五十嵐 和男 (いがらし かずお)

 

昭和
21年3月24日 新潟県にて出生
36年4月 神奈川県立鶴見高校入学、柔道部に所属
39年4月 明治大学政治経済学部入学、合気道部に所属
48年1月 合氣道小林道場に内弟子として入門、内弟子修行を行いながら同道場にて指導
53年〜54年 スウェーデン、フィンランド両国合気会の招聘により同国に滞在、指導
58年2月 神奈川県相模原市橋本に「合氣道橋本道場」を開設
平成
12年1月 合気道7段位
31年1月 合気道8段位


 

合気ニュース2000年126号(秋号)より抜粋

師とともに、友とともに人生を合気道に賭けて 

             五十嵐和男七段会見


神奈川県相模原市橋本にある「合気道橋本道場」。住宅街の中にあるこの道場には、日々多くの会員が集い、汗を流している。この会員の中をまわって指導しているのは五十嵐和男七段。小林保雄師範の弟子として研鑚を積み、現在では毎年海外へ指導に出かけている。そんな五十嵐師範に、今日までの合気道人生の一端を伺った。

引っ込み思案だった少年時代


五十嵐先生は学生時代から小林保雄先生の薫陶を受けられ、その後も小林道場の指導員を長らく勤められたということですが、そもそもご出身は新潟ということですね。
五十嵐 はい、新潟県東蒲原郡三川村というところで生まれ、4歳までそこで過ごしました。福島県との県境に近いところです。隣町の津川は西郷四郎が生まれたところです。
 私が生まれたのは昭和21年3月です。戦争が終ってすぐですね。
 私の一家は父が生命保険会社に勤めていた関係で、私の子供の頃は頻繁に引越しを繰り返していました。私が5歳くらいから長くて2、3年、短くて半年ということもありました。小学校時代に3回、中学校時代にやはり3回引越しをして、そのたびに転校しました。
小学校までは新潟、中学校は北海道の札幌です。
 雪国育ちでスキーが得意だろう、ですか? 私、小学校の3年生ころは上越市の高田に住んでいました。高田は日本のスキーの発祥地ですね。冬は体操というとスキーを履いていました。山まで登って、あの頃はとにかく上まで行って下に滑り降りてくるというスキーでした。私たちの頃は、まだ長靴スキーですからね、そんなカッコいいものではなかったですよ。
 まだ幼いうちはいいですが、しかしだんだん成長してくるとそう転校してばかりいては友達もできにくくなる。性格的にも引っ込み思案で、人見知りするようになりました。
 そんなわけで、中学時代までの私はおとなしい、限られた友達の中だけで活動するような目立たない存在だったと思います。

――武道は合気道ではなく、まず柔道を始められたということです・・
五十嵐 横浜の県立鶴見高校に入学したときですね。転校を繰り返したおかげで性格も内気、こんな自分を変えたいと思って柔道を始めました。
 それまで私はあまり運動はやらず、とくにボールを使うスポーツは苦手でした。それで武道である柔道を選びました。柔道は、3年間で初段を頂きました。学校の裏手に起伏のある県立の三ッ池公園があり、それを走るなど練習は結構、きつかった。それに私の場合、体が当時身長160センチで体重が50キロと小柄だったので、試合にはなかなか出してもらえなかったですね。かなりの程度、内気だった性格に自信が付くにつれて明るく積極的になるなど、自分が変わったことが収穫でした。 
 柔道はそれなりに楽しく、稽古も大変だったわけですが、合気道以外の武道をやった事は良い経験だったと思いますね。

合気道との出会い

――大学は明治大学に入られたということですね
五十嵐 はい。昭和39年4月に明治大学政治経済学部に入りました。私が合気道に出会ったのも、明大に入ってからです。結局、私は「明治大学政治経済学部卒業」ではなく「明治大学合気道部卒業」と、自称することになりましたが(笑)。
 明治大学には、すでに昭和30年代初頭に、当時学生だった小林先生が合気道部を設立していました。
 高校まで、私は合気道なんて知りませんでした。当時はまだそれほどポピュラーな武道ではなかった。合気道関係の出版物もあったのかもしれませんが私は目にしておりません。
 初めて合気道を見たのは、新入生に向けて行われた空手、少林寺、合気道合同の部活動紹介の席です。そこで行われた合気道の演武に、私は心を奪われたということです。

――当時、明治大学を指導していたのが、若き日の小林先生だったというわけですね。
五十嵐 ええ、先生は私よりちょうど10歳年上で若さがあふれていました。しかし若い、といってもそのころすでに稽古でも、さほど荒さはありませんでした。古くからのお弟子さんに聞くと、もっと若いときは乱暴で荒くて大変だったと聞きましたが・・・。
 とにかく日曜日を除いて、月曜日から土曜日まで、1日に2時間みっちり稽古する生活が始まりました。上下関係など、なかなか厳しいものがありました。

――合気道のどこにそんなにひかれたのですか。
五十嵐 たとえば柔道では体のでかい人には、体が小さく、力の弱い人間はなかなか勝てない。
 しかし合気道には、そんな体力的な次元を超えた物があったのですね。私はご覧の通り、体は大きくはありません。小林先生もそうです。小林先生のみならず、当時の合気道の先生方は藤平光一先生や植芝吉祥丸先生もそうだったのですが、皆さん概して小柄だったです。でも、そんな小柄な人たちが稽古衣を着ると大きく見える。
 自分とそう変わらぬ体格の人たちが堂々と活躍している・・・。これが私には魅力でした。
 それから、柔道とはちがって試合がないというのも私には合っていました。私にとって合気道は、一言で言えば「おもしろかった」ということですね。力の出し方、気のとらえ方など興味深かった。合気道には柔道にない神秘性を感じ、のめりこんでいったわけです。
 当時は合気道本部道場に行けば、いろいろな先生に会えました。後に海外に出た先生が、あの頃はほとんど日本におられた時期でしたから。当時、明大の先輩で後にプロの合気道家になった方に、今はドイツで活躍中の浅井先生がおられます。この方は私より4期上で私が入学するのと入れ違いに卒業されました。

