|
第67話 トラウトマン和平工作
参謀本部では出兵は北支にとどめ、上海・青島には拡大しないよう極力努力していた。
石原莞爾作戦部長は「対支作戦計画」案を持参して海軍側に同意をもとめるよう、軍令部次長・嶋田繁太郎と話し合った。
海軍省と軍令部の協議で「海軍が対支全面戦争を想定して準備する」と決めたからだ。
石原は常に陸軍の主敵はソ連であると認識している。
対ソ戦の準備をしておく必要のあるときに、いつまでも支那との戦いを続けていれば、ソ連の進出に遭遇したらどうなるのか、危険極まりない。
早急に蒋介石と和平を結んで決着をつけなければならない。
そのためには保定―独流鎮ラインに達するまでしか兵を出さない旨を述べた。
政府首脳も不拡大路線でいたから、大体は了承していた。
ところが昭和12年8月9日、上海で上海陸戦隊第一中隊長・大山勇夫海軍中尉と斎藤与蔵・一等水兵が支那保安隊によって殺害される事件が発生した(大山事件)。
第3艦隊司令長官・谷川清中将は、南京政府に対し停戦協定区域内における支那軍・同軍事施設の撤去を要求した。
しかし、蒋介石にはまったく平和解決の意思はなく日本軍と戦う姿勢である。
いやしくも上海は各国の租界が集まるところである。
日本に勝ってみせたい。勝って国民政府の名を高めたい。
蒋介石は全国総動員令を下し大本営を設置、自ら陸海軍総司令に就任し全国を4つの戦区に分けて純然たる全面戦争体制をとった。
中共はこの日呼応して抗日救国十大綱領を掲げ、いよいよ国共合作の実をあげ中国人民総決起の態勢を整えたのである。
8月10日の閣議で海軍大臣・米内光政大将は、上海方面の状況を説明したのち、真相判明を待って対処したいが、
さしあたり陸軍部隊の動員準備を願いたいと発言した。
石原部長は反対したが杉山陸相はこれを諒承、閣議では現地居留民保護を再確認し陸兵派遣の準備を容認した。
8月11日以降事態は急速に悪化した。
支那側は大山事件に対する第3艦隊長官の要求を拒否し、公然と軍隊を上海に増強させ、租界地周辺に陣地を構築するなど挑発的態度を強化、兵力は5万にも及んだ。
上海を半円形に包囲する態勢である。
対する日本海軍陸戦隊は4千に過ぎず、この夜応急警備についた。
張治中指揮の支那軍は、8月13日総攻撃を開始、海軍陸戦隊は断固応戦したが、14日には優勢な支那軍の包囲攻撃を受けるに至った。
8月14日支那空軍は上海租借地を爆撃。初戦果を挙げた。
一方、海軍航空隊は台湾から上海杭州の飛行場を空襲、さらに15日からは九州から南京に対する渡洋爆撃が行われた。
この南京爆撃は非武装都市への不法爆撃として米国の対日姿勢を硬化させた。
政府は居留民保護のため、海軍の要請をいれて陸軍部隊の上海派遣を決定、陸軍は8月14日上海派遣軍を編成した。
8月15日、日本政府は声明を発表、支那軍の暴挙を膺懲(ようちょう・懲らしめるの意)して南京政府の反省を促すのが、今次出兵の目的とされた。
8月22日、上海派遣軍の第三、第十一師団の先遣隊が軍艦で到着した。
そして東京では8月24日参謀本部が決定した4個師団動員が閣議で可決された。
これまでの動員数とあわせて103万7千人、軍馬15万4千頭の出動である。
もはや、お互いに「宣戦布告」こそないが、日・支の戦争である。
日本は支那軍を舐めきっていたが、日本の士官学校に留学して腕を上げた優秀な幹部が育てた精鋭部隊がいたのである。
戦いの士気も強く、そのうえ防備も施されていた。
トーチカ、網の目状のクリーク地帯、堅陣にてこずり、激戦が続き、現地の上海派遣軍司令官・松井石根中将や海軍から増兵の要求が続いた。
作戦部長・石原莞爾は苦戦が展開されても増兵は「焼け石に水」である、として同意しなかった。
しかし軍令部総長である伏見宮が天皇に直訴して海軍の増兵が決まった。
こうなると陸軍も消極策を維持できずに増兵を決定した。
上海に5個師団増兵が決定されるや不拡大主義の石原作戦部長は辞任し、下村定少将に交代した。
これで計14師団が投入されたことになり、日本陸軍歩兵兵力の半分に当たる。
