No.43


e-bayでバイオリンの競売なんかに狂っていたもので、すっかり回答が遅れてしまいました。写真を落とすのに時間がかかってねえ。しっかしネットのオークションってすごい。かなり頑張ったつもりだけど、全部アウトビッドされちまいました。

でまあ、その間に、鈴木氏はきれちゃった訳です(第四十二回参照)。もう少し気長に構えていたらよかったのに、大喧嘩売ったつもりで緊張でふるふるして待ってたのかしらん。ちょっと可哀想かも。

鈴木氏の要請により、はじめに全文を掲載し、しかる後にいつも通り引用を行いつつコメントさせていただきたいと思います。必然的に、超長文になりますので御覚悟のほどを。


Date: Tue, 23 May 2000 00:21:33 +0900
From: 鈴木康弘 <okojoko@mx1.freemail.ne.jp>
Subject: それでは前に出ます

 佐藤亜紀さん、はじめまして。

 東京新聞読書欄のコラムでサイトの存在を知りました。ざっと読ませていただいて、少々口出ししたくなったので、こうして書いております。

 主に「『バルタザールの遍歴』絶版の理由」とそれに関連する佐藤さんの諸発言に対して「文句」をつけさせていただきたいと思います。主旨は、簡単に言うと「あなたの言ってることは、ちょっとおかしいんでないの?」といったもの。インターネット上で発せられた声に対して、それを耳にしたものが、どう受けとったかを返したのだとお考え下さい。

 「主に」と書きましたが、「『バルタザールの遍歴』絶版の理由」以外にもいくつか文句はあります。しかし、あまりいろいろ書いても論点が曖昧になってしまいますから、今回はそちらには触れません。ただ、ぼく自身のこの文章の取り扱いに関係する点だけ、注意を喚起しておきたいと思います。

 『文句のある奴は前に出ろ』の33でしたか、権利には責任が伴うとかいう回、それからもう一つ「非武装中立」の回、あの二つはとても“いやな感じ”でした。他人の表現行為というものに対しての佐藤さんの姿勢に大きな疑問を感じてしまいます。物書きでありながら著作権というものをよく分かっていないのではないかと思いましたね。メールの両氏に対してぼくは何の共感も覚えませんが、その発言が不当な扱いを受けていることには同情してしまった次第です。 著作権の観点から言うと、あれは禁じ手の「全文引用」になっています。また、正々堂々とした議論という面からは、随分と卑怯な紹介の仕方だと言えます。あなたの注釈つきで、こまぎれにした文章を紹介するのではなく、まず全文を読者に提供し、その判断を仰ぐという手順が必要だったろうとぼくは考えます。そうすることによって、読者が、あなたの発言と両氏の発言を等距離から判断できるようにするべきだったのではないでしょうか。(話のついでにもう一つだけ。33回の発言者さんが批判の対象にしていたあなたの文章をぼくは読むことが出来ませんでした。随分とアンフェアなやり方だなと思ったのですが、これは単に探し方が悪かったということなのでしょうか)

 という訳で、ぼくのこの文章をコメントつきのコマ切れで掲載することのないようお願いしておきます。また、空白行の削除を含めて、勝手な変更を加えられることも拒否いたします。条件が満たされない場合は、掲載自体をお断りします。条件を満たすことなく掲載した場合は、著作権法の処罰対象である「無断転載」とみなしますから、ご注意下さい。

 言わずもがなのことでしょうが、佐藤さんには肝心なことがまったく分かっていらっしゃらないようなので、もう少し書いておきます。サイトへのアップが諒承されていない限りは、お手もとに届いたメールはあくまでメールであり、私信です。それを勝手に公開するのは、プライバシーの侵害以外のなにものでもありません。「monk35.htm」で、あなたはそれをやっているのですがね。自己宣伝のために人を利用してはいけません。 ぼくの場合は、基本的にサイトへの掲載を諒承していますが、著作権がきちんと尊重されることを前提の上ですので、誤解なきようお願いいたします。

 当然ながら、反論の中での引用は自由です。それが結果として全文を引用しての反論になったとしても、今回は大目に見てさしあげます。余計なことに気を回さず、好きなだけ反論なさって下さい。

 さて、本論に入ります。

>>無記名OKの掲示板に匿名でこちらのアドレスを張られた方がおります。

 「おります」というのは、謙譲語。あなたには他人の代わりに謙譲する権利なんてない筈です。 いや、失礼。最初からこれでは、時間がいくらあっても足りません。「ガンジー的非武装中立主義」などと書いてしまう、あなたのいい加減な言葉の使い方にはどうも我慢がならないのですが(ご著書でも「当否」が「是非」と表記されているような文章には往生したものでした)、以後、こまかいことは無視して話を進めましょう。

>>『日蝕』に対する私の反応の、常軌を逸した(現代思想的に破的な)寛大さに疑問を感じる方もおられるでしょうが、それはあくまで、『鏡の影』と『日蝕』が読み比べられることを前提にしております。テクストそのものの入手が不可能になるなどとは考えてもいませんでした。おまけにこのタイミングでは、まかり間違っても読み比べられたりしないよう、テクストそのものを消滅させるために絶版にしたのだ、と考えたくもなります。

 おかしいですねえ。
 「考えたくもなります」とは、どういう意味なんでしょうか。肝心カナメのところだというのに、メチャクチャ曖昧ですね。 いったい佐藤さんは「〜したのだ、と考え」ているのですか、いないのですか。

>>こういう作家の小説は、何しろ幸福なる少数者しか読んでいない上、読むべき本がしこたまある業界のうるさがたの目にはまず触れませんから、デビューさせようという作家志望者にぽんと与えてぱくらせ、賞の候補に推してもまずばれない訳です。後になってこっちが騒いだってごまめの歯ぎしりみたいなもの。

 平野氏の『日蝕』は「こういう作家の小説」を「ぽんと与えてぱくらせ」た結果だというのですか? そして、なぜ彼が「デビューさせようという作家志望者」として選ばれたかというと、『日蝕』が持ち込まれたから……? こんな堂々巡りは戴けませんね。
 上は平野氏に直接言及したものではないとおっしゃいますか? しかし、事情が違うのなら、なぜそんな関係もない話を持ち出すのか。紛らわしいことこの上ないではありませんか。

>>そうした可能性があるのかどうかの判断は、私の弾劾演説ではなく、あくまで作品を通して(すでに読んでおられるか、或いは改めて図書館か古本屋に足を運んでいただけるならですが)判断していただきたいからです。

