No.25
原作殺し

何やら私がソダーバークの「ソラリス」をそれなりに評価したことがえらく評判が悪いようなので(亭主も含め)、ここで私の、原作と映画の関係に対する認識を表明しておく。

原作と映画はまるで無関係である。原作を蹂躙して成立する傑作もあり得るし、原作に飽くなく忠実で糞という映画は幾らでもある。どうしようもない原作の素晴らしい映画化もよくある話で、これまた一種の蹂躙だが、だから駄目、ということはない(ボンダルチュクの「戦争と平和」はその一例である。百年経ったらあんな原作は誰も読まないだろうが、映画の方は相変わらず、一部愛好家には宝物である筈だ)。ただし、映画と原作の間には、偶々両方を知っている人間だけに生じる、微妙な微妙な関り合いがある。あまりにも見事な原作を蹂躙するなら、よほどの映画を作る必要があるのは確かだ。

ソダーバーグは辛うじてその線をクリアしていた。もっとも、一言お断りしておくなら、私はレムの「ソラリス」には大して感心しなかったし(いやあれってそんな崇めるほどの傑作だったかね――私はむしろそのことに驚いている)、その意味ではボンダルチュクの「戦争と平和」と一緒だと言ったっていいのだ。実のところ、私の評価は、トルストイの夜郎自大な原作(ナショナリズム最優先の史実改変もひどいものだが、豚野郎的マチスモに満ちたエレナの扱いなんか、小説としてあまりに粗野で呆然としないか)をどうにか見られる代物に纏めて批評まで加えた(結末なんかトルストイに喧嘩売ってるようなもんだ)「戦争と平和」よりだいぶ低い。ただし、ソダーバーグは腐ってもソダーバーグであり、彼自身の平常点をクリアさえすれば(ま、ぎりぎりというところか)、映画としての評価は必然的に高くなるのだ。話の内実を綺麗に刳り貫いて(結末でハッピーエンドしている男女は、冒頭の不幸な男とその死んだ妻では全然ない)、にもかかわらずハッピーエンドの体裁さえ整えてやればハッピーエンド(ご丁寧にハリウッド式のハッピーエンドだと宣うた方々さえいるのだが、しかしハリウッド式のハッピーエンドというのは、いつの、どの映画のことかね――フランク・キャプラあたりのことを言っているのだとしたら、その映画的鈍さには感心しなければなるまい)と思い込む観客の単純さを摘出してみせた批評性は大変なものだと言わなければなるまい。ソダーバークがここまで、単細胞な観客(その最たるものは「ハリウッド式ハッピーエンド」を得々と論う輩だろう)に対する悪意に満ちていたことはなかった。

私も多少は見習う必要があるだろう。それこそ「ハリウッド式」な観客の馬鹿さ加減については、ソダーバークもかなり頭に来てるんだと思うよ。

ところで、原作と映画の関係は、それだけで十分論じるに足る問題を孕んでいる。つまりは原作殺しの問題である。

結論だけ言ってしまえば簡単なのだ。原作と映画は何の関係もない。ところで両方を鑑賞した人間にとって、事はそれほど単純ではない。私自身も、例えば「バリー・リンドン」だの「アイズ・ワイド・シャット」だのに関して、キューブリックファンからすれば相当に理不尽ないちゃもんの付け方をしているだけに(別に改めるつもりはない)、どうしたってもう一言、付け加える必要はある。

大原則はこうだ――よい映画を作るためには、原作は殺されなければならない。原作に引きずられた映画ほどどうしようもないものはない。どうしようもない原作に引きずられたどうしようもない映画ともなれば、もはや救いはない。

例に挙げられるべき映画は幾らでもある。最近の例で言うなら「ロード・オヴ・ザ・リング」だ。

ごく正直に告白しておくなら、私は「指輪物語」自体に我慢がならない人間である。実のところ、おぞましくてどうしても読み通すことができずにおり(「旅の仲間」の途中で嫌になる)、最後まで読めば違う筈だという意見に対しては、どのみち読めっこないから一言もない訳だが、それにしても、たとえば旧ユーゴスラヴィアの解体に伴う惨状を目にした後でなお、異種族が雑じり合うことなく棲み分けて純血を保っているなどという話をどうして平然と読めるのか、私には理解できない。現実の世界においては必ず、市民権の剥奪、強制移住、民族浄化と収容所とガス室を伴わざるを得ない状況を(人類は相違を相違として尊重できるほど成熟していない。できると思うのは幻想であり、必ず悲劇的な結果を招く)小綺麗に白く塗って仕上げた代物を、どうやって平然と読むことができるのか。

