No.23
まあ何と言おうか、例の哲学の巫女が……。

つまり『2001年哲学の旅』(新潮社)で、チューリップハットにピンクのシャツ前縛り、ころころスニーカーにチノパン、という、今時田舎のおばはんでもようやらんようなお上りさんスタイルでヨーロッパ哲学者ゆかりの地めぐりをしていた自称「哲学の巫女」池田晶子氏の話である。元JJのモデルにしてこれかと思うと、知識人の運命というやつには一考の余地がある、と考えずにはいられない訳だが(だって山に登るわけじゃないんだから。それとも登ったのか? 哲学の為にか? ドイツ哲学って結局ワンゲルと同根だから、って訳ではあるまい――それが言えるならもう少し尊敬してあげられるのだが)、まあこの巫女女史の噴飯物な茶番劇、というのが今回のお話である。

考えていただけばお判りの通り、池田氏と私の間にはほぼ、何の接点もない。私は哲学者には綱渡り芸人に対する程度の興味しか持っていないし(渡りっぷりが見事なら拍手喝采しようと思って待ってるんだけど、連中、兎に角前口上が長くてね。綱はどうしたっ!)、池田氏は世界に冠たる文学音痴だ(その辺は故埴谷雄高氏とのなかなかに泣ける対談をお読みいただきたい)。辛うじてある接点はふたつだけである。第一。うちの亭主の中学校の同級生であり、おんなじマンション育ちである。第二。四谷ラウンドの本『中学生の教科書』の、池田氏は第一集の執筆者であり、私は第三集に書いた。
ほんと、これだけなんである。

第一の接点の方ははなはだ不幸せな結果に終っている。池田氏のお母様から話を聞いた義母が、彼女の著作を買ってうちに回してきたため、幼なじみで物書き同士というので、うちの亭主と池田氏は旧交を暖めることとなった。私が渡仏中の話である。で、私が帰って来ると、先方の亭主ともどもダブルデート、という形を整えた。これが大荒れでね。センター街の、池田氏の亭主が学生時代バイトしていたとかいう「ビストロ」(――うん、まあ、言ったらね)で顔を合わせて、これまた人のいい私が無邪気にある問題に関して池田氏の意見を求めたところ「あなた、考えるということは誰にでもできるって訳じゃないのよ。おめでたい人ねえ」と来た。あ、いや、これがこちらが悪うございました。「考える」は池田様の老いを知らないコケットリーの道具、我ら凡人は池田様の神々しいばかりにお美しい「考えることについて考えている」を伏し仰いで称賛の声を上げることのみが許されているのでした(な訳で、私、彼女の哲学を「池田晶子の黄金の脚」と呼んでいる。歩くところをほとんど見ないのは保険が掛っているからに違いない。もちろんスキーは禁止だ)。ただし、確か二度目(つまりあまりのことにあれは何かの間違いだろうと思って、もう少し虫の居所のいい時を狙ってお会いしてるのね。最初は牡蠣の季節。二度目は夏)については、もう少し考えた方が良かったと思うよ。「まあ、なんて腕」「どうしたの、それ」「ほんとにぶっといのねえ」は、ただの女の意地悪としても程度低いからね。ちなみに、最近はボクシングもはじめたのでまじに太くなりました。そりゃもう充実の太さ。一度ぶっとばされてみる?

でまあ、正直に認めるけど、むかつく女だと思っていたことは確かである。そこに、何か間抜けにもほどがあるという文章(確か『サンデー毎日』に乗っていた文章)が引っ掛かって来た時、つい、からかって遊ぼうという気になった点についても、非は認めないではない。ポーズを取るだけで歩かないのは(例の「考えることについて考えている」ってのはつまりこれだよね)半歩歩くとおつむ空っぽが露呈するからだという悲しい事実には目を瞑ってやるべきだったのだ。問題の文章は確か『人類愛が猛り立つ』というのであった。よせばいいのに正月の再放送で『映像の世紀』か何か見て、二十世紀の人類のあまりの悲惨にはらはらと涙を流し、唯一無二の真実によって人類を一致させなければと決意した、というのであった。

駄目だよあんなもん見て落涙しちゃ、というのが私の第一の感想であった。本放送も再放送も見てるけどさ、ひどい偏りのある代物だよ。NHKがやるようなもんか? ケネディが出て来る回なんざ『JFK』そこのけの陰謀史観。そこに気が付かないってのは、メディア・リテラシーの欠如を露呈しちゃっただけじゃないのか。第二の感想はもっと重要である。つまり、池田氏の今までの著作にも薄々感じてきた、呆れ果てるばかりのナイーヴさ、想像力のなさ、無神経さが、「唯一無二の真実における全人類の一致」なるきらきらしいスローガンに凝縮して見えたのだ。唯一無二の真実に人類が一致すると言えば、確かに聞こえはいい。が、一致しない見解をどう扱うのか。一致しない人々はどのように処理されるのか。

