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『瑠璃の翼』 / 山之口洋(文藝春秋,2004/1)

1934年の夏、陸軍航空隊の野口雄二郎中佐は家族を日本に置いたままハルピンの飛行第十一大隊に赴任する。四個中隊からなる第十一大隊は「稲妻戦隊」とも呼ばれて伝統と規模を誇っていたが、それでも作戦機の数は百を越えない(五十くらいか)。とはいえ航空兵たちはいずれも無類の飛行機好きで、とにかく元気だけはむやみといい。そして満州国の国境には緊張が漂い、翌1935年、いわゆるハルハ廟事件が起こって若干のモンゴル兵が満州国へ侵入する。その後、飛行大隊は飛行連隊に昇格し、タウラン事件が起こると野口中佐は臨時の飛行隊長として出撃し、モンゴル軍機と交戦する。

1938年、野口中佐は内地の部隊に転任となり、徳川中将と旧交を暖め、航空兵団司令部への配転を勧められながらも現場を選び、大佐へ昇級すると同時に稲妻戦隊の指揮官を命ぜられる。戦闘機は複葉の川崎九五式から単葉の中島九七式に替わり、稼働率を保持するために故障報告をせっせと水増しして員数外の部品を常に確保し、若い空中勤務員が八九式活動写真銃などを使って懸命に訓練に励んでいると長鼓峰事件が起こる。この国境線上の不明地点にソ連軍が陣地を作り始め、朝鮮駐留第十九師団がこれに対して威力偵察を敢行し、そうしているうちに戦闘になる。ところが日本側は航空兵力を投入しないので空中勤務者たちは悔しがり、同じように悔しい野口中佐はほぼ連日百キロ先の戦場へ出張しては愛用の双眼鏡でソ連軍航空機を観察する。それから年が明けて1939年となり、春が過ぎ、モンゴル軍が日本側が主張する満蒙国境を越えて侵入し、つまりノモンハン事件が勃発し、稲妻戦隊が出撃していくことになるのである。

いちおうの主人公として野口雄二郎という人物が登場するが、陸軍航空隊を舞台にした一種の群像劇という形になっている。とはいえ、ここにあるのは空想的に再構築されたよくある歴史ドラマではなくて、まず歴史的な状況の再現であり、そこへ放り込まれていった人物の素描であり、物語的な連続性ではなくて瞬間瞬間に味わう様々な生の実感なのである。つまり、まず身体感覚が先にある。飛行機の動きであれ、ノモンハン上空での戦闘であれ、その有様を地上から眺める感覚であれ、あるいは墜落の恐怖であれ、撃墜された敵兵をなおも追いかける遮二無二な感情であれ、どれもが不思議なほど生々しい。加えて妙な距離感があって、一つの風景がそこだけ切り取られたように遠くのほうに浮き上がってくることがある。記憶の底から映像をたぐり寄せてくるという感じに近くて、その瞬間にこちらが味わっている距離感は、おそらくそのまま時間を意味しているのだと思う。歴史の中に点在する一人以上の他人の記憶を覗き込む感覚、ということになるのだろうか、この作品はそういうことに成功している。反面、いわゆる歴史小説としての機能は備えていないということになるが、おそらくそれは重要な問題ではないだろう。

余談になるが、この小説を読んでいるうちに『ダーク・ブルー』(2002)というチェコの映画を思い出した。第二次世界大戦中にドイツ軍占領下の母国から脱出したチェコ人の若いパイロットたちがイギリスで自由チェコ軍に参加してイギリス空軍に編入され、そうして戦争の全期間を戦ったあと、母国に帰還してみるとそこは鉄のカーテンの向こうになっていて、西側社会を見たという理由で強制収容所へぶち込まれて虐待を受け、それでも窓から射し込んだ陽の光を眺めているうちに飛行機を駆って空を飛ぶことを思い出して、そうするとなんだか幸せな気持ちになるけれど、でもやっぱり力尽きて死にかけている、というたいそうかわいそうな話なのである。


(2004/01/16)
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