2004.06.01

『雲雀』の挿画をいただいた門坂流さん、および文春の担当二人と打ち上げ。絵画教室に誘われる。義務教育時代、絵を描くたびに特殊学級送りになりかけた佐藤亜紀でも右脳を使って(と言うか、左脳を切って)やれば描ける、というメソッドである。興味津々。

2004.06.02

今月から、ジムのフィットネス・クラスを週二回にする。週二回、サンドバック叩きまくり、ミット打ちまくりである。手が痛いのでバンデージを巻いてからグローブをする。非常に具合がよろしい。

2004.06.08

ヴァイオリンの師匠のところへ行き、帰りに渋谷の葉巻カフェに寄ってボリバーのベリコソスを吸う。何だかつくづくと幸せである。 帰ると、門坂さんから『雲雀』の表紙に使わせていただいたエングレーヴィングが届いている。美しい。

こういう調子なので世をはかなむ理由は、とりあえず、ない。

2004.06.10

亭主と二人でサンチョパンサのベリコソスを吸う。甘いけど、旨い。でもちょい甘い。

2004.06.11

谷中まで、「夜想」の復刊記念イベントに行く。 あまりにも昔懐かしいアングラぶりに当てられる。 思えば遠くへ来たもんだ、とでも言うか。

それにしても「ゴス」って何かむず痒い。暗黒になればなるほど、むず痒い。 暗黒自体が今やむず痒い。

2004.06.12

雨だとばかり思っていたのでダラブッカは休みにしたのだが、何だ、晴れてるじゃないか。

2004.06.15

葉巻が切れたので五反田の某葉巻のメッカまで行く。 それはもう、噂にまさる壮麗な葉巻保管庫であった。四種八本を購入し、ついでに、ワイン冷蔵庫に入れていいものかどうかを訊く。出た後で交差点まで追い駆けてきてくれて、葉巻の箱をくれる。ワイン冷蔵庫なら箱にしまってから入れた方がいいそうだ。聞きしに勝る親切さに感激する。

昼からジム。他に誰も来なかったので個人レッスンをみっちり受ける。ミット打ち二分一分休憩をたっぷりやったが、あんまりへばらない。帰ってから亭主とラファエル・ゴンザレスのロンスデールを試す。

2004.06.20

クマネサは小豆風味である。

2004.06.22

フィットネスの後、張り替える弓と一緒に預けておいたヴァイオリンを取りに行く。いい音になってきましたね、毎日弾いてるんですか、と言われてご機嫌になる。帰りに葉巻バーでボリバルのプチコロナを吸い、ベリコーソとパンチ・パンチ・パンチを買って帰る。「強いのがお好きですか」「葉巻らしいのがいいんです」という会話の後、パルタガスのセリエD四番はいいですよ、と勧められる。

2004.06.23

昨日買ったボリバルのベリコーソを亭主と一緒に試す。ゴーサインが出たので、海外通販で一箱購入。

2004.06.24

弓を張り替えたはいいが、まともに音を出せる状態になるまで松脂を塗り込むのは結構骨だ。どうにかいい状態に持ち込んで、ヴァイオリンのレッスンに行く。ヴィヴァルディはおしまい。バッハに行く。

午後、パンチ・パンチ・パンチを試す。あまり好みではない。

2004.06.25

学生から貰った文藝専修の雑誌「蒼生」の、大塚英志インタビューを読みながら帰って来る。兎も角、無類に感じの悪いインタビューだ。笙野頼子が対談を断ったのは正解だった。笙野氏が心配していたようなしゃんしゃん対談にはならなかっただろう。勝手に不貞腐れてろくな返答もせず、ゲラは後出しで好きなように削ったり足したりし、挙句に付記として、答える値打ちのあることは一言も聞けなかった、全く対話が成立しなかったのは残念だ、と一方的な勝利宣言をしただろうと、この記事からは推測できる。実際、純文学論争に関する大塚氏の総括はそういうものではなかったか。あまりにも単純な手口すぎて笑える。おまけに、評論は公共性を背負って義務として書いているのだそうな。笑えすぎる。

ついでに。早稲田文学で大塚氏が発明していたタームは面白かったので、今後は©で使わせてもらうとしよう。これから必要とされるのは請負仕事をこなす大量のブルーカラー作家だ、と言うのである。「蒼生」のインタビューでも判る通り、何かを作ることのできる人間を忌み嫌い、できればいなくなって欲しい、いや、そもそもいないことにしてしまえという(大塚氏の説では、漫画というのは編集者が口頭で伝達したものを絵書きが描いてでき上がるもので、そうではない漫画家がいるというのはアイドル幻想なのだそうだ。「二十四年組」とやらをいないことにしたがる訳だよね)氏にとって、確かにブルーカラー作家くらい必要とされるものはないのであろう。「キャラクター小説の作り方」を読んだ時にも思ったが、虚仮脅しで人を蹴倒す(それができないと大声で怒鳴る)以外、徹底して才能を欠く人間がこういう世界で生きて行くというのは、何とも気の毒なことである。もっとも、バブル時代なら兎も角、今時他のどこかで生きて行けるとも思わないが。

