一

 母親の旧姓は“江美”。全国でも30世帯ほどしかない珍しい姓である。女性の名前としての江美であれば、ありがちな印象を受ける。私は母方の姓を名乗ることとなれば、 “江美広則”となる。江美家は武家の家系であるものの、江美広則ではなにか柔弱な印象である。もともと“広則”という名前に力強さはない上、もはや女性名の江美が姓ともなれば、 その印象もやむを得ない。
 幼少時、着るものに女の子ぽいのは多く、髪は男の子としては長めで切るのはいつも美容院であった。知らない人には「お嬢ちゃん」と言われ、東横線では痴漢にあうなど、 見ため上は女の子であった。猶も姓まで女の子名の江美であったなら、女の自覚、芽生えていたのではないか? 辛うじて“林”という姓に、男を維持されていた気はする。 ところが林姓はあまり好きではない。歴史オタクたちは良い名字と言ってはくれる。中国人は“林広則”と知ると、「林則徐ミタイッ」と喜んだり、「チュゴクジンミタイ!」と驚いたりする。 私の林姓に対するイメージは、貧乏くさい、在り来たり、不細工……などである。
 名は体を表すという。以前、尿管結石で地元の総合病院に通院していた時、私の前のお会計は“松平”さんということがあった。思いきり殿さま顔で、品格あるおじいちゃんであった。 松平姓から抱くイメージそのままであった。もし世人は林姓の人物に対し、貧乏くさい、不細工などのイメージを持っていたら、私はどう思われるのだろう……? 体格はおよそ、 平均的なプロ野球選手ほどある。ボクサーならば、ヘビー級1階級下のクルーザー級だ。『貧乏くさいわりに体格はいいのね。 ジャンクフードばかり食べてるのかしら?』など思われるのだろうか。顔を見ては、『やっぱりね。不細工だわ』など思われるのだろうか。以前、耳鼻科の会計で名前を呼ばれると、 会計脇の席からこちらをジッと見つめる女がいた。次に呼ばれたのはその女であった。同じ林姓であった。同じ姓ということで気になったのだろう。その女は、やはり貧乏くさかった。 だが林という簡素な姓に飾り気は似合わない。簡素な姓には倹しい格好が似合う。そして、素朴な名が似合う。広則という名も好きではない。しかし、 ゴージャスな名付けをされなかったことは良かったと思う。名前は名付ける者の欲望を反映する。


 二

 昭和50年代初頭、当時、小学校1年生か2年生。担任は「将来、何になりたいか?」とクラス全員に聞くことがあった。特になかったが、「特にない」と答える者は誰もおらず、 男子の半数は「パイロット」と答えていたので私もそう答えておいた。ある給食の時間ではどういう過程か忘れたが、私だけ好きな女子をみんなの前で発表しなければならなくなった。 特にいなかったが、ある女子の名前を告げておいた。告げた名の子はクラスの一番人気であった。これ以前のある給食の時間、こんなことがあった。 ある男子がその女子を名指しで「○○のこと好きなひと てぇ〜あげてーッ!!」と大声で叫んだ。すると、「ハーイ!」と私の視界にあった男子はことごとく手をあげた。 凄まじい数の手が、授業では見られないほど勢いよく垂直に伸びた。この光景には圧倒された。そのせいかこの時、自分は手をあげていたのか、あげなかったのか、覚えにない。 どちらかといえば、みんな(多数派)と同じでありたかった自分は、手をあげていたような気はする。
 将来にも恋愛にも欲のない私も、お金には多少の欲はあったようである。これも小学1年か2年のこと。自宅の近くを歩いていると、道路上に千円札が落ちていた。 拾おうと思ったその時、前から自転車に乗ったおばさんがこちらの方向に走ってくる。欲しかったが後ろめたい気持ちもあり、とりあえずそのまま歩き、 おばさんをやり過ごしてから拾おうと思った。すれ違ったあと振り返ると、おばさんは自転車を降り千円札を拾うところであった。千円損した気がした。その後、 あるクラスメイトと行き合った。この時、千円札を拾い損ねた悔しい気持ちで一杯であった。ところがどこに行くかを尋ねられると、 「拾った千円札を交番まで届けに行くところ」と涼しく出任せで答えていた。クラスメイトは「偉いわね」と言い残し去っていった。“偉いわね”の言葉に嬉しくなり気持ちは晴れ、 悔しさの残像は意地汚いおばさんの姿がただ映るのみとなった。……
 欲のあまりない私も、色欲はあったようである。幼稚園の頃より自慰は覚えていたが、直接的な交渉の第一歩はおそらくこれである。やはり小学1年か2年の時、 授業の合間の休憩時間、教室でのこと。クラスのある少女と無言で見つめ合うことがあった。こちらを見つめる顔はあまりに可愛く見蕩れた。少女もそのまま目を外らさない。やがて、 いくらか微笑んだようなその顔には、妖艶な雰囲気さえ漂い始めた。そして…… 教室の喧騒とは裏腹に、重ね合う二人のゾーンは静寂な空気に満たされた。――
 (……登場三者の同一か否かは伏せておく)


I feel good


Back 露店のひよこ