 「そうした可能性」って、どんな「可能性」でしょうか? これより前の部分を読んでも、対応する箇所は見当りません。違うというのなら、その部分を引用してご覧なさい。

 もう少し詳しく書きましょうか。
 前段に「こうしたことは公表すべきではないという反応が返って来る可能性」という箇所がありますね。そのあとに「可能性の有無について第三者の判断を知りたかったからです」と続きます。後者における「可能性」は「反応が返ってくる可能性」でしょうか。そう解釈した場合――反応というのは言い換えれば「第三者の判断」ですから――“判断についての判断”を知りたいということになってしまい、意味をなしません。ここは「盗作(乃至ぱくり)をした可能性」と解釈することが求められているのですね。同じ「可能性」という言葉が、いつの間にか最初とは異った意味で用いられているわけです。 “そうした”叙述の流れを経て、上に引用した部分が出てきたのでした。ここでの「可能性」は、平野氏がばくりをしたという可能性でなくてなんでしょう。

 つまり、あなたは自身としては、一度として“平野は私の作品をぱくったのだ”と明言することなく、読者に対しては「そうした可能性」を想起するように求めている。字面では平野氏を気遣うようなそぶりを示しながら、実際には平野氏を疑うようにぼくたち読者をけしかけているのです。

 この欺瞞が今回のあなたの主張のすべてに及んでいることに気がつかれているでしょうか。つまり、明言する「責任」を回避しながら、明言した場合の「権利」だけは得ようとしているのですね。かくも欺瞞的な論理も珍しい。

 同様の箇所をもう一つ。
 自分の言っていないことをあたかも言ったかのようなふりをするのは、大蟻食さんの特技なのでしょうか。

>>従って、現在我々が論じることができるのは、ふたつのテクストを比較し、先行する作例としての『鏡の影』が『日蝕』に及ぼした影響の有無を判断した上で、

>>>・そのパクリの、技法としての出来、正当性は?>・独立した作品としての「日蝕」の出来は?賞に相応しいか?

>>を考えることだろうと思います。

>>私の見解は以下の通りです。

 「以下の通りです」と、まあ、威勢はいいんだけど、中身がともなわない。この先をいくら読んでも、どこにも「私の見解」など出てきません。そんなことはないというのなら、その部分を引用してご覧なさい。自作に関するあれこれをダラダラと書き連ねてはいますが、ふたつの「>〜?」についての「見解」などあなたは一切書いていないのですよ。

 要するに、問題について一番肝心なことは、まったく述べられないままというのが事実なんです。 そんなことはない、私は「限りなく黒に近」いと書いているではないか、と言われるでしょうか。しかし、その文の結語は「黒くはない」です。 いや、面倒がらずにもう少々長めに引用しましょう。「法的措置に訴えられるほど黒くはない」とお書きになってらっしゃるのでしたね。

 それでは、いっそのこと、こう書いたらいかがでしょうか。「法的には黒に出来ないかも知れないが、文学としては全き黒である」と。 しかし、とんでもない、そんなことをあなたが書くはずもありません。「私は盗作とは言っていません」の人なんですから。

 たぶん、お分かりになると思うのですが――黒に“近い”と言っても何も言ったことにはならないんですね。「黒だ」と言明することとの間には、無限の距離があります。

>>ただし、『鏡の影』と『日蝕』が読み比べられ、両者の関係が論じられることは、私も平野氏も避ける訳には行かないし、避けるべきでもない筈です。六月の復刊の後には、「似てる」「似てない」の議論が幾らかでも起こることを私は期待しておりますし、「似てない」という意見を恐れる気はありません。できれば平野氏側にも「似ている」という指摘を恐れないでほしい。

 あいた口がふさがらないとは、こういうのを言うんでしょうか。 あなたは最初から最後まで、問題のすり替えに終始していますね。「『バルタザールの遍歴』絶版の理由」であなたが問いかけたのは、「似てる」か否かだったのですか? 互いに似ている文学作品なんて、掃いて捨てるほどあります。いや、任意の作品を二つ持ってきて、どこが似ているかを指摘しあうといった遊びが成り立ってしまうだろうほどに、あらゆる作品が何らかの意味で「似てる」のが事実です。それは、まさに当たり前というしかないわけで、そんな当たり前を確認することで、いったい何が分かるというのでしょうか。似てる? それがどうした、ってなもので、誰もそんなことで大騒ぎしたりしませんよ。 そうではなく、パクリであるかどうか――或いは「盗作」であるかどうか――をあなたは問題にしていたのではありませんか?

 「『バルタザールの遍歴』絶版の理由」は“絶版が相次いでとても残念だ”という文章なのでしょうか。新潮社には佐藤亜紀という作家を育てる意思がなくなったみたいで寂しい――そういう慨歎の声があの文章だというのなら、それ自体としては分かります。しかし、そうなると今度はなぜ『日蝕』を持ち出す必要があるのか分からなくなる。

 「『バルタザールの遍歴』絶版の理由」を読んだ人たちは、異口同音に新潮社の対応はケシカランと言っています。多少異論のあるアブさんでさえ「新潮社の不誠実は許し難い」と書いていおられ(正確に言うなら、条件付きでの断定ですが)、あなたはそれらの反応を当然のことのように受け止めている。 これは、新潮社の“仕打ち”は不当だと、あなたが書いたから、それを読んだ読者がそのように受けとった――ということだと思うのですが、違っていますか?

 しかし、ちょっと考えれば分かることだけど、売れない本が絶版になるのは、確かに著者にとって残念なことではありましょうが、それ自体として「不誠実」だとか「不当」だとか言われる筋合のことではありません。

 あなたは「私は盗作とは言っていません」と書き、「『ぱくり』は文学には必要不可欠である」と書いている。平野氏の作品によって、自分の知的所有権が侵害されたという認識は、どこにも示されていないわけです。 だとしたら、いったい何を理由にして新潮社の「挙動」を咎め立てするのでしょうか。

 『日蝕』と『鏡の影』が似ているから? 読者に比較する機会を与えるために新潮社は発行を続けなければいけない――とでも言うのでしょうか。そんなアホな話は聞いたことがありません。 なぜ二つを比較する“必要”があるのでしょう? アプリオリに、そんな必要がある訳がないですね。 自分の作品を読んで欲しいという願いは分かるとしても、他人の作品と比較してくれという要求だとしたら、やはり、なぜそんなことを求めるのかと聞きたくなります。はっきり申しますが、あなたはその理由をどこにも書いてはいません。

 既にご理解いただいていると思いますが、ぼくは新潮社の肩を持つつもりなど全くありません。新潮社を非難すること自体が問題であるなどとは言っていないのです。ぼくが言いたいのは、平野氏の作品に疑義がなければ、新潮社がどう動こうと「挙動不審」になりようがないということです。 つまり、肝腎なのは、あなたが『日蝕』を「盗作(あるいはぱくり)」と思ったかどうかということであって、もしそうはお考えにならないのなら、新潮社がどう動こうと何の関係もない筈です。新潮社の「挙動」を云々するあなたの言い分は、まったく奇妙というしかありません。

