はじめてのフロンターレ講座
 
 
 
はじめに
 
ほぼ毎年、このページをお借りして選手名鑑を書いていましたが、今年はちょっと趣向を変えてみようかと思います。
 
 
というのも、特にサッカーのエキスパートでもなければ、キャンプや練習場までチェックに行くほどの熱心さもない筆者が
書くような選手名鑑では、仲間内には読んでもらえるでしょうが、何せ今年はJ1。
 
 
「フロンターレがJ1にあがったみたいだからちょっと試合を見に行ってみるか」という市民にとって、
フロンターレといえば、こんな感じでしょうか。
 
「なんかすごいブラジル人がいるらしい」
 
「たまにサポーターが駅前でチラシとか配ってる」
 
「あれ?ヴェルディって今どうしてるんだっけ?」
 
 
 
また、「フロンターレがJ1にあがってきたけどどんなチームだったっけ」という
J1他チームのファンにとっては、こんなところでしょうか。
 
「そういやずいぶん前にJ1にいたよな」
 
「富士通の金で選手買いまくってるんだよね」
 
「ああ!藤田にPKハットトリックを決めさせてくれたトコね」(ジュビロファン)
 
「うちのヒゲやるから関塚返せ」(アントラーズファン)
 
「我那覇殺す」(セレッソファン)
 
――とまあ、表層的だったり情報が古かったり私怨含みだったりするのではないかと思います。
 
 
そんな方々にも、川崎フロンターレというチームの
現在の真の姿を知っていただきたいという思いを、拙い文章にこめてお届けいたします。
チームの歴史から現在の選手等々。
 
まあ、自分自身の備忘録的意味合いもあるのですが。
 
 
昨年以前からのファンの方からみれば周知のこととか、「いやそれお前の妄想だし」とかいう
箇所もあるかと思いますが、かつてベンチーニョを見ていた時のような心でご寛恕の程を。
 
 
(futotama註: といわけで私もコメントを入れたりします。)
 

 
川崎フロンターレの歴史
「臥薪嘗胆」
 
※それにしても、futotamaさん、つくづくいいサイト名つけたなあ…。

(futotama註: そうだねぇ。まさかこんなにぴったりくるとはねぇ・・・)
 
 
第1章〜夜明け前
 
 多くのJリーグチーム同様、フロンターレもその前身は企業チーム。
 
 
 富士通サッカー部の創部は1955年。当初は同好会的要素の強いチームだったようですが、67年に関東リーグ、72年にJSL2部入りすると、
徐々に本格的に強化を開始。
 
 
 そして76−77年シーズン(当時は越年シーズン制)。13勝3分2敗の成績で、JSL2部優勝。なお、この時の2位が読売クラブ。既に
このへんから因縁があるわけですな。
 (futotama註:へぇ、越年シーズンだったんだ!知らなかったな)
 
 ちなみにその他のチームに目を移すと、ヤンマー(現セレッソ)・住金(現アントラーズ)・甲府クラブ(現ヴァンフォーレ)・京都紫光クラブ(現パー
プルサンガ)などもいます。
 
 
 当時は「JSL1部最下位対2部優勝」と「1部ブービー対2部2位」の入替戦があり、富士通は1部最下位のトヨタ自動車工業(現グランパス)
と対戦。1分け1敗で昇格を逃す。誰ですか昇格決定戦に弱いのは伝統なのねとか言ってるのは(ちなみに2位の読売は、新日鉄と
対戦して2敗でやはり2部残留決定)。
 
 
 というわけで翌年も2部と思いきや、1部所属の永大(永大産業)が経営不振で何と休部に。1部が1チーム減ってしまうため、入替戦に
負けたにもかかわらず富士通が繰り上げ昇格という、なんともしまらない展開に。
 (futotama註:・・・・・・。芸風って・・・この頃から・・・)
 
 
 迎えた待望の1部でのシーズン(77−78年)だが、10チーム中9位の成績で入替戦行き。しかし、日産自動車(現Fマリノス)に2勝で
残留決定。今の目から見れば考えられない話ですな。
 
 
 そして翌78年シーズン(春開幕の冬終わり。ああ、めんどくせえ)も、また9位。入替戦の相手は、またもや日産。今度は2敗を食らう。
そりゃここまで同じ轍踏んでりゃダメだろう……なんか、30年近く前のことなのに、書いてたらだんだん腹立ってきたな。
 
