文法性判断とステレオグラム

金水 敏


一九六〇年代以来、文法的な文か、非文かという文法性判断に基づいて文法理論を組み立てることが常識化している(統語論的な条件に基づく意味の異同の判断も含めて、文法性判断と呼んでおく)。昨今は、日本語についても、論文で*や?のついた例文のない論文を探すことの方がむずかしい。しかし一方で、そのような文法性判断について、ある種の不信感を表明する人もまた少なくない。曰く、「判断が恣意的である」「理論に合わせるために判定を左右している」「再現性が弱い、もしくは、無い」等々。例文の文法性判断に対する不信感から、文法的直観に基づく研究を否定ないし疑問視する研究者や、「文法性とはすべて慣習であり、確率的分布としてしか存在しない」と主張する研究者さえある。

私自身も、例文に*や?を付ける方の研究者に属する。ある種の文の使用の適不適について慣習的な面があることは否定しないが、文法性がすべて慣習だとは信じられない。しかし実際問題として、自分自身の研究の過程で文法性の判断に迷うことがよくあるし、自分の判断が一貫した能力の反映であるのかどうか、確信が持てないことも多い。

それ以上に、他の研究者の判断に対して疑問を感じることが少なからずあった。特に、生成文法研究者の日本語に対する文法性判断には、正直言って違和感を感じることが多かった。英語ではその存在がほぼ常識となっている「弱交差」(weak crossover)や「再構築」(reconstruction)といった現象が、日本語にも同じように存在するのかどうか、またそもそも英語に見られるような統語的な階層性や範疇の移動が日本語に存在するのか、あるいはそれを仮定することが日本語の文法研究に役に立つのかどうか、半信半疑であった、というのがある時期までの正直な感想である。

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文法性の判断に関してかなり認識が変わったのは、一九九七年以来、南カリフォルニア大学の傍士元(Hoji, Hajime)氏と共同研究を行うようになってからである。傍士氏は、文法研究を自然科学として探求して来られた。また、文法性の判断を物理実験と同様の意味での科学実験であると位置づけられている。

自然科学として文法を研究するとは、大体、以下のようなことである。

まずいくつかの基本概念を仮定し、そこから公理体系を作り、反証可能な命題を系として生成し、それが言語表現の与える我々の感覚経験のシステムと一致するようなモデルを与える。ここで、反証可能な命題により生成される予測を検証する作業が実験である。現在は、人間の文法に関する感覚経験の測定としては、人間の直観より正確なものはない。従って、言語学における実験としては、我々の文法的直観を、用例の文法性の判断を通じて引き出すことがもっとも手っ取り早くて確実である(なお、実験であるかぎり、客観性や再現可能性を保証する必要がある。一般の科学実験では、そのために特殊な機材や測定装置を用いるが、そのような機材がなければ実験でないというのは本末転倒である)。また一言付け加えるならば、傍士氏が日本語の観察に力を入れるのは、個別言語としての日本語に興味があるというよりは、日本語の観察を通して普遍文法の特質を見極めようとするためであり、その手段としてもっとも便利なのが、氏にとっては自分自身の日本語についての文法的直観の観察であった、ということに他ならない。

このような方法論は、きわめてあたりまえの、伝統的な科学観に基づく研究法であり、生成文法学者であれば誰でも共有しているはずのものである。しかし傍士氏は研究の目的と方法論について常に意識的であるばかりでなく、学生や共同研究者の間で方法論を共有する努力を続けて来られた。ことに傍士氏の研究で特徴的なのは、実験としての文法性判断の技術を洗練させて来られたことである。それは、技術を洗練させることが同時に、我々の文法的直観をより正確に表現するための理論の基本概念や関係概念を洗練させていくことに直接つながるという、文法研究の特質を見据えておられるからである。

さて、科学実験としてもっとも重要なことは、測定すべき現象が予測された理論に基づく現象であることを確定するために、付随して起こる現象を十分コントロールすることである。文法性の判断でいえば、当該の文の文法性が、仮定している理論に基づくもの以外ではありえないことを確定するために、他の文法的、個別語彙的、語用論的因子が出来るだけ関与しないような、あるいは関与すると予測される因子をある程度明示化して、それを無視できるような条件を整えることが重要である。

このような視点に立ったとき、従来の日本語の文法性判断の問題点も明らかになってくる。日本語研究において、疑問を感じる文法性の判断が少なくなかったのは、例えば英語なら英語で見られる現象を安直に日本語に引き移し、日本語固有の語彙的な問題や語用論的な条件を十分コントロールしないまま、あいまいな形で判断が下されていたからではなかったか。あるいは、どんな理論に基づいて、何に関わる現象を見ようとしているのかはっきりしないまま例文の判断を行っている論文も少なくないようである。すなわち、科学的精神を忘れた(あるいは誤解した)文法研究が多かった、ということであろう。

以上のようなことを、傍士氏の研究に接することで実感として感じることができた。しかし、そのことを以て、氏が特別な研究者であるということを主張するものではない。多くの言語学者は、氏と同様の態度で言語の探求を行って来ておられる。むしろ、優れた研究とそうでもない研究を見極める一つの視点を、氏との共同研究を通じて得ることができた、と言うべきであろう。

本来なら、ここで傍士氏の具体的な日本語の分析例を示して、よくコントロールされた言語学的実験がどのような文法的直観を引き出すかを実感していただきたいところであるが、与えられた紙幅では中途半端な議論に終わり、かえって誤解を招くおそれもあるので、ひかえておく。その代わりに、ぜひ傍士氏の著作や、傍士氏のもとで研鑽を積まれた上山あゆみ氏の著作などに当たられたい。幸い上山氏は、この特集号にも寄稿されている。また、田窪(1997)は、傍士氏の具体的な分析を例にとり、生成文法の目的と研究法について分かりやすく解説されているので参考になる。

