No.15
壊れた世界の幸福な死――『アメリカン・ビューティ』


「ここからは出られません」というのが、ブレット・イーストン・エリスの『アメリカン・サイコ』の結末だった。ここ四半世紀に書かれた小説のベストテンを挙げよと言われたら躊躇なく五位か六位に挙げる一篇である。アクチュアリティという点では一位に挙げたっていいかもしれない――世界も壊れているが人間も壊れていて、再生の見込みはどこにもない、という訳だ。

そんなの当り前だろ、というのが『アメリカン・ビューティ』の出発点である。善良で心の狭い人々が住んでいるのが売りの郊外住宅地にさえ、今じゃとっても感じのいいゲイが所帯を構えていて、誰もそのことを怪しまない、というのがこの映画の大前提だ。主人公の家庭だってもちろん壊れている。不動産仲介で結構な稼ぎのあるママの闇雲でプチブルな向上心にパパも娘も草臥れきっており、パパはある日敢然として社会の落ちこぼれとなることを決意する、というくらいに。そこへ、うちだけは絶対に壊れないぞと悲壮な決意を固めた海兵隊の大佐御一家が越してくる。でも女房は廃人で、息子はマリファナの売人である。

アメリカの病巣を鋭く抉ったんでもなんでもないところが凄いところだ。病める社会だの崩壊するモラルだの解体する家庭だのは、今やシチュエーション・コメディになっちゃったのである。必要とあらば、大佐とパパの怪しい関係、とか、パパがテリトリーのマーキングに使っている(家の中に居場所のなくなったパパは、車庫を巣にして、その前に馬鹿でかい真っ赤な車を置いている)ファイアバードを何とかしてどけようと画策するママとか、またしても息子娘が駆け落ち未遂、とか、大佐の挙動不審のせいで起こるゲイ・カップルの不仲、とかを、軽妙洒脱な四十五分に仕上げて二十六回シリーズにだってできそうだ。カルト的に当ったら、たぶん第二シーズンもある。今や世の中そこまで来ちゃったのよ。見ているこっちだって、その点に関しちゃ全然深刻にならないからね。

台本だってその辺は確信犯である。まあ、最近のアメリカ映画の心なさには凄いものがあるが(『パルプフィクション』的って言いますかね、お話ってのはこんな風に進めるもんでさあ、的に紋切り型を重ねるだけで、欠片ほどの真面目さもない。『マグノリア』に至っちゃ、どこかで見たような感動の人間ドラマが全て「蛙」のためにあるんだから)、『アメリカン・ビューティ』もまたしかり。大佐の正体暴露だの、みんなが一斉にパパに殺意を抱くだのという辺りの、これみよがしな手付き。ママの不倫がばれちゃう場面の、ほとんどコメディア・デラルテ的な鮮やかさたるや。

だって皆さん先刻御承知でしょ、というのである。世界が壊れているなんてのは当り前、そんなことを幾ら指摘したって、今やキッチュにしかなりませんよ。

『アメリカン・ビューティ』の凄いところは、そこから始まる。このげっそりするほど凡庸な「壊れた世界」は、凡庸なものやことが一瞬垣間見せる、寒けがするような美しさに満ちている。四十男が娘の友達の美少女に懸想するという凡庸な逸脱(アンジェラ・ヘイズという名前に気が付かれただろうか――綴りこそちょっと違うが、『ロリータ』=ドローレス・ヘイズが一瞬だぶることで、そこに匂うかすかな倒錯さえパロディになってしまう)からは、薔薇の花弁で埋められた可憐な肉体という、何とも凡庸な妄想場面の数々が展開される。だが、天井に浮かんだ妄想から、あの、びろうどめいた質感の花弁が、パジャマ姿で寝ているケヴィン・スペイシーにひらひらと落ち掛かるという、涙が出るくらいキッチュな場面が、何故あれほど美しいのか。

監督サム・メンデスは、あらゆるものをキッチュに仕上げる昨今流行のシニシズムには留まらなかった。どうしようもなく愚劣なキッチュに類いまれな美の瞬間を体現させようとした、とでも言おうか。壊れていることにさえ何のポエジーもなくなってしまった世界にもなお現れる純粋な美(いやもちろん、純潔な美が、と言ってもいいのだが)を見詰めるケヴィン・スペイシーの視線が、その表情が、このフローベールじみた試みに確かな実体を与えている。

それにしたって、これほど幸福な死に方があるものだろうか。この崩壊した世界にさえ無垢の美が存在することを目の当たりにした主人公は、ほとんど苦痛もなく、人々の愛にさえ包まれて、満足のうちに昇天するのである。『聖なる酔っ払いの伝説』以来の、うらやましい死に方だな、これは。


2000.05.03
大蟻食