――当時はまだ翁先生(植芝盛平開祖)がおられたころですよね。
五十嵐 はい。稽古のときに何度も拝見しております。当時は若先生(吉祥丸前道主)がすごいと思っていたのに、翁先生といったらもうとんでもない。神サマじゃないかと思ってしまいましたよ。雰囲気も、なんかそんな感じの人だったですからね。
 翁先生が来られるとなると、「ヤメ―ッ」という声と「パンパン」という手を叩く音で、みな正座してお迎えしました。私たちの前では、翁先生は内弟子の方を投げたり、何か難しいお話をして帰られたことを覚えております。

――翁先生に投げられたことがおありですか。
五十嵐 ないのですよ、それが。本当に残念なことですけれど。将来こんな具合にプロになると決まっていれば、無理にでも、あるいは強引にでも手を取って投げられていればよかったなと思うのですが。
 翁先生の技ですか? 私たちの頃には、ほとんど触れないような、入り身投げにちかいような、掛かってくる相手をパーンと投げ飛ばすような技でしたね。
 ふだん、自分が投げられている先生方が、翁先生にポンポン投げられているのですから、不思議でしたね。

――学生時代の合気道部で、他に何か思い出をお持ちですか。
五十嵐 合宿が思い出に残っていますね。合気道の厳しさ、楽しさを味合いました。稽古の半分は、筋トレや、ランニングばっかりでしたね。人数が多く、辞めさせるための手段でもあったようです。
 大学の演武会ですか? 大学の演武大会では、数回真剣を使っての太刀取りの演武をしましたが、今考えますと冷や汗ものです。今はとてもそんなことは怖くてできません。若さとは素晴らしいものですね。
 また、大学3年生の時から合気道の稽古が終ってから、大学近くの道場に通って居合道と杖道の稽古を始めました。柔道を始め、私もいろいろな武道をやってきているわけですが、他の武道をやると合気道のよさがわかっていいと思いますね。

小林道場の居候になる


――大学を出られた後は就職されていますね。
五十嵐 はい。技術関係の出版社に入り、編集をやりました。
 時代は昭和40年代半ばで、経済成長の波に乗って仕事もハードになり、合気道ともしばらくご無沙汰になりました。それでもときどき本部に稽古に行ったり、越年稽古には欠かさず出てはいましたが。
 就職して5年の間、私もひたすら働いてきましたが、自分の人生これで良いのかと考えるようになりました。仕事仕事で忙しくて、自分の時間が何もない。これじゃいけない、まだ若いのだし他に何かやってみよう、と。
 それで、まあ、合気道でも本格的に再開しようということで、会社を辞めました。そして当時できたばかりの小林先生の所沢道場道場開きの宴会の席上で、小林先生に住込んでの稽古のお願いをしたのです。

――内弟子ですね。
五十嵐 いや、居候(笑)。
 5年間働いたおかげで、貯金もできましたし、遊んでいても2年間ぐらいは食っていけるなと思って小林先生に頼み込んだのです。所沢道場ができたのは昭和47年11月なんですが、翌年の昭和48年1月1日から、小林先生のご自宅のある小平道場に住込む事になりました。もちろん食費や指導料など、先生にお支払いして。
 今の若い内弟子志望の人なんか「お金はいくらもらえますか」などと、すぐ聞いてきますが、違うのですよ。こっちが先生に払うのですよ。そう言うと「エエ!?」なんて驚きますが(笑)
 しばらくはもといた出版社が「好きな時に来て、好きな時に帰っていい」という条件を出してくれたので、昼間の暇な時間は仕事をして、夕方の稽古までには帰るという生活をしていました。
 そうこうするうちに、内弟子になった昭和48年にブルース・リーの映画がヒットして武道ブームが起こり、先生もお忙しくなりました。そしてある日、私に「お前、どうするんだ。専門にやってみないか?」と聞かれ、私も合気道で生活できるような状況になってきました。ただ専門家になるにしてもこれで食べていけなかったら困るので、鍼灸の学校に行こうということになりました。3年通い資格をとりました。結局資格を使う事は今に至るまでありませんでしたが、いい勉強をしたと思っています。ツボや経絡など合気道に通じるものがありますね。
 そうこうするうちに小林道場が各地に増え、私も会員さんを指導するようになりました。
 でも、居候生活はよかったです。毎日稽古が終れば先生がお風呂に入って、私が風呂に入って、その後に先生とビールを飲んでご飯を食べて、夜遅くまでお話をしてね。楽しかったですよ。「小林道場は晩酌つきだ」、なんて小林先生はおっしゃっていましたね(笑)。でも小林先生の奥様には大変ご迷惑をおかけしましたが・・・。
 居候生活は、結局結婚する直前の昭和51年まで続きましたね。

ヨーロッパで指導する

――昭和53年にはヨーロッパで指導されていますね。
五十嵐 はい。当時、北欧の合気道責任者でありました市村俊和先生の要請を受けて、スウェーデン、フィンランドといった北欧の国々を巡りました。
 北欧への出発にあたり、小林先生から外国での初めての稽古の心得として「最初にまず、向かい合って正座して礼をしたら、稽古生を端から端まで見渡すこと」と教えていただきました。そうすると心が落着くから、と。
 それから「まず座り技からやれ」、「その次は後技だ」なんて言われて。実際、礼をして集まった生徒たちの顔を端から見渡すと、心が落着いてきました。これは本当にありがたいアドバイスでした。
 座って礼をした時は分からなかったのですが、いざ全員が立ちあがってみると、彼らのでかいこと、後ろの壁が見えないんですよ。こりゃあ弱ったと思った(笑)。「最初は座り技から」という助言の意味がわかりました。ですが、外人はみな、稽古に対して真摯かつ素直でしたね。本当に熱心でした。みな合気道の事や、翁先生のこともよく勉強していましたね。
 北欧の国々をいくつか巡り、一年後に帰国しました。

