力につながる大切なものです。
 武道・スポーツは、これらの五感を鋭くします。さらには、第六感を鍛えるには最適なものであるといわれています。
第六感は、特に幼児期には強く働き、年と共に減退してきます。
 反射神経もそうです。鍛えなければどんどん落ちていきます。ちなみに西洋スポーツは運動神経、武道は反射神経の世界であると以前にスポーツ関係の本で読んだことがあります。“三つ子の魂は百まで”、“芸事は六歳の誕生日から”と昔からよく言われています。これも何か意味の深いものがある言葉と思います。子供の時にどれくらい色々な事をしたかと言う経験が大切なのではと思います。
 話が元に戻りますが、このような現在の環境の中、最近は武道の道場やスポーツ教室などの存在がクローズアップされてきています。日本古来の武道は、動的な活動と静的な面とが相伴っているのが特徴です。稽古前後に行う正座での黙想、先生が指導中は正座をして聞く、などよい例と言えます。運動の間中、緊張しなければならないスポーツとは違う点です。また、合気道には試合がありませんので子供たちも“勝ち負け”にこだわることなく、のびのびと稽古しています。
 道場には、本当にいろいろな子供たちが通ってきます。子供クラスですので、子供が率先して合気道をやりたいと云うことは少なく、保護者の方が、子供にやらせたいと言って道場に来るのがほとんどと言えます。入会に当っては、保護者の方から、「うちの子は、身体が弱いから強い子にしてください」、「うちの子は、内気でおとなしいので元気な子にしてください」、また反対に「うちの子は、元気すぎて腕白なので、落ち着きのある子にしてください」、その他にも、いじめっ子、いじめられっ子、ふとった子、等々。いろいろな子が入会してきます。保護者の方の様子を見ますと、その子の育った環境が分かるときもあります。
 私の小さいときは、言うことを聞かなかったとき、悪いことをした時など、母親に、「お天道様が見ているよ!」、「先生に言うよ!」、「お巡りさんに言うよ!」、「お父さんに言うよ!」が、決まり文句でした。みんな怖い存在でした。今はどうでしょうか? “お天道様がみているよ”なんて言っても、子供たちには通じないでしょうね!
 道場では、子供たちをいったん預かったあとは、良いことをした時、上手に出来た時にはホメます。また、言うことを聞かなかった時、悪さをした時には大声で、本人がなぜ怒られるのか「心と身体」で納得・理解するまで真剣に怒ります。合気道は、武道、武術ですので、子供クラスとは言え、少しの気のゆるみが怪我につながってきます。おかしなもので、大声で怒られること、また頭をコツンと、たたかれる経験が少ないのか、最初は戸惑った顔をしますが、子によって、すぐに納得する子。また叩かれるのを嫌がらず、かえって喜ぶ子もいます。一人っ子や、甘えん坊に限って、怒られること、コツンとやられることを喜ぶようです。面白い発見です。
 そんな中、目には直ぐには見えませんが、稽古を続けるうちに、子ども達がいろいろと変化してきます。保護者の方には、最初の昇級審査で色帯を締めるまでの、少なくても1年は見てください、と言っています。子供たちは、審査で級が上がり、色帯が変わることを大変喜び、頑張るようになります。
 現在、理解力、体力、運動能力のそれぞれ異なる4歳から、6年生までの子ども達
を一緒のクラスにして指導しています。稽古後に、“アーア疲れた”、でも楽しかったと、言ってくれるように指導しています。
 普段の稽古中や、一年に1回行う合宿、また演武大会などを通じ、高学年の先輩の子が、低学年の小さい子の面倒を見る。運動の得意な子が、苦手な子を助けるという思いやりのある子に育つよう指導しています。また、新しい子が入会した時には、先輩の子に道場への出入り、礼の仕方、稽古衣の着方など、を教えるように指示します。みんな結構真剣に上手に教えてくれます。少しぐらいの間違いは注意しません。そして必ず、手伝ってくれた子供には“有難う”を言います。そして手伝ってもらった子には、手伝ってくれた子に“有難う、と言ったかい?”と聞きます。言っていたらOK! まだ、言ってなければ、必ず礼を言うように指導します。そしてさらに、“今度新しい子が入ったら、君が教えてあげてね!”と約束します。そうすると面白いですね! 新しい子が入るとその子が、「私が教えます」と、言ってくれるようになります。指導者として助かりますし、またとても嬉しいことと言えます。

