[はじめに]


 『身体知の形成』と題した本書は3年前に江湖に問うた『わざの伝承』の姉妹編になります。専門研究誌に発表した研究論文を中心に編集した『わざの伝承』は運動伝承を支える発生運動学の全体を体系的に示すことはできませんでした。とりわけ,発生運動学における分析方法論は終章において足早に述べたために,多くの読者からわかりにくいとのお叱りをいただきました。運動文化の伝承を保証する理論体系としての発生運動学は,その研究方法論として現象学的形態学の視座から発生目的論的運動分析の立場をとります。そのため,これまで精密科学的な機械論的運動分析に慣れ親しんできた私たちにとって,この理論になかなかなじめずに理解に苦しむところも少なくないようです。しかし,運動伝承の実践現場で,競技に打ち込む選手たちやその指導実践に意欲をもつ競技指導者や体育指導者にとっては,この発生運動学は理屈抜きに直観的に納得できることが少なくないのです。むしろ,発生運動学の分析方法論は運動実践のなかでは,だれもが取り上げている当たり前の分析方法なのであって,何も大仰に現象学とか形態学とか意味づけをする必要もないほど日常的な分析論とさえいえるのです。
 しかし,これまでの計量的な科学的運動分析とここで主題化される現象学的運動分析との本質的な区別がよく理解できるように,体系的に順を追って一連の講義をすることは,その機会に恵まれませんでした。というのは,講義をしてきた二つの大学とも,定年になるだいぶ前から講義をする機会が大幅に少なくなっていたばかりでなく,大学を任期満了で去るときにも最終講義をする余裕も資格もない状態でした。ですから,大学人として心残りだった専門の講義と最終講義を体系的にまとめておきたいという私の勝手な思いが本書を講義の形式をとらせたのかもしれません。
 このようにして,発生運動学の全体を貫く発生論的運動分析について,その統一的な理論体系化をねらって『身体知の形成』を世に問うことにしました。人間の貴重な運動文化の伝承は,発生問題,形態問題,方法問題の各領域にまたがって,そこに錯綜した絡み合い構造を示しますが,本書では運動伝承を支える動感身体知の発生問題を主題化し,その発生論的運動分析を通して,さらに形態問題と方法問題への架橋を試みようとしました。
 発生論的運動分析の視座からまとめられたこの『身体知の形成』の講義には,ドイツの故クルト・マイネル教授の遺稿『動きの感性学』に託された感性学的運動理論を少しでも発展させたいという願いが込められています。1998年12月にマイネル教授生誕100年を記念して,ゆかりのドイツ・ライプツィヒ大学で国際シンポジウムが開催されました。その基調講演を依頼されたときの演題が「マイネル教授の感性学的形態学の意義」でした。その講演の最後に「マイネル教授の遺志を継いで感性学的な運動分析論を発展させるべきである」と強調しただけに,この講義にはそれにちなんだ動感発生論をどうしても取り上げたいと念じていたのです。
 本書は30の講義からなっていますが,その講義は大学の1回の講義内容という意味ではありません。それは主題化された考察内容ごとに一つの講義としてまとめられています。その講義1から講義17までは,いわば,動感発生論の視座に立つ運動分析論の導入的な講義になっています。これまでに慣れ親しんできた科学的運動分析の先入見が強くて,発生論的な運動分析の立場はなかなか理解するのに苦労させられることが多いようです。そのために,導入の講義を多く配しました。しかし,この講義の主題となっている動感身体知,つまり,動く感じやコツやカンといった生命的身体の論理は動きかたを覚えようとする選手や生徒,あるいは,動きかたを教えようとしている現場の教師やコーチにとっては,あまりにも当たり前の分析方法です。ところが,その分析論が現象学的,形態学的な厳密な理論体系であることに気づかないことが多いのです。現実では,指導者たちが日常的に指導実践のなかで発生論的な現象学的分析方法論を取り上げているのですから,それに気づかせるだけで十分なのかもしれません。そのような導入的講義の最後には,講義18~21として,動感身体知の本質的属性を浮き彫りにして,その厳密な理論的基礎を確認し,この新しい運動分析論の基礎編として,それを上巻にしました。
 それにつづく下巻としては,『わざの伝承』の終章で「発生論的運動分析の道」と題した内容をさらに充実させて,まず生徒や選手の学習時に現れる創発身体知の形態発生分析の方法論を講義22から講義24に体系的に述べてあります。次いで,指導実践でコーチや先生たちを悩ませる動感形態の匿名性を講義25で確認し,その動感形態を学習者に伝えるときの方法問題を講義26のなかで運動伝承の基礎論としてまとめて講義しています。これらの方法基礎論を踏まえて,講義27から講義30までに指導者に不可欠な促発身体知の形態発生分析の実践的内容が体系的に講義されることになります。
 私たちの運動指導の現場では,どうすればそのように動けるのか,どうすればよい動きかたを伝えることができるのかが最大の関心事になります。そのとき物質的な身体の運動メカニズムをどんなに精密に分析しても,ロボットにしかその動きかたを発生させることはできません。身体知の形成という視座において,生命的な身体に動感メロディーを発生させるためには,自我身体の論理を解明する現象学的分析論を主軸にする必要に迫られます。さらに,表題に取り上げられた形成という表現も,もちろんモルフォロギーを創始したゲーテによる〈揺らぐゲシュタルト〉の思想が基柢に据えられていることはいうまでもありません。動きかたの形態というものは,一瞬たりとも止まることはないし,そこに原因が存在していませんから,それを解き明かすには,因果的な機械論の立場ではなく,発生的な目的論的立場に立たざるをえなくなります。こうして,私たちの運動分析論は現象学的な形態学的の立場に立って,その身体知の形成ないし教育の営みを解明していくことになります。
 このような錯綜した絡み合い構造をもつ動感運動の分析論がこの拙い一連の講義によって十分に納得していただけるとは思っていませんが,せめてそのような運動文化伝承の一翼を担う発生運動学の研究方法論が人びとの関心を呼び覚ますことができれば望外の喜びです。これによって,ドイツの故マイネル教授の遺志の一端でも次の世代に伝えることができれば,その基調講演で述べたことが意味をもつことができるのではないかとひそかに願っているのです。発生運動学の揺籃の地ドイツでもオルデンブルグ大学のフォルガー教授を初めとしてこの発生論的運動分析に改めて注目し始めています。わが国でも発生運動学の学会や研究会がしだいに盛んになってきました。この拙い講義が少しでもこの流れに竿を差すことができればこれまた望外の喜びとなります。
2005年春   金子明友 



