2003.5.2

御歳八十余歳になる新保守主義の家元は何とトロツキスト上がりですと。なるほどなあ。つまりこれは世界革命か。不愉快な訳だ。

一遍アカだったやつは死ぬまでアカ、という私の偏見はやっぱり正しかった。アカを嗅ぎ当てて毛嫌いする検閲官的嗅覚の卓越に自信を持とうっと。ちなみに日本の自称保守は、ほぼ全て、アカだ。保守主義者、などという笑止千万な肩書きを名乗って恥じない輩もいるが、どんな主義を掲げようと主義者は必ずアカだ。

2003.5.3

学校で愛国心を叩き込もうというアカい発想。

正しい保守の人なら当然、こう考える筈である。

国家を巡る様々な問題の詳細を理解させることは難しい。そこから結論を導き出す方法論を叩き込むことも非常に難しい。ということは、その点をクリアできない国民一般は確率論的にしか妥当な結論に到達できないということだ。彼らには国家からなるべく遠ざかっていて貰おう。国家が自分たちのものであるとか、自分たちで動かせるものであるとか、自分たちを必要としているなどとはなるべく考えずにいて貰おう。愛国心教育? 君らは国を滅ぼすつもりかね。

全ての愛国心はジャコバン的である。到底、保守の人の受け入れられるものではない。

2003.5.27

締切終った、発表会終った、なもんで映画週間に突入である。一日に最低一本、可能 なら二本三本と見ようと言う一大企画である。

まずヘルツォークの『神に選ばれし無敵の男』を見に行く。

ティム・ロスをはじめてみたのは『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』であったりする。タイトルロールをやるのがゲイリー・オールドマンとティム・ロス、という、今じゃ結構嬉しいキャスティングなのだが、何かこの二人好ましいな、でその時は終っているのであった。見応えあります。小汚いオールドマン/ロス組に対して、オリヴィエ的にぺかっとしたハムレットが笑えます。

で、久々のヘルツォークだが――ティム・ロスのハヌッセンは猛烈によろしい。拾いもんである。目付きに関しちゃ皆様ご想像の通り。更に、催眠術的な声、というとつい、マックス・フォン・シドー的に立派な声を想像してしまうのだが、ロスのざらついた声とも悪くない。ロス的貧相体形には三十年代の背広が良く似合う。格好良すぎだ。ロスだけで千八百円二時間の値打ちはある。ウド・キアの退廃伯爵もよろしい。

ただし映画として言うとねえ――何か生気が無いねえ、と思ってつくづく思い出してみたが、『フィッツカラルド』に生気があったこと自体、何かの間違いだったのかも知れない。すげえ話なんだけど台本だめだよな、画面死んでるよな、は『アギーレ』に近いかもしれない。で、ついでに言うと、ロス最高、なのは台本が駄目で画面が死んでるからかもしれないのである。

その後あちこちうろついてひとしきり煩悩と闘ってから(服屋に煩悩との戦いを求めて出向くのは私の最大の娯楽のひとつだ。今日は勝ったぞ。何も買わなかった)、亭主と落ち合って『X-MEN 2』を見る。

うーん、何と言うか、あたし文化人としちゃ失格だよね。ショーン・コネリー主演の、超馬鹿な連中がやってる(プレイヤーキャラクターの支離滅裂さにマスターが思わず頭を抱える)RPGのリプレイみたいな『ザ・リーグ』の予告編見て、おおう、とか言って喜んでるのはさ。でもって本編見てさ、その視覚的盛り沢山ぶりに大喜びしてるってのはさ。マグニートの脱獄の場面は、ほんと、格好よかったよ。

2003.5.28

ゲラしてたんで結局映画行ってません。午後はファイティングエクササイズに行ってました。

ところで、原稿で一番忙しい最中に、私は例のヴィトゲンシュタイン/ポパー本(正式なタイトルは『ポパーとヴィトゲンシュタインとの間で交された世上名高い十分間の大激論の謎』)なぞちゃんと読了しておった訳です。読む暇がないという皆様に一言で要約。ヴィトゲンシュタンはすぐものを振り回す男であって、この日もそうであった、ドアをばたんと締めて荒々しく歩み去るのもいつものことであった、別に悪気はない。

何せアスペルガーだからな。ポパー可哀想。

もっとも読みどころの数々は、ヴィトゲンシュタインの怪人ぶり(と言おうか、超カリスマぶり)でございましょう。いやあ、おっそろしい奴っているのね。何をやらかそうと、あれじゃ誰も文句が言えない。もっともあのカリスマと財産がなければ、悲惨な末路を辿って、今日我々は誰も彼のことを知らなかったであろう。世の中はよくできている。

