昭和48年4月から50年3月まで、横浜の日吉台光幼稚園に通う園児であった。交通は、東急バスを利用していた。旧宅から平坦な道を歩き、千代田坂を上り、 右の駅方向へ200mほど進むと始発のバス停はある。バス停の名称『サンヴァリエ日吉』、行き先名『日吉駅』である。しかし当時は、バス停の名称『下田住宅』、 行き先名『日吉駅西口』であった。バス停『下田住宅』の辺り一帯に白い外観の公団下田住宅は占めており、敷地にそびえ立つ白い給水塔は一帯のシンボルであった。 (『昭和育児日記 昭和45年以降』の最後の写真にその白い塔はうっすらと写っている。)
 下田住宅には、中学2年生くらいから3年生までお世話になった家庭教師が住んでいた。私は勉強を好かない中学生であったのだが、この家庭教師は怖い人で、 しっかり宿題をやっておかないと、「オイッ!」とご一喝され“ドンッ!”と拳で机を叩きお怒りなさるので、またそうなってはたまらないと、家庭教師の宿題だけは必死にした。 勉強は家庭教師の自宅で教わっていた。問題を解いている間、家庭教師は友達と電話で話すことが多くあり、それは「女子高生と朝まで寝ていた」といった思わず聞き入る内容多く、 話は長くなることもあり、すると家庭教師の母親は陰から、「○○(家庭教師の名前)、いい加減にしなさい!」と家庭教師を叱る。家庭教師は、慶應大学経済学部の学生という他は、 取り立てて優れた面はないように思われるも、かなりおモテのご様子であった。
 中学卒業式を終え家に帰り、自室に黒電話を引っ張り込み、「好きです。付き合って下さい」と、告白せずにはいられないほど好きにさせられた同級生(女子)も、 下田住宅のお住まいであった。これは儚い恋の終焉となるも、同級生(女子)の情に溢れる見事な受け答えには感銘すら覚え、恋をし良かったと心から思えた。この一件から、 家より見える給水塔を眺めては、その余韻に浸っていた。しかし高校生となり生活環境は変わり、余韻に浸ることも無くなった。高校1年生となった4月か5月、 日吉駅方面の通りですれ違うことがあった。新たな制服姿は最早、他人であった。……
 下田住宅の敷地には、中央公園というわりと広い公園もあった。高校に入学し少し経った頃、「オマエ最近、 生意気ジャネーカッ!! ブン殴ッテヤルカラ中央公園ニ来イッ!!」との電話が掛かってきた。無理にドスを利かせたその声にどなたであろうか問うと、 「鈴木ダッ!!」とお答えなされた。「しらねーよ、ばーか」と丁重にご辞退申し上げ、“ガチャン!”とエレガントに失礼いたしたのであるが、 後に冷静に考えるとそのお声やお話しぶりの特徴は、小学生の時に転校してきて中学まで一緒であった、あるやっこさんであることに気付いた。偽名を使った脅しであった。 こちらのやっこさんとは数日前、学校の帰りに遭遇し、ご挨拶だけ交わしていた。私の格好は制服にサングラス姿という、ごく普通の高校生であったので、 お気に召されなかったか? こちらのやっこさんは元来、僻みっぽい性質ではあった。
 私が日吉を越した昭和62年以降に下田住宅は建て替えられ、名称は『サンヴァリエ日吉』となった。白い給水塔も中央公園も無くなった。しかし、バスのルートは変わらない。 始発の『下田住宅』を出ると、バスは一旦、幼稚園とは逆の方向へ100mほど走り、右折をすると下り坂となる。坂の途中にある下田小学校には、全国でも珍しい円形校舎があった。 昭和34年の開校当初、現在還暦ほどの年齢となる従兄もそこで学んでいた。
 バスは坂を下りきると突き当りを右折する。『駒が橋』のバス停近辺には駄菓子屋みたいのがあり、中1の頃よく行っていたのだが今は見当たらなかった。 日吉に駄菓子屋はわりとあり、小学生から中学生にかけて、浜銀通りの『なかよし』、赤門坂下の『大黒屋』、南日吉の『松永』、高田町の『高田ホビー』、店名は知らないものの、 他数店舗に行った覚えがある。『高田ホビー』は駄菓子も置くおもちゃ屋で、時速40キロで走るというラジコンを配達までしていただくも、 スピードを上げてはすぐヒューズが飛んでしまうつまらないおもちゃであった。印象深いのは『松永』で、推定年齢90歳の全身全霊で何事もおぼつかないご様子の男性による店番には、 人間関係の醍醐味を学んだ。店内には駄菓子を入れたガラスケースがいくつもあり、それは丁度いいあんばいの高さにあり、ついケースに手をついてしまう。すると、推定年齢90歳は、 猛烈に声を荒らげて怒り出す。よくは聞き取れないのだが、とにかく怒った。行くたびに誰かしらがガラスに手をつき、そして怒られた。それはこの駄菓子屋の名物風景となっていた。 建物も古かったが、品揃えは日吉一(日本一ではない、あくまで日吉一)といえるほど豊富な駄菓子屋であった。