 『日蝕』に文句をつけるつもりがないのなら、筋の通らない言い掛りはお止めになったらいかがでしょうか。また、文句をつけたいのなら、人に言わせるのではなく、ご自分の口からはっきりそうおっしゃったらいかがでしょう。

>>私がウェブ上のホームページを使ったのは、この件を第三者の目を通して検討しなおしたかったからです

 あなたも笑わせてくれますね。
 何度でも申し上げますが、ご自分が「盗作」だと思っていないのなら、それで充分ではないですか。なぜ、「第三者の目」が必要になるのですか? あなた自身がまともな見解の表明を全然していないのに、他人に期待してはいけません。 自他の区別もつかないんでしょうか。「第三者の目を通して検討しなおしたかった」なんて表現は、文章を書くものとしては大いに恥じなければなりません。「第三者の判断を仰ぎたかった」「第三者にご判断いただきたかった」とでも書いてほしいですね。なぜそんな必要があるのかは、あいかわらず不明確ですけど。

 くどいようですが、「技量」のある読者をあまり期待できないので、ちょっと解説しておきましょうか。 上にぼくがお勧めしたように書き直すと、「第三者の判断」をするのは「第三者」だという当たり前のこと、それが“佐藤亜紀の判断”を代替など出来ないことが明瞭になってしまいます。ところが「第三者の目を通して検討」なんて書くと、検討する“主体”があたかも佐藤亜紀であり得るかのように見えてしまう。自己の判断を自己の責任において発表するという当然のことから逃げているのが、佐藤亜紀さんだとぼくは言いたいわけです。

>>第一は、リンクを張る際には恒久的なアドレスと、本名または恒久的なハンドルを使っていただきたい、ということです。どこの誰が何のためにリンクを張ったのかをはっきりさせるためです。匿名者の悪意によって嗾けられた、自分の発言に責任を持てない人々と議論をする気はありません。

 注文が多すぎるんです。
 議論をしたくないなら、しなければよろしいでしょう。それは、あなたの自由だ。しかし、せっかくアドバイスされながら、いつまでたっても分からないようですが、リンクを張るかどうかは、他人の自由に属することなんです。あなたには口出しする権利なんかないのですよ。 匿名というだけで否定的にくくってしまうのもいただけません。まともな議論が出来るかどうかと実名か否かは、必ずしも関係ないんですね。匿名の発言は卑怯だと思いこむのはあなたの勝手ですが、それを人に押しつけてはいけません。

>>また、読ん
>>で議論して下さる方にも、ジャーナリスティックな色眼鏡に左右されない、純粋に文学的な判断をお願いしたいと思います。

 いやはや、おそれいります。
 あなたは文芸評論をやっていた訳ですか? ちっとも知りませんでした。

 佐藤さんには“率先垂範”という言葉をお贈りしましょう。 人に要求する前に、まずご自分でやってご覧になったらいかがですか。 小説における「剽窃」とは、いったい何か? その定義は?

 実のところ、ぼくはかなり失望してしまったのですが、あなたのファンの方たちというのは、どうもあまり水準が高いとはいえないようですね。二作を読みもしないで新潮社はケシカランなどと書けてしまう人たち、たまに読んでいる人がいたかと思えば判断能力欠如だったりする。そんな人たちばかりです。剽窃とは何なのか、そのどこが問題なのか、まともなことが書けている文章には、ついにお目にかかれませんでした。(読者が「少数」なのは分かりましたが、おそらく『パルムの僧院』を読んだこともない「少数」なんでしょう)

 私見によれば、小説における「剽窃」とは文章またはプロットの盗用のことです。盗用が問われるのは当然「所有権」との関係においてですね。問題は知的所有権という権利の侵害であって、早い話が文学作品としての質がどうこういうのは、どうでもいいことです。(権利が侵害されたと考える主体が存在しなければ、剽窃が問題になることもないわけ。主体抜きで「文学的」に論じたいと希望する佐藤さんに対して、それは無理なんじゃないかとぼくは言いたいのですね)

 『日蝕』に関して言うなら、文章やプロットの盗用がないどころか、設定の類似すらありません。いったいどこが「似てる」んだろう? よくもまあ、言い掛りをつける気になれたものと、ぼくは呆れてしまいましたよ。こんなのを「似てる」といえるなら、どちらも男と女が登場する点が「似てる」、なんて言えちゃうことになります。『日蝕』と『鏡の影』、とてもじゃないが「剽窃」が問われるような要素はありません。

 とまあ、「剽窃」論争をやらかそうにも、あなたは「私は盗作とは言っていません」の人なので、そもそも議論自体が成立しない。そういう、まったくインチキな主張をしているのがあなたであるというのが、ぼくの意見なんです。

 これまでの諸氏の発言を読んだ限りでは、「『バルタザールの遍歴』絶版の理由 」は「事実無根」の誤解を蔓延させていると言えますね。 何も知らない人があれを読んだら、問題の二作は瓜二つなのだと思ってしまうでしょう。その明々白々の相似が読書子の目にとまらないように“証拠隠滅”したのが新潮社――そんな風に思いこんでしまうに違いありません。しかし、何はともあれ、実際に二作を比較してみるならば、盗作が問題になり得るような要素は皆無であることが分かる筈です。

 だいたい、“証拠隠滅”が動機だったとしたら、『戦争の法』を絶版にしたことをどう説明するのですか? 一冊の本を闇に葬るだけでなく、その書き手である作家の存在を抹殺してしまえば、さらに完璧だとでもいうのでしょうか。そういうのを被害妄想と言います。

 結論は最初から申し上げていますね。
 新潮社の「挙動」についてどれだけ言葉を尽くそうと、『日蝕』が剽窃だと言えない限り、何の意味もありません。そして、これまであなたも含め“どこが”似ているのか、まともに指摘できた人は一人もいないのです。二作ともに錬金術や学僧が出てくるといったアホな話がせいぜいです。そんなことを言ったら、『鏡の影』と『薔薇の名前』の共通点の方がよっぽど多いのではないか。エーコ氏も、剽窃だと騒がなくてはいけないことになります。

 さて、いきなり素っ頓狂な話を持ち出すと思われるかも知れませんが、佐藤さんの発言を読んでいて、ぼくは、テレビのニュース番組に登場する主婦たちのことを思い浮べてしまいました。食品の安全性が問題になる時など、あの人たちは例外なく同じことを口にするんですね。「子供に食べさせられない」って。 ぼくはいつも違和感を覚えてしまいます。なぜ「私はそんなものを食べたくない」と言えないんだろうと。

 要するに「権利」というものを分かっていないんですよ。 権利の主張はエゴの主張に等しいと観念していないから、いざというときに自分の権利を主張することが出来ない。それで子供をだしにするしかないんだろうと思います。佐藤さんも、自分はいいんだけど他の人の場合はそうもいかないだろうから平野君が心配だ、なんて書いていますね。なぜ、自分の権利をまっすぐに主張できないんだろう?

