明和出版の書籍一覧

わざの伝承

著 者  金子明友(筑波大学名誉教授)
発行日  2002年9月1日
ISBN  4-901933-00-0
体 裁  A5判・上製・函入
ページ数  576ページ
価 格  定価=本体4400円+税

[はじめに] [目次] [↑]


[はじめに]


 『わざの伝承』と名づけられた本書は,ここ10年ほどのあいだに発表した運動伝承に関する諸論考をまとめたものである。人間のもつ運動文化の一つとして,世代を超えて伝承される<わざ>というものは,結晶化された動きかたとして,その始源を私の身体のなかに求めざるをえない。わざが伝承される様態はさまざまであり,現在でも十分に解明されず,そこに多くの謎が秘められたままである。一方,近年におけるデジタルテクノロジーに代表される精密諸科学の驚異的な成果は,すぐれた職人のわざを脅かし,心意気に満ちた職人の運動伝承を疲弊させるに十分である。それはさらに,われわれ日常生活のハビトゥス的身体文化さえ浸食し始め,さらに,古い歴史をもつ運動文化としての舞踊やスポーツにおける運動伝承の営みにも大きな変革を誘いつつある。
 ところが,本来的に,私の身体に住み込んでいるわざは,その密やかな発生様態から分析を拒み続け,貴重なわざの伝え手とその承け手とのあいだに成立する伝承の関係構造は,依然としてブラックボックスに入れられたままである。これらの運動伝承に関する問題領域は,三重の塔にたとえれば,発生論,構造論,伝承論の三階層をもち,その三階層の理論を一貫して支える心柱となるのは,現象学的な運動感覚論である。この運動感覚発生論を基底に据えて,本書『わざの伝承』を新たに構成するために,すでに発表された6論考は,用語統一を含めて,大幅に加筆校正された。さらに,新たに序章「運動伝承の道」と終章「発生論的運動分析の道」の二論考を書き下ろして加え,全体としての統一を図った。しかし,各章は別々に独立した論文として書かれているので,全体としてみれば,どうしても多少の重複した記述や論考は避けられない。それを,筆者の力点として好意的に受け止め,お許しいただければと思う。
 序章は単に「運動伝承の道」と題したけれども,ここで意味される運動は,発生論的運動学の基本概念であることをまず特筆しておかなければならない。それは本書全編を通じて解明されていくであろうが,それは本来的に運動感覚能力が意味されている。だから,厳密さを守るためとはいっても,このタイトルとして「運動感覚能力の伝承の道」という回りくどい表現を避けたかっただけのことである。結局のところ,わざの伝承において,私的な運動感覚能力が伝承次元に取り上げられうるのかどうかを主題とすることになる。序章では,この運動伝承をめぐっていろいろな錯綜した問題が掘り起こされて,本書の考察方向と射程が示されることになろう。
 第1章は,「運動文化の伝承」と題して,運動文化としてのわざのいろいろな現出様態における伝承問題が展望される。そこでは,動物の模倣伝承に端を発して,日常生活に埋没しているハビトゥス的手わざや,技芸・工芸などの職人の実践知としての驚くべきわざ,身体教育の運動形成や競技スポーツの人間業とは思えない究極のわざに至るまで,それらのわざにおける運動感覚伝承をめぐっての問題性が浮き彫りにされる。
 第2章は,「科学的運動分析との別離」と題して,科学的運動分析の執拗な先入見を明るみに出しながら,それとわれわれの発生論的運動分析との違いを浮き彫りにしていく。運動を分析するということが,古代ギリシアのゼノンのパラドックスに始まって,それは現代に至るまで多くの学領域で執拗な論争が繰り返されてきている。そこには,運動認識の本質的な差異が存在することは指摘されつつも,いざ運動を分析するとなると,いずれか一方に還元する主張は後を絶たない。われわれの発生論的運動分析の独自性がここで明らかにされる。
 第3章では,「形態学の道」が主題化される。そこでは,ゲーテに端を発した形態学思想を検討しながら,運動の形態認識がヴァイツゼッカーやボイテンデイクらによって新しい時間論としてとらえられる経緯も慎重に考察される。それは,やがてマイネルによって,形態学的運動分析として姿を現してくるが,その真意は当時の時代背景に掻き消されて,マイネルの遺稿が発見されるまで紆余曲折をたどるプロセスが浮き彫りにされていく。
 第4章では,「コツの発生」が主題的に取り上げられる。運動感覚能力に支えられたコツやカンは,これまでおおよそ非科学的な戯言と解され,運動分析の対象にも取り上げられていない。ここでは,わざの始源がこのような運動感覚能力に支えられていることを明らかにしながら,コツやカンの発生が運動感覚の受動地平に息づいていて,その発生様態の解明なしには,運動文化の伝承もむずかしくなることが浮き彫りにされる。
 第5章の「運動の意味構造」においては,日本語の運動概念の多義性に論を起こし,運動の意味発生は,私の運動感覚図式の構成化に深く関わることが明らかにされる。われわれのいう運動は,今ここにおける私の運動が意味され,私の運動感覚時空系において生成消滅が繰り返されているものである。運動感覚の意味核が私の身体で了解されるとき,運動はすべて即興として実現されるのであり,運動の意味の本質的な構造論がここで主題化される。
 第6章「わざの伝承」では,もっぱら,わざの伝え手とその承け手との関係系が主題化され,その中間項としての運動発生は,ともに伝承を営む両者に関わることになる。わざの伝承を成立させるのには,双方向の運動感覚通信路が不可欠であり,そこで初めてさまざまな発生様態の交信が可能になる。そのため,原伝承の受動地平や運動形成の位相構造などが同時に明るみに出されることになる。
 終章においては,「発生論的運動分析の道」と題して,運動感覚論的な発生分析の全体が展望される。そこでは,運動学習者のもつ創発能力の発生分析と,指導者の促発能力の発生分析という新しい運動分析論が粗描される。この発生論的運動分析は,現場における多くの実践知に支えられているけれども,この理論的研究は緒に着いたばかりである。現場において,長い歳月を経て結晶した多くの実践知を糾合して,さらに厳密な運動分析論に発展させうる可能性をもつ。