                    
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[目次]

身体知の形成(上)

序章 身体知分析論の道
講義1 身体知は分析できるか

 1身体知は存在するか
 2先入見の遮断を要求する
 3本講義のねらいは何か
 4人間学的な運動分析の特徴は何か

第T章 動感即発作用をめぐる指導者
講義2 身体知による指導能力とは何か
 1指導実践に要求される運動分析は何か
 2揺れ動くかたちの意味を読めるか
 3指導者の動感体験を問い直す
 4促発分析はどんな対象領域をもつか
講義3 私の身体知が分析能力を育てる
 1運動分析能力の始原は何か
 2体育教師の専門性とは何か
 3動感促発能力とは何か
講義4 促発分析に不可欠な身体知は何か
 1創発分析能力は指導者に必修となる
 2形成位相の創発分析実習はなぜ必要か
 3指導者の実技実習を改めて問い直す

第U章 発生論的運動分析の道
講義5 身体知を探る発生運動学とは何か

 1改めて身体運動学の体系を問う
 2発生運動学はなぜ不可欠なのか
 3発生運動学の体系はどうなっているか
講義6 発生運動学の源流をたずねる
 1運動発生は先史にさかのぼる
 2近代体育は運動発生を志向する
 3発生論的運動分析が胎動を始める
講義7 なぜモルフォロギーを志向するのか
 1運動形態を問い直す
 2光と影をもつマイネル運動学とは何か
 3ポストマイネルの動向はどうなったのか

第V章 機械論的運動分析の道
講義8 計量的運動分析の始原は何か

 1運動分析はどのように客観化されるか
 2運動計量化の始原は何か
 3中世の運動認識は科学革命で崩壊する
講義9 精密化学的分析の成立前提を問う
 1科学分析は感覚与件を排除する
 2運動を数学化する原理は何か
 3数学的座標系の始原は何か
講義10 機械論的運動分析の原理を問う
 1身体運動は機械論で考えられるのか
 2運動の分析と総合は可能なのか
 3身体運動を科学的に構築できるか
講義11 科学的運動分析は絶縁傾向をもつ
 1運動分析にモザイク的思考が成立するか
 2指導実践からの批判が起こる
 3運動科学に統合化の気運が起こる
講義12 システム論的運動分析の道が拓かれる
 1横断的統合を図るシステム論が生まれる
 2サイバネティクス的運動分析を問い直す
 3スポーツ科学にシステム論が導入される

