編著者  金子明友(筑波大学名誉教授)
発行日  2018年4月20日
ISBN  4-901933-42-1
体 裁  A5判・上製
頁数  608ページ
価 格  定価 5,390円(税込)

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[はじめに]

『わざ伝承の道しるべ』と題した本書は,謎に満ちた技芸の動く感じに現象学的超越論の構成分析を進めるための〈道しるべ〉の一助になればと書き下ろした拙い論考集である。その〈道しるべ〉という和語的表現は〈知る方〉という方向標識だけでなく,〈知る辺〉つまり〈その辺を知る〉という両義をもつ。しかし,その謎に満ちた技芸の伝承を開示する古来の芸道では,師匠から教えてもらうのではなく,自ら工夫し習得すべきだと世紀を超えて厳しく伝えられているのだ。とすれば,わざ伝承の〈道しるべ〉を立てることそれ自体は,伝来の自得の美意識を本義とする芸道に反するから,それは邪道となってしまう。しかし,馬齢を重ねてその生来の臍曲がりが嵩じ,芸の道に反する〈道しるべ〉を立てるという虚仮の一念がこの論考を書かせたのかも知れない。とは言っても,その空元気は卆寿を過ぎてすっかり気弱になってしまい,そのわざ伝承の謎解きは次世代の臍曲がりの俊英たちに託さざるをえない。運動文化のわざ伝承の道には,どんなアポリア[難関]が立ち塞がっているのかだけでも思うままに書き遺して起きたいと,それは将に頑是無い童子の如き老翁の一徹なのである。
 長い大学生活を終えて上梓した拙著『わざの伝承』(2002)以来,一貫して追及してきた技芸を身に付ける〈動く感じ〉の開示は老生の心を捉えて放さないのだ。その道しるべはフッサールのいうキネステーゼ感覚の働く原発生地平に通底しているから,いわばドクサ的身体経験の深層に立ち入らざるをえなくなる。そこで始めて,その先も後もなく同時変換する奇妙な動感身体発生現象に出会う仕儀となる。そこには,コツとカンが一元化した統一態として,その感覚論理の身体発生という分析志向対象がやっと姿を見せ始めるのだ。発生的運動学の〈発生〉という表現には,動く感じの自己時間化の働きが含意されている。だから,そのコツとカンが同時変換する奇妙な動感身体の発生現象は単に言語化しにくいというだけでないのである。その〈動く感じ〉を身体化する体験のない人にとっては,まったく理解しにくい非論理的な出来事だからである。たとえば「三段跳びは感覚で跳ぶのだ(織田幹雄)」とか「技を身に付けるには失敗に必ず成功できることだ(加藤澤男)」などと言われても,その奇妙な非論理的な表現はその道の名選手たちの謎めいた言葉として伝えられるだけである。

 その奇妙な動感身体発生に秘められた〈動く感じ〉は私秘的だから理解しにくいというだけでなく,それは目にも見えないから,科学的な映像分析で捉えることもできない。ところが,他人の動く感じをすぐ真似できる人は,そのコツの秘密を一気に読み取ってしまうのだ。たしかに,そのコツとカンを同時変換できる身体知の極意はその人だけのパテントだから,その奥義は伝承発生を拒絶する微妙な働きさえもつ。わが国の芸道には流派や宗家の制度が成立して,その身体知の奥義の伝承成立にもいろいろな障碍が立ち塞がっているのはよく知られている。このように謎の多い〈わざ伝承〉の道は,わが国古来の武芸や技芸の世界だけでなく,現代のスポーツ領域にも姿を変えて,その運動分析に難題を突きつけているのだ。しかし,コツやカンを同時変換できる動感発生の現象は,単に技芸や競技における達人の深層世界だけに現れるのではない。いわば,学校体育の運動学習でも,このコツやカンの身体能力の発生は決定的な役割を担っている。ところが,まだ言語表現もままならない幼児が友達の動きを一目見ただけで即座に真似ができるのはどうしてなのか。それどころか,〈あ〉という仮名文字を鉛筆をもった〈手指〉で習い覚えた幼児が即座に〈肘〉でも,さらに〈踵〉でも描けるのだ。考えてみれば,このようなコツとカンが情況に応じて同時変換する奇妙な感覚発生の出来事は日常生活の至るところに見られる。スクランブル交差点を急いで通り抜けようとすると,無意識のうちに情況を見るカンととっさに身を交わすコツが同時変換して他人にぶつからずに通り抜けることができる。このような非論理的な〈反論理性〉の現象はドイツの神経学者V.ヴァイツゼッカーによってその反論理性の循環形態的現象として見事に開示されているのは周知のことであるが,それはフッサールの〈触る-触られる〉という身体に潜む二重感覚の働きに通底しているのは言を待たない。