 『駒が橋』近辺には従姉が住んでおり、高校2年生の時、そのお宅にお邪魔をし、主婦1号・2号を呼び寄せ、朝からアレに没頭することもあった。マージャンである。
 バスはしばらく道なりに進む。住んでいた頃は、途中にある慶應大学のラグビー場あたりから、日吉の2軒目の家は見えた。しかし、今は確認できなかった。1軒目の周辺同様、 2軒目の辺りも驚くほどに家は建て込んでいる。ラグビー場は綺麗に整備されていた。小学生の時は、このラグビー場でよく野球をしたものだが、グラウンドは荒れていた。 されど練習に来た慶大ラガーマンとバッテリーを組んだり、知らないおっちゃんはアンパイアやコーチをしてくれたりと懐かしい。ことにラガーマン…… 1980年のこと。 バス通りに接し、野球場、サッカー場、ラグビー場と続いているが、ラグビー場は入るに最も容易く、我々小学生の野球場となっていた。門の施錠時に入る手段は、 破れたフェンスをくぐるか、またはフェンスを乗り越えるかであった。この日、どのような方法で入ったかは忘れたが、門に近い通常はコーナーポストの地点をホームベースに見立て、 バンブーと二人で交互にピッチャーとバッターをしていた。ボールは、バッターは空振りをすれば後方にある門のほうまで取りに行き、打てばピッチャー、 若しくはバッターが取りに行くの繰り返し…… しばらく続けていると、黒黄のユニフォームがぞろぞろとグラウンドにやって来た。慶應義塾体育会蹴球部一行である。やべっ怒られる、 帰ろう! という時、一人の黒黄が感じ良く率先してキャッチャーを買って出てくれた。それまでのお遊び半分は以後、体育会に様変わりし、ぶっ倒れそうとなるも、 ガタイのいい黒黄のユニフォームはブルペンキャッチャーのごとく、尚も感じ良く声を張り上げてくれるので、こちらもそれに応えるべく必死に投げた。このラガーマンを忘れられず、 どなたであろうかずっと気になっていた。独断的行動は有力人物でなければとれないだろうということ、顔は覚えていなかったが写真を見て直感したことなどから、 この方は東山勝英主将ではないかと思う。この体験は、今でも大変ありがたく思っている。おそらく一生忘れられない。ちなみにこの4年後、バンブーは目黒高校ラグビー部員となった。 ……
 『日吉町』を過ぎると、バスは右折する。右折せず真っ直ぐと行き、東横線のガードを抜け綱島街道を横断し、更に進んだ左側に鍼灸院があった。こちらには高校生の時、 近眼治療で通っていた。1回1500円という良心的なお値段で、話好きの院長にも好感を持てた。一度、院長夫人に担当された。御夫人は、かなりの美人で色気もある。 仰向けに寝かされると施術行為に入る。近づく顔から耳元に発せられる優しく女らしい声に情欲を刺激され、触れてくる指先から快楽は生じ、 快楽はその指先を中心に波紋となり全身へ伝播し、図らずも臨戦態勢は整った。施術の範囲は下半身にも及ぶ。バレたら恥ずかしいとの気持ちで一杯になるも、 暴発も止むを得ないほど血は巡る一方であった。――
 それはさておき、バスは右折をすると上り坂となり、真っ直ぐ行った突き当りに終点の日吉駅はある。今も昔も駅付近の住宅地にいい家は多く、 日吉台光幼稚園はその住宅街の中にあり良い環境の幼稚園である。しかし、当時の園児にキカン坊は多く、私は滑り台の上から突き落とされ、気絶したこともあった。 ある時は、キカン坊のリーダー格じゅんくんと喧嘩になり、ジャングルジムにいた幼女Aは何度も「やめなよ〜」と言っていたが、かなり長い時間の取っ組み合いとなった。 幼稚園に入った当初は大人しくしていたものの、これ以降、私もキカン坊となっていた。喧嘩相手じゅんくんとは急に仲良くなり、家族ぐるみの付き合いとなり、 じゅんくんの家で遊ぶこともあった。
 バスは終点の『日吉駅西口』に到着をすると『下田住宅』へと折り返す。駅の待合所はツバメは巣作りをするほど鄙びていた。近辺も今の無機質な印象とは違うものであった。


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