 ――帰国後、何か先生ご自身変わられた面があったでしょうか。
 五十嵐 自信、ですかね・・。それから教え方がうまくなった、と言われましたね。向こうではカタコトの英語で指導していたのですが、言葉が通じない分アクションで示さなければいけない。それで教え方もていねいに、分かりやすくなったのだと思います。小林先生も教え方が非常にていねいな方ですが・・・。そんな関係で、私は今でも年に2回は北欧に出て指導しています。

今の自分があるのは合気道のおかげ

 ――長い時間ありがとうございました。最後にお伺いします。合気道をやってよかったことは何でしょう。
 五十嵐 よかったこと、ですか。まあ、今の自分があるのは合気道のおかげというわけですね。
 合気道の専門家になろう、なんて強い決意があるわけでもなく、なんとなくズルズルきて、昭和58年には自分の道場を持つまでになりました。何を苦労したわけでもないのに、こういう今日の自分になれたこと、これが一番ですね。
 現在でも毎年、北欧やオーストラリア、カナダなどに指導に行っていますが、今54歳になり、肉体的にも辛くなりつつあるので、少し減らそうかなどと考えていた時に、ドイツの浅井先生に「呼ばれているうちが花だよ」と言われ、また「嫌われたり、役に立たないと思われたら呼んでもらえなくなるんだから」とね。 
 また海外での指導があるから、それだけ努力するんだと思いますね。海外に指導に行くときに、自分に何もなかったら不安なんですよ。だから自分でも稽古するんですね。まあ「先生が来ても、得るところがない」と言われるまで行こうかと思っています。

(インタビュー:松崎司 平成12年9月5日橋本道場にて)

 

 


合気道と私


              道場長 五十嵐和男

(その1)平成10年1月

 私は、小さい時から比較的運動の苦手な少年でした。兄と姉との3人兄弟の末っ子で、また、兄姉とも10才ほど年が離れていたので一緒に遊んだという記憶が、ほとんどありません。そして、父の仕事上による転勤が幼稚園時より、長くて2〜3年ごとに、一番短い時には6か月ということがありました。その度ごとに引越し、転校を繰り返しました。その事により、友達を作ることが困難になり、どちらかというと家の中にこもるような運動嫌いな暗い性格だったようです。今からは、想像できないでしょうが、事実です。
 そんな生活が、やっと落ち着いたのは中学校3年生の初めに、北海道札幌市の中島中学校から横浜に引越し、市立鶴見中学校に転校してからです。小学校で3回、中学校で3回の転勤、引越し、もちろん高校でも2回の転勤、引越しがありましたが、転校はしないですみました。
 そんな暗く運動が苦手な性格を直すために、高校では思い切って柔道部に入りました。鶴見高校柔道部の顧問の渡瀬先生は拓大柔道部出身で、学校では古文の先生でしたが、県柔道連盟でも役員を務める柔道六段の強い先生でした。鶴見高校柔道部は県大会でも、いつも上位の成績を収める強豪校でした。自分の性格を直すには、厳しい武道が一番でしたし、私には合っていたようです。そして、学校の裏にはトレーニングに最適な「三ッ池公園」という起伏にとんだ大きな公園がありました。2年生のころには、毎日の稽古、トレーニングで体力もつき、それが自信となり性格の改造もだいぶ進みました。そして柔道部ということで、他の運動部の同期とも知合い、クラスでも学校でも結構楽しくやっていました。しかし、ご存じのように柔道は「柔よく剛を制す」とは言いますが、試合となると、そうはうまく運びませんでした。当時、私は身長158センチ、体重は50キロ弱でした。そんなわけで同期の中でも初段取得が最後の方になりました。その当時、柔道は体重別の試合が少なく、私の得意絶頂の時は、秋に行われる年に1回の県体重別大会の時だけで、50キロ以下級では、結構活躍できました。得意技は、背負い、袖釣込み、大内刈り、小内刈りでした。
 昭和39年春、東京オリンピック開催の年に、明治大学に入学しました。柔道も続けたかったのですが、ご存知のように明治大学柔道部は強豪校で、私のような者は入部もできません。校内をウロウロしていると、武道関係のクラブ紹介の演武があるというので見に行きました。剛柔流空手道、少林寺拳法、合気道の各部が演武しました。それが合気道との初めての出会いでした。
 当時は、合気道は今のようにポピュラーではなく、ほとんど知られてはいませんでした。当然、私も見たことも、聞いたこともありませんでした。合気道の紹介の演武を見、説明を聞き、ピィピィと感じるものがあり、私のやりたいのはこれだと思いました。そして直ぐに入部しました。同期の入部者は、30名を超えていました。合気道部とは強い縁があったのでしょうか、4年生の先輩に鶴見高校の先輩がいらっしゃいました、また、高校柔道部の1年上のS先輩が、同期として入部してきたのには驚きました。私の方が、2日ほど早い入部でした。もしもS先輩が、先に入部していたら、私は入部に躊躇しただろうと思います。これも大きな縁と言えるでしょう。S先輩を、呼び捨てで声を掛けることができるまで1年かかりました。
 4年生は25名、初段および弐段の有段者でした。3年生も10名ほどで、初段でした。2年生は、やはり10名ほど。新入部の1年生を加えると総勢75名という大きな部となりました。稽古も、毎回有段者の先輩方と稽古ができたことは最良の環境でした。また当時の幹部の方の指導がよかったのでしょう、稽古していくと本当に魅力的な武道でした。
 もちろん部の師範は、今もお世話になっています小林保雄先生です。本当に良い環境の中で、合気道をスタートできたことを、今でも感謝しています。また当時の本部道場には、創始者の植芝盛平先生もご存命で、演武大会はもちろん、本部道場での翁先生のご指導を幾度となく拝見し「神様じゃなかろうか!」と何度思ったことか、直接お手に触れた事が無いのが残念です。また本部の師範先生方も個性豊かな方が多く、合気道の魅力に益々のめりこんでいきました。  

