No.28
Date: Fri, 22 May 1998 12:30:41 +0900
From: 大竹 正文
Subject: 意見を求む。
拝啓、大蟻食様「文句のある奴は前に出ろ」大変興味深く拝見させていただいております。
さっそく質問なのですが、大蟻食様は日本で起きている援助交際についてどの様にお考えでしょうか。
大竹 正文 大学生
*特別にどのようにも考えてはおりません。若い娘が身を飾る小間物欲しさに売春するのは昔からよくあったことです。今更みんな何に驚いているのか、その方が余程疑問ですね。
Date: Fri, 05 Jun 1998 01:08:33 +0900
From: Junko Yamagata
Subject: 個人的な疑問
はじめまして。
わたし、大蟻食さんの「自由」の捉え方など、とても自分と似ていると思います。暴力行使の自由はあるとおっしゃられている事なども含め。とても難しく長い、わたしのような国語力の低い者にはかなり負担となる議論の数々もできる限り必死で読んでみましたが、言葉の端々に感情的にひっかかる部分が多々あるとは言え、う〜んやっぱりおしゃるとおりね、という感想です。
わたしのような国語力の低い者が、この場で発言するのは場違いかしら?論の中身ではなく、わたしはその「言葉の端々に感情的にひっかかる部分」について、できるなら納得できる答が欲しいと思っています。勿論、どこまでいっても納得できないかも知れませんが、少なくとも「納得できんかった」という結論でも残ればわたしの心の平穏は得られますゆえ。
このページの15回で河村壽仁さんとおっしゃる方が、「政治思想や文学を追究することはすなわち、生活において御自身の理想のスタイルを実践することだと思いますが」という言葉を書かれた時に、大蟻食さんが、「どこをどう押せば生活において理想のスタイルを実践できるのやら皆目見当が付きかねます」と、お答えの中にお書きになったあたりから、わたしの疑問と反発は起こりました。
文脈や、それまでの大蟻食さんの文章の数々を参考にして考えれば、この「どこをどう押せば…」という文章は、河村さんの一文に対するからかいやおどけの意味が暗に(もしくははっきりと)含まれていると思うのですが、どうなのですか?
「文学など追究していない」とおっしゃいますが、河村さんがこの一文で「文学を追究」と書かれたのは、大蟻食さんが小説をお書きになっているということを河村さんが御存じで、そういうことを含め、大蟻食さんのされている行為全般のことを指しているだけなのではないでしょうか。
河村さんは「大蟻食さんが小説を書かれたり、このようなホームページを開き色々な議論を闘わせたり、たくさんの政治思想やその他の知識を得たりしていることなどは、生活において御自身の理想のスタイルを実践しようとしていることだと思いますが」と、書きたかったのではないでしょうか。
単にこの一文を読む限り、普通ならばそういう意味の文章だと、素直に了解できると思うのですが、これはわたしの国語力が拙いせいでしょうか?
わたしには、大蟻食さんの「どこをどう押せば…」という文は、単に河村さんの文の挙げ足をとっているように思われますが。
一体、この「どこをどう押せば生活において理想のスタイルを実践できるのやら皆目見当が付きかねます」という発言はどういう意味なのでしょうか?
大蟻食さんは、「自分自身、良くありたい」「もっとこれがこうならいいのに、何故こうではないのだ」「う〜んなるほど、これは尤もだ。これには賛成だ」「これはおもしろいぞ」「これは違う!」などと、思いながら日々を過ごしているのでしょう?
それは、生活において理想のスタイルを実践しようとしていることではないのですか?
第一、物事の好悪、良し悪しなどについてこれほどまでにうるさい人が、生活において理想のスタイルを実践しようとすることなどつゆにも思っていないということは無いと思いますが、大蟻食さんは例外ということですか。
勿論、「生活において理想のスタイルを実践」などという言葉は一瞬大仰しい謂いに聞こえるのかも知れません。しかしこの言葉は単に「もっとこうならいいのに、と思い、そうなることを目指すこと」また「これは違う、こうだ!、と自分や他人に向けて意志表示をする行為」のことを指しているのではないのでしょうか。
で、なければ何故こんな議論をしているのですか?単にそれが面白いからですか?