 実は、そういうことを少し論じてみたかったので、その故の口出しでした。 しかしながら、実際のところは「権利」どころか、単なる「被害妄想」の話だというのが真相のようで、とてもとても「権利」どころではありません。 残念ながら、今回は議論できませんでした。 機会があれば、またお話しすることにしましょう。

 それでは、また。

-------------------------------------------
鈴木康弘 <okojoko@mx1.freemail.ne.jp>


という訳で、確かに、全文載せさせていただきました。全文を読者に提供し、私の発言と鈴木氏の発言を等距離から判断できるようには充分なっていると思います。以下、コメントいたしましょう。

 東京新聞読書欄のコラムでサイトの存在を知りました。ざっと読ませていただいて、少々口出ししたくなったので、こうして書いております。

東京新聞の読書欄に掲載されたとは知りませんでした。日付を書いていただけると大層助かったのですが。

 主に「『バルタザールの遍歴』絶版の理由」とそれに関連する佐藤さんの諸発言に対して「文句」をつけさせていただきたいと思います。主旨は、簡単に言うと「あなたの言ってることは、ちょっとおかしいんでないの?」といったもの。
インターネット上で発せられた声に対して、それを耳にしたものが、どう受けとったかを返したのだとお考え下さい。

言ってることが後の方と矛盾してませんか。何故「私がどう受け取ったのか返す」と言えないんだろう。

 「主に」と書きましたが、「『バルタザールの遍歴』絶版の理由」以外にもいくつか文句はあります。しかし、あまりいろいろ書いても論点が曖昧になってしまいますから、今回はそちらには触れません。ただ、ぼく自身のこの文章の取り扱いに関係する点だけ、注意を喚起しておきたいと思います。

 『文句のある奴は前に出ろ』の33でしたか、権利には責任が伴うとかいう回、それからもう一つ「非武装中立」の回、あの二つはとても“いやな感じ”でした。他人の表現行為というものに対しての佐藤さんの姿勢に大きな疑問を感じてしまいます。物書きでありながら著作権というものをよく分かっていないのではないかと思いましたね。メールの両氏に対してぼくは何の共感も覚えませんが、その発言が不当な扱いを受けていることには同情してしまった次第です。 著作権の観点から言うと、あれは禁じ手の「全文引用」になっています。また、正々堂々とした議論という面からは、随分と卑怯な紹介の仕方だと言えます。あなたの注釈つきで、こまぎれにした文章を紹介するのではなく、まず全文を読者に提供し、その判断を仰ぐという手順が必要だったろうとぼくは考えます。そうすることによって、読者が、あなたの発言と両氏の発言を等距離から判断できるようにするべきだったのではないでしょうか。(話のついでにもう一つだけ。33回の発言者さんが批判の対象にしていたあなたの文章をぼくは読むことが出来ませんでした。随分とアンフェアなやり方だなと思ったのですが、これは単に探し方が悪かったということなのでしょうか)

もしかすると区分けしてコメントするというのはやや不当かもしれません。ただこれは、ブラウザで読む人間がいかに斜めに拾い読みしかしないか、という問題に直面したあげくの苦肉の策ではありました。こちらのコメントを読んでいる頃には、投稿に何が書いてあったかなど、ほとんどの読み手は忘れ去っているとすれば、こうするより他に手はないでしょう。鈴木さんのように言っていただければ、事後にでも、今回のような形に改変することは可能です。

ちなみに第三十三回のkenji_umetsu氏が問題にしているのは『文句』の第三回です。見つからなかったですか。

 という訳で、ぼくのこの文章をコメントつきのコマ切れで掲載することのないようお願いしておきます。また、空白行の削除を含めて、勝手な変更を加えられることも拒否いたします。条件が満たされない場合は、掲載自体をお断りします。条件を満たすことなく掲載した場合は、著作権法の処罰対象である「無断転載」とみなしますから、ご注意下さい。

とりあえずは今回の形で御容赦を。改変はしておりません。

 言わずもがなのことでしょうが、佐藤さんには肝心なことがまったく分かっていらっしゃらないようなので、もう少し書いておきます。サイトへのアップが諒承されていない限りは、お手もとに届いたメールはあくまでメールであり、私信です。それを勝手に公開するのは、プライバシーの侵害以外のなにものでもありません。 「monk35.htm」で、あなたはそれをやっているのですがね。自己宣伝のために人を利用してはいけません。 ぼくの場合は、基本的にサイトへの掲載を諒承していますが、著作権がきちんと尊重されることを前提の上ですので、誤解なきようお願いいたします。

tamanoir@dccinet.co.jp宛のメールは投稿として公開することを前提としております。特に「これは私信です」と書かれていない限りは(宴会のお誘いなんかも別ですが)、全て掲載されます。答えにくい文句を避けているのではないかという疑問を招かないためです。微妙な場合には公開させていただいていますが、不都合があると言っていただければ、削除いたします。

ところであなたが言ってるような著作権法上の処罰規定が、公開前提の投稿に適用された判例ってあるんですか。私はあんまり詳しくないものですから、是非御教授下さい。

 当然ながら、反論の中での引用は自由です。それが結果として全文を引用しての反論になったとしても、今回は大目に見てさしあげます。余計なことに気を回さず、好きなだけ反論なさって下さい。

 さて、本論に入ります。

>>無記名OKの掲示板に匿名でこちらのアドレスを張られた方がおります。

 「おります」というのは、謙譲語。あなたには他人の代わりに謙譲する権利なんてない筈です。 いや、失礼。最初からこれでは、時間がいくらあっても足りません。「ガンジー的非武装中立主義」などと書いてしまう、あなたのいい加減な言葉の使い方にはどうも我慢がならないのですが(ご著書でも「当否」が「是非」と表記されているような文章には往生したものでした)、以後、こまかいことは無視して話を進めましょう。

まあね、鈴木氏の前回の「拙速」に見る通り、日本語は日々堕落しておりますからね。

>>『日蝕』に対する私の反応の、常軌を逸した(現代思想的に破壊的な)寛大さに疑問を感じる方もおられるでしょうが、それはあくまで、『鏡の影』と『日蝕』が読み比べられることを前提にしております。テクストそのものの入手が不可能になるなどとは考えてもいませんでした。おまけにこのタイミングでは、まかり間違っても読み比べられたりしないよう、テクストそのものを消滅させるために絶版にしたのだ、と考えたくもなります。