子どもクラス合宿
 一泊二日、または二泊三日で、山や海のそばで行う子供クラス合宿は、一班5~6人で班を作り、それぞれ班長、副班長を決め、集合から解散までしっかり彼らに管理させます。また食事の準備、片付け、布団敷き、布団の後片付けも班長・副班長に責任を持たせています。そしてご褒美に、合宿の最後に、班長さんには金メダル、副班長さんには、銀メダルを。そして高学年だろうと、小さい子であろうと、班長さんの言葉をよく聞いて頑張った班員さんには、班長さんの意見を聞き、銅メダルを挙げます。そして、“来年、班長さんをやってくれる人”と聞くと、初めて参加した小さい子から大きい子まで、一斉に手を挙げてくれます。基本的には、この年に副班長さんをやった人を班長に、副班長さんには、銅メダルをもらった頑張った子から選びます。できるだけ多くの子に班長さん、副班長さんを経験してもらうようにしています。
 合宿所では、できるだけ20人以上が泊まれる大部屋をお願いしています。今の子供たちは、兄弟、姉妹が少なく、一人部屋で育っている子が多く、大部屋での生活に慣れていません。そんなことで、自分中心になりがちです。一緒に食事をし、一緒に同じ部屋で寝る。大部屋でいろいろな年代の子供たちと楽しく遊ぶという経験は、大人になって生きていくためにはとても大切な事だということが分かってくるのです。やさしくて思いやりがなければ、長い時間みんなと一緒に生活できないということに、そのような生活の中で気付いていくのだと思います。

子どもクラス指導目標
 道場の指導目標は「仲良く、けがのないよう、楽しく、厳しく」です。子供クラスでは、合気道の技を覚えるのは骨格のしっかりしてくる中学生からでよく、とにかく体力をつけることに重点を置いています。そして礼儀・言葉使いなど、躾にも気を付けるよう指導しています。
 ここにいる入江指導員にも常日頃、言っていることですが、“君と道場の子供たちとは決して友達ではないのだよ! 君は、彼らの先生なのだから、責任と自信を持って言葉使い・礼儀をしっかりと指導しなさい”と言っています。そして、小学生に限らず、指導者として立った時には、稽古であろうと、会話をする時であろうと、「伝えようとするエネルギー」、「からだ全体から発するエネルギー」が必要だともよく言っています。いっぱいのエネルギーには、子供たちも、身体全体からのエネルギーでこたえてくれます。
 「からだ全体から発するエネルギーって、なんですか?」と、よく聞かれます。このように答えています「先ず、自分自身に自信を持つこと。そして相手の目をしっかり見て、大きな声を出すことだ」と言っています。気合のこもった大声は筋力、行動力を10%アップさせるといわれています。体内のアドレナリンがアップするのです。これは怪我防止にもつながり大事なことと言えます。中学生になると子供クラスから、大人クラスへと移行します。大人クラスは、年齢も10代初めの中学生から70歳、80歳まで、合気道の段位も初心者から、七段の高段者まで一緒に稽古しています。
 最初は怖がって、中学生同士で、コチョ・コチョと道場の隅っこでやりたがりますが、大人の中に放りこみ、積極的に大人の人と稽古するようにさせています。世代、実力の違う人、海外の人たちとの自然な交流は、学校生活では絶対経験できません。とても良い経験になり、人間力の向上になると思っています。これも試合のない合気道、そして町道場の特徴かもしれません。

武道の役割について
 先生方もよくご存じと思いますが、平成18年に改正された教育基本法に、教育の目標として「伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国と郷土を愛すること」と定め、我が国の文化と伝統を尊重する態度の育成を重視することになりました。そして体育については、諸外国に誇れる日本固有の文化として、歴史と伝統のもとに養われてきた武道を必修化しましょう、と決まりました。武道を長くやってきた者として、子供たちの体力の低下と、豊かな心や健やかな身体の育成に、武道がお役にたつ事は嬉しいことです。
話が飛びますが、アサヒビールの名誉顧問でいらっしゃいました中条たかのり氏が「世界の歴史が説く民族滅亡の三原則」という興味深いお話をされています。
 1.理想・夢を失った民族、 
 2.すべての価値をものでとらえ、心の価値を見失った民族、 
 3.自国の歴史を忘れた民族
また、イギリスの歴史家のトインビーも面白いことを言っています。
「12~13歳までに民族の神話を学ばなかった民族は例外なく滅んでいる。」と。私が、つい先日まで滞在しましたフィンランドにも「カレバラ」という神話があり、絵本、教科書にも取り上げられ、子供から大人まで、とても大切にされています。
 日本も歴史と伝統を見直し大切にしなければと強く思っています。