ところで、ついでに告白してしまうが、わたしが漠然と予感している末路というのは、突撃隊の馬鹿どもに撲殺される、なのであった。より正確に言うなら、またしても突撃隊の馬鹿どもに撲殺される、なのであった。そしてそれは限りなく不愉快なのである。撲殺されることよりも、突撃隊の馬鹿どもに、が余計に。これは所謂前世の記憶というやつであろうか。

私はベルリンに行ったことがない。行きたくないし、行こうとすると必ず何か起って行けなくなる。昨日の映画にベルリンの街角のニュースフィルムが使われていたが、見るだけで何故か身震いしちゃうのである。そもそもドイツに足を踏み入れたくない。不愉快を克服してバーデンバーデンに泊ったら途端に胃カタルを起してひっくり返った。ミュンヘンにも行ったことがあるが、街も人間も何となく厭だと思っていたら、やっぱり厭な出来事が続出するのであった。ドイツ人全般との相性の悪さはご存知の方もいるだろう。接触すると必ずトラブルが起る。

やっぱ突撃隊の馬鹿どもに撲殺されたかな。

2003.5.29

さー映画だ。二本立てだ。

なもんで芸術映画はちっとも見ない訳だが、『8mile』と『サラマンダー』の梯子である。

『8mile』は文明崩壊後のデトロイトの話だ。人々は赤貧の底にあえいでおり、プレス工場で日々働いてもろくに食えず、故に誰も働かず、食い物は全てジャンクフード、女はお袋もふくめてみんなズベ公(種の保存のためであろう)、白人はマイノリティで迫害されている。共同体はとっくに崩壊した状態で何世代もたっているらしく、平均寿命も短いようで老人はひとりもいない。若者たちの娯楽はと言えば、ターンテーブルに乗せたLPをきゅこきゅこ言わせるのに合わせてお互いを歯切れよく罵倒することであった。

って話を、何かNHKスペシャル張りに撮った映画。ストーリーはと言えば、十日ばかり前にNHKでやってたアメリカのイラク人コミュニティの話における、戦争賛成兄対反対弟、バグダットにいる兄の息子は爆撃こそ生き残ったものの略奪者に虐殺される、という取って付けたような、さもしい、ディレクターの舌舐りが聞えそうな「ドラマ」(あれには虫酸が走った)程度しかない。おそらく監督の根本的な関心も、貧困のエキゾチシズムに尽きるに違いない。こっちもそう思って見た。それはもう仰天ものの貧困なのだ。言ったら『土曜の夜と日曜の朝』なのだが、シリトーの労働者諸君ははるかに健康的で文明的な生活を享受している。こっちの貧民諸氏には、土曜の晩に着込むべき絹のシャツも出張るべきパブもない。ヤンキーの皆さんは高校を卒業したら足を洗うこともできようが、この世界では足を洗っても行く場所はない。資本主義なぞ見たこともないので(アディダスもナイキも出てこない。そもそも消費文化がなく、故に商店さえない)闘おうとさえ思い付かない。こんな極北の貧困を、それなりに興味深く見せてくれたのが監督の腕と言うものであろう。

ちなみに一言お断りしておくなら、エンドタイトルに掛かっていた曲は大層よろしいと思う。声の使い方に感心する。なるほど、これがエミネムね。すんません、疎くて。

『サラマンダー』は文明崩壊後のイギリスのど田舎の話である。生き残ったイギリス人は中世の城に立て篭もって、ドラゴンが爆撃に来たり機銃掃射を掛けたりするのに戦々恐々としている。つまり相変わらずバトル・オヴ・ブリテンで、そこが、さすがイギリス=アイルランド合作映画なのである。戦災孤児は拾うし、防空壕じゃ逃げ込んだ子供たちが泣き叫んでるしね。そこに何故かはるばるアメリカから、ケンタッキーのドラゴン狩り義勇軍の皆さんがやって来て、壮丁を強制徴募したりする。もちろん全滅するけど。  ほとんど暗黒な中世しているところに戦車やヘリがぞろぞろやって来る場面は実にピクチュアレスクで買える。ドラゴン狩りの場面は、システムの描き方(ミリタリーの命はシステムである。そこんとこ念頭に置いて『千と千尋』は見直してほしいもんだ。もっとも私としては、宮崎駿には十分でいいから、悪役一号を画面で動かしてほしいんだが)が嬉しい。ところで全体はと言うと――苦しいね。時間が足りないのか。たぶん。六時間あったら、たっぷりモチーフを展開することもできたと思うんだが。

2003.5.31

アルトマンの『ゴスフォード・パーク』を見る。 俳優は揃えてるし一生懸命お勉強したことは判るが、ちんけと言う他ない。