 おかしいですねえ。
 「考えたくもなります」とは、どういう意味なんでしょうか。肝心カナメのところだというのに、メチャクチャ曖昧ですね。 いったい佐藤さんは「〜したのだ、と考え」ているのですか、いないのですか。

さあ、どっちだと思います? 百字で書け、ってところですか。世の中○×では回答できない問題も山ほどあるんですが、これはまあ、百字あれば書けるでしょう。

>>こういう作家の小説は、何しろ幸福なる少数者しか読んでいない上、読むべき本がしこたまある業界のうるさがたの目にはまず触れませんから、デビューさせようという作家志望者にぽんと与えてぱくらせ、賞の候補に推してもまずばれない訳です。後になってこっちが騒いだってごまめの歯ぎしりみたいなもの。

 平野氏の『日蝕』は「こういう作家の小説」を「ぽんと与えてぱくらせ」た結果だというのですか? そして、なぜ彼が「デビューさせようという作家志望者」として選ばれたかというと、『日蝕』が持ち込まれたから……? こんな堂々巡りは戴けませんね。
 上は平野氏に直接言及したものではないとおっしゃいますか? しかし、事情が違うのなら、なぜそんな関係もない話を持ち出すのか。紛らわしいことこの上ないではありませんか。

>>そうした可能性があるのかどうかの判断は、私の弾劾演説ではなく、あくまで作品を通して(すでに読んでおられるか、或いは改めて図書館か古本屋に足を運んでいただけるならですが)判断していただきたいからです。

 「そうした可能性」って、どんな「可能性」でしょうか? これより前の部分を読んでも、対応する箇所は見当りません。違うというのなら、その部分を引用してご覧なさい。

ひとつ、そちら側の反則を指摘いたしましょう。別々な箇所に書かれた文章を並べて引用し、同じことに関する発言であるかのように見せかけるのはフェアではありません。

二番目の引用は、『文句』第三十六回の鈴木創氏に対するコメントからの引用、「そうした可能性」の「そうした」は、氏の文句の中の<新潮社が「日蝕」と「鏡の影」を読み比べられることのないよう絶版にした>をさしています。『意見』第十三回の「ぽんと与えてぱくらせ」ではありません。

 もう少し詳しく書きましょうか。
 前段に「こうしたことは公表すべきではないという反応が返って来る可能性」という箇所がありますね。そのあとに「可能性の有無について第三者の判断を知りたかったからです」と続きます。後者における「可能性」は「反応が返ってくる可能性」でしょうか。そう解釈した場合――反応というのは言い換えれば「第三者の判断」ですから――“判断についての判断”を知りたいということになってしまい、意味をなしません。ここは「盗作(乃至ぱくり)をした可能性」と解釈することが求められているのですね。同じ「可能性」という言葉が、いつの間にか最初とは異った意味で用いられているわけです。 “そうした”叙述の流れを経て、上に引用した部分が出てきたのでした。ここでの「可能性」は、平野氏がばくりをしたという可能性でなくてなんでしょう。

 つまり、あなたは自身としては、一度として“平野は私の作品をぱくったのだ”と明言することなく、読者に対しては「そうした可能性」を想起するように求めている。字面では平野氏を気遣うようなそぶりを示しながら、実際には平野氏を疑うようにぼくたち読者をけしかけているのです。

 この欺瞞が今回のあなたの主張のすべてに及んでいることに気がつかれているでしょうか。つまり、明言する「責任」を回避しながら、明言した場合の「権利」だけは得ようとしているのですね。かくも欺瞞的な論理も珍しい。

 
「可能性の有無について第三者の判断を知りたかったからです」の「可能性」は、当然のことながら<新潮社が「日蝕」と「鏡の影」を読み比べられることのないよう絶版にした>可能性です。一体どうやれば「反応が返ってくる可能性」だなんて読めるんでしょうね。「Webという不特定多数の前に出されるメディアに載せる文章としては難がある」という指摘をいただいての返答ですから。

 
 同様の箇所をもう一つ。
 自分の言っていないことをあたかも言ったかのようなふりをするのは、大蟻食さんの特技なのでしょうか。

>>従って、現在我々が論じることができるのは、ふたつのテクストを比較し、先行する作例としての『鏡の影』が『日蝕』に及ぼした影響の有無を判断した上で、

>>>・そのパクリの、技法としての出来、正当性は?>・独立した作品としての「日蝕」の出来は?賞に相応しいか?

>>を考えることだろうと思います。

>>私の見解は以下の通りです。

 「以下の通りです」と、まあ、威勢はいいんだけど、中身がともなわない。この先をいくら読んでも、どこにも「私の見解」など出てきません。そんなことはないというのなら、その部分を引用してご覧なさい。自作に関するあれこれをダラダラと書き連ねてはいますが、ふたつの「>〜?」についての「見解」などあなたは一切書いていないのですよ。

読み取れなかった? それは残念。難しすぎたのね。先行する作例と、どうむかい合えば「技法としての出来・正当性」がクリアされるのか、どこまでやれば「独立した作品」と見做しうるのか、に関して、私の試みを例にあげたつもりなんですけどね。

 要するに、問題について一番肝心なことは、まったく述べられないままというのが事実なんです。 そんなことはない、私は「限りなく黒に近」いと書いているではないか、と言われるでしょうか。しかし、その文の結語は「黒くはない」です。 いや、面倒がらずにもう少々長めに引用しましょう。「法的措置に訴えられるほど黒くはない」とお書きになってらっしゃるのでしたね。

 それでは、いっそのこと、こう書いたらいかがでしょうか。「法的には黒に出来ないかも知れないが、文学としては全き黒である」と。 しかし、とんでもない、そんなことをあなたが書くはずもありません。「私は盗作とは言っていません」の人なんですから。

 たぶん、お分かりになると思うのですが――黒に“近い”と言っても何も言ったことにはならないんですね。「黒だ」と言明することとの間には、無限の距離があります。

何が肝心か、を全く取り違えておられると思いますね。平野氏がぱくったかどうかなんて、私にはどうでもいいんですよ。真っ黒だって全然構わなかったと思いますね、新潮社の対応さえ納得のいくものなら。

ただまあ、世間の好奇心というのは、ややそちらの側(白か黒か)にむかいがちではあります。お暇な時にでも『文句』第三十六回を読み返していただければ幸いです。白黒の議論がいかに無意味かお判りになるでしょう。