2004.06.26

昨日、ダラブッカのレッスンをさぼったので、まずホッサム・ラムジーの教育CD二枚組に合わせて小一時間、叩く。それからヴァイオリンの練習をする。

2004.06.27

「これからのお話」の図書館貸出猶予の件でメールを受け取った。前にも書いた筈なので、意外である。なものでこちらの立場をひとつ明らかにしておこうと思う。

その一。
著作権なるものを、私はそんなに尊重していない。重視もしていない。
むしろ厳格すぎる保護にむかつくことの方が多い。
たとえばとっくに絶版の研究書や資料集の全ページコピーを、出版後五十年以内だからというので阻まれた時。
たとえばサウス・パークのあるエピソードがポケモンねただというので日本版 DVDには入っていないことを発見した時。
ミッキーマウスの著作権が延長に延長を重ねていると知る時。或いはディズニーのお姫さまばっかり絵本、みたいな奴を姪から見せられた時――自分のところの題材を排他的に二次利用するならもっとましなものを作るべきじゃないか。これなら他の奴らに自由に使わせた方がいいとは思わないのか。大体、「眠れる森の美女」や「ピノキオ」そのものに対する版権まで主張しているというのは本当か。 或いは、莫大な使用料を支払わなければならないので、映画に「イマジン」や「モリタート」が使えなかったと聞く時。

だから私はあの手この手で全ページコピーを取る。でなければ入手できない本も多い。
サウスパークはフランス語版DVDを手に入れて見た。
ミッキーマウスや「イマジン」に関しては、機会を逸さずそのさもしさを罵ることにしている。
amazonのセカンドハンド販売は、.com/.uk/.fr/.de/.jpの全てで、積極的に利用させていただいている――新本がない場合にはだが、「ジャンク」と見做した作家の作品は新本でもそうしている。

文化財は無数の引用から成り立っている。本は本の相互引用から生まれてくるものだ。著作権の過保護はそうした生成の過程を阻害しかねない。

その二。
千五百円の本が一回読まれれば著作権者の貯金箱にちゃりんと百五十円入るべきだ、という感覚を、私は二重に軽蔑している。ちんけだしさもしいし、商売人としたって視野が狭すぎる。作品の齎す利益というのはもっと大掴みにとらえるべきだ。十冊が只で百回読まれることによって生じるであろう将来の利益というものが、あなたたちの目には入らないのか。今ここで千冊分の印税を受け取り損ねても、一万人に読まれることで生じる無形の利益というものを考えたことはないのか。新潮社とのトラブルの時、私はそれを実感することになった。私の助けになったのは、一冊一冊が売れたという実績ではなく(売り上げは、残念ながら、私には不利な要素だった。それだけから判断されれば、ネットでも嫌というほど叩かれた通り、売れない作家を消すのはごく普通の商業的判断だったということになるだろう)、読まれることで生じた評価だった。それが書店で購入されたか図書館で借りられたかは、必ずしも重要ではない。特に絶版以後、復刊が実現するまでの間は、私の本を手に取ろうとすれば図書館か古書店を頼らざるを得なかったであろう。

もっと具体的な話をしてもいい。全国二千幾つだかの図書館のうち、それなりの数が私の新刊を三ヶ月以内に購入し、図書館や自治体の広報で知らせてくれる。大抵は一行広告だが、読者の感想入りで紙面を割いてくれるところもある。図書館ではカバーや本体をショーケースに陳列してくれるところも多い。私鉄各線の車両に吊り広告が出る訳でもなく、書店の平積みとも無縁な作家にとって、これは結構な宣伝だと思うのだが、違うだろうか。図書館納入を半年間猶予、とは、出版直後、一番動きもよく版元も注目している時期の広告手段を奪われることである。このことも前から書いているのだが、わざとかどうか、読み落としが多いので付け加えておく。

その三。
視野の狭さという点については、もう一つ、指摘しておきたい。
図書館がある本を七十冊も八十冊も入れるという事態を異常視する前に、同一の本にそれほどの読者が殺到している状況を異常視すべきではないのか。

ある本に一定以上の貸出希望者が集中した場合、副本でさばく、というのは、図書館のルーチンである。冊数でこそ異常なことになっているものの、千件の貸出希望が殺到した(瞬間最大風速で四桁、という記述をどこかで見ている)と考えれば、八十冊でも一冊に対して十人以上の待ち行列であり(時間にして二ヶ月以上、ことによると半年)、そこに絞り込んで見ればさほど異常ではない。ルーチンで処理すれば当然そういうことになるであろう。副本問題は読者行動の変化に伴う問題であり、旧来の遣り方では対処できない文脈が発生しているということを指摘してはじめて、図書館側に一考を要求することができる。

そして実のところ、こうした読者行動がまともだとは、私にはどうしても考えられないのである。いつから読書はレミングの移動になったのか。ヒット作の規模は桁違いになりながら、書籍の市場自体は縮小している。図書館を責める前に書籍の流通と消費の実態について調査する必要があるのではなかろうか。