今回の一件で、池田晶子氏は、彼女の頭の中にある「真」と一致しない見解、一致しない文章、一致しない書き手、および、その書き手を彼女の裁きにしたがって処理しない出版社をどう扱うつもりかを見せてくれたのである。いやあ、想像はしてたけどね、やっぱそうなんだ。消しちゃうんだ。他に解決法を考えてはいなかったんだ。

話を戻そう。この弥次とばし書評は四谷ラウンドから出た『検察側の論告』には収録されていない。直前になって池田氏からクレームが付いたからである。「載せるなら載せる理由を明示して載せろ」と言うのである。四谷ラウンドの社長田中清行氏が飛んできて事情を説明してくれた。「載せたらどうなります」と聞いたら、田中氏は困った様子で「トラブルになるでしょうね」と言った。あんまり困った様子だったので(田中氏は池田氏を非常に高く評価していたし、氏の著作を自社で出すために粘り強く交渉を続けていたのである)、「池田さんとは揉めない方がいいですか」と言ったところ、躊躇いながらも、その方が嬉しいと言った。で、収録はされなかったのである。ただし、私はその際に提案した。池田氏と私、それぞれ二題づつテーマを出し合い、計四題について、二題は私が、二題は池田氏が先に論じる形で、双方二通づつの往復書簡で論を戦わせる、というものだ。フェアなもんでしょ。が、池田氏の返答は、まあ何と言おうか、実に池田氏的なものだった。土下座して謝るならやってもいい、と言うのだった。話にならないと田中氏に伝えてこの件は立ち消えになったが、聞くところではどこかで勝手に、佐藤亜紀が非を認めて原稿を引っ込めたと勝利宣言したらしい。やれやれ。言論を美人コンテストと勘違いする馬鹿女には困ったもんだ。

まさかそれで味をしめた――つまり田中氏を脅せば佐藤亜紀なぞどうにでもなると思った――訳ではなかろうが、『中学校の教科書』第三集が出た直後から、田中氏は池田氏のしつこい要求に悩まされることとなった。私がその件について連絡を受けたのは十二月の末のことで、つまりはほぼ二ヶ月間、池田氏に悩まされた挙句のことである。年初めに田中氏と会って話を聞いた私は、ちょっとやそっとのことじゃ驚かなくなったつもりだけど、やっぱ腰が抜けました。だってね、その要求ってのは

『中学生の教科書』第三集に採録されている佐藤亜紀の文章を引っ込めさせろ。でなければ書き直させろ。

と言うんだから。当然、理由が知りたいでしょ。田中氏も口籠ってましたよ。そりゃそうだ、何と

間違っている。

からだそうですな。

「<佐藤亜紀が同じシリーズに書くなんて我慢できない><下品な文章><どうしてあなたそれが判らないの、読解力皆無ね>とか言うのですが、要は、間違ってる、ということのようです」
「何が間違っているんですか」
「それも色々言うんですが、言語を道具のように言うのは間違いだと言うんです」

大爆笑。言語=道具説を唱えるんだったら、佐藤亜紀以前に論うべき言語哲学の連中が幾らでもいるだろうにね。

「つまり、池田晶子説にそぐわないから引っ込ませるか、でなければ池田さんの考えに合うように書き直させろ、というんですね」
「佐藤亜紀の稿を切るか、あたしが原稿を引き上げるか、ふたつにひとつだそうです」

いやあ、それにしてもね、全人類を池田晶子の教えの下に一致させる、その第一歩が、多少なりとも影響力を行使できる出版社に圧力を加えて、佐藤亜紀の原稿を検閲することか? 『人類愛が猛り立つ』を呼んで漠然と感じたことが――と言うよりは、このホームページをご覧になっている方々はよく御存知の通り、唯一の真実みたいなことを言う奴を見るとゲロ出そうになる理由が、ここではっきりした。確かに、池田晶子が試みたことは、自説(「唯一絶対の真理」)に反する言説を、我儘が通じると思っている出版社相手にごねて、抹消することに過ぎない。ところで、池田氏に更なる影響力があれば、次にやることは、四谷ラウンドから出ている佐藤亜紀なる「間違った」著述家の著作を全て絶版にすることではないのか。もっと影響力があれば、他社で刊行されている私の著作も全て発禁にしたいのではないか。

池田氏は一体、言論の自由を何と心得ているのであろう。

反論は容易に想像が付く。言論の自由は大いに尊重している、と池田氏は言うであろう。ただし言論には責任もまた必要である。誤った言説を流布させるのは全く無責任な態度だ。私はその責任をとれと言っているだけだ。

ところでこの場合の、無責任な誤った言説ってのは、ただ単に、池田さんの見解に沿わない言説ってだけだからね。

公式の見解では、スターリン治下のソヴィエト=ロシアには完全な言論の自由があった。にも関わらず、人々は日々、瑣末な発言で捕えられ、放り込まれていた。何故なら、偉大なる同志スターリンと党の方針に反した発言は誤った発言であり、そのような無責任な言説を弄する自由はないからである。