 これまでは,幼児の運動学習でも,体育の運動学習でも〈できればよい〉という成果主義一辺倒だから,その謎に満ちた身体発生現象は運動分析する人の問題意識にも上ってこないのだ。身体運動の発生メカニズムに関しては,これまで生理学的,物理学的ないし心理学的な科学的運動分析として,その物的身体の因果的開示が主題化されている。それが17世紀の科学革命以来一貫しているのは周知の通りである。しかし,フッサールによる超越論的反省の記述分析が純粋現象学という構想で発表されてから早や一世紀を超えているのに,競技スポーツや学校体育の運動分析には何故か取り上げられることはない。ところが,その現象学的意識分析は,奇しくもわが国古来の武道や芸道に通底しながら,フッサールの超越論的反省の態度は現場の競技実践のなかで当然の分析手続きとして現に取り上げられているのだ。しかしそれは非科学的であり,客観性の欠損として選手たちやコーチの胸三寸に納められたままである。しかし戦後の東京五輪(1964)後のわが国にも,身体運動そのものを記述分析する純粋運動学の成立を求める機運(『序説運動学』1968大修館)は生じてはいた。それからもうすでに半世紀の歳月が流れても,そのようなスポーツ実践の純粋運動学が一向に科学的運動分析との区別も定かでないまま低迷しているとすれば,それは遺憾としか言いようがない。しかし,どうしてその〈動く感じ〉の運動分析が開示されないままなのか。たしかに動感感覚の身体経験に気付かない人に首肯してもらうには,多くのアポリア[難関]に阻まれているのは明らかである。だから本書の拙い論考集が現象学的発生運動分析の〈道しるべ〉に少しでも役に立てばと念じること頻りとなるのだ。

〈序章〉においては「コツとカンの一元論」と題されて,スポーツ領域における戦後の運動分析がアメリカの科学的運動学を範として急速に修正させられていく経緯が呈示される。それまでのスポーツ領域や武道を含む体育領域の運動分析論は,すべてコツとカンだけを頼りに分析してきたから,それは素朴な非科学的分析として真っ先に排除されることになった。終戦前まで学校体育に必修だった剣道や柔道は全面禁止となり,コツやカンに頼る古来の稽古論も軍国的精神主義の温床として忌避される徹底振りであった。ところが,平和になって急に盛んになった競技スポーツの実践現場では,その選手たちが自らの〈動く感じ〉を無視しては,何一つ勝負できないことに気付いていたのだ。いわばそれは,アメリカの運動学や西欧圏の生力学でその運動の科学法則が分かっても,自らのコツとカンの工夫なしには競技力に直結しないからである。むしろ,競技力に直結する身体能力の獲得は奇しくもわが国古来の芸道や武道に通底することが現場では確信され,国際競技でも堂々と活躍し始めたのである。その競技力向上の現場では,科学的分析かコツとカンの素朴な分析との二者択一の問題でなかったことが序章で浮き彫りにされることになる。
〈第T章〉の「自己運動の身体発生基盤」においては,これまでの科学的運動分析では対象から外されていたキネステーゼ感覚の働く〈自己運動〉が動感身体発生基盤として主題化されている。そこでは,〈動く感じ〉の身体感覚を介して遂行される自己運動こそがあらゆる身体発生の基盤として,発生的運動学の分析対象に取り上げられることになる。その場合,自ら反省する以前に受動発生する自己運動の先反省的志向対象がその分析の〈道しるべ〉としてまず前景に立てられる。マイネル運動学の起点に据えられていた〈運動の自己観察〉は,当時の西欧でも非科学的な経験分析と批判されつつも,自己運動の記述分析を放棄しなかったマイネル教授の道を我々の発生的運動学も超越論的反省の態度を起点として継承することになる。その〈道しるべ〉は,今ここに自ずと動ける動感発生の〈なじみ地平〉に始まって,その連合的覚起や類比統覚化の志向対象の意識分析を経て,やがて偶発的にキネメロディーの流れる原発生地平に至り,自己時間化の深層分析に入っていくことになる。しかしながら,未来予持の地平志向性を確信するには〈現象学する自我〉の働きが不可欠である。とすれば,フッサールのいう〈自我分裂〉を触発化し,現象学的自我をどのように触発するかの〈道しるべ〉が喫緊の課題として我々に主題化されることになる。