       

(その2)平成16年1月

 明治大学の学生時代は、東京中野区に住み、大学には中央線高円寺駅から通っていました。大学所在地のお茶の水にも、明大前にも30分ほどで行ける便利なところでした。1年生の秋から卒業まで高円寺駅で早朝の1時間半の間、通称「押しや」のアルバイトをやり小遣いにしていました。
 当時の合気道部は、今のように体育会ではなく同好会でしたので部室は無く、稽古衣、剣・杖を自宅から持参していました。毎日、授業の教科書、ノート、稽古衣の入った重いカバンを担いでいたことを記憶しています。そして学帽、学生服の着用は強制でした。また、道場正面に飾る植芝盛平翁先生のお写真、部旗は1年生が交替で管理していました。入部してからの1〜2ヶ月は、毎日のように昼休み時間に体育館屋上に呼び出され、大学校歌・応援歌と挨拶の練習でした。そんな事で授業はサボっても稽古はあまり休んだことはありません、と言うか休むと大変なことになります。
 無断で休むと、罪のない同輩が先輩に厳しい稽古とトレーニングを強いられます。そして何かと言うと連帯責任で、全員が罰のトレーニングと結構厳しいクラブ生活でした。街中であろうと、学内であろうと、道を隔てていようとも、先輩に会ったら直ちに大きな声で「チアー」と挨拶をしなければなりません。先輩に会ってなくても、街中で恥ずかしくて挨拶できなくても先輩には関係ないのです。先輩が「お前に○○で会った!」と言われたら、先輩を見なかった自分が、挨拶しなかった自分が悪いのです。その日の稽古では、バッチリ「何で挨拶をしないのか!?」の一言で厳しいトレーニングが待っているのです。その当時、私たちも「上級生になったら、こんなことを下級生にするのは絶対に止めような!」などと話をするのですが、やはり上級生になると「やはり、礼儀や厳しい規律は必要だ!」と言ってやってしまうのです。
 でも合気道の稽古は楽しくて、部での稽古はもちろんですが、夏・春休み中は本部道場でも稽古しました。その当時は、創始者の植芝盛平翁先生もお元気で、よく道場にお顔を出され、指導中の内弟子の先生方を受けに技を見せてくださいました。また、神様や古事記の難しい話をされ、学生の私には難解なものでした。しかし、ある日に結婚の話をされ「結婚は2回までは良いが、3回はだめだ!」というお話だけは鮮明に覚えています。前後の話のつながりは覚えていませんが、都合の良いことだけは頭に残っているようです。
 その頃は、現在のようにプロの合気道家になるなど夢にも思っておりませんので、翁先生の手にも触れることはありませんでした。あの当時、もう少し熱心に本部に通っていたらと悔やまれます。また当時は、現在海外で活躍されていらっしゃる先生方が中心となって本部道場の指導に当たっていました。二代道主吉祥丸先生(当時は若先生とお呼びしていました)、指導部長の藤平光一先生は別格として、今は亡き大澤喜三郎先生、山口清吾先生、有川定輝先生。そして、現在もご指導いただいています小林保雄先生も確か木曜日にご指導していたと記憶しています。また現在、アメリカ在住の千葉先生、五月女先生、藤平明先生、金井先生が、それぞれ個性豊かに指導をされていました。2年生の時に、有川先生のクラスに出て「オオ明治の学生か、チョット来なさい!二教の裏はこうやるんだよ。」と、見事に下まで極められ、一発で肘がポキという音とともに壊れたのが、今では懐かしい思い出です。
 学生時代の3年生までは、とにかくよく先輩方に投げていただきました。「投げられて覚えるものだ!」という言葉。スタミナはつきました。明治は本部道場でも他大学からも「スタミナ明治」と言われていました。投げても投げても直ぐに立ち上がってくるので、その内に投げている方が疲れて嫌になってくることから付いたものでした。五十嵐道場では、今でもこの稽古方法をとり、投げっぱなし稽古、審査後のお祝い稽古など、とにかく受身を多くとる稽古をしています。
 大学時代の思い出は、やはり合宿や演武大会への参加です。演武会では真剣による太刀取りの演武を2回ほど行いました。私は3年生の時から、当時の1年生の追分拓哉君(現在は福島県合気道連盟会長)と、部の稽古後に、下高井戸の岡田守弘先生の剣道場で居合道と杖道の稽古を始めていましたので真剣を持っていました。同期の飯森主将が取りで太刀取りを真剣で行いました。飯森君も大したものです。かかっていく私も真剣でしたが、よく怪我もなくできたものと思います。今、考えると冷や汗ものです、今ではとても怖くてできません。若さとは怖いものなしなのですね。
 昭和43年春、大学を卒業。兄の勧めもあり技術誌の出版社へ就職しました。出版社は2冊の月刊誌を出版していましたので、日曜日、祭日もないような毎日でした。仕事も2年ほど経つと、社長から1冊の月刊誌の作成を任されるようになりました。日本経済が上向き、みんなが活気づいていた時であり、それなりに充実した日々であったように思い起こします。でも、合気道の稽古は、あまりできませんでした。そんな中でも、時間ができると大学の稽古に出たり、小林道場に行ったり、本部道場の越年稽古に出たりと、年に数回ですが頑張っていました。そんな生活が5年ほど続いた時、小林保雄先生から一通の手紙が届きました。この手紙により、私の人生が一変しました。