>>ただし、『鏡の影』と『日蝕』が読み比べられ、両者の関係が論じられることは、私も平野氏も避ける訳には行かないし、避けるべきでもない筈です。六月の復刊の後には、「似てる」「似てない」の議論が幾らかでも起こることを私は期待しておりますし、「似てない」という意見を恐れる気はありません。できれば平野氏側にも「似ている」という指摘を恐れないでほしい。

 あいた口がふさがらないとは、こういうのを言うんでしょうか。 あなたは最初から最後まで、問題のすり替えに終始していますね。「『バルタザールの遍歴』絶版の理由」であなたが問いかけたのは、「似てる」か否かだったのですか? 互いに似ている文学作品なんて、掃いて捨てるほどあります。いや、任意の作品を二つ持ってきて、どこが似ているかを指摘しあうといった遊びが成り立ってしまうだろうほどに、あらゆる作品が何らかの意味で「似てる」のが事実です。それは、まさに当たり前というしかないわけで、そんな当たり前を確認することで、いったい何が分かるというのでしょうか。似てる? それがどうした、ってなもので、誰もそんなことで大騒ぎしたりしませんよ。 そうではなく、パクリであるかどうか――或いは「盗作」であるかどうか――をあなたは問題にしていたのではありませんか?

ぱくりか否か、は問題にはしておりません。私にはその点を疑う理由はないからです。引用部分で問題にしているのは作家の矜持です。ぱくって元を越えたという自信があるのなら、似ていても恐れる必要はありません。越えたという自信が持てなければ、似ているという指摘はされたくないかもしれませんが。

売り出す側にしても同じこと。より優れた作品を売り出すために、類似した駄作を潰したと言いきれるなら、誰が何と言おうと平然としていればいいのです。

 「『バルタザールの遍歴』絶版の理由」は“絶版が相次いでとても残念だ”という文章なのでしょうか。新潮社には佐藤亜紀という作家を育てる意思がなくなったみたいで寂しい――そういう慨歎の声があの文章だというのなら、それ自体としては分かります。しかし、そうなると今度はなぜ『日蝕』を持ち出す必要があるのか分からなくなる。

 「『バルタザールの遍歴』絶版の理由」を読んだ人たちは、異口同音に新潮社の対応はケシカランと言っています。多少異論のあるアブさんでさえ「新潮社の不誠実は許し難い」と書いていおられ(正確に言うなら、条件付きでの断定ですが)、あなたはそれらの反応を当然のことのように受け止めている。 これは、新潮社の“仕打ち”は不当だと、あなたが書いたから、それを読んだ読者がそのように受けとった――ということだと思うのですが、違っていますか?

 しかし、ちょっと考えれば分かることだけど、売れない本が絶版になるのは、確かに著者にとって残念なことではありましょうが、それ自体として「不誠実」だとか「不当」だとか言われる筋合のことではありません。

 あなたは「私は盗作とは言っていません」と書き、「『ぱくり』は文学には必要不可欠である」と書いている。平野氏の作品によって、自分の知的所有権が侵害されたという認識は、どこにも示されていないわけです。 だとしたら、いったい何を理由にして新潮社の「挙動」を咎め立てするのでしょうか。

 『日蝕』と『鏡の影』が似ているから? 読者に比較する機会を与えるために新潮社は発行を続けなければいけない――とでも言うのでしょうか。そんなアホな話は聞いたことがありません。 なぜ二つを比較する“必要”があるのでしょう? アプリオリに、そんな必要がある訳がないですね。 自分の作品を読んで欲しいという願いは分かるとしても、他人の作品と比較してくれという要求だとしたら、やはり、なぜそんなことを求めるのかと聞きたくなります。はっきり申しますが、あなたはその理由をどこにも書いてはいません。

市場の論理からすれば、「売れないから絶版にする」も「いち押しの作家を売り出すために、デビュー作によく似た作品を絶版にしておく」も、等しく正当であって、文句の付けようはありません。

ただ、道義はどうもそうは言わないようですね。「いち押しの作家を売り出すために、よく似た作品を絶版にした」はやはりまずいらしい。そして当然のことながら、やられた側は怒ります。人間は市場の論理では生きていないのでね。

さて、この怒りは正当でしょうか。それはあんたの勘違いだよ、と指摘する余地はないでしょうか。新潮社がこちらの納得のいく形で無実を証明しない――おそらくはする気もないし、そもそもできない――以上、検討すべきは絶版にしなければならないほど似ていたのか否か、次いで、似ていたとして(その程度でびくつくというのは臆病な話ですが)、遥かに優れた作品なのだから気にすることはないと言える出来だったかどうか、が問題になります。自信があるなら、別段、倉庫に六年間ほったらかしておいた在庫を裁断処分にすることもないのですから。

新潮社にはどうもその自信がなかったように、私には思えます。私が見極めてほしいと思うのは、その判断の正否です。テキストを比較することなしに、その辺を論じることはできないと思うのですが、いかがでしょう。

 
 既にご理解いただいていると思いますが、ぼくは新潮社の肩を持つつもりなど全くありません。新潮社を非難すること自体が問題であるなどとは言っていないのです。ぼくが言いたいのは、平野氏の作品に疑義がなければ、新潮社がどう動こうと「挙動不審」になりようがないということです。 つまり、肝腎なのは、あなたが『日蝕』を「盗作(あるいはぱくり)」と思ったかどうかということであって、もしそうはお考えにならないのなら、新潮社がどう動こうと何の関係もない筈です。新潮社の「挙動」を云々するあなたの言い分は、まったく奇妙というしかありません。

 『日蝕』に文句をつけるつもりがないのなら、筋の通らない言い掛りはお止めになったらいかがでしょうか。また、文句をつけたいのなら、人に言わせるのではなく、ご自分の口からはっきりそうおっしゃったらいかがでしょう。

 
肝腎なのは、<新潮社が「日蝕」と「鏡の影」を読み比べられることのないよう絶版にした>のか否かです。新潮社が気を回しすぎたという可能性だってなきにしもあらずですしね。平野氏のことは全然咎めておりません。「ぱくったのは認めるがぼくの方がいい」と言ってくれたって構わない訳です(偉いやつだと思うかもしれん)。

何故、平野氏のぱくり問題にそんなにこだわるんですか。これは謎だな。

 
>>私がウェブ上のホームページを使ったのは、この件を第三者の目を通して検討しなおしたかったからです

 あなたも笑わせてくれますね。
 何度でも申し上げますが、ご自分が「盗作」だと思っていないのなら、それで充分ではないですか。なぜ、「第三者の目」が必要になるのですか? あなた自身がまともな見解の表明を全然していないのに、他人に期待してはいけません。 自他の区別もつかないんでしょうか。「第三者の目を通して検討しなおしたかった」なんて表現は、文章を書くものとしては大いに恥じなければなりません。「第三者の判断を仰ぎたかった」「第三者にご判断いただきたかった」とでも書いてほしいですね。なぜそんな必要があるのかは、あいかわらず不明確ですけど。