それにしたってやはり「自分の面白いと思うことをやろう」という行為であって、「生活において理想のスタイルを実践」しようとする試みの範疇に入るのではないでしょうか。
この河村さんの一文に対して、大蟻食さんは、ただyesと言えば済むことなのではないでしょうか。そんなにめくじら立てて相手を馬鹿にするべき事柄でしょうか。(わたしには、馬鹿にしていると思えたのですが)
きっと大蟻食さんは河村さんの、やや大仰な言い回しを「何を道徳家ぶって、たいそうご立派なこと、生憎あたしゃあなたのように真面目に理想やスタイルを追い求めている訳じゃ、ござんせん」というような調子で受け取られたのではないでしょうか。尤も、「そういう言葉では思わなかった」と言われては身も蓋もありません。要は、河村さんが、初めての人に対してとるべきと思われる、河村さん流の紳士的な態度もしくは礼儀を行ったことに対して、大蟻食さんは過度に反応し、その意味を曲解し、挙げ足をとったのではないのか、ということです。
それの何が悪いの?わたしの自由、とおっしゃるならそれまでです。馬鹿ね、あなたはやっぱり国語力がないわ、ということで疑問にお答えしていただけるならば聞きましょう。きっと大蟻食さんのことですから馬鹿にもわかるように御自身の国語力を駆使してわたしを納得させていただけることでしょう。
しかし、もしも河村さんのこの一文について、「そういえばそうね」と思い当たる節があるとおっしゃるのでしたら、わたしは大蟻食さんに個人的に要求したいです。
そういう、余計な部分への過剰反応はやめて下さい。見苦しい、とつい思ってしまうからです。
わたしは決して国語力はありませんし、大蟻食さんのいうところの取るに足らぬ愚民であるとは思いますが、そういうことを理由にして、真面目に大蟻食さんの言論に取り組みたいと思っている者をからかったりしてしまうと、本来なら理解できる相手も理解しなくなると思いますし、まさか、相互に理解する・しない、を全く念頭に置かずに、単に論争のための論争を行っている訳でもないでしょう。
ですが「これはわたしの「態度」であり、改める気はない」とおっしゃるならば仕方がありません。あ、そうですか、としか言いようがありません。
他、「歴史」への態度など、もう少しつっこんで訊ねてみたい事が2、3ありますが、それは今度、自分が何を言いたいかがもっとはっきり言葉にできるまで、もう少し考えます。
山縣 純子
*わかりました。真面目に答えさせていただきましょう。
「どこをどう押せば」には、もしかしてどころではなく、からかいの意味が含まれております。早い話が、嘲弄させていただきました。問題の発言はあまりにもシラカバで、一読、臍が茶を沸かしたからです。ちなみにこのシラカバとは私が最も軽蔑する文学・芸術に対する姿勢であり、
・作品を前にした時には、そこで実現されている(或いは実現されていない)形の美を愛でるだけの眼力が不足なため、ついついメッセージ(思想だの社会性だの)を探し求め、そのメッセージの軽重によって作品を評価する。
・作品を作る時には、形の美自体が唯一の内容であるようなあり方を実現する力を欠くため、これはもう確信犯的に、メッセージの乗り物であるような作品を作り、このメッセージは重要なメッセージなんだから評価されるのが当然だ、と形の不備を棚に上げて主張する。
という、広くはびこる三流の創作者・鑑賞者の姿勢のことを示します。実を言えば私、この種のシラカバを地上から根絶する一人十字軍のつもりでおりますが、旗色はあんまりかんばしくないですね。何しろ現代美術の大半はシラカバの変種ですから。ちなみに批評は、これはもう完全に、シラカバの味方であります。理論的にはシラカバ度ゼロで作られた完璧な作品はただただ美しいだけであって、評論や解説なぞとりつくしまもない、愛でるという行為以外を拒絶する存在になる筈だからです。
どんな分野にせよ、何かを作ろうと思い立つ理由は、ある形をこの世に現したいという欲望に尽きると思います。時々、創作講座などで、訴えたいメッセージがなければ書けないと教える講師がいますが、あれは完全な勘違い。芸術においては完成した時にその作品がそなえるであろう形こそメッセージなのですから、むしろ、社会にむかって訴えたいことがある奴はこの場を去れ、と言うべきです。或いは、隣のオピニオンリーダー養成講座に行け、とかね。
作品における美の追求は、当然のことながら、生活の中で追求できるようなものではありません。サド侯爵は御存じの猥本を執筆する時に獄吏を買収して付けさせたちっちゃな閂を独房の内側から掛けた、という、尤もらしい逸話がありますが、おそらく、大半の真面目な創作者は、制作に際して似たような心理的行為で生活を締め出している筈です。創作上の理想は創作においてのみ追求されるもので、生活において追求したりは、少なくとも私は、しないのです。