スポーツと武道について
 こんにち、世界の人々の間で多くのスポーツが行われています。最近では、ブラジル・リオデジャネイロで、オリンピックが先週まで開催され、種目も28競技306種目を数えています。これらのスポーツでは、そのスポーツが発祥した国の人々の「ものの考え方」や「行動の仕方」が、そのスポーツの規則やマナーとして大切にされています。
 スポーツは狩猟民族から発生したものが多いと、よく言われています。狩猟民族は、お互いに声をかけながら獲物をグループで追い込んでいくので、団体スポーツが主流(サッカー、バレー、バスケット、ラグビー、アメフト、など)。一方、農耕民族の日本は、ひとり一人が黙々と作業していくので一対一の武道が多い(剣道、柔道、空手、相撲、合気道・・・。)と言われています。もちろん、武道とスポーツの性格には共通する部分も多くあります。
「武道は礼に始まり礼に終わる」
 リオ・オリンピック男子柔道73キロ級で優勝した大野将平選手の態度が、とても評判になりました。大野選手は五輪の舞台で勝利を重ねても、他の選手のようにガッツポーズをしたり、笑顔を見せることは決してしませんでした。金メダルを獲得した瞬間でさえも表情を変えず、深々と礼をし、決勝の相手(ルスタフ・オルジョフ)と握手を交わし健闘を讃えあいました。その理由は「心・技・体、すべてで外国人選手に勝つこと」という彼の信念が大きく関係しています。「礼に始まり、礼に終わる。相手への思いやりを忘れず、美しい最高の日本柔道を見せることを第一に考えていました。」とインタビューに答えていました。また、100キロ級男子柔道で、1本負けした外国選手が、対戦相手との、握手も最後の礼も拒否して退場したのには驚くとともに非常に不快な思いをしました。しかし、後で新聞に載っていましたが、お互いの国が政治的にうまくいっていないことがあるそうです。しかし、「オリンピックでしょう!武道でしょう!」と、思ったのは私だけでしょうか!?
また、日本と、海外での礼の仕方、挨拶の仕方の違いについて、よく話題になります。私も、年に数回は海外に出ます。欧米では、握手をします、それも男同士だと、できるだけ強い力で自分の力を誇示するように握手をします。そして相手の目を見るのは、もともと利き手を相手にゆだねるので警戒するところから出ています。
日本人は、握手になれていないので、つい照れくささから相手の目を見ないで握手をします。相手の目を見ないのは本来、負けを意味することになります。
つい先日まで行われていました、オリンピックでの表彰式でよく見られましたが、おたがいの左右のホホをつけあう挨拶もあります。ニュージーランドでは、鼻をつけるというユニークな挨拶が行われています。また今でも、私はハグが苦手です。特に女性とのハグは、この歳になっても、つい赤面してしまいます。このような挨拶は、「親しみ、親愛」を表しています。
そして、オリンピックで、よく見る光景ですが、試合後に対戦者同士で、お互いに健闘をたたえあってハグや握手をしています。日本での頭を下げる礼、そして稽古を始めるときに行う礼などは、相手を「尊敬、敬愛」する動作にほかなりません。最近では、挨拶ができない人、苦手と言うか下手な人が残念ながら増えています。

