No.1
日本人よ共和主義者たらんと欲すればあと一息だ!

 我々は対立を怖れすぎる。不和を、不一致を、挙句の混乱を、少しばかり怖れすぎる。
 あれはオピニオン業界で結構名を売った漫画家だったと思うが、その辺りに関するまさに何とも戦後民主主義的な疑問で笑わせてくれたことがあった――一方で表現の自由を認め、他方でその表現に対する抗議の自由を認めると、二つの自由がぶつかり合うことになるのではないか。彼は「自由と自由がごっちんこ」なる何とも漫画的な言い回しを絵に添えて、それって変、と言ったのだが――絵を描き添えるだけでどんな他愛ない疑問も世間に通用するものになっちゃうのは羨ましい限りだ。
 ところで件の「ごっちんこ」に変なところは少しもない。おかしいのは疑問の方だ。<私の自由>と<あなたの自由>が無条件に調和するなぞと考えるのが、そもそも妙なのである。好きなことを好きなように考えて口にするのは私の自由だ。他の人もそうだろう。それが衝突することだって、当然ながら、起こり得る。誰だって経験していることではないか。
 それが何か変、に化けちゃうのは、およそ日常的な経験や個別的利害や個人的欲求から切り離したところで自由を云々し始めるからである。我らの内なるソクラテスがしゃしゃり出て、自由とは本来的によきものではないかね、と言い始めるところから、物事はおかしくなり始める。
 哀れな対話者曰く――その通りです、ソクラテス。
 ――本来的によきものとは、誰か一人にとってだけよいものだろうか、それとも万人にとってよいものだろうか。
 ――万人にとってよいものです。
 ――つまり自由とは私にとってもあなたにとってもよいものである。
 ――そういうことになりますね。
 ――お互いにとってよいものが対立するだろうか。
 ――するようには思えません。
 ところがそういうことは、一年三百六十五日週七日一日二十四時間、世界の至る所で起こり続けている。純然たる概念の世界においては、ソクラテスは常に正しい。ただし我々の日々の生活を支配する諸々の法則についてまで正しいかと言えば、そんなことはもちろんない。まじで警告しておくが、哲学なる名で呼ばれる論理の抽象的使用のゲーム(何なら神聖なゲームと言ってあげてもいい)と、日々刻々の利害を左右する判断の根拠とを混同するのはやめておいたほうがいい。自由は哲学ではなく政治として語られなければならないのだ。
 自由を哲学として語るとどんな場所に行き着くか。最も古典的な型を挙げよう。
 ――人が完全に自由な状態で選択をするとすれば、必然的によき結果を招く選択をする筈である、とすれば悪しき結果を齎らす選択は自由に行われた選択とは言えず、その時点で人は自由を失っているのだ。
 ゲームとしてはなかなかに上出来である。ただしこれを実地に応用したらどうなるかと言えば、特定の「よき結果を招く選択」を自由の名において強要して歩くという傍迷惑な結果にあいなる。自らの欲するところを抑制することこそ自由だ、なる主張や、あるイデオロギーに自主的に荷担することによってはじめて人間は自由になるのだ、なる主張は、このヴァリエーションだ。
 ところで、我々にはあえて不幸になる自由はないのだろうか。ある選択をするその瞬間、良き結果を招く選択をすることも悪しき結果を齎らす選択をすることもできる――いや、それどころか、自ら望んで悪しき選択をすることさえ可能だと感じて身震いするのでなければ、自由なぞ、赤の他人が勝手な中身を詰め込んで押し付けてくる、ただの言葉でしかない。
 従って、最も自由である時、我々は最も分裂し、対立し、混乱しているのだ。不和と不一致こそはその証であり、私の自由とあなたの自由が真っ向から衝突する時にこそ、駆け引きや談判から実力行使に至るあらゆる手を尽くして争いながら、我々はそれが何であるかを知るのである。
 衝突や対立を怖れてはならない。隣人の自由を自分の自由と同じように尊重するなら、両者が衝突することを忌避してはならない。まさにその衝突の場面において、お互いの利害を調整しようと口を開く、その瞬間に、自由民の政治的行為は発生するのである。それができない者は奴隷でしかなく、奴隷には奴隷にふさわしい政治しかない。

 と言う訳で、御意見、御感想、御反論等を募集いたします。この頁は基本的に、徹底した「対話」の場にしたいと思っております。話せばわかるなんてあまっちょろい対話じゃなくてね。内容は積極的に掲載したいと思います。

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