私の軽蔑の理由、御理解いただけたでしょうか。無論、そうした芸術至上主義あるいは象牙の塔主義は間違っていると理由を挙げて言って来られるのならまた別でして、そこには真面目な論争の余地がある訳ですが。
それはともあれ、河村氏の発言が本当にそれほど無邪気なものであるのかどうか分析してみましょう。
「政治思想や文学を追究することはすなわち、生活において御自身の理想のスタイルを実現することだと思う」と「本来大衆が期待している役割であるところの、日本や世界を眺めて問題点を指摘してこうしましょうと提起する役割から逃避されているのではありませんか」を組み合わせて読んで見て下さい。ポイントは「生活において」にあります。
作家や研究者は思想や文学の理想を追求する、というのは、まあ、いいとしましょう。では、生活において文学や政治思想の理想を追求するとは? さっきも申し上げたとおり、ごく当り前に考えた場合、寝たり起きたり食べたり飲んだりしながら、文学が実現すべき理想の形態を追求する事は不可能です。これが文学だからみんな気楽にそう考えるんだけど、彫刻かなんかだと考えてごらんなさい。高さ三メートルの大理石を家族と夕飯食いながら彫るのは絶望的に不可能ですぜ。無論、何やってても現在追求中の形の事しか考えていない、と言うことは有り得ますが、その場合、生活はどこかへ行っちゃった、と考えるべきでしょう。従って、最初の文章に対する私の答えはノーです。
ところで河村氏が「生活において理想を追求する」と書いて言いたかったのはそれほど単純なことではありません。二つ目の文章を考慮する必要があります。「本来大衆が期待している役割」を日々果たすこと、より具体的には「日本や世界を眺めて問題点を指摘してこうしましょうと提起する役割」を演じ続けることこそ、政治思想(斎藤氏の場合)や文学(大蟻食こと佐藤亜紀の場合)において理想を追求する者が日々行うべきこと――生活において行うべきことだ、何故お前らはそれをちゃんとやらん、と言う訳です。
無論、河村氏が腰を据えて、お前らの象牙の塔主義には我慢ならん(大したものではないのですが、ちょっと抽象化された議論をするとすぐにそう言う声が上がるんですな――あの近辺には他にもそういう投書がありますよ)、とでも言って下されば、こちらにも対応のしようはあった訳です。論じ甲斐のある内容ですからね。しかし代りに論ずべきだと言って持ち出されたものが、少子化だの性モラル低下だの学校教育制度行き詰まりだのではどうしようもない。わしらの仕事はワイドショーのゲスト・コメンテーターかい(でも丁寧にコメントしましたよ)。ざけんじゃねえ、と言うのが一読した時の私の感想でした。以上の結果、河村氏の文句には、一行たりともイエスと言える箇所は発見できなかった訳です。
当欄の方針として、お寄せいただいた文句には、可能な限り誠心誠意、答えさせていただいております。しかし揶揄嘲弄も言論のうちであり、また揶揄嘲弄されたいのかと思わざるをえないような言論も、確かにこの世には存在しています。いかに行儀がよくとも、七つある間違いのうち三つは堪忍してやろう、と言う訳には行きません。御不快のほどは理解させていただきましたが、当欄は、ある意味では、人を言葉で殺さなければならない日が来た時の為の予行演習である旨は御理解いただきたい。議論とは本来そういうものです。
「歴史」に関する疑問・文句、共にお待ちいたしております。
ちなみに「物事の好悪、良し悪しなどについてこれほどまでにうるさい人が、生活において理想のスタイルを実践しようとすることなどつゆにも思っていないということは無いと思いますが、大蟻食さんは例外ということですか」とのことですが、スタイルには理想もへったくれもなく、実践するもしないもありません。多少磨く事はできるかもしれませんが、獲得できるものでもありません。生活上のスタイルと文学上のスタイルとは、どちらもある人には自ずとあり、ない人には絶望的にない、と言う点を別にすれば、まるで別なものです。とあるエッセイストが、チャーチルは大酒飲みで誰の前でも平気で葉巻を吹かす嫌味な老人だったが、スタイルはあった、と書いているのを読んだことがありますが、これがスタイルの完全な模範でしょう。
以上でした。まあねえ、時々ちょっと意地悪が過ぎるんだけど、これは非道いと思ったら山縣さんのように文句をお寄せ下さい。
1998.6.5
大蟻食