〈第U章〉の「他者運動の身体発生基盤」では,他者運動の身体発生分析[本書§2(c)参照]の志向対象が主題的に問われている。しかも,マイネル運動学による〈運動の他者観察〉という共感分析が我々にも引き継がれているのは言うまでもない。そのマイネルの他者観察は,改めてフッサール発生現象学の〈代行分析〉として,その道しるべが問い直されることになる。しかし,他者運動の模倣分析からその動感身体発生に問いかけるには,内在超越的な観察分析と他者の動感世界に越境できる借問分析の道しるべが前提的に取り上げられなければならない。いわば,ここでいう他者運動とは,外部視点から客観的に映像化される他者の身体運動ではない。その物的身体の客観的運動はバイオメカニクスの運動分析の対象である。発生的運動学の分析志向対象は,他者の絶対主観による自己運動をその原発生地平志向性にまで遡って,その他者の一元化意味核の志向対象を分析対象に取り上げるのである。だから,他者の自己運動に越境できる自らの〈身体移入能力〉が必然的に求められる。しかし,マイネルのいう共感能力の開示とそのフッサールのいう代行分析能力の開発は我々に多くの難題を突きつけてくることになる。

〈第V章〉ではスポーツ運動の「カテゴリー分析の道」が取り上げられる。そこでは類化分析,基づけ分析,事態分析の三カテゴリー領域の志向対象が主題化されている。それぞれの競技スポーツの領域は区々であり,その当該の分析対象性も多岐にわたるのは論じるまでもない。しかしその動感発生現象におけるその述定判断のカテゴリー分析は,その志向対象の〈感覚発生そのもの〉であり,その分析結果は取りも直さず発生的運動学の一般理論に不可欠な身体発生基盤を開示してくれることになる

〈第W章〉では「パトス分析の道」が主題化される。そのパトス分析に道を開いたのは,『パトゾフィー』の大著で壮大な医学的人間学の構想を唱道した神経学者V.ヴァイツゼッカーであるのは周知の通りである。ヴァイツゼッカーは〈知覚と運動の一元論〉を〈ゲシュタルトクライス〉と命名して,その同時変換の反論理的相即性を早くから開示(1933)しているのである。その変換同時性はその始原が〈パトス的なるもの〉のカテゴリー分析にも求められ,その生命的パトスに〈知覚と運動の一元論〉という動感発生基盤が開示されていることはよく知られている。スポーツの発生的運動学においても,この身体発生分析で動感の働く志向対象が先構成されるのは,この動感パトス世界に潜む苦悩性に求められているからである。そのパトス分析とは,動こうとする意志,動いてもよい許可,動かざるをえない必然,動ける可能性,そう動くべき規範というペンタグラム[五先端の星印]として取り上げられている。その情念の葛藤のなかに,パトス的な動感運動性が生き生きと働き,更なる動感エート充実の気概を芽生えさせることになる。その動感パトス分析におけるその〈パトス転機〉こそが〈動感エートス〉の動感身体発生の基盤を成しているのである。だから,発生的運動学としての超越論的構成分析では,まずもってこの動感パトス分析に起点が置かれるのは多言を要しないことである。
〈第X章〉では「エートス分析の道」として,キネステーゼ感覚エートスの〈分析道しるべ〉が主題化されてくる。そこでは,私の身体が〈見抜くこと〉〈聴き取ること〉という気概溢れるエートス的な事態分析が取り上げられ,その道しるべに多くの志向対象が浮上してくるのだ。つまり,この動感感覚への気概は,そこで述定判断される志向対象として目指されるからである。我々の発生的運動学においては,受動発生から能動発生に至るキネステーゼ感覚形態化の現象野のなかで,その歴史身体の志向含蓄態を含めた広大な身体発生現象の志向対象が浮上してくることになる。それまでのパトス的感覚世界と基づけ関係にあるこの動感エートスの時間化される身体発生は,広大な現象野のそれぞれに特徴的な姿を次々と現してくるからである。動感エートスの身体発生様態の起点になるのは〈非直観的なもの〉の地平構造に潜む志向含蓄態である。その直観化道程の全体を直観化綜合層位,本質直観層位,自在無碍層位の三層に分けられて具体的に動感発生分析の志向対象が次々と開示されていくことになる。

