バブル景気で地価は高騰し、私の実家のあった日吉も駅付近となると、坪単価1千万円で売りに出されていた1987年(昭和62)にその噂は耳にした。

 「日吉にお姫様が住んでいる!」

  大名家の末裔であれば日吉にもちらほら居られたので、所詮その程度と呆れ、噂を気に留めることは無かった。大名は珍しいとしても、その末裔となれば相当数いらっしゃるであろう。 しかも、今はただの庶民であるその子孫をお姫様などと崇めるとは、なんとも詰まらないお話……。しかしその後、ある女性の存在を知り、 この女性こそ噂のお姫様であったのでは? と考え改める始末となる。

 女性の名は、嵯峨 浩(さが ひろ)さん。私も「ひろさん」なので、なんとなく親近感はある。姓は先祖を辿ると「正親町三条(おおぎまちさんじょう)」であったが、 明治初頭に改姓し「嵯峨」となる。姓から察する通り公家の家系であり、系譜を見ると天皇家とも近い所で繋がる。公家としての家格は上位に相当し、 明治以降は当初伯爵であるも、後に陞爵され侯爵となった。嵯峨家30代当主であり侯爵の嵯峨実勝(さねとう)氏の第一子として、 浩さんは1914年(大正3)3月に日本橋の自宅で生まれた。その後、自宅は、番町、市ヶ谷、赤坂と移り変わる。小学校入学前より、上大崎の母の実家で祖母、 伯父夫妻と暮らす事となった。理由は、若い母は次々と子供を授かる為、その母の負担軽減であったようだ。これは面白いエピソードではあるものの、 生まれてから女子学習院高等科を卒業した少し後までの時代は、特筆に値するドラマ性は無い安定した上流階級のお嬢さんであった。

 1936年(昭和11)11月、浩さんは突然の一報を知らされる。「満州国皇帝の弟である愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)氏の妃に内定」との事。関東軍による政略である。 この突然の一報を受けてから僅か5ヶ月後の1937年(昭和12)4月、九段会館(当時の名称:軍人会館)にて結婚の儀は執り行なわれた。この九段会館は、 私の最初に通った高校の入学式会場でもあったが、重々しく渋い空気に満ちた内部であった。大日本帝国であり名称は軍人会館の当時は、 より重々しい空気に満ちていたことであったろう。それはあたかも、後に「流転の王妃」として世に知られる浩さんの、波乱に満ちる人生のプロローグであるかのように……。

 嵯峨家は、赤坂の自宅が戦災で焼失し、日吉へ移転した。暮らした母の上大崎の実家は他国に接収された。浩さんは次女と共に流転の日々の後、1947年(昭和22)1月、 次女と日本へ渡り、既に日吉で暮らしてる父母、末の妹、長女との生活を始めた。その頃、夫溥傑氏は、ソ連の収容所に抑留されていた。日吉での生活は慎ましく、 庭で家庭菜園や鶏を飼うなどし、それを食糧難の時代の栄養補給源としていた。ある時は娘達と多摩川へ出掛け摘み草をし、それを食膳に出すこともあった。 こうした静かな日々を過ごしながら、浩さんは家族4人での生活を願った。しかし、長女の突然の死により、それは適わぬものとなる…… その後、夫溥傑氏は釈放され、 16年ぶりの再会を果たし、中国での家族3人の暮らしを始めた。中国・周恩来総理宛に、父釈放の嘆願の手紙を書いたのは、生前の長女であった。――

 浩さんは、1987年(昭和62)6月に亡くなった。私が噂を聞いた時期に当たる。きっと、亡くなられたという報道からの噂は、日吉では伝わるうちに変化し、 「日吉にお姫様が住んでいる!」となったのだろう。私が浩さんを知ったのは、これから何年も後のことである。それは、『愛新覚羅浩』として。中国では、 結婚しても女性の姓は変わらない。よって浩さんも、本名は一生を通じて「嵯峨浩」であったと思う。しかし、「愛新覚羅」という姓と「浩」という名の相性は、とても良く思える。


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皇帝訪日 横浜港 / 邸門 日吉


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