 くどいようですが、「技量」のある読者をあまり期待できないので、ちょっと解説しておきましょうか。 上にぼくがお勧めしたように書き直すと、「第三者の判断」をするのは「第三者」だという当たり前のこと、それが“佐藤亜紀の判断”を代替など出来ないことが明瞭になってしまいます。ところが「第三者の目を通して検討」なんて書くと、検討する“主体”があたかも佐藤亜紀であり得るかのように見えてしまう。自己の判断を自己の責任において発表するという当然のことから逃げているのが、佐藤亜紀さんだとぼくは言いたいわけです。

ぱくったか否かは瑣末な問題です。新潮社がぱくりを指摘されるのを恐れて私の本を絶版にした可能性がどの程度あるのか、それはまるで当り前のことなのか、それともやはり道義的にはまずいのか、を聞いてみたかっただけです。何しろ私は世間に疎いもので、一般的な判断の基準がどの辺にあるのかは、そうでもしなければなかなか掴めない。

ただし、そうした基準を示されたからと言って、納得するとは限らない訳です。これが「検討し直す」の意味。「判断を仰ぐ」でも「判断いただく」でもありません。

幸い、「これが市場の論理だ、文句があるか」は、あなたを含む一部犬儒派の見解であることが判明いたしました。いやはや、これでやっと世間を信頼してやっていこうという気になりましたよ。めでたしめでたし。

>>第一は、リンクを張る際には恒久的なアドレスと、本名または恒久的なハンドルを使っていただきたい、ということです。どこの誰が何のためにリンクを張ったのかをはっきりさせるためです。匿名者の悪意によって嗾けられた、自分の発言に責任を持てない人々と議論をする気はありません。

 注文が多すぎるんです。
 議論をしたくないなら、しなければよろしいでしょう。それは、あなたの自由だ。しかし、せっかくアドバイスされながら、いつまでたっても分からないようですが、リンクを張るかどうかは、他人の自由に属することなんです。あなたには口出しする権利なんかないのですよ。 匿名というだけで否定的にくくってしまうのもいただけません。まともな議論が出来るかどうかと実名か否かは、必ずしも関係ないんですね。匿名の発言は卑怯だと思いこむのはあなたの勝手ですが、それを人に押しつけてはいけません。

あれやっちゃった後で「匿名というだけで否定的にくくってしまうのもいただけません」ってのは説得力ないなあ。自分はフリーメールのアドレスの陰に隠れてひとを気味悪がらせるようなメールを出している癖に?

このページの投稿者の大部分は幸いなことに、ちゃんと名乗ってくれています。周囲の人間に知られても恥ずかしくないという自信のある見解を投稿して下さっているわけで、だからこそ、このページもどうにかやっていける訳です。あなたはそうしたまともな人たちを、実に卑劣な手段で脅したんですよ。

そうしたいというのなら、名乗る必要はないでしょう。伏せてほしいという御要望があれば、応じております。偽名を名乗る人もいるでしょう。オフ会で集まる機会もあるようなBBSでのハンドルなら、或いはネット上で一貫して使っている名前なら、実名以上に堂々たるものだとも考えています。インターネット・カフェから投稿してきた人もおられます。こちらから返事を出して、連絡が取れるアドレスであることを確認した上で掲載させていただきました。

ただしそうした人たちは、名前を伏せなければ恥ずかしいようなことは書いていませんし、またそうした行為もしていません。自分が誰なのか隠す(偽名で一時的アドレスを使ったら、これはもう完璧ですね)必要はないわけです。公開されたアドレスを悪用するような手合に限って、匿名を好む――これは私の思い込みでしょうか。

リンク制限に関しては、一応の理由があったとは言え、申し訳なかったと思っております。近日中に、リンクの制限は外すつもりでおります。

>>また、読ん
>>で議論して下さる方にも、ジャーナリスティックな色眼鏡に左右されない、純粋に文学的な判断をお願いしたいと思います。

 いやはや、おそれいります。
 あなたは文芸評論をやっていた訳ですか? ちっとも知りませんでした。

文芸誌の書評は時々やってます。大学でも教えています。そのうち評論にも手を出すでしょう。お楽しみに。

 佐藤さんには“率先垂範”という言葉をお贈りしましょう。 人に要求する前に、まずご自分でやってご覧になったらいかがですか。 小説における「剽窃」とは、いったい何か? その定義は?

 実のところ、ぼくはかなり失望してしまったのですが、あなたのファンの方たちというのは、どうもあまり水準が高いとはいえないようですね。二作を読みもしないで新潮社はケシカランなどと書けてしまう人たち、たまに読んでいる人がいたかと思えば判断能力欠如だったりする。そんな人たちばかりです。剽窃とは何なのか、そのどこが問題なのか、まともなことが書けている文章には、ついにお目にかかれませんでした。(読者が「少数」なのは分かりましたが、おそらく『パルムの僧院』を読んだこともない「少数」なんでしょう)

 私見によれば、小説における「剽窃」とは文章またはプロットの盗用のことです。盗用が問われるのは当然「所有権」との関係においてですね。問題は知的所有権という権利の侵害であって、早い話が文学作品としての質がどうこういうのは、どうでもいいことです。(権利が侵害されたと考える主体が存在しなければ、剽窃が問題になることもないわけ。主体抜きで「文学的」に論じたいと希望する佐藤さんに対して、それは無理なんじゃないかとぼくは言いたいのですね)

 『日蝕』に関して言うなら、文章やプロットの盗用がないどころか、設定の類似すらありません。いったいどこが「似てる」んだろう? よくもまあ、言い掛りをつける気になれたものと、ぼくは呆れてしまいましたよ。こんなのを「似てる」といえるなら、どちらも男と女が登場する点が「似てる」、なんて言えちゃうことになります。『日蝕』と『鏡の影』、とてもじゃないが「剽窃」が問われるような要素はありません。

 とまあ、「剽窃」論争をやらかそうにも、あなたは「私は盗作とは言っていません」の人なので、そもそも議論自体が成立しない。そういう、まったくインチキな主張をしているのがあなたであるというのが、ぼくの意見なんです。

新潮社側が何かを恐れたとしたら、それは、佐藤亜紀が知的所有権の侵害で訴訟沙汰を起すことではありません。先行する類似品の存在によって新商品の市場価値が相対的に下落することです。私が悩んだ揚げ句、『文句』第十三回でああした文章を書いたのは、所有権の侵害を訴えるためではありません。新潮社が、一方的に信義を踏み躙ったことを公にしたかったのです。

所有権の問題を争うなら裁判所に行きます。ホームページには書きません。これは道義の問題であって、法的な問題ではありません。

それにしても無体財産法がお好きなようだけど、法の問題と道義の問題の区別もつかないずさんな頭で単位取れるの? ほんとに? 