 
 ともあれわずか2年で2部に逆戻り。誰ですかすぐ落ちるのは伝統なのねとか言ってるのは。
 (futotama註: その当時、JSLの2部は”J2”って呼ばれてたんだってね。 ああ、J2暮らしの長いことよ・・・)
 
 結局その後は一度も昇格することなく、JSLはJリーグの創設に伴い終了。富士通はJ入りをせず、企業チームとして旧JFLに参加。
 
 J創設以降にJ入りしたチーム(ジュビロ、レイソル等々)のファンの方ならご記憶の通り、旧JFLはJ入りを目指す「J準会員チーム」と、
本田技研などハナからJ入りを考えていない企業チーム、クラブチームで構成されたリーグでした。
 富士通は後者で、93年以降、中位〜下位で細々と活動していたわけで、その頃、川崎のサッカーといえば、富士通でも東芝でも
なく、ヴェルディ。
 市民が一体となって、思い出すだに楽しい日々でしたね!
 
 すいません、うそです。
 (futotama註: 念のため解説しますが、ヴェルディは等々力を使っていた関係で無理やり川崎を名乗らされ、それが不満だったのです。
          最初はそれを知らなかった純粋な川崎市民は歓迎したのですが徐々にお里が知れるにつれ気持ちは離れていきました。
          サッカー界の巨人軍を作ろうとしたナベツネと、それを阻止しようとしたチェアマンの戦いは有名ですね。)
 
 
第2章〜クラブ創設
 
 既にJリーグバブルも過ぎた96年。JFLリーグ戦終了後、富士通は何を思ったかJ準会員チームとなり、J入りを目指すことを表明。
 
 これにより、チーム名も「富士通川崎」から「川崎フロンターレ」に。ちなみにこの名前、イタリア語で「正面の」「前飾りの」という意で、
前進していくという意思を表しています。公募で決まったそうですが、親会社の頭文字と同じにしたかったからこの名前になったというのは、
うがった見方が好きなファンの間では周知のこと。
(futotama註:一般公募は良く覚えてます。私は当時からfutotamaというハンドルを使っていたので”川崎ビッグボールズ”という名前で応募しました(w
         ま、富士通のアメフト部がフロンティアですからね、一般公募といってもねぇ・・・)
 
 
 めでたくプロクラブとなったチームは、2つの大きな浪費、いや、投資をします。ひとつは、ブラジルの名門クラブ・グレミオとの提携。
 
 かつてトヨタカップを制したこともあるクラブに選手・コーチの供給と、フロンターレに所属する若い日本人選手の留学受け入れを頼むと
いう図式。ちなみに、1年目にグレミオから来たDFのシャイデは、後にセレソンとして来日したこともあります。
 
 この、フロンターレのグレミオへのいれこみ具合は相当なもので、何せクラブのエンブレムとユニフォームまでグレミオの真似をしたぐらい。
今でも等々力でグレミオのレプリカを着ている人がたまにいるが、この名残なのである。
(futotama註:私はいまだにケーブルTVのブラジルリーグなどでグレミオを見ると”はっ”としてしまいます。最近のはずいぶんデザイン違うけどね)
 
 ……しかし、チーム名がイタリア語なのにブラジルのチームと提携するってどういうことよ。
 
 
 もうひとつの投資が、選手の大量補強。主にJでコンスタントに出番の無い選手たちを、当時ベルマーレで監督に干されていたベッチ
ーニョを筆頭に、中西哲生(グランパス)、浦上壮史(エスパルス)、桂秀樹(フリューゲルス)、向島建(エスパルス)等々、GKからFW
までまんべんなく購入。前年までとは全く別のチームを作り上げることに。

(futotama註:中西の哲っちゃんいわく、”すごいメンバーを集めたもんだ”ってな雰囲気だったらしいっすな。)

 
 
 この2つの投資が、後々まで「金持ちフロンターレ」「金満川崎」「買物下手」などという他チームサポからの羨望と嘲笑を浴びる一因と
なるのだが、それはさておき。
(futotama註:ここ!大事な所だから!フロンターレのスカウティングが伝統的にいいと思っている人! それ、勘違いですから!) 