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さて、実験としての文法性判断の技術がある程度身に付き、自分の言語的直観が具体的にコントロールできるようになってくると、かなり細かいところまで文法性の違いが判断できるようになる。まだあまり傍士氏の実験になじんでいない頃、傍士氏と学生さんたちが「この解釈は取れる」「取れない」などと議論されるのを横目で見ていて、なにか伺い知れない秘術でも行われているかのような印象を受けた。しかし、自分もしばらく実験に参加していると、「なるほど、こういうものか」と具体的に感じ取れる瞬間があり、ある種の感動すら覚えた。これによく似た感動をどこかで感じたことがあると思い返してみて、思い当たったのが、ステレオグラムで裸眼立体視ができた瞬間のことである。

ステレオグラムというのは、両眼の視点をずらせることによって立体映像を感じることができる平面画像のことである。特殊なメガネを使ってペアになった画像から立体視を得るタイプのものは昔からあったが、九〇年代の初め頃、コンピュータ・グラフィクスの発達に伴い、一枚の画像で立体視を可能にするタイプのステレオグラムが急速に発展した。この種のものは、普通に画像を見たときと、立体視を行ったときとで画像が大きく変化するので、驚きが大きい。しかも器具を使わず裸眼で見るので、日常的な視覚映像とのギャップがより強く感じられる。当時、この裸眼立体視のステレオグラムが大流行し、書店にも類書が山積みされていたので、ご記憶の向きも多いことと思う。手元に、当時買い求めた『CG ステレオグラム』(根本恒夫・徳山雅記・石井孝編、小学館、一九九二)}および『CG ステレオグラム 2』(根本恒夫・徳山雅記・塚原伸郎編、小学館、一九九三)という二冊の本がある。今、改めて立体視をしてみても、奥行きの深い映像が突然目の前に現れる感じにドキドキする(図1参照)。

ところで、裸眼立体視は、普段とは少し違う目の使い方をするので、誰でも直ちにできるというものではない。少し「こつ」が要るのである。前述の出版物が出た当時、裸眼立体視がどうしてもできない人が、ブームに取り残されて寂しい思いをしている、といった新聞記事が出たりした。『CG ステレオグラム』には、「裸眼立体視完全マスター講義」というコーナーが設けられていて、具体的な方法を説明したあと、「よくできる人に聞いてみるのが一番です」「静かな環境で、リラックスして見ましょう」「見よう見ようと焦らないことです。あまり根をつめず、できなければ休憩して気分を変えましょう」「「できない」という気持ちにならず、目を信じましょう」などというヒントが書いてあり、微笑を誘う。できない内は「なんだか胡散臭いな」と感じるけれど、できてみると、「なあんだ、そういうことだったのか!」と、新しい世界が開ける、という感じが、先の文法的直観をつかまえる感じととても似ていると感じたのである。

むろん、生理的には立体視と文法的直観はまったく異なる能力であり、あまり比喩にこだわりすぎるとかえって本質を見誤らせるであろう。しかし、よく考えてみると、両者の間には思いつき以上に似ている面があることに気づく。立体視は、人間が生まれき持っている能力であり、日常的に使用している。しかし、当たり前すぎてかえって普段は気づかない。ステレオグラムは、この日常的な能力を、日常的ではないシチュエーションで使うことを強制する。その結果、立体視の能力を身をもって感じることができ、そのことに感動を覚えるのである。文法性の判断も、人間に生まれついて与えられた能力である。日常的な言語の使用の場面では、あたりまえ過ぎて、その存在を意識することがめったにないが、よくコントロールされた用例を解釈しようとすると、微細な点まではっきり判断し分けられることが実感できる。文法の例文は日常的な文ではないと非難する向きもあるが、日常的でないからこそ内在化された能力が際立つ、という面があるのである。

また、さらに踏み込んで、ステレオグラムを作る側の立場に立って考えてみるのもおもしろい。見る側は、単に生得的な立体視の能力を使うだけでいいが、作る側は、見せたい画像を見せるために、視覚に関する知識や数学的な処理やコンピュータの技術を駆使して、ステレオグラムをデザインしなければならない。一方、文法性判断の実験を行う研究者も、めざす直観をきれいに取り出すために、用例に関わるさまざまな言語学的・非言語学的因子を吟味し、注意深くコントロールしながら、例文を作成・提示する必要がある。

このように考えると、ステレオグラムのことを思い出したのも、あながち突飛な連想ではなかった、と思えてくるのである。

●併せて読んでいただきたい論文など

Hoji, Hajime (1997) "Null object and sloppy identity in Japanese." Linguistic Inquiry, 29(1), pp. 127-152.
Hoji, Hajime (1998) "Review: Japanese syntax and semantics, By S.-Y. Kuroda, Boston \& London: Kluwer, 1992." Language, 74(1), pp. 146--147.
Hoji, Hajime (1998, to appear) "Surface and deep anaphora, sloppy identity, and experiments in syntax." To appear in A. Barss, and T. Langendoen(eds.), Anaphora: A Reference Guide, Blackwell, Cambridge.
黒田成幸 (1999)「文法理論と哲学的自然主義」チョムスキー(著)、大石正幸(訳)『言語と思考』所載、pp. 93-134、松柏社.
田窪行則(1997)「言語学のめざすもの」『言語の科学入門』岩波講座 言語の科学、第1巻、pp. 45--78、岩波書店.