 これまでの諸氏の発言を読んだ限りでは、「『バルタザールの遍歴』絶版の理由 」は「事実無根」の誤解を蔓延させていると言えますね。 何も知らない人があれを読んだら、問題の二作は瓜二つなのだと思ってしまうでしょう。その明々白々の相似が読書子の目にとまらないように“証拠隠滅”したのが新潮社――そんな風に思いこんでしまうに違いありません。しかし、何はともあれ、実際に二作を比較してみるならば、盗作が問題になり得るような要素は皆無であることが分かる筈です。

 だいたい、“証拠隠滅”が動機だったとしたら、『戦争の法』を絶版にしたことをどう説明するのですか? 一冊の本を闇に葬るだけでなく、その書き手である作家の存在を抹殺してしまえば、さらに完璧だとでもいうのでしょうか。そういうのを被害妄想と言います。

 結論は最初から申し上げていますね。
 新潮社の「挙動」についてどれだけ言葉を尽くそうと、『日蝕』が剽窃だと言えない限り、何の意味もありません。そして、これまであなたも含め“どこが”似ているのか、まともに指摘できた人は一人もいないのです。二作ともに錬金術や学僧が出てくるといったアホな話がせいぜいです。そんなことを言ったら、『鏡の影』と『薔薇の名前』の共通点の方がよっぽど多いのではないか。エーコ氏も、剽窃だと騒がなくてはいけないことになります。

メッテルニヒの伝記の件を忘れてもらっては困るんですがね。人によっては、あれこそ裁判所に持ち込むべき問題だと言いますから。

事実無根かどうかは、読んだ人だけが判断できる問題です。鈴木さんはちゃんと反対票に勘定しておきますから御安心下さい。もっとも、非常にネガティヴな、読まずに言ってるだけじゃないの、でなきゃそもそも小説の読み方を知らないのかも、という一票でしょうが。そう、ああいうことをやる、ちょっと壊れてるんじゃないの、な人の一票だ、ということも付け加えておく必要がありますね。それともどうせ誰だか判らないんだから何やっても平気だと思ってる人の一票、と言うべきかな。

訴訟に持ち込めるのは数ある盗用のうちのごく一部だけ、という話は『文句』第三十六回に書きました。言述レヴェルでの厳密な一致が要求されると思います。プロットではまず無理でしょう。だからと言って、プロットなら盗用してもいい、と言う人は少数派だと思いますが。

法が問題にできるのは、数ある不正の一部だけです。たとえば作者の死後五十年を過ぎた作品なら、著作権の保護外ですから、一語一句コピーしたって法的には問題にならないわけです。それが、たとえば夏目漱石だったら、テクストの文学的価値という点でも申し分ありません。が、それを新作として出版する出版社があると思いますか? 法で裁けなくても、盗みは盗みです。

文学に疎い法科のお兄さんのために、ちょっとした一般教養の復習問題を出しておきましょう。

問一 以下の諸作の言述構造・ストーリー・ファーブラ・行為項・イデオロギー構造における共通点・相違点を論じなさい。

ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』(ベルリン版)
マルグリット・ユルスナール『黒の過程』
ジョン・バンヴィル『コペルニクス博士』
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』
佐藤亜紀『鏡の影』
平野啓一郎『日蝕』

問二 ブレヒト『ガリレイの生涯』とジョン・バンヴィル『コペルニクス博士』について、後者が前者の主題をいかに変奏し、独立した作品に仕上げたかを中心に論じなさい。

問三 『鏡の影』と『日蝕』について、問二に準じる形で論じなさい

以上をきちんと論じられるなら、先行する作品に倣った作品が独立した価値を獲得するのはどの一線においてか、『日蝕』はその線をきちんと越えたのか否か、を論じることも出来るでしょう。問一をちゃんとやれば判るけど、『鏡の影』と『薔薇の名前』が似てるなんて言うようじゃまだまだ。

 さて、いきなり素っ頓狂な話を持ち出すと思われるかも知れませんが、佐藤さんの発言を読んでいて、ぼくは、テレビのニュース番組に登場する主婦たちのことを思い浮べてしまいました。食品の安全性が問題になる時など、あの人たちは例外なく同じことを口にするんですね。「子供に食べさせられない」って。 ぼくはいつも違和感を覚えてしまいます。なぜ「私はそんなものを食べたくない」と言えないんだろうと。

 要するに「権利」というものを分かっていないんですよ。 権利の主張はエゴの主張に等しいと観念していないから、いざというときに自分の権利を主張することが出来ない。それで子供をだしにするしかないんだろうと思います。佐藤さんも、自分はいいんだけど他の人の場合はそうもいかないだろうから平野君が心配だ、なんて書いていますね。なぜ、自分の権利をまっすぐに主張できないんだろう?

 実は、そういうことを少し論じてみたかったので、その故の口出しでした。 しかしながら、実際のところは「権利」どころか、単なる「被害妄想」の話だというのが真相のようで、とてもとても「権利」どころではありません。 残念ながら、今回は議論できませんでした。 機会があれば、またお話しすることにしましょう。

 それでは、また。

-------------------------------------------
鈴木康弘 <okojoko@mx1.freemail.ne.jp>


笑うしかありませんな。「インターネット上で発せられた声に対して、それを耳にしたものが、どう受けとったかを返したのだとお考え下さい」で始めたのはどこの誰でしたかね。

権利は主張してますよ。ただし、あなたには考えも及ばないやり方でね。あなたも少し慎重なやり方を覚えたら。精神科医の診断書もなしに他人を「被害妄想」呼ばわりすると、相手が私でなきゃ(私は自分でも呆れるほど寛大だからね)、法的にややこしいことになるかもよ。ちょっと知恵を付けてあげるけど、そういう時には「としか思えない」とか「のようで」とか書き加えるわけ。おわかり? 

例:ストーカーまがいに好き勝手言われたかねえよな、とか言ったりして。

さあ、この一文、相手をストーカーと言っていますか、いませんか。

兎も角、まともな人たちに迷惑をかけるのはやめて下さい。早く回答をというのなら、何故、私のところに直接催促をよこさないのですか(過去にもそういうことはありました)。アドレスを公開している投稿者に嫌がらせをすることが目的なのかもしれませんが。今度はぼかし抜きで行きます。

このサイコ者が。

反論、お待ちしております。


2000.05.29
大蟻食