 

 同じJ準会員でJ経験者を多く抱えるコンサドーレなど例外はあるが、周囲のほとんどがアマチュア・半アマチュアのようなJFLの中では、
フロンターレは明らかに頭ひとつ抜けているわけで、誰がどう考えてもJ昇格の条件である2位以内(16チーム中)は確保出来そうなもの
である。
 
 が、画竜点睛を欠くというやつで、栄えある川崎フロンターレ初代監督に就任したのが、斉藤和夫
 
 
 ……今PCの前で、「あちゃー」というレッズサポの声が聞こえたような気がしましたが気のせいでしょうか。
 
 
 ともあれ97年、Jを目指すシーズンが開幕。勝つ時は豪快だが肝心の試合で負けるという、今でもやや引きずっている特色を遺憾なく発揮。
 
 昇格の最大のライバル、コンサドーレには2試合ともVゴール負けという屈辱もあり、カズオ・サイトーはシーズン途中であぼーん。しかし、
監督代行に据えたのがフィジカルコーチのジョゼという、当時の状況を知らない筆者でも記録を見るだけで大体の想像はつくアラアラぶりで、
結局、2位の東京ガスに勝ち点1差の3位でシーズン終了。
 勝ち点1の差で涙をのむというのは、フロンターレの場合、昨日今日の芸風じゃないのだよ。誰に威張ってんだ俺は。
(futotama註:この年のナビスコでの清水戦が私のフロンターレ初体験でした。ペッサリとかがいましたねぇ。哲っちゃんはまだボランチで。)
 
 
 翌98年。この年は翌年からのJリーグ2部制が決まっており、JFL2位以内での自動昇格がなくなってしまい、リーグ戦終了後、J下位
チームとの「J1参入決定戦」を戦うことが決まっていました(確か、JFL最上位の準会員チームが参入決定戦に進めるってことになって
たんじゃなかったかなあ)。
 
 
 最後のJFLリーグ戦。フロンターレは、グレミオに借りたFW“モンスター”ヴァルディネイや、アントラーズからレンタルで獲得したMF“川崎の
宝”鬼木達などの新加入選手の活躍もあって、前年から上昇して2位でシーズンを終える。っていうか優勝するだろ普通。

(futotama註:ヴァルディネイは凄かった!鬼木は地味だった!(w)
 
 このシーズンも、本田技研に2戦2敗とか取りこぼしがあり、ホームで迎えた最終戦。下位のソニー仙台に勝てば、J1の行きがけの駄賃に
JFL優勝の栄冠を引っ下げていけるというシチュエーションでコロッと負け、東京ガスに優勝をかっさらわれることに。これ以上は無い縁起の
悪い形で、J1参入決定戦に向かう。
 
 
 古参フロンターレサポがよく言う「バカな子ほどかわいい」というのは、こういったことがあったからこその言葉なわけですね。今だから笑って
話せるのでしょうが、当時ははらわた煮えくり返っていただろうなあ。

(futotama註:私は古参サポではないですが、当時の一般的な川崎市民としては”なにやってんだよぉ”って気分でしたね)
 
 
 
第3章〜中西・松本時代
 
 さあ、この辺からは、当時を知ってるから楽に書けるぞ。書き飛ばせるとも言えるが(爆)
 
 
 98年11月。フロンターレはこの年のJ最下位・アビスパ福岡とのJ1参入決定戦に臨む。ちなみに、他の参入戦がホーム&アウェイ
2試合だったのに対し、この試合だけはアビスパホームでの一発勝負。金子達仁いわく「日本サッカー史上初」の天国と地獄決定戦
だったわけですな。そのくせ現場に行かないで、川口能活とテレビ観戦ってのはどうなんだって気もするが。

(futotama註:ヨシカツはガミさんとマリノスで同僚だったんですよ。あ、ご存知ですか、すんません)
 
 
 というわけで、この試合については金子氏・戸塚啓氏・中西哲っちゃん共著の『魂の叫び』に詳しいが、フロンターレは後半ロスタイム
まで2−1とリードしていながら、哲ちゃんのGK浦上へのミスパスから山下芳輝に同点ゴールを決められ、延長ではアビスパのフェルナンドに
Vゴールを決められ終了。チーム創設以来、フロンターレが最も知られることになったのが「劇的な負け方」というのがらしいというか何と
いうか。
 
 事実、この時は市内でも結構な盛り上がりで、武蔵小杉駅前の街頭テレビの前に大勢の市民が集まった模様が全国ニュースでも
流されていました。筆者を含め、この時から本格的にフロンターレにのめりこんだ人は多いのではないでしょうか。
 