「気・心・体」について
昔は、「合気道は気合で人を倒すのですか?」と、よく聞かれたものですが、最近は、さすがにそのようなことは少なくなりました。五十嵐道場の宣伝文句(キャッチコピー)は、「心と身体の健康のために合気道の稽古をしませんか!」です。武道は総じて、「心身いちにょ一如」と言われますが、心の使い方、身体の使い方を考え稽古します。心と身体の健康、リラックスが本当に美しい身体を作るものと思っています。美しいものを見て、素直に美しいと感じる心。それを素直に身体で表現できる人、このような人が本当に強く美しく優しい人と言えます。また、「行動は心をつくる」と言われています。
マザーテレサが、『相手の目を見て微笑む、手に触れ、ぬくもりを伝える。そして短い言葉をかける。愛は言葉でなく、行動である。』と言っています。心と身体のバランスの取れた言葉と言えます。
日本には、「気」の付く言葉が多くあります。「元気がいい、気が利く、気になる、
気分が良い、気持ちが良い、気力、気心、天気、病気、気うつ、内気、」等々。親しい友のことを「気の合った友」、「気心知れた仲」などと表現します。
また、武道では「気・心・体いちにょ一如」「気は心のとびら」など、気の作用が心、身体を動かすと考えています。また、合気道は「心が身体を動かす」と言う道理があります。海外では「Mind moves body」と説明しています。
身体の動きの「みなもと」は、ふた二つあって、ひとつは頭の脳の命令によるものと、もう一つは気・心を原点としているものであって、前者を顕在意識、後者を潜在意識
と言えるのでは思います。顕在意識・潜在意識は「よく氷山に例えられます」。氷山の90%以上は水面下にあり、私たちが普段使っている能力は、遺伝子情報、そして経験・勉強などで培った知識、身体能力などが、脳にインプットされ顕在意識となります。水面に出ている氷山と同じようにほんの一部であります。水面下にある90%以上の使われない意識が潜在能力となり、よく言われる「火事場のばか力」の原動力になるものです。武道、スポーツ、子ども時代の楽しい遊びが、この潜在能力を引出し、力となってくれます。人間の眠っている潜在能力にスイッチを入れる重要な「気」の本質は、心にあると言えます。
「努力は裏切らない!」、「目標は、人をつくる!」、「我慢と努力はすべてを制する!」など、スポーツ根性ものによく出てくる言葉です。心のバランスと身体のバランスが、うまく働いた時は、素晴らしい効果を見せます。そして、そのバランスが崩れた時は、アキラメと挫折となっていきます。バランスをみきわ見極めることは、至難のわざ業です。
先日のオリンピックの女子レスリングの吉田さおり選手の小さい時の、父親との会話がテレビで紹介されました。さおりさんは、レスリングの試合に負け、試合相手がきれいな金メダルをもらうのを見て、「あのメダルが欲しい!」と父親に訴えたそうです。それに答えて、父親は「メダルは、スーパーでは売っていない。ガンバッタ子しかもらえない!」と言ったそうです。それからの吉田さおり選手の努力、結果は皆様よくご存じのものです。
また、シンクロの井村監督が、選手が銅メダルを取った後のインタビューに答えて「2014年に、監督を引き受けた時は、選手たちは、シンクロが、ただ好きな集まりだと思いました。この選手たちがオリンピックでメダルを取るためには、厳しい練習、つらい練習が必要。そして体力が消耗して最悪になった時、それを超えさせる。そのような練習が必要と思い1日に10時間以上の練習を課しました。そして今は、メダルが取れるようなアスリートになってくれました。」と、満面の笑顔で答えていました。指導者としての厳しさを感じました。とても私には、このような指導は出来ません。
スポーツ選手として成功することも大切でしょうが、ごく一部の人たちです。生意気のようですが、教育とは一般的には成人してから立派に、健康に社会人として生きていくために行うものと思います。

最後にあたって
教育評論家の先生のお一人が、「小・中学校での子供たちの教育には、学校での教育、家庭での教育、そして地域社会での教育、この3つの役割分担があり、それぞれに踏み込んではいけない垣根があると思います。家庭には家庭でしかできない大切な教育がありながら、親が自分の役割がどうあるべきかをわかっていないから子供に教えることができない。当然そういう家庭は、学校との境界線もわかっていないので、何でもかんでも学校の責任にします。家庭の役目は、子供の感性を育て、早い時期に子供の適性をみいだ見出してあげることだと思います。これは、子どもへの躾と同様に家庭でしか出来ないものと思います。」と述べていました。
私たち武道道場は、地域社会での教育の一翼を担っているのでしょうか! 頑張りたいと思います。先生しかできないこと、保護者しかできないこと、子ども達しかできないこと。互いに言いたいこと、伝えたいこと。コミュニケーション能力が落ちている今、先生からの発信だけではどうにもなりません。受け皿である保護者、地域が一体となり、生徒のためにも、つながりを深める必要があります。私たち現代人は、過去の日本人が大切にした「礼儀と道徳」を忘れ、自分が良ければ」と思い、甘えすぎているようです。
如何でしたでしょうか? いただいた『テーマ』から脱線したところが多くて申し訳ありませんが、本日のテーマ「心のバランスと身体のバランス」、子供の持っている可能性を引き出すためのヒントに少しでもなれば幸いです。
私自身、このようにお話させていただいていますが、分からないところ、できないところが、まだまだ多くあります。
合気道の現道主植芝守央先生が常々「日々の稽古を大切に」、「継続は力なり」とご指導されています。これからも動ける限り稽古を続けたいと思っています。
そろそろ合気道のご紹介に入りたいと思います。