その四。
図書館で借りる理由には、少なくとも二種類ある。
第一は、読む本の全てを購入することが不可能だからだ。書籍の極端なヘビーユーザー、および自由に書籍購入の予算を捻出することができない学生・主婦等がこの分類に該当する。学生は当然だが、特に子育て中の女性に経済的な負担なしで読書をする機会を与えることは、将来の市場拡大を考慮するなら、重要なことだ。浴びるように本を読む親の子供は浴びるように本を読むことになる。図書館で借りて読むことを盗みと決めつけかねない強硬姿勢はあまりにも視野狭窄的だ。
第二。
批評行為としての不買、は当然あり得るだろう。金を出してまで読むような本かよ、という価値判断の表明として、図書館で借りる読者は多いと思われる。読まずに腐すよりは遙かに誠実な態度だ。図書館に膨大な冊数の副本が入って腹を立てている書き手は一度、胸に手を当てて考えて見てはどうだろう。一館四桁の予約者のうち、図書館で手に取れなければ自腹を切って買う、という読者がどのくらいいるものか。図書館で読んで気に入り、後で文庫が出た時にでも買い直す、という読者が、果たしてどのくらいいるものか。自分の本は買うに値するのかどうか。正直なところ、ハリー・ポッターも含めてだが、大量の副本購入をされている作品で、敬意を払うに足るものはほとんどない。

その五。
図書館が大量の副本を購入するせいで生活が圧迫されている、と主張する著者がいることは知っている。大量の副本購入があなたの本を図書館から締め出し、結果的に生活を圧迫することになっている筈だから認めろ、という説得が行われることもある(全く実感はないが)。このまま行くと作家は食えなくなってしまう、という人さえいる。

だから?

作家は食えなくなった方がいい、というのが私の見解である。現状では、かなり食えている作家であっても、食うために乱作してようやく食っているという様子が見える。たとえば長編の連載を同時に三本抱え、その他各誌に短編を寄せ、エッセーを書き、などというやり方で、まともな作品ができ上がって来るものだろうか。ナボコフによればフローベール程度の仕事ぶりが好ましいそうだが(「年四十ページ、これこそ私の心にかなう作家」だそうだ)、そこまで行かなくとも、せめて年一冊程度に絞り込めば、ずいぶんといい仕事ができるだろう。

私は心底そう思っている。読者として愛読している書き手が露骨なやっつけ仕事をしているのを見るとひどく悲しい。同時に、さすがに最近は薄々気が付いてきたのだが、筆一本で食って行こうと思ったら――男性の場合には大卒一部上場企業の社員程度の収入を上げようと思ったら、そうやったってまだ足りないのである。

その結果、市場には金を払う値打ちがないどころか、目を通すにも値しない小説が溢れ返ることになる。本の洪水の中から読者が一冊を選ぶことはますます難しくなり、特に経験を欠いた読者にとって選択の手掛かりは知名度だけになり、知名度を上げるため、作品のフレームアップ・作家のアイドル化・出版のイベント化を含む大規模な広告攻勢が行われ、本を売るための予算は増大し、当然出版サイドからの管理は強化され(ブルーカラー作家©大塚英志の出番である)、作品は凡庸化し、退屈した読者が離れ、売り上げは低下し、書き手は乱作を余儀なくされ、更に駄作が氾濫するという拙い循環が発生してはいないか。

この悪循環から逃れる方法はひとつしかない。大量生産と大量消費の構造から降りることだ。小説では食わないことだ。書き手は、他に仕事を持って、時間を掛けて質の高い作品を仕上げることだ。そして、そういう作品を享受することのできる読者を時間を掛けて育てることだ。

もっとも、図書館運営が市場主義から離れ、舌の奢った読者を育てる機関として動いたとしたら尚更、今騒ぎ立てている作家諸氏には尚更迷惑なことになるだろうけれど。

図書館で借りて読むのは盗みだ運動の皆さんは、せめて一人でいいから、私が無条件に敬意を払えるような作家を連れて来て、そちらの立場を代弁させていただきたいものである。兎も角、現状は一部読み捨て作家が数と大声を頼みに、誠実な仕事を続けている作家の意見を圧殺して物事を推し進めようとしているようにしか見えない。

2004.06.29

葉巻用保管器具一式届く。葉巻も届く。スイスから一週間。おまけに国内価格のほぼ半額。 喜んでサンチョ・パンサのコロナを試す。亭主が帰って来たので、ボリバルのベリコソスを試す。 さすがに一日二本はきつい。

送付状況は感動的なのだが(一度箱を開けて中を確認した後、パラフィン紙の上から詰め物を入れて閉じ、ビニールで密封し、新聞紙で包んだ上から地が見えないくらいガムテープで巻き、ふかふかを入れた段ボール箱で送ってくる)、届いた時には東京の炎熱のためちょっと熱くなっていた。続けるとするなら、春と秋の気候のいい時に半年分まとめ買い、とかした方がいいかもしれない。

一週間くらいワイン冷蔵庫にぶちこみ、状態を安定させた後で再評価である。