 
 
 翌99年、記念すべきJ2がスタート。例によって優勝候補に挙げられていたフロンターレだが、グレミオから来ていた「ムトゥ 踊る
マハラジャ」のご主人様みたいな顔をした当時の監督・ベットが、開幕前の調整に失敗。いきなり開幕3連敗となる。
 
 この時のフロントの動きは珍しく素早く、4月の頭でベットを見限り、新監督を招聘。誰もが待ち望んだ新しい指揮官、その名は、
松本育夫
 
 
 …いや、笑うことじゃないから。そりゃ我々も、当時は笑いましたよ。っていうか笑いが引きつったね。
 
 何せ当時の育夫さんといえば、評判はあまりよろしくなかった。メキシコ五輪銅メダル組という旧世代で、Jクラブでの指揮経験はなし。
京都サンガではGMを務めていたが、チームの結果は芳しくなかったし。
 解説者時代の育夫さんを覚えていた人は、あの甲高い声で、好プレーに一人で感動して何を言ってるのかよく分からない人が、果たして
選手をちゃんと指導できるのかとの不安を抱いたものである。
 
 
 そんな周囲の心配もものかは本人は横山まさみちのオットセイばりにやる気マンマン。「ゾーンでの守りは責任が曖昧になる。若い選手には
責任を与えた方がいい」と、今考えれば、昨年流行った「自己責任論」を先取りするマンマーク戦法を採択。…いや、そんな高尚なもの
でもないか。
 
 
 しかし、身内のコーチからすら古色蒼然視されたそのマンツーマンがハマる。
(futotama註:そうだねぇ、つい去年も鳥栖にやられたもんね。)
監督就任わずか1週間後の初戦、岡ちゃん率いるコンサドーレを下し、その後は5月から8月にかけてチームは引き分けをはさんで11連勝。
この間、この年からの加入にも関わらず前監督からキャプテンに任命されていた、流浪のレフティー岩本輝雄(現無所属)さんに代えて
中西哲生をキャプテンに任命。
 また、岡ちゃんが欲しがっていた柏レイソルのDF森川拓己(現ベガルタ)を獲得。
 さらに、グレミオから借りたものの屁のつっぱりにもならなかったジェニウソンを切った後、ブラジル人MFのカドゥーを獲得
 
 ……いや、これは功績じゃないな。
 
 大体、ジェニウソンにカドゥーって、熱心なフロンターレサポでもたまに忘れるくらいだし。

(futotama註:・・・うん。これ読むまで忘れてた(w)
 
 
 ツゥット・ティンガ(そういえばティンガも後にセレソンになったなあ)のブラジル人2トップや、昨年の汚名を晴らさんと鬼のような形相でチーム
メイトを叱咤するキャプテン中西らの活躍で、フロンターレは首位をキープ。これまでさんざん酷い目に遭わされてきた東ガスことFC東京や、
コンサドーレに一度も負けぬままシーズンは終盤へ。

(futotama註:関係ないけど、松本さんは今でも”チンガ”って発音するんだよね(w)
 
 
 迎えた99年11月5日金曜日。場所はホーム、相手は1勝2敗と負け越しているサガン鳥栖。この日もサガンのカウンターと、J2ウォッ
チャーの間では今も伝説となっている高嵜理貴のありえないセーブの数々で延長までもつれ、最後は浦田尚希のVゴールで勝利。リーグ
2位以内を確定し、ついにJ1昇格を決める。
 
 観衆1万にも満たない(それでも9,000人弱というのは当時としては多かった)、平日のナイターでの昇格でしたが、昇格を祝う花火が
上がるわ、負けた鳥栖サポが「昇格おめでとう」というダンマクを掲げてくれるわ、間違い無く、チーム創設以来最良の日だったでしょう。
そのわずかひと月後からはじまる、悪夢のような日々の影も形も無く。
 
 
 
第4章〜どがちゃがどがちゃが
 
 悲願のJ1昇格を果たしたフロンターレだが、翌2000年シーズンに向けての道程は、ほとんど彼岸への歩みでした。
 
 
 まず、どん底からチームを救った育夫さん。本人はもう、J1でも指揮を執るつもりでパックンフンゴマラ。いや違った、やる気マンマン
(しつこいね)。しかし、クラブ創設以来フロントの実権を握ってきたGMのK氏が「どうしてもゼッカを監督にしてやりたい」と、グレミオ出身の
GKコーチ・ゼッカを指名(ちなみに監督経験は、ナビスコ1試合の監督代行のみ)。
 