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道場長きままごと(3)

~飛行機で、2日~3日をかけてアルゼンチン・ブエノスアイレスへ~

 私は、平成26年11月17日(月)から27日(木)までの11日間、アルゼンチン・ブエノスアイレスに指導に行って来ました。日本の反対側にあるとても遠い国です。
 どれほど遠いのかお話しいたします。17日は、午前11時30分に自宅の橋本を出発しました。成田空港に到着、夕方5時発のユナイテッド航空便で乗換の米国・ヒューストンに向かいました。到着時間は現地17日午後1時間45分、飛行時間は11時45分です。日本時間で翌日18日(火)午前4時45分です。
ヒューストン空港で9時間という長い待ち時間の後、乗継便で最終地のブエノスアイレス空港に到着したのは、現地時間で18日(火)午前11時30分、飛行時間10時間30分です。日本時間で同日の午後11時30分です。自宅を出てから、なんと36時間後です。実に遠いです。エコノミークラスでの長時間ですので、膝も腰も悲鳴を上げています。そして12時間という時差で頭も混乱です。しかし、このような遠い国から、平成25年開催の五十嵐道場30周年記念行事にアルゼンチンから6名が参加してくれました。嫌な顔を見せるのは遠慮しなければならないことです。
 アルゼンチン合気道連合責任者のダニエル先生、橋本道場で3ヶ月間、内弟子同様に稽古したナウエル初段、日本人の東野朗子さんの出迎えを受け、講習会場のあるラ・プラタ市に向かいました。到着当日は、気温が32度と真夏のような暑さでした。しかし翌日からは雨・曇の日々が続き気温も20度以下の過ごし易い日が続きました。講習会は、20日(木)~24日(月)、同市の体育館に80枚の畳を敷いて5日間行われました。子どもクラスを1回、一般クラスを8回指導しました。昇段審査も行い、弐段が6名、初段が1名合格しました。彼らの受験課題のエッセイが、ホームページに掲載されます。とても真摯に合気道に向かい合っていることがわかります。
帰国は、現地25日(火)午後10時25分発(日本時間26日午前10時25分)のユナイテッド航空で乗継地のヒューストンに向け出発しました。ヒューストンまでの飛行時間は10時間35分。同空港で4時間40分の待ち時間の後、乗換えて成田空港に着いたのが、27日(木)午後4時でした。飛行時間は14時間10分、都合24時間45分という長旅でした。
 そんな長旅で、もう年寄りの私には「もう無理だ! もう来たくない」と思いながらも、ダニエル先生の「2017年4月のアルゼンチン合気道連合15周年記念には、また来てください」という誘いに、つい「YES!」と言ってしまった私でした。

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道場長きままごと(2)

