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第78話 ゾルゲ事件(上)
ゾルゲ諜報団の摘発が行われたのは1941年(昭和16)10月18日である。
しかし、事件が公表されたのは昭和17年5月16日である。
7ヶ月も伏せられていたのは警察や司法関係者にこのスパイ団の想像を超えた日本の
中枢部の恥部を晒さざるを得ないところにあった。
つまり、国家機密の漏洩どころか、内閣の奥深くに潜入していて、国の政策が彼らの操作
を受けた疑念があり、国民にショックを与えないように配慮したと思える。
昭和16年といえばなんと言っても12月8日の真珠湾攻撃による「日米開戦」である。
国民は「鬼畜米英」を合言葉に戦争モードに突入した。
その後ではどんな事件もささいな事件となる。
司法省の発表には国民の冷静な判断がつかない時期を選んだ意図的なものである。
それほどゾルゲ事件は深刻であった。
ゾルゲが逮捕されたのは昭和16年であるが、ゾルゲがソ連の指示を受け日本で諜報活動をおこなっていたのはなんと、
1933年(昭和8年)から1941年までの8年間である。
それ以前は主に上海で支那、満洲の情報収集を行っていた。
ゾルゲはドイツ人の父とロシア人の母を持つから、容易に両国のパスポートを取れたし、
言語も不自由しない。
第一次世界大戦でドイツが敗戦し、自分も従軍して負傷する。
そのとき「全人類が待ち望んでいた社会悪の浄化と、貧困・不正・不平等に侵された世界の根本治療」
を求めてゾルゲはマルクスレーニン研究所に所属、コミンテルン(国際共産党)の仕事につく。
1925年、モスクワへ行ってソ連の市民権を得てソ連共産党に入党した。(党員番号0049927)。
1930年(昭和5)、1月、ゾルゲは上海に到着した。
支那での「メンバー」は以下のとおりの職業を偽っていた。
リヒャルト・ゾルゲ…ドイツ『ゾチオロギッシュ』雑誌社特派員
ゼベル…ドイツ缶詰類輸入商(実は無電技術者)
パウル…絹類商人(実は赤軍大佐)
ミーシャ…自動車「モーター」等の技術者(実は無電係)
スメドレー女史…ドイツフランクフルト・ファイツング紙特派員(実はアメリカ共産党員・コミンテルンのメンバー。彼女はアメリカ南部の貧農の家に生まれ、インド独立運動に共鳴し、支那にも関心を寄せていた。ドイツ新聞社記者として派遣されたので、翌年秋頃、ゾルゲを尾崎に紹介した。)
この他にも当然ゾルゲの前任者たちのグループがそれまでいたのである。
上海ではゾルゲは中国共産党の党勢拡大のため蒋介石の周辺の情報収集と日本、アメリカ、イギリス、フランス、
オランダ諸国の要人と会って各国の支那政策に関する広範な情報を得てモスクワに送った。
軍事力に重点を置いたゾルゲの報告はモスクワでは高い評価を得た。
彼の表看板はドイツの雑誌記者であったから簡単に要人に会えた。
満洲にはハルピンに関東軍に関するスパイ集団が別途にあったため、特に日本の情報に
固執することはなかったが、
朝日新聞の特派員で上海に派遣されていた尾崎秀美(ほつみ)
と出会って来日することにした。
スパイ活動は有能な協力者なくしては行えない。その点ではゾルゲよりも尾崎の方が
重要である。
尾崎秀美は一高から東大法科に進んだが、大正13年、高等文官試験
(こうとうぶんかんしけん・現在の国家公務員上級試験にあたる)に失敗、
大学院に残って翌年東京朝日新聞社に入った。
一高時代の友人関係や、大学院での勉強に加え、時代の動きもあり、マルクス主義と支那問題を同時追求するに至った。
1927年(昭和2)、大阪朝日本社に転勤、細川嘉六らと中国問題研究会を作る。
