本書に収められた『技の狂いを超えて』という原稿は,去る2017年の師走も半ばになって,山口一郎先生のご要望から話し合いをもったときの対談記録です。それを理解し易いように何回も校正を交換し合った末にまとまった原稿なのです。実は,その年の6月に開催された私たちの運動伝承研究会で現象学者の山口先生の貴重な講演を拝聴することができました。長い間,山口先生の発生的現象学に関する多くの著書に接して,私たちのスポーツ運動学の学問的基礎づけとなるフッサール現象学の運動感覚システム論に大きな関心を抱いておりました。日頃スポーツの実践指導に当たっている諸先生たちにとっても,その研究会における山口先生の動感システムのご講演は日常的な例証によって即座に納得できる話振りに感動すること頻りでした。加えて,その先駆けとして講演された体操の金メダリスト加藤澤男先生の奇妙な感性的経験の話を即座に援用して,運動感覚システムの重大さを説き明かしてしまうような見事な基調講演だったのです。
私たちの運動伝承研究会では,このようにして俄に本格的な現象学者の先生方との交流が蜜になり始めました。言うまでもなく,その前年の運動伝承研究会に山口先生の直弟子に当たる東京女子体育大学の武藤伸司先生が私たちの発生運動学のために「発生現象学の現在」と題した講義をしていただいたのです。その翌年には世界的な現象学者である山口先生にお願いして,運動学の核心をなす「運動感覚をめぐる現象学」と題した基調講演が実現する運びになりました。それは伝承誌の編集主幹である金子一秀先生が以前からご指導を受けていた誼みに甘えての交渉が成立したからです。同時に,私たち運動伝承研究会の副会長でもある金メダリストの加藤澤男先生に「私のキネステーゼ感覚世界」と題した貴重な講演も実現したのです。その両先生の講演の口述記録とともに,その講演時の配付資料も伝承誌に収められています。その意味で,機関誌「伝承17号」には私たちの運動感覚システム研究の貴重な資料が残ることになり,発生的運動学に関心をもつ研究者にとっては貴重なものになりました。このような経緯を経て,フッサール現象学の中核をなす発生論の「運動感覚をめぐる現象学」の山口先生のご講演内容と金メダリスト加藤先生による奇妙な〈感性的経験〉の講演内容が多くの研究者たちの関心事になり始めたのです。それはフッサール現象学とマイネル運動学との間に一種の〈共同化〉が表面化してきました。しかも編集主幹の金子先生自身がこのところ〈動感消滅〉の発生分析に打ち込んでいるのはその伝承誌からも知ることができます。その問題意識がスポーツ界で頻りに取り沙汰される〈イップス〉現象を超越論的構成分析として取り上げていることが編集や会に運営に連動しているのかも知れません。
とりわけ我が国のスポーツ科学界は,コツとカンの一元化した〈感性的経験〉の超越論的本質分析が単なる主観的な印象記述として,その客観妥当性の欠損を揶揄されること頻りなのです。ところが,私たちの運動伝承研究会は〈イップス〉的な動感消滅の本質記述学的分析こそフッサール発生現象学に基礎づけを求めうると断じて,編集主幹自らが頑なに〈動感消滅〉の現象に立ち向かっていることになります。〈イップス〉現象が生じれば,メンタルトレーニングか体力かにその解決を求める二元論的運動学が科学的運動分析とするのが一般的です。しかし私たちの発生運動学は,フッサールのいう〈理論的実践〉の一元的なドクサ的経験世界にその〈動く感じ〉の創発基盤を求めているのです。私たちのスポーツにおける運動感覚システムの感性的経験分析が現象学の〈超越論的経験〉[危機書:§42]の本質記述学的分析として主題化されていけば,フッサール現象学とマイネル運動学の共同化が確固たるものになるからです。このようにして,私たちの運動伝承研究会がフッサール現象学の運動感覚システムという超越論的経験分析の学的基盤のなかに,運動文化の〈伝承〉という私たちの研究会の独自性が姿を見せることを願うこと頻りなのです。 (金子明友)
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[目次]
■前書きに寄せて:現象学と運動学を繋ぐ動感システム/金子明友
〈はじめに〉
〈記述学と事実学との裂け目〉
〈運動感覚という表現に潜む両義性〉
〈マイネル『運動学』に掩蔽された運動感覚〉
〈フッサールのキネステーゼ感覚〉
■対談:〈わざの狂い〉を超えて/金子明友・山口一郎
1 終戦直後における運動分析方法論の実状
2 五輪予選で〈わざの狂い〉に悩む
3 過去把持と未来予持との出会い
4〈わざの伝承〉に向き合う
5 身体感覚こそ命綱となる
6〈わざの狂い〉とその指導実践
7 ウクラン教授との出会い
8 マイネル運動学との出会い
9 間身体性による受動綜合化
10 脳科学的分析と運動現象学的分析
11 科学的な運動分析が強要される
12 時間発生で架橋する運動学と現象学
13 自然科学の客観性とは何か
14 ゼロキネステーゼと喃語の成立
15 身体経験を純粋記述する
16 過去把持の二重の志向性に向き合う
17 「それ」が射る無心の境地
■運動感覚と時間―現象学分析の特質/ 山口一郎
1.計測された時間と身体で生き生きと体験されている時間との相違
1)主観と客観という区別以前に,ペアの選手に共有される時間の流れ
2)B.リベットとF. ヴァレラによる脳科学研究の発生的現象学への統合について
2. 新たなわざの習得と〈わざの狂い〉の克服に働く運動感覚の発生と時間分析
■身体能力の発生と判定/ 金子一秀
[T]身体知能の意味発生
§1 .競技スポーツに迫る科学技術
§2 .学校体育に忍び寄る危機
§3 .体育概念の再確認
[U]スポーツ運動学の創設
§4 .身体能力の意味内実
§5 .身体知能の能動性と受動性
§6 .身体を問い直すスポーツ教育学
§7 .スポーツ運動学成立史
§8 .スポーツ運動学の黎明期
[V]身体能力の消滅に潜む裂け目
§9 .運動学における〈動きかた〉の確認
§10.科学的運動分析の手続き
§11.二元論的思考の呪縛
§12.〈動きかた〉の消滅
§13.キネステーゼ感覚の生成・消滅
§14.身体知能による分析力
[W]主観判断による〈事態分析〉の諸問題
§15.日常運動にみる主観判断と客観判断
§16.〈スキップ〉の解体分析
§17.競歩の判定を巡る問題性
§18.〈弾力化〉事態分析による空中局面の出現
§19.〈スキップ〉と〈けんけん〉の弾力化事態分析
§20.受動綜合化される動感システム
[X]スポーツ運動学の課題とその展望
§21.指導者に求められる代行分析
§22.VTR 判定における客観性
§23.評定競技の採点客観化
§24.他者主観の判定可能性
§25.身体知を支える感性的経験世界
編著者 | 金子一秀(東京女子体育大学教授) 山口一郎(東洋大学名誉教授) |
発行日 | 2020年3月6日 |
ISBN | 4-901933-43-8 |
体 裁 | A5判 |
頁数 | 186ページ |
価 格 | 定価 2,090円(税込) |