すこぶるアングロサクソン的な無邪気さだ。この無邪気さが、クロアチアの独立に始まる旧ユーゴのなし崩しの解体を、民族の解放として喜んで、何の手も打たないままに混乱を招いた政治的無邪気さに通じていることは言うまでもない。ジャン=マリー・ルペンなら、或いはハイダーなら、この種の無邪気さを大いに喜ぶだろう。極右は必ず、移民を排斥するつもりはないと主張する。ただ、異種族として棲み分け、最小限の交流をもつだけにしたいだけだ、と。

どれほど救いがたい原作を映画化しても、それこそナチ時代のプロパガンダ小説を映画化しても、映画はまるで別様であり得る。ただし、「ロード・オヴ・ザ・リング」はまるでそうではなかった。批評精神の欠落した、原作の挿絵のような映画化なのだ。批評精神の有無はこの際、政治的無神経と同様に、措くことにしよう(どちらも誰にでもあるものではないし、誰にでも判るものではましてない)、問題なのは、ライヴによる挿絵のごとき映画化、という点だ。

一体全体、そんなものを何故わざわざ映画として撮らなければならないのか。

一昔以上前、文芸作品の映画化は、原作を読む代用として大いに推奨されていた。原作を読む時間も能力もないなら映画を見なさい、と言う訳だ。ジェラール・フィリップがその短かすぎたキャリアの一部を無駄使いした、映画としては愚にも付かない文芸作品(「赤と黒」とか「パルムの僧院」とかね)や「風と共に去りぬ」(時々テレビでやってる完全版を御覧いただきたい――全エピソードの愚直な映像化がいかに味気ないものか)、例の「戦争と平和」さえ本来はそういうものだった(微妙に違っちゃったのがボンダルチュクの偉いところだ)。今時、こんな無邪気なことを言うのは、無邪気の権化たる田舎の親にさえ滅多にいない。小説の小説たる部分が映画化不可能であるように(今一つ判っていない方のために一言――どれほど忠実な映画化だろうと、見たって読んだことには全然ならない)、映画の映画たる部分は、小説から逐一起こしたって出ては来ない。

「ロード・オヴ・ザ・リング」はあり得る筈のない映画だった。一本目を我慢したから(正直言って最初の、指輪分配の話だけで反吐が出そうになったけど、その後もほんと、原作投げた時そのまんまに鳥肌立つくらい嫌だったけど、一生懸命坐って見てました)、二本目も義務鑑賞だと思っていたのだが、飯田橋の地下鉄の駅に這ってあったポスターを見て諦めた。白い魔法使いが髪も髭も衣も飽くまで白く、振りかざしている杖まで白い、あのポスターを見た瞬間、頭の中をある語が過ったからだ。すなわち

スターリン様式。

もちろん一本目からすでに異常だったのだ。一体全体、どうすれば映画があそこまで原作に、一切の解釈や創意なしに張り付くことができるのか。何かよほどの理由があると考えなければ説明は付かない。映像作家の本能さえ圧殺する原作の呪縛。おそらくは原作を読解する段階から、批評と解釈は完全に欠落していたに違いない。読み手としてのそこまでの自己否定(不信の停止とは読み手の自発的な機能停止である)があり得るというのも不気味な話だが、それが、他ならぬ今現在、あの原作に捧げられているのは立派な精神の病である。それを喜んでいる観客については言うまでもない。一体全体彼らは、映画館の闇に集って、何を見なかったことしようと努めているのか。両大戦を経験した筈のイギリス人が目を瞑って書いた無邪気すぎるおとぎ話を、ニュージーランドの監督がアメリカ映画として自国ロケで撮り、それを日本人が行列を作って見ている。少々おぞましすぎる光景だ。

ともあれ。「ロード・オヴ・ザ・リング」は例外中の例外であって(その分、文化現象としてもっと検討されるべき映画だったとは思うが、どの批評家も、あの原作と映画に対しては異常に警戒心が薄い)、普通、映画化の場合には、原作に対する批評的な視線が存在するものだ。或いはその批評的な視線においてのみ、原作との対話が成立するのだ、とも言える。よき映画化は見事な原作殺しをやってのける、とは、つまりそういう意味だ。

私がキューブリックの原作付きを買わない理由はもっぱらそこにある。無論、姿勢とか何とか以前にひとつ問題があって、キューブリックは異様に原作に対する鼻が利くのだ。つまり、最良のテクストばかり原作として引いて来る。ところでそのテクストに何か興味があるかというと――どうもシチュエーション以外には何も興味がないらしい。