1928年(昭和3)上海支局員となる。
上海では、文芸団体「創造社」同人と親交を結び、機関誌「大衆文芸」に白川次郎などのペンネームで寄稿、
また魯迅の知遇を得て日本語訳の作品集「阿Q正伝」の冒頭に文章をのせた。
実践団体「日支闘争同盟」と接触、中国共産党と関係を持ち、水野成ら東亜同文書院の学生等と結ばれた。
1929年(昭和4)末、上海で米人作家アグネス・スメドレー(1892~1950)と
会う。彼女は筋金入りのアメリカ共産党員である。
のちに尾崎はスメドレーの著作を日本語に翻訳している。
1930年(昭和5)末、アグネス・スメドレー女史の紹介でゾルゲと出会う。
ゾルゲはコミンテルン情報局からソ連赤軍第四部に所属を変えて、尾崎に支那での諜報
活動の協力を求めた。
尾崎はこのときから1932年(昭和7)の帰国までゾルゲに情報を渡していた。
尾崎は帰国に際して山上正義をゾルゲに紹介した。
山上正義はさらに船越寿雄を紹介した。
船越寿雄はゾルゲが日本にくることになったとき、ゾルゲの後任者パウルと組んで
働いた。
1933年(昭和8)9月、ドイツの新聞「フランクフルター・ツァイトゥンク」紙の記者
として来日したゾルゲと、大阪朝日本社に帰社していた尾崎は再会して、ゾルゲの協力者となることを約束する。
そのためには日本の中枢である東京にいなければ重要な情報は取れない。
そこで東京転勤を希望し、東京本社に自分の有能さをアピールする。
このころゾルゲはモスクワに尾崎を個人的に推薦し、モスクワも彼を認めて完全な
メンバーとして登録し、承認した。
つまり、尾崎はコミンテルン所属員(共産党員)になったのである。
1934年(昭和9)9月、東亜問題研究会の新設で東京本社に呼ばれ、支那問題の評論家として頭角を現わす。
一方ゾルゲグループもメンバーが揃った。
★宮城与徳…沖縄生れの画家。アメリカに渡り、1931年(昭和6)にアメリカ共産党
日本部に入党し、
赤色救援活動や反戦運動に従い、1933年に密命を帯び帰国。
尾崎秀実の連絡に当たり、九津見房子、田口右源太らを指揮してスパイ活動を行った。
移民の国アメリカには世界中のあらゆる人種・民族出身で、現地語と英語を話せる
移民共産主義者が集まっていた。だからモスクワの指令でどこの国にでもすぐに誰かを
派遣できたのである。
党員数は2万人~3万人で、アメリカ国内では影響力を持つ団体にはなっていない。
ソ連が最重要地域としていたのがアジアとドイツ。なかでも支那と日本である。
野坂参三の米国での活動を助けたのは日系二世のジョー小出であるが、宮城与徳
のほか、
カール米田、鬼頭銀一らは、ニューヨークの米国共産党本部に直属し、モスクワの指令で動く秘密党員である。
宮城はゾルゲ事件で検挙され、その後未決勾留中に巣鴨刑務所で結核のため獄死。
★川合貞吉…上海時代に尾崎からゾルゲに紹介され、以後彼らの工作を手伝う。
★水野成…満鉄傘下の国際運輸という輸送会社にもぐりこんでいた鬼頭銀一
に見込まれて共産党に入り、中国共産党と関係を持つ。1945年3月22日仙台刑務所
にて死亡。
★小代(おだい)好信…会社員(博道社洋紙店) 。おもに軍隊内のことを調査した。
★河村好雄…満州日日新聞上海支局長
★マックス・クラウゼン…螢光複写機製造業。終身刑の判決を受けるが1945年
10月9日釈放される。
★フランコ・ヴケリッチ…アヴァス通信社通信補助員(1945年1月13日網走にて
獄死。
昭和8年に第1回の会合を開いた近衛文麿の「昭和研究会」はこのころ本格的な活動を
始めていた。
近衛が近いうちに首相になるであろうという予測のもと、左派から右派まで幅広い