 今考えると、一体グレミオからいくらキックバックがあったのだと邪推したくもなるが、とにかく育夫氏は説得されて代表権の無いクラブ社長に
就任。
 
 
 一方で、J2優勝の立役者であるブラジル人2トップの引き止めに失敗。ティンガはグレミオから「返せ」と言われて渋々出すことになるが、
このままフロンターレでやる気でいたツゥットは、こともあろうにFC東京にレンタル移籍。当時、K氏の失言がツゥットを怒らせたという噂が
たったもんです。
 
 
 そして、J1仕様のため、クラブ創設時以上の大型補強を敢行。まず、ツゥット・ティンガの穴埋めに、アントラーズからFWマジーニョ。
…はい、笑うとこですよ。当時6千万払ったって話があったもんなあ。
 
 
 他にも、やはりピークは過ぎていたFW森山泰行やGK菊池新吉、あの鈴木隆行、哲ちゃんに喧嘩を売るように獲得したDF奥野遼右
(本人はすごくいい人だったが)、骨折王・中谷勇介、他にも西澤淳二に池田伸康など。

(futotama註:いや、なつかしいね・・・・・・)
 
 これでもまだ書ききれないのだが、とにかく、全体としてはすこぶる微妙なメンバーでのJ1への船出となる。
 
 この頃のフロンターレサポは皆、頭にまとわりついて離れない不安を必死にかき消すように、「アルバレンガ、現役パラグアイ代表はやっぱすげ
えよ。足技は」とか「伸康はさすがずっとJ1にいただけあるよ。盛り上げ方が」とか、視点をずらして些末的なことに一喜一憂していたもので
ある。
 
 
 そうこうする内に、夢にまで見たJ1開幕で不安は的中。開幕戦は因縁の相手・アビスパに因縁の場所・博多の森で負けると、ホーム
開幕戦もアントラーズに負け。“川崎ダービー”でヴェルディにも負け、5月頭、ホーム史上最高観客数のジュビロ戦で、藤田俊哉にPK
ハットトリックを決められるとやっとゼッカはクビ。

(futotama註:このジュビロ戦、シュウヘイのゴールで先制したんだよねぇ・・・。16,000人入ったんだよねぇ・・・)
 
 
 かわって監督になったのが、元東京ガス監督で、この年からコーチになっていた今井敏明氏。しかしこの人の功績といえば、1stステージの
最終戦、勝てば優勝でガチガチになっていたセレッソ相手にやけっぱち4トップで対抗。Vゴール勝ちしてFマリノスに優勝させてやったことくらい。
 
(futotama註:この試合、Vゴール決めたのは我那覇、と勘違いされている方も多いと思いますが(特にセレッソサポ)
         我那覇は先制ゴールと、Vゴールのアシストですから。Vゴール決めたのは浦田ですから!)
 
 2ndに入っても状況は好転するどころか、業を煮やした育夫さんが「自分が監督に復帰する」を言ったとか言わないとか、社長とGMの
K氏の確執だとか、お家騒動だとマスコミに面白おかしく書かれてますます悪化。
 
 チーム内では、「言いたいことがあったら言ってくれ」とミーティングで言った監督に対して、本当に言いたいことを言った哲ちゃんが「お前に
そんなこと言われる筋合いは無い」と一蹴されるなど、堕ちるところまで堕ちた状態。

(futotama註:この伝説のミーティングで哲に味方したのがあの鱸。へなちょこ加減でフロンターレサポには基本的に嫌われているけどこの一件でやや印象が良くなった)
 
 
 余談ですが、この「お前に言われる筋合いは無い」はフロンターレサポが選ぶチーム名言集ベスト10の2位に輝いています。え?1位?
もちろん、相手CKの際の育夫監督の「誰かに合わせてくるぞ」に決まってるじゃないですか。

(futotama註:この名セリフは対FC東京戦にて。東京系の大きなページに”どっかの酔っ払いが叫んだ”と書かれて一躍有名に。
         この件以来、FCF東京サポはコーナーのたびに”誰でもいい!誰でもいい!”というコールをします。たぶん今年も聞けるんじゃないかな)
 