9月中旬には計60万もの支那軍があって戦況は一向に進展しなかった。
さらに各部隊にコレラ患者が多発し、砲兵弾薬の不足もあり、死傷者続出して攻撃は停滞した。
そこで上海付近で所要の成果を収めることを重視して、主作戦を華北から上海の正面に移すこととなった。
山西省の万里の長城は南側にも旧長城の名残の内長城があり、
日本軍はこの2つの長城の間をチャハル作戦の一部として、関東軍を北、
第五師団を南に配置して東から西に進んだ。
大同を攻略したのち、関東軍は北上し、第五師団は内長城線を突破してさらに南下して太原に向かう予定であった。
しかし、北支那方面軍司令官・寺内寿一大将は第五師団に保定攻略戦への参加を命じ、師団長・板垣征四郎は進撃方向を東南に変更した。
山岳地帯を抜けて保定に出るには悪路を進むだけでも兵馬ともに難儀である。
そこは共産軍と国民党軍の閻錫山の守備地帯でもある。
特にゲリラ戦を得意とする共産軍は山間の戦いには強い。
「平型関」地区で先遣隊の第二十一連隊・第三大隊が攻められて苦戦した。
9月25日の戦いでは雨中の激戦のなか輜重隊と自動車部隊が共産軍の待ち伏せを受けて200人の戦死者を出した。
共産軍は非戦闘部隊を襲い、生き残りの者にも手榴弾を投げつけて「掃討」した。
糧食や外套はもとより戦死者の腕時計や貴重品・万年筆、現金、ありとあらゆるめぼしいものはすべて略奪された。
「戦利品は莫大であり、外套だけでもわが全将兵に一着ずつ渡してなお余った」
と得意げに記録している。
後続の友軍の援護を受けて戦いには勝利したが、地理を知らぬ軍隊が山岳地帯で苦戦するのは当然である。
日本軍の損害は甚大であったと思われるが、「平型関戦」の詳細な記録はない。
上海では参謀本部が「上海決戦」の準備を進めていた。
新たに編成された第十軍(司令官・柳川平助中将 第6、第18、第114師団、
野戦重砲兵第6旅団基幹)が、第4艦隊(豊田副武中将)の護衛の下に11月4日杭州湾に上陸、続々と兵が増えてゆく。
上海戦で日本軍が好転すると支那軍は、10月23日ころから退却を始め、上海付近の支那軍の防御は全面的に崩壊した。
11月6日「日軍百万上陸杭州北岸」と書かれたアドバルーンが上海上空に揚がった。
支那軍は浮き足立ち、蒋介石は7日に上海からの総退却を決意する。
11月11日、南京では蒋介石が在南京の高級将校、ドイツ顧問のファルケンハウゼンらを集めて南京防衛について会議を開いた。
上海が陥落すれば当然日本軍は南京を攻めてくるだろう。
さてどうするか?
第五戦区司令官の李宋仁は「南京は三方から敵に包囲されたら北面が揚子江によって退路を断たれる地形であり、
守ることは困難。ここは揚子江の両岸に撤退すべきである」
南京撤退と「南京無防都市宣言」をし、城内の住民の安全を図るべきであるとの意見に白崇禧とファルケンハウゼンは賛成した。
しかし、蒋介石は「南京は首都である。また国父(孫文)の陵墓の所在地である。戦わずして退くことなど絶対にできない。
自分個人としてはあくまで死守する」と決意を述べた。
唐生智が「南京死守」の意見を述べたので、彼に城防司令官を任命させ、防守計画を策定させた。
蒋介石は首都を南京から重慶に移すことを決定する。
11月11日夜、当面の支那軍は退却を開始、あまりにも速い退却に、上海決戦をしようとした日本軍は空振りに終わった。
そうなると第十軍の柳川中将などはまともな戦闘行為をしていないので、上海周辺の残敵掃討では満足できず、「南京追撃」という意見をあげた。
松井石根も上海決戦で和平を求める方針であったが、強硬派にひきずられてゆく。
軍人は戦争で名を挙げたいと思っている。
自軍が戦果を挙げずに帰国することは不名誉であるとさえ思っている。
柳川中将は独断で参謀本部に南京攻略を打診していた。
石原莞爾は戦争不拡大の持論を曲げなかったので、上海事変後の9月27日、ついに参謀本部作戦部長から関東軍の参謀副長の役職になり、日本を離れた。
しかし、上司の参謀総長は天敵ともいえる東条英機である。すんなりと石原の意見がとおるとは思えない。