人材が集まっていた。
しかし、相反する思想の持ち主がいつまでも同席することはできないのは当然である。
蝋山正道、河合栄治郎、前田多門、大内兵衛(東大教授)、風見章らの左派と、文麿の父、
篤麿の代からの
付き合いで資金提供もしていた右派の志賀直方は対立し、近衛に彼らを
はずすように説得したが受け入れられず、
志賀直方は去った。
文麿が幼いころから面倒を見てきて首相にすべく育てた志賀直方や頭山満などは遠ざけ
られた。
前田多門は朝日新聞社の論説委員であったから尾崎はこのコネを利用した。
1937年4月に昭和研究会に加わり、風見章の知遇を得る。
風見は「大阪朝日新聞」「国際通信」記者などを経て大正12年から「信濃毎日新聞」の主筆をつとめ、
昭和5年に衆院選に茨城3区から初当選した。以来4回連続当選。
最初立憲民主党に所属したが、32年には安達謙蔵の国民同盟に参加した左派である。
風見の引き立てで近衛の信任を得る。
近衛の経歴をみれば、河上肇(実は共産主義者)を敬慕しているのだから
自分の意見が「近衛好み」であることはその匂いがぷんぷんしていた。
近衛が昭和研究会の部会として「支那部会」を立ち上げたとき、風見の推薦で尾崎は委員
になる。
1937(年昭和12)6月4日に近衛内閣が発足した。
近衛が首相になってすぐに直面したのが支那事変であるから、この支那部会は首相の
諮問機関となった。
当然、軍人との意見交換も行われる。
参謀本部の考えと軍人個人の考え、さらに関東軍の動静を掴むことに成功した。
これこそ、ゾルゲが一番欲しい情報であった。
支那にどれだけの兵員を派遣するのか、軍備はどの程度か、近衛は賛成か、反対か、
これらは国家機密である。
しかし、尾崎の手からゾルゲを経てソ連に筒抜けであったのだ。
この機密の漏洩は「売国行為」である。
しかし、近衛内閣のだれもが想像さえしてはいなかった。
それどころか昭和13年4月には尾崎は朝日新聞社を退社して、近衛内閣の 嘱託となり、
月2回ほどの「朝飯会」で近衛のブレーンとして 意見を言える立場についた。
首相官邸の地階の一室にデスクを構え、秘書官室や書記官室に自由に出入りできるようになった。
一方ゾルゲは駐日ドイツ大使オイゲン・オット陸軍少将と親密な関係をもっていた。
オットは大使になる前の1933年に中佐として名古屋の第三砲兵連隊に派遣されていた。
日本陸軍はドイツの軍人を顧問として各部隊を指導させていたから、ゾルゲは来日すると
名古屋にオットを表敬訪問したのである。
民間人で日本で暮らすドイツ人は少ない。
オットはたちまちゾルゲと親密になる。
オットが大使になるとゾルゲは大使館の中に自分の部屋を貰い、自由にどこの部署にも
顔を出した。
ゾルゲは尾崎から得た情報のうち最重要なものは隠してモスクワに送り、ある程度の
情報をオットに教えた。
こうしてオットのゾルゲへの信頼は日増しに強くなった。
大使館の人々はゾルゲが大使の右手だとみなすようになる。
そしてすべての重要な決定はゾルゲの確認を必要とするようにまでなった。
ゾルゲは地位の高い日本の官僚、ドイツの商会、ジャーナリストと緊密な関係をもつことができた。
尾崎の情報とゾルゲの情報を照合してより正確な情報をモスクワに送った。
果たして近衛はまったく尾崎の真意に気がつかなかったのであろうか?
私は大きな疑惑を持っている。
第一次近衛内閣は「戦争不拡大」を叫ぶ石原莞爾を無視して支那派兵に踏み切り、トラウトマンとの和平交渉も打ち切った。
そしてなんと言っても「蒋介石を対手にせず」のあの声明で支那との泥沼の戦争にはまり込むのだが、
この近衛の決定に彼らが関与していないのか?