 
 結局、降格がほぼ確定的になったところでやっと監督交代。新監督は、またしてもこの年から、クラブの育成部コーチを務めていた小林
寛氏(現水戸社長)。残り数試合で、J初采配の人に任せるというのはどだい無理のある話で、「クラブ内でS級持ってる人」ということでの
敗戦処理的意味合いの強い就任でした。
 
 
 そして11月18日。日立台での柏戦の前に、降格争いのライバルであったジェフが勝ってしまい、他力降格決定。積み上げてきたものを
壊すのはとても簡単ということを思い知らされたJ1での日々でした。
 
 
 とはいえ、悪いことばかりではなく、ナビスコカップはなぜか調子が良く、前年のナビスコ王者・レイソルや、リーグ戦では勝てなかったヴェルディ
などを破って決勝進出(最後はアントラーズに子ども扱いされての準優勝でしたが)。
 まあ、他チームサポからは「でも降格確定的じゃん」とか言われましたが。特に準決勝は、結果的に共に降格する京都が相手で、外野からは
「お前らそんなことやってる場合か対決」とか言われたんですが。
 
 
 それから、さりげなくこの年を最後にグレミオとの契約を解消。これまでいくら払ってたか知らないが、投資に見合うだけのものがもたらされた
かというと、やはり疑問。グレミオから来た優良ブラジル人は今や一人もいないし、若手の留学も、せいぜいタクミがポルトガル語を覚えて
きたくらいか。
 
 それはさておき、この契約解消で、クラブのエンブレムとユニフォームのデザインがほぼ現在の形になる。実は筆者は、仕事で偶然、この
時のユニをデザインした人に会ったのですが、「いやあ、僕がデザインしたら降格しちゃったから、しばらく同業者から“降格デザイナー”とか
言われてたんですよ(苦笑)」……その同業者、連れて来いっ。
 
 
 
第5章〜ノブリンとゆかいな仲間たち
 
 00年シーズン終了直後、クラブは当然、1年でのJ1復帰を目指して早々と動きはじめる。
 
 まずは新監督。ガンバのコーチである堀井義晴氏を招聘。
 
 そして前年に続く選手の大幅入れ替え。その目玉が、この年、独走でJ2優勝を果たしたコンサドーレのエース・エメルソン(現レッズ)。
この加入に沸いたサポーターだったが、同時に、エメルソンが心酔するというピッタがコーチに就任が決定すと、事態は思いもよらぬ方向へ。
 
 件のGM、K氏が富士通にもクラブにもひとことも話をせずに、ピッタに「監督にしてやる」とオファーを出していたことが判明。これに激怒
した本社サイドがK氏を事実上解任。K氏の後見人的存在だった、前社長であるSゼネラルアドバイザーも引責辞任。この一件があった
からか、もともと嫌気がさしていたか、多分後者だが、育夫さんも社長を辞任し、クラブのトップが一新されることに。

(futotama註:"夢をありがとう はぁと”の弾幕が出たときだね。 はぁと、が割れてたけど(w)
 
 
 かくして、共に富士通サッカー部OBである、武田新平社長・福家三男事業本部長(GM)が貧乏くじを引かされ、いや、抜擢され、
新生フロンターレの再挑戦が始まったのでした。武田・福家両氏の人となりなどが未知数であった当時、大方のサポの反応としてはとにかく
K氏がいなくなったということでお祭り状態。K氏でなければ誰でもいいという雰囲気でした。
 
 
 そして2001年、「出戻り」と他チームサポに揶揄されながらのJ2リーグ開幕。しょっぱなこそ順調に見えたものの、ホーム京都戦、監督に
交代を命じられたリカルジーニョ(元名古屋、平塚=現湘南)がこれを拒否。さらに、ピッタが未だに自分のことを監督だと思っていることが
露呈。あらあらのベンチワークで無残な大敗。
 
 
 ここから歯車が狂いはじめ、チームは完全に「エメとその他」という図式に。ピッタという悪の正太郎君に操られたエメ一人が気をはく
ものの、チームは黒星先行。前任者の負債を押し付けられた形の武田・福家両氏はたまったものではなかっただろうが、ついに7月に入って
大ナタをふるう。
 