(その3)平成22年1月

 昭和43年(1968年)春、明治大学を卒業。経済も上を向いている時でした。兄の紹介で入った会社は、月刊技術書を出版する会社です。仕事は、小さい会社でしたので編集と営業の両方を担当しました。社長はとても厳格な人でしたが、仕事の事はもちろん、社会人としての心構えなど親切かつ厳しく教えてくれました。教えた事は、すぐ実践に生かすようにと、どんどん仕事を任せてくれました。仕事は忙しかったですが、とても充実した新人社会人生活をおくりました。そんな時でも、本部の越年稽古や、本当に時々でしたが小林先生の小平道場で稽古を細々と続けていました。
 やがて、日曜日も休めないサラリーマン生活に、自分を見失い始めました。そんな時に、小林先生から「所沢道場開き」の案内状が届きました。47年11月、所沢道場開きが行われました。道場開きの式典も無事に済み、直会(宴会)となり、明大合気道部OBも多く出席しており、つい飲みすぎてしまいました。飲んだ勢いで、小林先生に仕事上の愚痴を言い、そして「会社を辞めますので、内弟子をさせてください!」と言ってしまったのです。先生も酔っていたのかどうか分りませんが、考える時間も無く「いいよ」と、すぐに答えが返ってきました。
 そんな事で、12月いっぱいで仕事を辞め、48年1月初めに小平道場に住込みを始めました。所沢道場には、すでに明大合気道部で2年後輩の鹿内一民君(現ブラジル在住師範)が住込んでおりました。月曜日以外は、毎日稽古の合気道三昧でした。
 朝稽古は、小平道場2回、所沢道場2回の週4回です。夜の稽古は週4回、そして日曜日の稽古は、午前は小平、夕方は所沢と、小林道場で稽古のないのは月曜日だけでした。当時、私は自転車に乗れませんでした。朝早く、所沢に向かわなくてはいけません。小平駅まで歩くと15分。小林先生から「自転車に乗れるよう修行しろ」と厳命されました。早速、小林先生の奥様の“ママチャリ”をお借りし修行が始まりました。電柱にぶつけたり、転んだりしましたが、一週間後には乗れるようになりました。でもその時には、奥様の自転車はボロボロでした。
 内弟子になった時は1月であり、とても寒かったです。所沢道場に着くと、鹿内君が外で焚き火をして待っていてくれました。その焚き火の暖かさを、今でも忘れません。地球温暖化など叫ばれていない頃です、朝稽古の時は、マイナス6度です。雑巾がけの時、落ちた水がすぐに凍ってしまうのです。ですから、稽古の始めは道場の中を何周も走るのです。今では考えられない寒さでした。それでも、小林先生は窓を全開するように言うのです。
 この年は、ちょうどブルースリーの映画の影響で、武道ブームが起こりました。10月、川崎の元住吉道場が開設される事になりました。所沢道場から新所沢駅に向かう道すがら、小林先生から「どうだ、専門家でやってみないか」とお話をいただき、「はい!」と言ってしまいました。2年間だけ“合気道づけ”の生活と思っておりましたが、これを機に専門家への道が始まりました。
 しかし、小林先生は「合気道だけでは生活はできないだろうから、鍼灸の学校へ行きなさい」と言って下さいました。そして、小平道場会員の鍼灸師・石村国興先生の紹介で、新宿の「東洋鍼灸専門学校」へ入学、もちろん入学試験に受かったからです。3年間の学生生活が始まりました。今でも合気道を続けている元住吉道場の浅田美子さんが同級生でした。卒業はしましたが、鍼灸を仕事とする機会も無く、今でも合気道だけで生活できている事は、とても素晴らしく有難く思っております。
 内弟子生活に慣れてくると、小林先生からプロとして生きていくなら、本部道場でも稽古をしなさいと助言を受けました。夜は指導稽古があるので、火・木曜日の朝稽古に通うことになりました。朝一番の稽古は二代道主の植芝吉祥丸先生、二番稽古は、火曜日が山口清吾先生、木曜日が大澤喜三郎先生でした。
 小平道場から通うので、朝4時には起き、道場の掃除を済ませ出かけなければなりません。日中の鍼灸の学校では、ほとんど机に頭をつけて寝ている事が多かったです。クラス委員の浅田さんに「五十嵐君、寝てばっかり!」とよく言われたものです。今でも頭が上がりません。その浅田さんが、今の私の主治医として、一週間に一度の治療をしていただいております。
 49年9月、八王子市の空手道場をお借りして「合気道八王子道場」が開設されました。その道場で、私にとって一生忘れられない出来事が起こりました。