この決定は軍部からも不評を買ったので、昭和12年10月には上海派遣軍司令官・松井石根大将の依頼により、
茅野長知(かやのながとも)が支那との和平に乗り出した。
蒋介石以下の国民党首脳部と親しい間柄にあった茅野長知は国民党政府と接触し、
昭和
13年4月には即時停戦、日本の撤兵声明発表などの合意にいたった。
近衛首相も板垣陸相も承認して、この線で和平実現に努力することになった。
国民政府から5人の代表を東京に派遣することとなった。
しかし、茅野が再び帰国して、交渉の結果を報告すると、板垣陸相の態度は急変して、
「支那側には全然戦意はない。このまま押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙げる。
日本側から停戦声明を出したり撤兵を約束する必要はなくなった」という。
茅野が「それはとんでもない話だ。国民政府は長期抗戦の用意ができている。そんな情報はどこから来たのか」と問いつめると
、板垣陸相は、同盟通信の上海支局長をしていた松本重治が連れてきた国民政府の外交部司長・高宋武から直接聞いたという。
松本重治は尾崎の年来の友人であり、共に「朝飯会」のメンバーとして近衛首相のブレーンともなった人物である。
高宋武は、日本側に「国民政府はもうすぐ無条件降伏する」と伝え、蒋介石には「中国があくまで抗戦を継続すれば、
日本側は無条件で停戦、撤兵する」という偽りの電報を打っていた。
こうした謀略によって、茅野の和平工作は水泡に帰し、その後、高宋武、松本重治、尾崎らによる汪兆銘政権樹立の動きとなっていく。
モスクワのスターリンが望んでいるのは蒋介石と日本の戦争の継続であり、満洲にある
関東軍の南への転戦である。
ゾルゲと尾崎の操作の結果が支那事変に結びついたと思いたくはないが、あまりにも
彼らの動きと符合するので私の疑惑は消えない。
現在ゾルゲの「獄中手記」は公表されているが、これはゾルゲ自身が自己主張したもので
何とでも言える。
ただ第1回から第33回までの司法警察官の尋問調書がなぜか失われているのだ。
これこそが最重要証拠であるのに…。
1939(昭和14)1月5日に第一次近衛内閣が総辞職。
すると尾崎は満鉄東京支社に移り、いつでも動けるように調査部に入りこんだ。
近衛内閣を振り返って西園寺公望は自分が見込み違いであったと嘆いた。
「とにかく近衛が総理になってから、何を政治しておったんだか、自分にもちっとも判らない。
どういうんだろうか。…陛下に対してまことにお気の毒である。
あれだけ陛下は判った方であられるだけ、まことに御同情に堪えない」
平沼騏一郎が右翼団体・国本社の総帥であることを嫌っていた西園寺ではあるが、近衛の
左翼好みの空気を一掃するためには仕方がないと、
平沼の首相を天皇に奏上した。
軍部も統制派から皇道派に重点が移った。
昭和14年年8月23日平沼内閣を揺るがす大事件が、ドイツ・ソ連の間で起った。
「独ソ不可侵条約」(ヒトラー・スターリン条約)の締結である。期間は10年間とされた。
日本との間に反共協定である日独防共協定を結んでおきながら、ソ連と同盟するというのは、平沼内閣にとって青天の霹靂であった。
平沼内閣は、大島ドイツ大使に対して三国同盟交渉の打ち切りを訓令し、自身は総辞職した。
昭和14年8月30日、次に総理の座に着いたのは元陸軍大将の安部信行である。陸軍の
後押しでできた内閣で基盤が弱い。
そこへ阿部内閣成立の翌々日、ナチス・ドイツはポーランド国境を突破し、ソ連もそれに呼応して東側からポーランドに侵攻した。
英仏はこれを受けて、ドイツに宣戦布告。ここに第二次世界大戦の火蓋が切って落された。
この翌日、阿部内閣は『帝国はこれに介入せず、もっぱら支那事変の解決に邁進せんとす』という声明を発表したが、
支那事変を解決する力はなく陸軍にも見捨てられた。
政党から内閣不信任案を出され、翌年の1月14日総辞職した。
1940年(昭和15)1月15日、海軍大将の米内光正が総理になった。米内は有名な親英米派で日独伊三国同盟反対の急先鋒であった。
昭和天皇は米内内閣に満足していた。
しかし、近衛が新党を結成するという噂が広まると、陸軍の倒閣運動がおこってきた。
『海軍に天下を取られた』と憤慨した陸軍は畑俊六陸軍大臣に辞表を提出させ、後任の
陸軍大臣を拒否した。
こうして米内内閣も短命に終わった。
昭和15年7月22日第2次近衛内閣が誕生した。
近衛は新党を立ち上げた。「大政翼賛会」である。既成政党は早々と解党してしまった。
「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。これ以外には、実は綱領も宣言も不要と申すべきであり、
国民は誰も日夜それぞれの場において方向の誠を致すのみである」
と、近衛は演説して会場を唖然とさせた。
つまり、どんな政党なのか、何を目指すのか、政策が何もわからないのだ。
こんなめちゃくちゃな党の総裁が総理大臣を兼ねているという意味不明の内閣である。
そして明治の賢人たちが営々と築いてきた議会政治はここに滅んだ。
この一党独裁の姿はまさに共産主義の姿ではないか!