 近年の未熟な研究論文や講演原稿を臆面もなく江湖に送り出す決心を促したのは,少なくとも三つの理由が認められるようである。その第一の理由は,スポーツ科学に形態学的運動分析を初めて提唱したドイツのマイネル教授に起因している。それは,最近発見されたマイネル教授の遺稿に託された運動の感覚論的研究の継承に端を発している。第二の理由はわざという身体知に対して,早くからその重要性と新しい運動分析の開発を示唆していただいた恩師に対するリポートである。東京教育大学体育学部の講座主任教授だった松延博先生は,ご高齢にかかわらず,今なお新しい動きの感じを探し求めておられる。その主任教授に対する,やっとたどりついた一里塚の報告論文である。最後の理由は,私を現象学的,形態学的運動理論に導いてくださった故岸野雄三先生に捧げるためである。それも,世紀明けの1月に先生が急逝され,筆の遅い私に対して,先生からまさに痛烈の三十棒を与えられたからである。
 1971年に,それはマイネル教授が他界する2年前のことになるが,私に寄せられた手紙には,彼の主著『運動学―教育学的スポーツ運動理論への試み』(1960)に関して,運動の感覚論的視座から全面改訂に踏み切るべく,原稿を急いでいると記されてあった。しかしそのころには,今から考えると,マイネル教授の肺癌は密かに進行していたようである。その改訂作業も,まもなく病魔との闘いになってしまい,新しい感覚論的展望を拓きつつあったマイネル教授は,その運動理論を未完のままに旅立ってしまった。それは1973年10月27日のことで,享年75歳だった。
 しかし,一つだけ恵まれたことに,マイネル教授が他界して20年目に,初版『運動学』の改訂原稿や研究メモが発見されたことである。ご子息の医師クラウス・マイネル博士からその原稿の編集と翻訳を託され,そこにマイネル教授の遺志を読みとる幸運に恵まれた。マイネル教授の遺稿は,まとまった四つの論文と60余の研究メモだった。それらを統一的に編集する作業に手間取り,『動きの感性学』と題して上梓したのは1998年春だった。奇しくも,その年はマイネル教授の生誕記念100年に当たり,ライプツィヒ大学主催で国際スポーツ科学シンポジュウムが企画されていた。その基調講演を依頼され,マイネル教授の感覚論的モルフォロギーの今日的意義を踏まえて,運動感覚発生論をめぐる運動分析の一端を講演した。しかしながら,初版『運動学』のために,感性学的立場からパラダイム転換を迫ろうとしたマイネル教授の遺稿に対して,運動学講座の後継者たちは,残念ながら,まったく関心を示さなかったという。もっぱら精密科学的なサイバネティクス的運動学へと,すでに路線を変更していたからである。それだけに,マイネル教授の遺稿に託された感性学的運動理論をさらに発展させ,運動感覚発生論とその促発方法論を構築して,マイネル教授の果たし得なかった貴重な遺志を継ごうと,おこがましくも決心したしだいである。
 本書出版を急がせたもう一つの理由は,すでに述べたように,岸野雄三教授の急逝であった。岸野先生は,わが国の新しい運動学,とくに現象学的,形態学的地平をもつ運動理論の生みの親である。戦後,アメリカのキネシオロジーに代表される精密科学的運動分析一辺倒だった当時に,先生は,社会主義国を含めたヨーロッパの新しい運動研究に強い関心をもち,それが古典的な体育学から新しいスポーツ諸科学へのパラダイム転換の引き金になることをすでに見抜いて,膨大な文献研究にとりかかっていた。それはやがて,『序説運動学』(1968,大修館)となって結実し,編集責任者として執筆した「運動学の対象と研究領域」は,客観的な科学的運動研究以外認められなかった時代において,まさに刮目すべき論考であった。わが国ではそれ以降,深い洞察と先見の明をもった岸野先生の先導によって,マイネルの運動学は現象学的,形態学的な新しい運動理論の道をたどることになった。その後,さらに運動感覚論を基底に据えた構造論,発生論,伝承論として,実践現場の運動伝承に実り多い成果を挙げるべく努力が弛みなく続けられている。
 しかし,このような新しい発生論的運動学,つまり,健常者・障害者の運動形成のみならず,芸術や工芸も含めた高度な技能伝承として,広く人間特有の運動文化を支える伝承の実践的運動理論は,その理解が十分になされているとはいいがたい。そのための学問的な体系化を解説する専門書も出版されず,依然として精密科学的な運動分析と現象学的な運動分析との区別さえも定かにしないまま,不毛な議論が絶えないし,運動研究そのものにも混乱を来しているのが現状かもしれない。岸野先生は,実践的な伝承に直結する発生論的運動学を学問として体系化し,多くの不毛な論議や誤解を一日も早く一掃することを強く望んでおられた。それにもかかわらず,生来の怠惰に流され,馬齢を重ねてしまい,先生の要望に応えられないうちに,先に旅立たれてしまった。ここに,岸野雄三先生の御霊前に,怠惰な弟子の懺悔録として,本書を謹んで捧げるものである。