〈終章〉では,「発生的運動学の現在と将来」と題して,動感身体発生の復権こそが運動文化伝承のために結論として浮かび上がってくることになる。本論の基本概念の一つとして取り上げられているフッサールの〈身体感覚〉という用語は,生理学や心理学で取り上げられている体性感覚ではない。だから,我々のスポーツ領域の発生的運動学においては,フッサールのいう絶対主観性に発するコツとカンの一元化統一態として示される動感身体発生現象に決定的な役割が与えられているのである。いわば,発生的現象学の〈身体感覚〉の表記が感覚生理学の〈体性感覚〉と同じような表記だからといっても,動く感じを秘めた時間化される〈動感身体発生〉の内在超越論的な概念と混同されるはずもない。そこには,キネステーゼと一元化して働く身体感覚のなかに伝承すべきモナド意味核をもつ究極基体[担い手]が前景に立てられるから,そのノエマ的意味存在として確認するだけで充分である。ところが,学校体育の教材研究として,その学習対象のノエマ的存在論そのものが取り上げられることは珍しい。同じように競技世界でも,その動感伝承財のノエマ的意味構造は確認されないまま,コーチの胸三寸に畳み込まれてしまうこと頻りである。いずれにしても,伝えるべき動感身体発生分析の志向対象である〈伝承財そのもの〉の静態分析が取り上げられることは希有なことである。さらに,その静態分析と対になるノエシス契機を秘めた発生分析もその純粋記述が欠落したままになり易い。とは言っても,ネステーゼ身体発生を指導する実践現場では,どんな教師やコーチでも,そのつど変様する動感身体感覚に必然可能的に向き合っていることには変わりはない。そこには,指導者がコツやカンの身体発生の場面に〈居合わせる〉という事態が全く欠損しているわけではない。選手も生徒たちも,その動きのコツやカンをわが身に身体化しようと必死に工夫を重ねているのだ。しかしそこには,動感身体感覚の伝承という時間化する〈身体発生〉の貴重な場が成立していないのである。だから,それは伝承発生の学習指導とは言えず,単なる学習課題の空虚形態を一方的に呈示しただけで,その身体発生そのものの指導は生徒や選手に丸投げされているのだ。指導者はただ拱手傍観して,励ましの言葉かけをする野次馬に変身するだけとなる。戦前と戦後の運動実践指導の決定的な違いは,コツやカンが同時変換する一元化意味核の身体発生現象に指導者が価値感覚を働かせるかどうかである。自己時間化する動感身体発生こそが,スポーツ運動文化の伝承発生ないし身体教育の究極的基体を,いわばその担い手になっていることを確認するのでなければならない。