(その4)平成24年1月

昭和49年9月、八王子市の空手道場をお借りして「合気道八王子道場」が開設されました。その道場で、私にとって一生忘れられない出来事が起こりました。
 50年春には、私も29歳を迎え“三十歳前には結婚したいな!”など、内弟子にあるまじき考えを持っていました。そんな50年1月のある日、八王子道場に若き見目麗しき女性が入門希望でやって来ました。何か“ピピッ!”と感じるものがあり、直ちにこの子だと思いました。それが今の家内、まち子です。猛アタックの上、結婚したのが翌年51年2月ですから、見事なものです。
 初めて、家内の実家に結婚のお許しを頂きに伺った時に、聞かれて赤面したのは「収入はどのくらいあるのですか?」という一言でした。当時は、小林道場の小平道場の2階に住込み、稽古三昧の生活をしておりました。小林先生からは、5万円ほどのお給料をいただいていました。もちろん5万円でも、まだ小さな組織であった小林道場の現状を考えると、私に給料を支払うことは大変であった事と思います。
 「給料の事、また、将来の生活設計のため鍼灸の学校に通っていること」などを正直にお話したところ、私の誠意が通じたのか、快く(?)お許しを下さいました。「最近、五十嵐さんは、おめかしをして出かけることが多いみたいね!」と言う、小林先生の奥さまの声が聞こえたのは、この頃の事かと思います。
 小林道場の所沢道場には、鹿内一民師範(現ブラジル)が住込んでいました、50年の春、小林先生から「ブラジルの中谷師範から、指導員を5年間ほど派遣して欲しい、と連絡が入っている。五十嵐か鹿内のどちらかを派遣したいので考えておくように。」と言われました。中谷師範は、素手でピストルを持った強盗を取押えたというブラジルでも有名な武道家と聞いていました。私はその時には結婚を決めていましたし、そんな物騒な国に5年間も行くのはいやだなと思い、“家庭的理由をつけて”即お断りしました。そんな事で、鹿内師範が行くことになりました。5年間という約束でしたが、同氏は今もブラジルに滞在し合気道の指導・普及に頑張っています。今、考えるとお断りしたのは正解であったと強く思います。
鹿内氏のブラジル行きは7月と決まり、小林先生も同行することになりました。それにともない、私は2年と半年の間住込んでいた小平道場から、所沢道場に7月に引越しをしました。



(その5)平成26年1月

 小林道場第一号内弟子で、所沢道場に住込んでいた鹿内君のブラジル行きは昭和50年7月と決まり、小林先生も同行することになりました。それにともない、私は2年半住込んでいた小平道場から、所沢道場に鹿内君と入替わるように7月に引越しをしました。
 小林先生は、鹿内君とブラジルに行き、その帰途にアメリカにも立ち寄られました。アメリカでは、合気会本部道場で植芝盛平翁先生の内弟子をされていた先生方が、すでに合気道の指導普及に努めていらっしゃいました。小林先生とは内弟子仲間でした。アメリカの道場でも稽古・指導され帰国しました。
 小林先生は、あまり服装にこだわりのない方でしたが、アメリカから帰国した時には、あまりにもモダンな服装になっていたのに驚いたことを覚えています。この旅を機に、小林先生の目は海外にも大きく開かれていきました。50年には台湾、51年には、香港、マカオ。52年には、ドイツ、北欧に指導に行きました。
 私は、この年の4月に新宿の「東洋鍼灸専門学校」に入学し、月曜日から土曜日までの6日間、朝の10時から午後3時まで、大学以来の勉強生活も始まっていました。小平、所沢の朝稽古、朝食を食べ、すぐに学校へ。授業終了後は急いで道場へ、という生活が始まっていました。今考えますと、いつ寝ていたのだろうかと思うような生活でした。授業中は、机に顔をつけて寝ていたことが多かったように思います。そんな私でしたから、誰も鍼の授業で試し打ちをさせてくれる同級生は皆無でした。
 当時、所沢道場で一緒に稽古しました、福島県いわき市「合気道東胡塾」の忍山東師範が、当時のことを五十嵐道場三十周年記念誌に、次のように述べています。「その当時、私は武道家の内弟子という過酷な環境に驚いたものでした。五十嵐先生も当時は若いので体力は十分でしたが、睡魔との闘いは大変でしたね。なのに五十嵐先生からはつらいとかきついとかの言葉は、一言も聞いたことがありませんでした。正直私には絶対できないと思いました。」と。
 そのような生活の中でも、結婚準備は着々と進み、51年2月に小林保雄先生ご夫妻のご媒酌で結婚式を挙げることとなりました。

 

(その6)平成27年1月

 昭和48年前後から、ブルース・リーのカンフー映画のヒットのお陰で武道ブームが起こりました。その影響で小林道場も、小平、所沢、川崎元住吉、八王子、東久留米、調布、日野、東村山、と道場が年ごとに増えました。道場の増加とともに、指導部員も畑山さん、堀越さん、多田さん、田村さん、学生で所沢道場住込みの明治大学の戸田さん、東洋大の岡田さんと増えていきました。
 そのような忙しい中でも年に数度、時間を見つけては茨城県岩間道場に稽古に通いました。そのきっかけとなりましたのは、以前からご指導をいただいていました菅原武道研究所(旧社名:港リサーチ)の菅原鉄孝先生が、斎藤守弘先生の合気道技術書(五巻)の製作中で、私の編集者の経験から出版のお手伝いをしたことから始まりました。
 岩間道場での写真撮影にもお供したこともあり、斎藤先生の技を間近に拝見することができました。斎藤先生は、小林保雄先生の人柄、技を評価して下さり、私も可愛がっていただきました。そして、5月の連休には数日間泊まり込み、ご指導をいただきました。その時に、岩間の剣・杖、そして基本を学びました。小林先生も、斎藤先生を尊敬していらっしゃいました。そのようなことで小林道場に岩間の剣・杖の技が徐々に導入されるようになりました。岩間で学んだことが、数年後に北欧に1年近く派遣された時に大いに役立ちました。
 そのような楽しい合気道生活の中でも、結婚準備は着々と進み、51年2月に結婚式を挙げることとなりました。所沢道場近くの2DKのアパートを見つけ、正月早々に引越しをしました。道場住込みでしたので個人の荷物はほとんどなく自転車一回で完了です。しかし、生活に必要な家具や、電気製品は何も無く購入しなくてはなりませんでした。そんな時に合気道の人脈はとても有難かったです。家具は、明治大学合気道部OBの深津昌雄先輩が、東京神田の「深津家具店」の社長でしたのでお願いしました。また、家電は小平道場の近くで、ディスカウントショップ「木村質店」を営む木村隆男さんにお願いしました。結婚指輪は、所沢道場会員の忍山東さん(現:いわき東胡塾道場長)が手配してくれました。とても安くしていただきました。
 結婚式は、小林保雄先生ご夫妻の媒酌で東京渋谷の日蓮宗のお寺であげました。「南無妙法蓮華経」の読経が大きな本堂に響きました。大きなホールでフルオーケストラ演奏のクラシックを聞いているような荘厳な雰囲気に包まれているようでした。