2002年 春                   金子明友 識


                    
[はじめに] [目次] [↑]


[目次]

序章 運動伝承の道
 1―わざの伝承研究
 2―揺らぐ運動形態
 3―運動感覚世界における交信
 4―運動分析の客観性
 5―身体修練の主題化
 6―運動表記の問題性
 7―運動認識の混乱
 8―発生論的運動学の主題化
第1章 運動文化の伝承
 1―わざの伝承
 2―自得の美意識
 3―模倣伝承
 4―日常運動の伝承
 5―ハビトゥスの伝承
 6―職人わざの伝承
 7―学校教育とわざの伝承
 8―体育教師の隠れ蓑
 9―スポーツとわざの伝承
 10―競技とわざの伝承
 11―運動文化の伝承
第2章 科学的運動分析との別離
 1―精密科学的運動分析の幕開け
 2―バルザックのパロディー
 3―バルザックの運動理論
 4―マイネルの苦悩
 5―運動の測定
 6―測定を可能にする等質時空系
 7―運動のパラドックス
 8―運動の機械論的説明
 9―サイバネティクスへの道
 10―サイバネティクスの運動認識
 11―ひとりでにできる
 12―できる人の出現
 13―威光の方法論
 14―主題としての運動発生
第3章 形態学の道 
 1―ロックの呪縛
 2―ゲーテの形態学
 3―形態学の思想
 4―ゲーテの科学方法論
 5―多様化と類型化
 6―ゲーテ・ルネサンス
 7―運動形態学の成立
 8―マイネル運動学の光と影
 9―マイネル遺稿の発見
 10―運動の感覚論
 11―運動の形態
 12―運動形態の匿名化
 13―結晶化としての運動形相
第4章 コツの発生
 1―コツの地平性
 2―コツの源流
 3―コツの語義
 4―コツの外延構造
 5―運動習慣の地平
 6―運動の身体化
 7―固有領域への還元
 8―運動感覚知としてのコツ
 9―コツの原発生とその関心
 10―コツの偶発性
 11―コツの可塑性
 12―コツの住む運動形態
 13―コツとの出会い
 14―体験原理としてのコツ
 15―モナドとしてのコツ
 16―シンボルとしての運動図式
 17―間身体性としてのコツ
 18―コツの伝承
第5章 運動の意味構造
 1―運動概念の両義性
 2―エクササイズの媒介性
 3―ものの運動
 4―空間化された運動
 5―流れつつある運動
 6―運動の仮現性
 7―運動の仮象性
 8―スポーツにおける再現性
 9―生きものの自己運動
 10―主体の運動
 11―人間の運動
 12―運動の意味発生
 13―今ここの運動
 14―運動の即興性
 15―運動の先読み
 16―運動感覚時空系
第6章 わざの伝承
 1―運動伝承を支える人
 2―動きかたの伝承
 3―覚えつつある運動世界
 4―運動の分化発展
 5―伝えるために覚える
 6―運動発生の実践知
 7―実践知を伝える方法
 8―道しるべの伝承
 9―職人わざの解体
 10―わざの伝承研究の空洞化
 11―運動伝承の受動地平
 12―運動形態の形成位相
 13―競技力の構造
 14―競技力の形成
 15―競技力の伝承
終章 発生論的運動分析の道
 1―発生論的運動分析の理論的基礎
 2―発生分析の対象領域
 3―創発能力の発生分析
 4―体感能力の発生分析
 5―コツ創発能力の発生分析
 6―カン創発能力の発生分析
 7―即興能力の発生分析
 8―促発能力の発生分析
 9―観察能力の発生分析
 10―交信能力の発生分析
 11―代行能力の発生分析
 12―処方能力の発生分析
                       

                   [はじめに] [目次] [↑]