 この随想的論考集を閉じるにあたって,すでに卆寿を越した老翁がコツとカンの一元化した端的な身体発生への郷愁からではない。そのキネステーゼの働く身体感覚がスポーツ実践では,その身体発生の究極の担い手として決定的な役割を果たしているからである。にもかかわらず,それに正統な学問性を認めずに,ヴァイツゼッカーの揶揄する野次馬がその科学主義的態度を変えようとしない頑迷さが馬齢を重ねた老翁を刺激したのかも知れない。もちろん,急速な人工頭脳の革新技術は世人を驚かすに十分であり,精密科学が運動分析に大きな役割を果たしうることを首肯するのに吝かではない。しかしそれはパトス的情念を秘めた感覚的感情の働くスポーツの〈動きかた〉ではない。さらに,自己時間化する〈身体発生〉とは全く異質なロボット工学の〈動作発生〉の学問性にわざわざフッサールの鋭い文言を援用するまでもないであろう。科学的運動分析と現象学的運動分析とは二者択一の問題でなく,ボイテンデイクのいう上位の身体発生基盤の構成こそ喫緊の課題として追求されるべきものであろう。

                    
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[目次]

序章 コツとカンの一元論
§1戦後はコツとカンも追放される
§2身体発生の奇妙さに気付く
§3動感原発生の地平に遡る
§4身体発生の志向対象は何か

第T章 自己運動の身体発生基盤
[T]先反省の分析道しるべ
§5身体発生は自己運動から生じる
§6動く感じを純粋記述する
§7遂行自我に先反省が機能する
§8先反省性が発生基盤となる
§9超越論的記述学に向き合う
[U]自己運動の分析道しるべ
§10動く感じを純粋記述する
§11身体発生に気付くのは誰か
§12身体発生の志向対象を問う
§13現象学する自我に向き合う

第U章 他者運動の身体発生基盤
[T]代行能力の分析道しるべ
§14他者の自己運動を模倣する
§15用具も周界も身体で感覚する
§16他者運動の身体発生を探る
§17他者の身体発生を代行する
§18形なきものの形を問う
[U]他者運動の分析道しるべ
§19他者の身体発生に向き合う
§20他者の時間化を代行する
§21代行分析の三層位に向き合う
§22他者の身体発生を代行する

第V章 カテゴリー分析の道
[T]類化の分析道しるべ
§23超越論的反省の原対象に向き合う
§24動きかたの類型化に問いかける
[U]基づけの分析道しるべ
§25単一形態の基づけ関係を問う
§26複合形態に四層位を区別する
§27競技の基づけ分析に注目する
[V]事態の分析道しるべ
[A]原発生の分析道しるべ
§28原発生の身体発生現象に遡る
§29原発生の自己時間化を問う
[B]定位感の分析道しるべ
§30定位感が局面化を構成する
§31リズム化の伝染に注目する
§32優勢化の身体発生に向き合う
§33伝動化の直観化分析を問う
§34弾力化の変様態に注目する
[C]隔たり感の分析道しるべ
§35隔たり感の原対象に向き合う
§36同時変換の身体能力に注目する
§37結果の先読みに向き合う
§38身体能力を他者に伸長する
[D]全身感の分析道しるべ
§39漠然とした気配感に向き合う
§40情況感は身体能力で捉える
§41シンボル化能力に向き合う

第W章 パトス分析の道
[T]パトスの身体発生基盤
§42動感パトスは身体発生を触発する
§43動感パトスのペンタグラムに向き合う
[U]パトス分析の道しるべ
§44動く意志と動ける必然はせめぎ合う
§45動くべき規範性に向き合う
§46動く可能性が未来予持を拓く

第X章 エートス分析の道
[T]直観化綜合の分析道しるべ
§47エートスの身体発生に向き合う
§48非直観志向性に道を拓く
§49連合的綜合の志向対象を問う
§50マグレの偶発現象に道を拓く
[U]本質直観の分析道しるべ
§51本質直観の静態分析に向き合う
§52発生分析に道しるべを立てる
§53身体化の志向対象を開示する
§54モナド意味核に道を拓く
[V]自在無碍の分析道しるべ
§55自在無碍は原現在に回帰する
§56安定化の志向対象を問い直す
§57わざ幅の層位構造を問い直す
§58冴えの意味発生に立ち向かう
§59自在無碍の動感世界に向き合う

終章 発生的運動学の現在と将来
§60身体発生の危機に立ち向かう
§61身体能力の伝承財を開示する
§62発生的運動学の喫緊問題を展望する

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