昭和12年10月9日、新潟港を出発し、清津、羅清港に着き、
一人で宿屋に宿泊し、翌日は羅清港の開発状況を視察して石原の計画より遅れているのを確認し、
ソ連軍の動向にも注意して、12日新京駅に着いた。
それでも最後に日本をたつ前に和平工作を仕掛けていた。
ドイツの駐支大使トラウトマンに日・支の和平の仲介役を頼んだ。
すでに7月31日に天皇陛下に御進講したときに、早急に外交交渉で決着したいと申しあげ、天皇も同意された。
そこで石原は参謀本部付きであった馬奈木敬信(まなぎたかのぶ)中佐にこの工作を担当するように密命を下した。
馬奈木中佐は陸大出の秀才で、大尉時代に大使館付き武官補佐官としてベルリンに在勤したことがあり、先方の事情に通じていた。
石原莞爾も大正11年から2年間ドイツに留学していたこともあり、質実剛健なドイツ人は頼むに足りると確信していた。
蒋介石の国民政府は軍事顧問としてドイツの支援を受けていた。
ドイツ、フランス、アメリカなどは自国の兵器を売るために蒋介石を応援しており、日本の支那での軍事行動に対しては批判的で、国民政府に同情を寄せた。
ドイツの中国支援は、対中貿易資本や軍需資本を背景としたノイラート外相、
ブンベルグ国防相、シャハト経済相らの方針だった。
彼らはこれを機会に中国政府に食い込み、アメリカ、イギリス、日本などが占める中国市場への自国のシェア拡大を狙ったのである。
また、国防軍当局には、トーチカ群よりなる堅固な複郭陣地を日本軍がいかにして攻略するかについて深い関心をもっていた。
つまり、スペインの内乱ではテストできない『貴重な実験』を行っていたのである。
だが、ヒトラーは、日本政府の抗議と日中戦争の拡大が中国市場の成長を妨げ、
かつ、
日本軍の消耗は防共協定を軸とする彼の世界戦略にとりマイナスとなることから、日中
間の和平の斡旋に乗りだした。そして駐華大使トラウトマンに命じて日中和平工作を行わせた。
10月22日、広田外相は駐日ドイツ大使ディルクゼンをとおしてトラウトマン駐華大使に和平条件を提示した。
1、内蒙古自治政府の樹立
2、北京・天津を含む非武装地帯の設置、ただちに和平が成立したら華北の全管 理は
親日要人が首脳に任命されることを条件に南京政府に帰す
3、上海方面の非武装地帯の設置
4、反日政策の停止
5、共産主義にたいする共同闘争
トラウトマン大使が日本の和平条件を蒋介石に伝えたのはブリュツセル会議開催中の11月5日だった。
蒋介石自身は10月20日からブユッセルで開催されているこの九カ国条約会議に期待していたことから、この条件を拒絶した。
だが、会議の結果は中国の期待を裏切るものであった。つまり、日本の行動には
道徳的不承認のレベルで終始し、なんら具体的な制裁措置をともなわなかったからである。
しかも、その時点では日本軍は上海戦闘の主導権を確保し、首都南京めざして進撃を開始していた。
そこで蒋介石は12月2日あらためてトラウトマン大使と会見した。
大使は、講和の機会を逃さないことが大切であり、日本側の条件は過酷なものではないと、受け入れることを勧めた。
午後4時から蒋介石は雇祝同、白崇禧、唐生智、徐永昌の将軍たちの意見を求めた。
将軍たちは日本の条件を承諾した。
午後5時改めて、蒋介石はトラウトマンと会見し、
1、中・日交渉に当り、ドイツは終始調停者の立場に立っていること。
2、北支における行政の主権は、どこまでも維持されること。
を条件とした。
「どうか、ドイツはまず日本に向かって停戦を勧めてくださることを希望します」
「了解しました。本国に必ず伝えます。日本もまた、ヒトラー総統が日支双方に
停戦を勧めることを望むでしょう」
トラウトマンは東京とベルリンに電報を打った。
しかし、返電はこなかった。
(つづく)
(2006 原稿作成)
歴史研究家:岡崎溪子
岡崎溪子ホームページ:http://www12.ocn.ne.jp/~okazaki8/
「三仙洞探検記」(岡崎溪子著、文芸社)
『おんな独りアフガニスタン決死行』(岡崎溪子著、アルファポリス社)
|