No.24
あまりにもいい加減でだらしなく出鱈目な

 一昨年の九月十一日に、ニューヨークの国際貿易センタービルに旅客機が突込むのを、私はほぼリアルタイムで見ていた。たまたま帰省中で、親がテレビのニュース番組を付けていたのである。
 女性キャスターが、ジャンボジェット機がビルに衝突したらしい、詳細は後で、と言ったのが第一報だった。馬鹿らしさに笑うしかなかった。普通、大型旅客機は大都市の上を飛ばない。ところで、CMが終ってすぐに映ったのは、片側の棟の途中の階が燃えている情景だった。それから、もう一棟にまた突込んだと言うコメントが入り(私はまたもくすくす笑った――それってあんまり馬鹿っぽすぎないか)、幾らもしないうちに、無傷のビルをかすめようとした飛行機が急旋回して激突する様を見ることになった。
 あの光景を、ハリウッド製お馬鹿丸出し特撮映画みたいだった、という人の判断能力を、私は信用しない。映画を意識的に見たことのある人なら、ああいう光景にはまずお目に掛からないことは判るだろう。あまりにもいい加減なショットとあまりにもだらしない編集。画面の質感は紛れもないテレビ中継のそれであって、フィルムに捉えられ映写されたものとは違う。第一、双子ビルの両方に一機づつ突っ込むなどというアイデアは、出鱈目の度が過ぎて、プロデューサーに一蹴されるのがおちだ。
 さよう、あれはあまりにもいい加減でだらしなく、出鱈目な光景だった。
 それから崩壊が来た。目の前の画面の中で、一方のビルが避雷針をまっすぐに立てたまま、埃と飛散する紙片の中に沈み込んで行く。もう一棟も見えないようだ、という報告が続く。既に辺りを覆い尽くした灰に紛れて、映らないだけなのか消えたのかはすぐには判らない。
 そこではじめて痛みを感じた。熱い薬缶に危うく触れかけた時に感じるような、存在しないのに心臓にまで走る痛みだった。ただしその痛みは、おそらくはビルの中にいたであろう人々や、倒壊に巻込まれたであろう人々に対する共感の痛みではなかった。
 正直なところ、これを告白するには些かの勇気を必要とする――私は株の暴落を予感したのである。ウォール街で株式が大暴落し、ロンドンや東京まで波及する。画面を見ながら、無言でパニックに陥った。1987年に、夕刊の株式市況欄が真黒になるのを見た時よりもはるかに強烈な、肉体的な恐怖がそこにはあった。
 全く情けない。おそろしく低俗だ。しかしそこにはどうにも否定しがたい事実がある。どうやら私の血管を流れているのは全部が全部血ではなく、何割かは確実に、金だという事実だ。それも触れれば手が切れるような新札の束ではなく、刻々と変って行くデジタル表示された数字の金、株式取引所の電光掲示板に示されるような、空虚で掴み所がないが何故か確かに存在している金、相対的にしか把握できないのに――と言おうか、だからこそ、全ての場所を繋いでどこにでも流れて行き、故に、当然のことながら、私の血管をも流れる金だ。世界の、全てとは言わないまでも相当数の人間が、言わばこの見えない金によって養われ、生かされている。私が目の前に見たのは、その、どこまでも広がる身体ならざる身体が傷付けられるところだったのである。