 

(その7)平成28年1月

 結婚後も、小平道場、所沢道場の朝稽古、夕方の稽古、そして八王子道場、元住吉道場ヘの出稽古という日常生活は変わりません。また、日中の月〜土曜日は「東洋鍼灸専門学校」での勉強がありました。火・木曜日は合気会本部道場で早朝一番、二番の稽古、月曜日はコーチとして明治大学合気道部での指導稽古。今思うと、いつ休んでいたのか、よく身体が持っていたものだと自分でも感心しています。
 また、その当時の小林道場の内弟子は、必ず本部道場に短期間住込んで稽古するという決まりがありました。私も暖かくなった春の1ケ月間、本部道場の4階稽古衣置き場の奥にある小部屋に布団を持ち込んで稽古をしました。   
 その当時、本部道場には、現在アメリカ在住の柴田一郎師範が4階小道場の奥の部屋に、そして宮本鶴蔵指導部師範が1階に住込みでいらっしゃいました。朝、起きると直ぐに、1階・2階・4階のトイレ掃除、4階から玄関までの廊下掃除を、宮本師範と一日交代で行いました。一番、二番稽古の後、新宿鬼王神社そばの学校に通っていました。3時に学校が終わりますので、本部道場に戻り稽古に参加しました。
 この1ヶ月で、本部の師範・指導員の先生方に、顔と名前を覚えていただきました。その後の合気道生活にとって、稽古だけでは得ることができない大きな財産となった1ヶ月でした。今でも「本部道場に住込んで稽古をする」という小林保雄先生の素晴らしいアイディアに感謝しています。
 鍼灸学校も2年時の終わりには「按摩・マッサージ・指圧師」の国家試験に合格。そして翌年の53年3月には、無事に「鍼灸師」国家資格を取得し、3年間どうにか通いつめた学校も卒業することができました。
 小林先生は、昭和50年に南米・北米で、51年に台湾・香港・マカオに、52年にはヨーロッパで合気道の指導をしました。その時に、これからは海外に目を向けなければならないと強く感じ、小林道場指導員にも将来の経験のために海外に派遣し研修させようと考えました。私は、スウェーデン、フィンランドに53年夏から1年、畑山憲吾指導員にはドイツに秋から2年と決まりました。
 労働ビザが、なかなか取れず、出発できたのは9月25日でした。成田より空路パリへ。私にとって初の飛行機による長旅でした。アンカレッジ乗換でパリに着いたのは翌日の早朝でした。ホテルの予約をしていないので、稽古衣・袴各2着を入れた重いカバン、木剣・杖・居合刀を入れた袋を担ぎ、あの高名なシャンゼルジェ通りをウロウロし、やっと旅行案内所を見つけ、6カ国語会話集を駆使し宿泊ホテルが決まったのは夕方でした。
 翌朝は、タクシーでドゴール空港に向かいました。唯一知るフランス語の「メルシー」と明るい声で言って、空港内に入ってびっくりしました。私の乗る予定であったフランス航空がストライキをしたのです。目の前が真っ暗になりました。広い空港内をウロウロして、やっとスカンジナビア航空に乗れたのが夕方でした。散々なパリ滞在でした。
 しかし、スウェーデン・ストックホルム空港には、私を受入れてくださった北欧圏合気道師範の市村俊和先生が、朝からずっと待っていてくださったのです。本当にホッとしました。
 スウェーデンでは翌日、ウプサラ市で初の稽古をしました。そして29日の夜、市村先生、十数名のスウェーデン会員と、私の紹介を兼ねた市村先生の講習会が開かれるフィンランドのトゥルク市に大型客船で向かいました。
 □船内でのサウナ競争
 船内において、市村先生の発案によりサウナ競争が行われました。フィンランドはサウナ発祥の国です。家を建てる時には、先ずサウナからというお国柄です。サウナ競争とは、誰が一番長い時間サウナに入っていられるかを競うもので、フィンランドではとても一般的なものです。そしてその勝者は、強者であり尊敬もされるそうです。市村先生より「合気道の先生は、何事にも強くなくてはならない。もし皆より早くサウナを出るようなら、この場から直ちに帰国してもらう。」という厳命がありました。

 