 先日買い求めた“PHP11月号”の「特集:人づきあい」の中で、俳優加山雄三氏が、自身の心に残る言葉を述べております。とても素晴らしい言葉でしたので紹介します。
「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい。それはいつかあなたの運命になるから」
素晴らしい言葉であり、また怖い言葉とも言えます。私はこれを読んで、思わず“ドキッ”としました。思い当たる事が多々あったからです。皆さんは如何でしようか?
感謝の気持ちは思いやりに変わります。思いやりの心には温かさが宿ります。植芝盛平翁先生は「武は愛なり」、「合気道の合は愛に通じる」、「合気道は感謝の武道」と言われております。
 私は、明治大学入学と同時に合気道部に所属、18歳で稽古を始めて48年になります。しかし、上記の合気道哲理を翁先生の万分の一も心身ともに理解の境地には至っていないようです。二代道主植芝吉祥丸先生が、お話してくださった「合気道のおもしろさは50代、60代になってからだよ!」の言葉のように、合気道は私にとりまして十分におもしろくなっているのですが、60代半ばの最近は、合気道の難しさはもちろん、「強さって、なぁーに!」と考える日々を過ごしております
四段昇段エッセイに、カナダ・カルガリー合気会のマッチエ・スロット氏が、下記の言葉を彼のエッセイ「初心者の指導の仕方について」の最後に記しておりました。
『稽古に一番大事なのは純粋な「初心」だと思います。鈴木俊隆先生が言っておられます。「初心者の心には多くの可能性があります。しかし、専門家といわれる人の心には、それはほとんどありません」と。』
 私は恥ずかしながら、鈴木俊隆先生を存じ上げておりませんでした。調べてみると、鈴木俊隆(しゅんりゅう)先生は、曹洞宗の僧侶でアメリカに禅を広め、著書も多い高名な先生でした。日本の伝統を、日本の歴史を外国人に教えられることが最近多いようです。今や、真摯に武道の稽古に取り組む外国の方々の方が、日本人より日本の伝統、日本の歴史、また合気道のこと、開祖翁先生のことを理解しております。マッチエ氏のエッセイにある「専門家といわれる人の心には、それは(初心の心)ほとんどありません。」という鈴木先生の言葉は重いですね。合気道の専門家である私の心に“ズシン!”と響いています。“稽古後のビールが美味しい”などと言っている場合ではないなと、感じております。ただただ反省する次第です。また反省会です。

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道場長きままごと(1)

橋本道場で熱心に稽古する、ボダルト・ベイリーさんが、最近「ケンペル・礼節の国に来たりて」という本を出版されました。彼女は、大妻女子大学比較文化学部教授で、五代将軍徳川綱吉の研究で有名な歴史学者です。ドイツ人のケンペルは約10年の長い旅の末、1690年(元禄3年)に日本を訪れ、2年間滞在しました。その間の長崎での日々、将軍徳川綱吉との出会い、道行く人々・・・・。彼の日本での経験は、死後「日本誌」として発表され、初めて日本の全体像が”正確かつ偏見なく”ヨーロッパに紹介されました。
 その本に「いつも、町の人々の生活の中に秩序と品の良さがあることに強い印象を受けた」、また「人々の生き方を見ると、非常に貧しい農民からきわめて高い君侯に至るまで、まるでこの国全体が礼儀と道徳を教える高等学校であると呼んでもよいくらいだ」とケンペルが書いています。
また、明治大学合気道部の部誌「吾勝」に、部長の杉山民二農学部教授が「測定実験の向上もラーニングで」のテーマで、興味深い原稿を寄せておられますので一部をご紹介します。
 『私たちの日々の生活の中で手を動かして操作する事が、極端に少なくなってきたように思う。たとえば、洗面台の水洗器を回すことなく、蛇口に手をかざせば自動的に水が流れてくるので、手を洗う事が出来る。日常生活がセンサーの働きで自動化されるに連れて、日々の生活の中で繰り返し扱う事で体得した「力加減をして操作する」ことがなくなってきた。このことが理科系の研究活動に困った事態を招いている』と述べ、ガスボンベのバルブ、等の開け閉めの力加減の“いい加減さ”からトラブルが多発していると言っておられます。
 本来「いい加減」は「良い加減」の事であったのですが、最近は「あいつは、いい加減なやつだ」というように悪い表現に使われる事が多くなりました。
合気道は武道の一つですから、力加減一つで怪我をすることもあります。また悲鳴を上げるほど痛いこともあります。これも痛みを知らない世代に多く見られることです。しかし稽古を経てくると、自分の痛みも人に与える痛みも、自分の身体を通して理解できるようになります。
 文部科学省が、平成24年より武道教育を中学校の保健体育の時間に必修科目とする英断は画期的と言えましょう。
ケンペルが感じた「日本人」、杉山先生が感じた「加減」について、考え直す時が来たようです。私たち現代人は、過去の日本人が大切にした礼儀と道徳を忘れ「自分がよければ」と思い、また自動化でなんでも便利になった生活に甘えすぎているようです。

引用文献
1.ミネルバ書房「ケンペル・礼節の国に来たりて」ボダルト・ベイリー教授著
2. 明治大学合気道部部誌平成21年度版「吾勝」杉山民二教授寄稿文

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