第W章 発生論的運動分析の問題領域
講義13 体育領域の身体知を問う

 1体育領域における身体発生とは何か
 2体育はなぜ必修教科なのか
 3手段化される運動を問い直す
 4教師は身体知を指導できるのか
 5運動指導のマネジメントは不可欠である
講義14 スポーツ領域の身体知を問う
 1スポーツ運動のパトスとは何か
 2競技力を改めて問い直す
 3競技力の構造分析を問う
講義15 競技力はどんな意味構造をもつか
 1測定競技力の意味構造を問う
 2評定競技力の意味構造を問う
 3判定競技力の意味構造を問う
講義16 運動障害領域の身体知を問う
 1運動障害を発生論的地平で問う
 2運動障害者の身体知に問いかける
 3運動障害領域の運動分析をどうするか
講義17 芸術領域の身体知を問う
 1芸術領域の運動認識を問う
 2手わざと芸術領域はどう関わるか
 3身体知は意味系・価値系に切り結ぶ

第X章 動感身体知の構造存在論
講義18 流れる運動は存在するか

 1なぜ運動の存在を問うのか
 2運動は身体知でとらえる
 3投錨する身体知に回帰する
講義19 動感身体知は存在
 1改めて私の身体を問う
 2動感運動の外延構造を探る
 3動感身体知とは何か
講義20 動感運動の本質的属性は何か
 1身体知はどこに現れるか
 2動感運動の本質的属性は何か
 3身体知はどんな構造体系をもつか
講義21 動感運動の即興性を改めて問う
 1即興運動は発生原理をもつ
 2身体知は即興性をもつのか
 3身体知の即興的形態発生を問う



身体知の形成(下)

第Y章 創発身体知の形態発生分析論
講義22 始原身体知の形態発生を問う

 1始原体感は存在するか
 2始原定位感の時空構造を問う
 3始原遠近感の時空構造を問う
 4始原身体知としての気配感とは何か
 5始原身体知としての時間化とは何か
講義23 形態化身体知の形態発生を問う
 1形態化身体知の構造体系を問う
 2コツ身体知の形態発生を問う
 3カン身体知の形態発生を問う
講義24 洗練化身体知の形態発生を問う
 1洗練化身体知の構造体系を問う
 2起点的洗練化領域にはどんな身体知があるか
 3時空的洗練化領域にはどんな身体知があるか

第Z章 促発身体知の形態発生分析論
講義25 伝承を阻む動感匿名性とは何か

 1動感運動は伝承可能か
 2動感匿名性は主客未分である
 3他者運動に関心をもつ
講義26 動感伝承の前提条件を問う
 1動感運動の形相的分析とは何か
 2他者動感世界への通路はあるのか
 3動感出会いの方法論を問う
講義27 観察分析と交信分析の方法論を問う
 1動感素材の志向分析を問う
 2観察分析を改めて問い直す
 3観察分析のテクスト構成化とは何か
 4動感形成位相の観察分析を問う
 5創発身体知の観察分析を問う
 6動感志向形態の交信分析を問う
講義28 代行分析の方法論を問う
 1代行形態は構成可能なのか
 2代行形態の基礎的構成分析を問う
 3代行形態をどのように構成化するか
講義29 処方分析の構成方法論を問う
 1処方分析はどんな方法体系論をもつか
 2道しるべの処方構成化をどうするか
 3動感呈示の処方構成化をどうするか
 4促発起点の処方構成化をどうするか

終章 身体知発生論への展望
講義30 身体知伝承の課題は何か

 1身体知の存在を改めて問う
 2身体知テストは可能なのか
 3身体知発見方法論の構造体系は何か


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明和出版の書籍一覧
身体知の形成
(上)―運動分析論講義・基礎編―
(下)―運動分析論講義・方法編―
著者  金子明友(筑波大学名誉教授)
発行日  2005年9月1日
ISBN (上)4-901933-08-6
(下)4-901933-09-4
体 裁  A5判・上製
ページ数 (上)392ページ
(下)304ページ
価 格 (上)定価 4,180円(税込)
(下)定価 3,300円(税込)

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