(その8)平成29年1月

□船内でのサウナ競争
 日本でのサウナは、ドライ・サウナが多く、ヒーターに水をかけないで下さいという注意書きが見られます。しかし、本場のフィンランド・サウナは熱しられたヒーターの上に特殊な石を多く置いてあります。その上に、勢いよく水をかけるのです。“ジュワー”という大きな音、熱しられた蒸気がサウナ室全体に広がります。身体全体に熱気が襲います。
 何時間(?)我慢ができたでしょうか? 最後まで争ったモリコさん(現ノルウェー七段師範)がサウナを出た時には、ホッとしました。本当にぶっ倒れるかと思いました。そして、その時に明治大学合気道部現役時代に経験した「一九会」修業を思い出しました。あの時も苦しくて、いつ逃げ出そうかと考えたものでした。しかし、その時も先輩方に、修業の前に「もし逃げ出したら、合気道部には戻れないぞ!」と言う厳命を受けていました。モリコさんが、サウナ室を出てから数分後に、私は何事もなかったような顔をしてサウナを出てシャワー・ルームに向かいました。驚いた事には、モリコさんが石鹸を持って待っていました。そして、彼は無言で、私の背中を流してくれました。これを機に、私は彼をそして北欧の人達をいっぺんに好きになりました。翌早朝、無事にフィンランド・トゥルク市の港に着岸しました。この日から、11月下旬までの1カ月半のフィンランド生活が始まる第一歩となりました。
□初の講習会指導
 今日から週末2日間の講習会です。会場の中学校体育館には、百畳近い畳が敷かれ、フィンランド国中から参加した50名ほどが、正座して待っていました。黙想、そして正面の植芝盛平翁先生のお写真にご挨拶。私の海外での最初の指導時間がやってきました。“さァー”準備運動と立ち上がった瞬間、フィンランド人の背の高さ、大きさに驚きました。後ろの壁が見えないのです。緊張した瞬間でした。そして、北欧に派遣される時、小林保雄先生からいただいた言葉を思い出しました。先生からは、「先ず最初に、座り技から、そして後技から始めなさい!」という助言をいただいていました。座ってしまえば、座高の高い私と彼らとは、そんなに違いがありません。まして後技だと、彼らを正面から警戒する必要はありません。「なんと素晴らしいアドバイスなんだろう!」と感激しました。2日間で、都合4回の稽古を市村俊和先生と交替で指導をしました。日曜日夕方、「私の紹介・講習会」は無事に終了しました。ここで、市村先生とはお別れです。先生は夜の船でスウェーデン・ストックホルムにお帰りになりました。
 そして私は、ヘルシンキ在住の会員の車で同市に向かいました。トゥルク市からヘルシンキ市までは170キロ、車で2時間です。途中休憩をはさみ、着いたのは夜遅くでした。1か月間滞在する宿舎は、ヘルシンキ郊外のカンネルマキという小さな町のアパートでした。アパートは、まだ大学生の若いカップルのペルッティー、マッルさんが提供してくれた1LDKの広い部屋でした。このお二人は、今でも稽古を続けています。フィンランドを訪れるたびに旧交を温めています。
 フィンランド合気会は、ようやく創立後10年目に入ったところで有段者も弐段が2名、初段が5〜6名ほど育っていました。フィンランド国内の道場・団体も、まだ大都市の数か所にあるぐらいです。ヘルシンキでは、「明道館」というフィンランド国内でも最も古い武道クラブで稽古指導しました。明道館は、オリンピック・スタジアムの中にあり、柔道、空手、合気道の稽古をしていました。明道館は、柔道・空手とも多くの国内、ヨーロッパ・チャンピオンを輩出するフィンランドを代表する武道クラブです。
(つづく)


(その9)令和2年1月

1978年10月のヘルシンキの気温は、もうすでに10度以下になっており肌寒さを感じます。木々の葉は、紅葉も終わり落ち始めています。
 10月2日(月)いよいよ一人での海外指導の生活が始まりました。指導は、ヘルシンキの明道館道場です。住まいのアパートがある郊外のカンネルマキからオリンピック・スタジアムまでは市バスで約30分です。降りる時には、ベルを押さなければなりません。慣れるまでは、通り過ぎることも時々ありました。こちらのバスも路線電車(トラム)も日本の物より大きく、また長く2両編成のものもあります。福祉の国らしく乗り降りがとても楽になっており、乳母車や車椅子への対応もしっかりできています。また、素晴らしいと思ったのは、乳母車や車椅子の人が来ると、乗車している人がみんなで助け合って乗車と降車を助け合うことです。福祉への教育の違いを感じました。
 明道館道場は、オリンピック・スタジアム内にある専門柔道場と、もう一つはオリンピック公園内にある「キサハリ・スポーツセンター」の大きな体育館の一部に畳が敷いてある道場です。網のカーテンで仕切った隣ではバスケット・コートが、その隣にはバレー・コートがあり、同じ時間帯で稽古・練習するので、とても賑やかで慣れるまでに時間がかかりました。スタジアム内の柔道場には、植芝盛平翁先生、柔道の嘉納治五郎先生、空手道の船越義珍先生の写真が飾ってありました。どの公共施設も更衣室、シャワー室、サウナ室、温水プールが完備しており、さすが福祉の国と感激しました。
 稽古は、火曜日から金曜日の夕方に2クラス、また滞在中の4週の内の2週末に特別講習会が組まれています。月曜日は休みですが、郊外の道場で指導を希望されると行くようにしていました。稽古の無い日中は、ゆっくりとヘルシンキ市内を観光できました。ヘルシンキは歴史のある大都市で、市バス、路面電車が市内を縦横に走っています。1時間以内なら乗換え自由です。特に中心部に建つ大聖堂、国会議事堂はとても見ごたえのあるものです。
 フィンランドは長い間、スウェーデンやロシアに占領された経験があるため、ロシアに戦争で勝ったことがある日本、日本人のことをとても尊敬しています。そんな事で、「トウゴウ」と言うラベルが貼ってあるビールがありました。ヘルシンキには、港近くに「横浜」と言う名前の日本レストランが1件あり、日本食が恋しくなると行きました。しかし、今もそうですが日本食はまだ珍しく高価なもので、頻繁には通うことはできませんでした。味噌汁1杯300円、日本茶1杯100円です。(注:40年前の貨幣価格です)

 

明道館の指導責任者のユハニ・ライシ弐段(現七段師範)は身体も大きく柔道経験者で基本もしっかりしている実力のある指導者です。他に、ボリエ・リンデ初段(現七段)、ハッリ・ラウティラ初段(現七段)など有段者がそろっていました。そして今も親しく交流のあるユッカ・ヘルミネン(現七段師範)さんは、まだ白帯でした。
(つづく)

 

 


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