2003.6.3

高野史緒と話をしていてふと気付く。 私はイギリス人の小庭作りとチロルの民家のベランダに一律ぶら下がっているベゴニアの鉢が死ぬほど嫌いだ。見ると叩き壊したくなる。

2003.6.12

亭主と一緒に新宿へ行って『戦場のピアニスト』と『シカゴ』を梯子。

どちらも非常にようござんした。

前者は、映像と色彩はしっかり設計されているし、第二次世界大戦中のワルシャワ史がさしたる不自然さも感じさせずに主人公の目の前を流れて行くし、なのにどこの人間にも損はさせないという点でもよくできている。つまり、同化ユダヤ人の中産階級はひたすらに可哀想だし(これが『神に選ばれし無敵の男』に出て来るようなディープなユダヤ人たちの悲劇だったら、無残な話だが、こっちの同情は少しく減じたように思う――ハシディズム大好きの私にしてからそうなのだから、他の日本人は尚更であろう)、大方のポーランド人のユダヤ人嫌いは隠蔽されてはいないが、兎も角闇雲に勇敢だし、ドイツ人は勿論ナチ豚だが、中にはいい奴もいる。

しかし私が一番感心したのは、主人公の行動が実にロジカルに単純化されていることであろう。つまり、

  1. 潜む。
  2. 食べる。
  3. 寝る。
  4. 外の様子を窺う。

である。ピアノはその後に来るのだが、そこが何よりまず生物として自然だ。見ていて気持ちいい。予告編で心配していたようなショパン垂れ流しもない。派手に鳴るのは、潜み始めてからは、鍵盤に触れずに弾くのが一回、ドイツ人に見付かって弾かされるのが一回きりだ。ただ、指(厳密にピアニスト指かと言われると多少、疑問だが、説得力はある)だけは暇になると動かしている。ほぼ動物と化していても、頭の中で音楽は流れているのだ。実際に音が響く数少ない箇所は、だからこそ、幾許かの感銘を生む。プロってこういうもんでしょ。

ちなみに、廃虚で見付けた巨大な缶詰(ピーマンの缶詰めのように見えたが)を抱えて放さないエイドリアン・ブロディは可愛い。火掻き棒で開けようとする場面は実に嬉しそうである、よいナチに見付かった時も、ぼくの缶詰、とか考えてただろ? で、逃げ損ねただろ? 受け答えも上の空だっただろ(それが幸いした面もあるが)? なもんで、現場を掴まえたよいナチは、翌日、缶切りをくれたのだ。邪魔して気の毒だったんである。勿論、一緒に貰った巨大パンとジャムの方が遥かに有難かった訳だが。

『シカゴ』は何故か女学生だらけだったが、拾い物だった。歌って踊って虚栄の罪を犯しまくり。法廷闘争は『アリー』の十倍お馬鹿。リチャード・ギア翁の汗まみれタップ攻勢には大爆笑。こんなんならパリで見とくんだったと思った。素直な観客の反応でさらに楽しめただろう。

誰かブレヒトやるのにこういう演出しないかね。『三文オペラ』とか。どうしてももっさりしがちなソングの捌き方なんかもこれでいい筈だよ(単に歌って踊るだけじゃなくて、ちゃんと客席に客がいて、感慨深げに見入っていたりするところが尚更よろしい)。もっとも、もとの舞台がブレヒト=ヴァイルを意識しているという可能性もなきにしもあらずだが。

2003.6.15

小説トリッパー掲載の某サブカル屋の連載は、私の心の慰めである。四半期に一度、確実に爆笑できる読物が家まで送り付けられて来るのは、素晴しいことではあるまいか。

今季も、また、笑った。あのさ、壊れたテロの人が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」をすり切れるまで読んでるってのはお約束だろうが。真に受けんなよ、そんなもん(村上春樹はもちろん知ってる)。人間を壊す文学は許せないとか言った瞬間に、物書きはプロもアマも馬鹿笑いしてるぞ。それがまして奴じゃねえ。御存命中の人間トルソだの、脳味噌からチューリップ生えた人だの書いて、なお読者を壊せないってのは、自慢できることじゃなかろうが。本人だって心の底じゃ少しは、「サイコ」読んで発奮して隣の家の子供を包丁で切り刻んだ馬鹿、みたいなのが発生してくれるのを心待ちにしてるに違いない――発生する訳がないと自覚しているあたりが気の毒なところであり、惨めな自覚を隠す為に、文学は人を壊しちゃなんねえ、みたいなことを言い始める。