ところで。例えば「ロリータ」からハンバート・ハンバートのあの屈折した語りのポリフォニーを取り除いたらどうなるか。何も残らない。「バリー・リンドン」から、<信頼できない話者>の徹底を取り除いたらどうなるか。何も残らない(或いはライアン・オニールの間抜け面だけが残る)。シュニッツラーの「夢小説」から、薄皮一枚の文明で覆われたえげつない性と暴力を取り除いたら何が残るか。何も残らない。つまり、キューブリックの原作付き(バージェスものを除く)映画を特徴付けているのは、殺しさえしない原作との没交渉である。

それはそれでいいのだ、本来的には。原作がサッカレーのあれだと思わなければ「バリー・リンドン」は綺麗な環境映画だし、ニコル・キッドマンの見事な尻を映像に残しただけでも、「アイズ・ワイド・シャット」は価値がある。「ロリータ」は誰が撮っても不満だろう。いずれの場合も、原作に対する思い入れが災いしているに過ぎない。

尤も、芸術家として評価に値するのはどっちか、と言えば、サッカレーでありナボコフでありシュニッツラーであるのは確かである。いや、シュニッツラーに負けちゃうってのはほんとは情けないことなんだけどさ、でもキューブリックって、トマ・クチュールとかブーグローみたいな、要するにポンピエの画家に一番近いんで仕方ないよね。壁紙にはいい、邪魔にはならない、みたいな。

ところで以下数行は余談として書かせてもらうが、「アイズ・ワイド・シャット」の原作との没交渉ぶりはひどいもんである。ほんとに読んだのか、と言いたくなるくらいだ。読んでない方のために簡単に説明しておくなら、相思相愛のつもりの女房に(夏の夜、彼女の窓の下に行って求婚した、というのが、亭主のこの上なくロマンチックな思い出である)、実はあの時うんと言ったのは、リビドーが高まってむらむらしていたからで(シュニッツラーには、やれるなら誰とでも状態になっている乙女が始終登場して、時としてはいきなり公衆の面前で服脱いで素っ裸になっちゃったりする。フロイトとの相似を指摘される所以だが、むしろ私としては、当時の最もありふれた猥談的状況を想定したい)、だから相手は誰でも良かったのだ、と告白されて自棄を起こした男が、家を飛び出してうろうろしているうちに、タイツフェチの宮様のやってる乱交パーティに紛れ込んで恐ろしい目に遭う、という話である。で翌朝になって、あれだけ色んな女に遭遇して、宮様のパーティじゃ怪しい女に命まで救ってもらったのに誰ともしてなかった、と思い至った男は、ご丁寧に女どもを順繰りに訪ねて歩くが、やっぱり誰ともできず、売春婦は梅毒で病院送りになってるし怪しい女に到っちゃほんとに死んでるんで、びびって女房のところに逃げ帰ってくる。ところで、しつこいようだけど、ほんとに読んだのか、と私は改めて聞きたいのだ。読んだならなんで映画化しようと思うんだ? 現代のニューヨークに持ってったらまるで意味のない話だし(しかもセット)、セックスとヴァイオレンスは、始終やりたがりはするけど、結局かまととで終わるんだから。

それでも良かったんである。映画の出来さえよければ。しかしねえ。「アイズ・ワイド・シャット」程度じゃやっぱ堪忍はしてやれないよね。

でさて、話はぐるっと回ってソダーバークの「ソラリス」に戻る。原作との没交渉ぶりがキューブリック以上であることは認めよう。何しろ意図的に利用して捨てている。ただしそれが致命的だというのは、それこそ不信を停止した「指輪物語」信者じみてないか。といおうか、レムの「ソラリス」を引き合いに出してソダーバークを批判する人々を満足させるためには、「ロード・オヴ・ザ・リング」じみた、硬直した原作万歳映画を作るしかないのではないか。

多くの人は、「アイズ・ワイド・シャット」がシュニッツラーの原作をまるで生かしていないから駄作だ、とは言わないだろう。ちなみに私は、ぼちぼち程度の映画に過ぎない上に、原作とのかまとと的没交渉ぶりは凄い、あんなうらぶれたえげつない話、そもそも理解できなかったんだろうな、と言うだけである。小綺麗な映画ではあるんだけど、あのヘルムート・ニュートンばりのかまとと乱交パーティは失笑ものだよね。

一方「ソラリス」に関して言うなら、これまた原作とは没交渉の映画で、何の対話も成り立っていない。ただし、それを補って余りあるだけの芸はあった。それが例の中抜きであり、利用されて捨てられたレムの原作は確かに可哀想だけど、映画の実現したものとは何の関係もないのである。

文句を言うなら、これは理不尽なんだけど、と断ってから言うように。そんなのは屁理屈だっ、ぼくはレムの「ソラリス」を愛してるんだっ、ソダーバークなんか絶対に許さないぞっ――ならば、申し分なく正しい物言いだと言えるだろう。


2003.8.23
大蟻食