 堀井監督をはじめ、わがまま放題のリカルジーニョ、ピッタの首を切り、新監督にはシーズン序盤に大分をクビになっていた石崎“ノブリン”
信弘を招聘。スペインに武者修行に行こうと思って、飛行機のチケットまでおさえていたらしいが、福家氏のオファーを受諾。ここから本当の
意味での再生が始まったのでした。
 
 
 ピッタとエメを抱き合わせでレッズに売り付けた後は、現有戦力を何とかやりくりして戦うものの、やはりエメの不在は大きく、京都には全く
勝てず、また、なぜか山形や大分といったノブリンの古巣にも勝てぬまま、12チーム中7位でシーズン終了。
 
 
 そして、リーグ戦終了後、今度はノブリンが大ナタをふるう。
 
 これまでチームを支えてきた生え抜きを中心に、多くの選手が戦力外になり、また、浅野哲也・向島建といったベテランの引退も既定路線に。
天皇杯は、この戦力外組が大活躍。「リストラ軍団快進撃」などという小馬鹿にした調子でスポーツ紙に扱われながらベスト4まで進む。
 最後の準決勝は、建さんの古巣・エスパルスが相手で、建さんも途中出場。試合終了後は、フロンターレサポに挨拶した後、エスパルスサポ
にも暖かく迎えられていたのが感動的でした。
 
 
 翌02年シーズンは、良くも悪くも(いや、悪いな)ベンチーニョ(元ヴェルディ、レイソルなど)に尽きる一年。他のブラジル人がなぜか、ベンチ
ーニョと同じピッチに立つと動きが落ちるという特性を持っており、迷惑なことこの上ない。さらに、「ボール取られてもヘラヘラしてる」「シュートを
外すと自分の足を叩いて足のせいにする「手鼻をかむ」「靴下が脚絆みたいで変」などという人格攻撃にまで発展。ベンチーニョに
腹を立てている内に、大分や新潟にぽろぽろ負けて昇格を逃したシーズンでした(結局4位)。

(futotama註:この辺は、02年シーズンの観戦記を読んでいただくとお分かりいただけるかと。)
 
 
 03年は、ノブリン契約最終年。スカパーでベティスのプレッシングサッカーを見てひらめいたノブリンがフロンターレにも導入。
 
 クラブも「今年こそ」の意気込みで全面的に支援。アントラーズからアウグスト、ブラジルのパルメイラスからジュニーニョなどを補強。
 ジュニーニョ、アウグスト、ついにブレイクした我那覇の活躍などもあって、99年以来の優勝争いにからむ。結果的に昇格したサンフレッチェには
無敗だったり、この年のJ2リーグ1の勝ち数だったりしたのだが、最後の最後に序盤の引き分けが響き、またもや勝ち点1差で昇格を逃す。
 
 
 これにより、クラブは“泣いて馬謖を斬る”形でノブリンを切り、「石崎に無いもの=J1の経験」を持っている人ということで、コンサドーレなどとの
争奪戦を制して、アントラーズのヘッドコーチ・関塚隆を招聘。
 
 
 
第6章〜Mind−1
 
 そして2004年。
 
 J1での経験があるっつっても、ヘッドコーチと数試合の監督代行経験のみのセッキー(関塚氏)の手腕は未知数であったが、フタを開けて
みれば、主審に怒られるほどのアツイ采配でチームを牽引。また、前年3位のメンバーに加えて、新潟からは2年連続J2得点王のマルクス、
アントラーズから言わずと知れた相馬直樹などを加えた分厚い選手層で、開幕から首位を独走。
 
 2位以下のチームがもたつく中、フロンターレはこれまでの歴史を総括するかのような、この年のスローガン――「Mind−1 勝ち点1
への執念 こころひとつにJ1へ」――通りに、前半戦ホーム全勝などの快進撃で、ついに5年ぶりのJ1昇格を果たしたのでした。
 
 
 
 そして今年。
 
 前回の昇格時の反省を踏まえて、昨年の主力をほぼ残留させたフロンターレは5年ぶりのJ1に挑みます。
 
 
 今季のフロンターレのスローガンは「フロンターレ・フォルティシモ」と、大友康平みたいなこと言ってますが(強く激しくっていうことね)、やはり
今年も「Mind−1」の精神で胸を借りるべきではないかと思います。
 
 
 …だってほら、勝ち点1で降格って可能性もあるわけだし(核爆)

(futotama註: そう、そんなわけでフロンターレサポはたぶん、世界一心配性なサポです。ああ、J1なんておちつかねぇ(w )