 あれが実際にウサマ・ビン・ラディンの手下による犯行だったのかどうかは知らない。アメリカの対外政策は、テロがあろうとなかろうと、それ以降今日に至るのとほぼ同じであっただろう。国家理性による功利的計算を正義で隠蔽してごり押しする性急さと強引さは、そんな政策に一票たりとも投じた覚えのない非アメリカ人には不愉快でしかないのだが(功利的計算のみなら――そうね、一票は入れるかも)、残念ながら世界は彼らのものだ。飢えるか、爆撃されるか、追随して甘い汁を吸うかの選択しか、我らが政府にはない。ひねくれたアプローチで最大限の利益を確保すべく努めているとしても、結局、先進諸国はこぞって、日本と同様の選択をしているのだ。だからこそ、私にはひとつだけ、残念で仕方がないことがある。
 アメリカ人たちは何故、GAPとスターバックスのある生活を守れ、我々に共通する腑抜けてチープな贅沢暮しを守れ、お前の血管の中を流れる金を循環させている資本主義を守れ、と言ってくれないのか。テロとの戦いなぞお笑い草だ。彼らがやっているのは、GAPもスターバックスも知らず、それどころか知らないことに居直ろうとする人々(イスラム原理主義とは、つまり、そういうものだ)から、我々の文明を――シーズンごとに、悪魔の狡知を誇るカラー展開に誑かされてGAPのストレッチTシャツを三枚組で買い、合せてワークパンツも三枚買い、だらしない朝にはそれらを適当に組み合せて出て、スタバでカプチーノのトールサイズ(エクストラショット入り)とスコーンで朝飯を済ませる文明を守ることだ。つまりは貧民どもから、我々の物要りな(何、ご覧の通りささやかなものだが)幸福を守ることだ。反戦平和の人々にしたって大差はない。爆撃をかます前に政治的・経済的安定を、だって? 何と慈悲深い。それはつまり、彼らにもGAPとスターバックスを、ということじゃないか。
 非道い話である。世界には三通りの人々がいる。GAPとスターバックスのある生活を享受する人々、GAPとスターバックスのある生活を望む人々、GAPとスターバックスのある生活なぞそもそも手が届かないからいらないという人々、だ。第一類に属する人々の幸福は、第二類を懐柔しつつ、第三類を叩きつつ、絞り上げることから成り立っている。それで恨みを買わないとしたら、その方がおかしい。と言って、彼らを等しく、我々のこののっぺりした文明世界、血管をデータ化された金が流れる人間の世界に引上げることは、この地球の物質的条件からして不可能である。例えば、中国の津々浦々にGAPとスタバが出来た暁には、日本は酸性雨と煤煙で居住不可能な土地となるだろう。

 だから、立ち上れ、とは、残念ながら私には言えないのである。立ち上るとはつまり、このささやかな安逸を捨てることを意味する。そこのところを、たとえば新聞の文化欄でここぞとばかりに反米反戦をぶちあげる人々や、デモをする人々や、ビン・ラディン氏と連帯しちゃう人々はどう考えておられるのか。いかにもこの手の方々の好きそうなスローガンを真似て言うなら、GAPのTシャツを着ている限り、米帝反対を唱えるのは矛盾である。デモ中にダイエットコークを飲むことも、帰りに59円マックを食べることも矛盾である。デザイナーもののTシャツを着、ミネラルウォーターを飲み、スローフードなレストランで飯を食って帰ったって、何かが余計に救われる訳でもない。我々は、世界の残りの地域の人々――「米帝」から甘い汁を吸い損ねている人々――に比べると格段に贅沢な暮しを享受している。これが既に罪だ。幾ら社会的に目覚めたって、今日からそんなものは捨てますと言って見せたって、我々の生きているこの社会、我々が享受しているこの文明から自分自身を根こそぎにしない限り、我々は彼らと連帯することはできない。
 彼らもまた、そうなった我々と連帯したいとは思わないだろう。物質的な豊かさを失った日本人なぞ、単なる使えないアジア系に過ぎない。全世界の「虐げられし人々」が連帯したいと考えるのは、たとえば、自前でサーバーを立ててネット上で第三世界の未就学児を救う運動なぞやっていたりする、ジャンクフードでぶくぶくに肥満したおたく白人だ。誰がどう考えたって、そういう奴の方がずっと役に立つでしょ?

 だから、残念ながら、私をこのささやかな安逸に安住させていただきたい。必要なら毛布くらい送らないでもないが(たぶん、無印良品にて購入、ということになるだろう)、私がこの世界の残酷極まりないシステムを拒否する可能性など考えないでいただきたい。どんな道徳的な非難も、私をこのシステムから引き剥すことはできない。私の血管を流れるのは最早必ずしも赤い血ではなく、このシステムの中を循環する見えない金だ。私は最後までこのシステムに忠実であるだろう。いつか誰かがこのシステムを、象徴的にではなく、崩壊させる場面を目の当りにするまで、忠実であり続けるだろう。

2003.1.1
大蟻食