巻頭じゃ高橋源一郎と組んで宮崎駿の悪口言いまくりだが、何一つ作り出すことのできなかった(多分ますますできなくなるので、評論に逃げ込んだのであろう)才能なしが、あの宮崎にけちをつけるのは失笑ものだ。やりたい放題やって、何故か不良債権化もせずヒットを飛ばして、しかも作品の質は呆然とするほど高い、などというお方は、哀れな「体操」に縋らずしては一編の作品さえ作り出せない(縋ってなお大半が結末さえ付いていないらしい)企画屋には我慢のならない存在だろう。脚本が駄目だ――ってねえ、宮崎アニメの神髄はものの動きにこそあって(そんなのはフェティシズムだって?――フェティシズム抜きで映像を論じようってのは無理な話。いや、映像だけじゃなくて、文学も、マンガも)、その動きを出すために、宮崎は現場で手を入れるんである。使われてる連中にはこの世の地獄だろうが、台本通り起せばおしまい、みたいなぬるい仕事はしてないのだ。

企画屋は天才には勝てない。故に一生懸命勉強して、学付けて、思想的にまずい、とか言い始める。で、こういう口だけ達者な才能なしが山ほどいて、やっかみを平和主義だの戦後民主主義だので包んでぎゃあぎゃあ言うから、宮崎駿は「悪役一号」を映像として動かすことを断念しちゃうんだよな(『泥だらけの虎』のインタヴュー読んだ方、一緒に泣いてください)。今でも五億で十分のフィルム、作ってくれるのかな。あれが動くって言ったら、五億くらいの金はすぐ集まると思うんだけど。それとも『ハウル』って、ポスター見る限りじゃかなりすごいけど、佐藤亜紀が客席で悶絶して(そういう時は大抵、「わはははは、人がゴミのようだ」とか言ってます――宮崎先生、ごめん)、平和教育が十年どころか半世紀後退するような、久々の大傑作かな。

ところで、サブカル氏の次号掲載分についちゃ是非期待したいものがある。焚書リスト。人を壊す可能性のある危険な書物、青少年を堕落させる作品、つまりは退廃芸術の。事前に予告しておいたら、みんな、怖いもの見たさで飛び付くと思うな。特に物書きは。賭けてもいいが、誰だって、そのリストには載りたがる。

2003.6.27

太田某の間抜けな発言に朝から大爆笑。

あのね、優秀なオスは「トーストの匂ひ、はいっていいですか?」って言うだけで、「どうぞ、食べてあげる」って答えて貰える訳。って言うか、そういうオスの子孫しか、人類的にはいらないよね。男の身でありながら、マチスモよりかわいこぶりっこの方が繁殖戦略としては有利と見極めた丸谷翁って偉い。

だから男どもに嫌われるんだろうけど。

2003.6.30

同じ会で森も馬鹿抜かしてたことが判明。 餓鬼なし女は年金貰うなだと。一銭も貰えないことが判り切ってる代物を振り回して、随分でかい顔してくれるね。いや、事実でかいけど。

こっちだってさ、月々の年金料はよそに積み立てた方がよほど有益だと思う訳よ。あんなもん存続するとも信じてないし、存続して欲しくもない。大体、子供だの孫だのにたかって老後をやり過ごそうと言う発想(何が世代間の助け合い、だ)は自尊心を欠いている。不健康だ。どうしてもというなら直接せびればよろしい。何も寄生虫役人が口を開けて待っているお役所にいっぺん収めて、搾取を経た後に受け取る必要はない。連中は、年収の五割程度までなら絞りに絞っても文句は出ないと踏んでいるのだ(彼らはこれを「勤労意欲を損なわない」と称している)。もっともらしい顔してそれを新聞でのたまう奴までいる。図々しいにも程がある。

こんな国でこの税率! お粗末極まりない公共サービスと教育に馬鹿金払うのにはいい加減うんざり。おまけに政治家はこのざま(強姦万歳男と、何が起ろうとゴルフは続ける男)だからね。現状の国家に見合うのは、年金税金保険全部ひっくるめて、精々年収の一割ってところかね。

それにしても凄い会だったのな。ああいう会に関る幼稚園って、ほんとに子供やって大丈夫なのかね。

付記:
 私の国家に対する感覚は、実は中学生の頃、『風と共に去りぬ』を読んで培われたものである。凄いディテールを下手糞に纏めてメロドラマのオブラートを掛けた女子供向け小説だが、その凄いディテールのひとつに、こういうのがあった。スカーレット・オハラの親父は、阿呆なことに国債を山ほど買っていたのだ。証書はトランクに入れて屋根裏部屋にあった。
 娘たちの一人が曰く。屋根の穴を塞ぐ役にも立ちゃしない。  子供心に、これはショッキングでした。そっかあ、国が無くなると国債は紙切れ以下になっちゃうんだ。
 故に、どんなに勧められようと、国債を買う気にはならない。一切の契約関係が存在しない年金などという制度はなおさら、信じる気になれない。それを言うなら、日本などと言う国家が(ちなみに制度抜きの「国」などというものがあることを、私は信じない)私が七十になるまで存在し続けるとも思わない。とっくになくなっているか、馬鹿な突撃隊に撲殺されるのがいやなら捨てて亡命する他ない状態になっているだろう――ということは、存在しないも同然である。年金? 笑わせてくれるね。今は余裕があるから払ってやっちゃいるけどさ、ドブに捨ててることは百も承知だよ。