いやあ、あなたは実に偉大だよ、同志池田晶子。早く何千万人も放り込んで人類を自分の教えの下に統一する日が来るといいね。

私は田中さんにそう指摘した――自説と違うから書き直せ、と言うのは、現行の言論のルールに照した場合、完全にアウトだ。こういう無理無体を要求するのは、池田さんにとって拙いですよ、と。田中さんも同意見だった。書き直しを求める気もないし、削除する気もない、というのが、田中さんの最初からの方針だったのである。

更に、私は田中氏を介して、要求の内容と理由を聞き糺した。ファクスでの返答は至極曖昧なもので、佐藤亜紀の原稿は内容的に不適切である、池田晶子は共同責任を負いかねるから下りる、というのであった。これではなあんにも判らないので、
を文書によって私に提示するよう頼んだ。返答ははなはだ腰砕けであった。佐藤亜紀に対してはいかなる責任も問う気はない、と言うのである。問題なのは田中氏の編集責任だ、とも書いて来た。しかし、その後の遣り取りで明らかになる要求は、佐藤亜紀の責任は問わないどころではなかった。相変らず『教科書』第三集からの私の文章の削除または書き直しを、今度は道徳の名によって(おおっ)、求めていた。さもなければ下りる、と言うのも相変らずであり、その場合は寄稿者全員に説明の手紙を出す、とも言っていた。

頭が悪いにも程がある。原稿や著書を書き手の了解も求めずに抹殺せよという要求には、池田氏も懇意の某社なら応じるかも知れないが(前例もある)、普通の出版人の応じることではない。まして、田中氏は硬派の中の硬派である。大体、書き直しともなれば、書き手に連絡を取り、説明をせずに済ますのは絶対に不可能ではないか。そんなことを、私には「あなたには責任はありません」のファックス一本で済ませて田中氏にごり押しできると、一体どうやって考えたのやら。

私が今日までこの一件の公表を思いとどまったのは、田中氏が池田氏を説得しようと試みていたからである。本来、池田氏が宣言した「寄稿者全員への説明の手紙」とやらは二月一日に投函される筈であった。それがなかったため、事態は沈静化したと思っていたのだが――。

今朝、四谷ラウンドから、池田氏の、以下の文面を寄稿者全員に送付した、と断り書きを付けた手紙のコピーを受け取った。『中学生の教科書』第一集企画書の文面を引き、第三集の佐藤の文章は第一集の時に説明された編集方針とはそぐわない、これでは「中学生や教師、また保護者の方々」に申し開きが出来ないので下りる、とあるのは御愛嬌であろう。責任は問わないんじゃなかったのか? この手紙が送付されるまで「著者の責任は問うていない」という嘘で通して不意打ちを食わせるつもりだったらしいが、この手合いが「唯一絶対の真実における一致」を実現するためならどんな嘘でも吐くし、どんな非道も平然と行うというのはよく知られた話である。私が許せないと思うのは文面後半だ。池田氏はむきになって、自分の言いなりにならなかった四谷ラウンドという出版社の信用を掘り崩そうとしているのである。

やれやれ。つまりはこれが哲学の巫女の正体という訳だ。田中氏によれば、佐藤亜紀の誤謬に関しては言論によっても正々堂々と反論するとか言っていたそうだが、いまだにそれは現れていない。角川のホームページに出ていた「あたしは偽悪が大っきらい」(何故なのかはまるで不明。例によって金切り声で叫ぶだけ)がそうだとしたら哀れなものだ。真善美を追求するのは大いに結構だが、一体全体あなた、今回のこの馬鹿げた茶番のどこを「善」だと強弁するつもりであろう。「偽善」や「偽悪」どころか、やっていいことと悪いことの区別も付いてないんじゃないのか? 佐藤亜紀の謬説など抹殺してやるというなら、佐藤亜紀を相手にすればいいのである(返り討ち必至だろうが)。人を巻き込むことはない。おそらく、哲学などには縁もゆかりもない俗人の方々(私も幸いにしてその一人だ)なら、この点には同意していただけるだろうと思う。

この浮世で要求される程度の、はなはだいい加減な道徳基準にさえ適わない人が、大声で真善美を語るというのは、実に、哲学にふさわしい、背理に満ちた光景だ。

御参考までに、次回は、池田氏が下りるかも知れないと聞いて、『中学生の教科書』第一集の差し替えに使えればと書いておいた「道徳」の稿を掲載する。田中氏はこの稿を受け取らなかった。池田氏との関係が決定的に悪化することを恐れたためであり、逆に言うなら、池田氏がこのような所業に及ばない限り、田中氏は可能な限りの誠実さを持って池田氏との仕事を続けようと努力していたのである。

2002.2.12
大蟻食