尾崎秀実は、昭和15年6月号満鉄内部極秘刊行物「時事資料月報」の中で、すでに
このことを予告しているのだ。
「近衛運動(新党運動)は実際問題としては先ず上からの政権奪取が成功し(之は成功率は突変的支障なき限り一〇〇パーセントである。
其の時期は遅くも来月迄には実現するであろう)、ついで新党樹立が行われるであろう。
勿論新党樹立が先行することもあり得る(後者の場合は内部的な混乱が生ずる危険が一層大きい)。
其の後に於て国民再組織運動に着手せられるのであろう。」
このころ近衛の周囲には西園寺公望の孫になる西園寺公一(さいおんじきんかず)や
犬養毅の息子で犬養健(いぬかいたける)朝日新聞の佐々弘雄、
松本重治など挙げるときりがないほど多くの共産党のシンパが取り巻いていた。
外相が松岡洋右(目立ちたがり屋)、陸相が東条英機(能無し戦争大好き人間)というのだから狂気の人事といわねばならない。
第2次世界大戦が始まると日本では「南進」が声高に叫ばれた。
ドイツはめざましい進撃でポーランドをソ連と分割すると、北欧からオランダ、ベルギー、さらにフランスに侵入し、
さらにイギリスの首都ロンドンには毎日猛爆撃を加えて今にも英国本土へ上陸する勢いであった
東南アジアの植民地は事実上、無主の土地となり、ここへ日本が進入しようとするのが南進論であった。
昭和15年6月にパリが陥落しヴィシー政権がドイツと休戦すると、
日本政府は同年7月雲南鉄道による蒋介石の中華民国軍への援助補給封鎖をフランスに要求して、
西原少将を長とする軍事監視団をハノイに派遣した。
また同年8月にはインドシナにおけるフランスの主権擁護を条件に、2万5千の日本軍を「北部仏印」に進駐させた。
まるで空き巣のような日本の行為をアメリカは黙っていなかった。
ドイツの快進撃に松岡外相は目を見張った。
ドイツは日本をアメリカの防波堤にするために、「日独伊三国同盟」を熱望していた。
昭和15年9月24日ベルリンで松岡外相はついにこれを締結してしまったのである。
さらに、ソ連とは1941年(昭和16)4月13日「日・ソ中立条約」を結んだ。
有効期間は5年間。
日本は満洲における利権を、ソ連はモンゴルにおける利権を、それぞれ承認しあう恰好になった。
日本陸軍はこれまでずっとソ連を敵視し、日本の防衛を考えて日清・日露を戦い、満洲を
保護したのである。
実際北方では何度もソ連の攻撃を受けている。
関東軍が満洲にいなかったらとっくに満洲はソ連の領土になっていただろう。
ノモンハンで戦ってソ連の近代兵器の実力をよく理解したはずだ。
しかし、仏印(ベトナム・ラオス・カンボジア)を占領しても支那との戦いが決着を
見ないまま、むやみに南進すれば、本当の敵に対して備えが手薄になることは
軍人なら誰でもわかることだ。
ところが「仏印に進駐することは援蒋ルートの封鎖であり、支那事変の解決にも
なる」という意見が出たのだが、
これが近衛の意見であるというから驚く。
尾崎は陸軍軍務局長・武藤章少将や馬奈木敬信大佐ら「統制派」をとりこみ、味方に
つけた。
この北部仏印進駐、日独伊3国同盟を受け、アメリカは日本に対する屑鉄・石油の輸出を禁止した。
石油が止まって困ったのは海軍だ。そこで今度は蘭印(インドネシア)の石油を狙い、昭和16年7月、南部仏印への進駐をした。
この行動がアメリカの逆鱗に触れた。
8月にはアメリカのルーズベルト大統領はイギリスのチャーチル首相と戦艦ミシシッピーで会談し、対日戦争を約束したのである。
こうなると米英との戦争は必死である。
ドイツと戦うソ連にとって、日本が満洲国境からこのときとばかり、「ノモンハンの復讐だ!」と攻めてくることほど怖いものはない。
西と東の両面での戦争は兵士に恐怖感を抱かせ、戦意を喪失させる。
尾崎たちが近衛を操作して「南進」させた報告をゾルゲから受けてスターリンは狂喜した。
ドイツ戦に安心して専念できたのである。
まさにソ連の思い通りになった。
(つづく)
(2006 原稿作成)
歴史研究家:岡崎溪子
岡崎溪子ホームページ:http://www12.ocn.ne.jp/~okazaki8/
「三仙洞探検記」(岡崎溪子著、文芸社)
『おんな独りアフガニスタン決死行』(岡崎溪子著、アルファポリス社)
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